「ロゼット」 第一話
ロゼット あらすじ
──自然の声が聞きたい。
山形県で暮らす自由奔放で感受性豊かな六歳の少女、木下双葉のささやかな夢である。
最愛の母を胸の病で亡くしたことをきっかけに、父とともに神奈川県の親戚宅に移り住む。
しかし生活環境の変化は戸惑いの連続で、故郷の自然に恋しさを募らせる。とりわけ、都会の娘らしく育てようとする伯母とは馬が合わず何かとギクシャクする。
ある時「自然」について伯母と口論したことをきっかけに、双葉は自然についての知識をむさぼるようになるが、自然への理解を深めていくことは少女にとって心を励ます薬になる一方、毒にもなった。
第一話 夢
「木下さんとこの双葉は、すんごぐ風変わりな子だず」
誰もがそう笑顔で口にする。
この秋に六歳になったばかりの双葉は、今日も活動的に歩き回っている。物心がついたころからの習慣で、森の中を気ままに散策したり、逃げ水を一所懸命追ってみたり、時には近所の家畜すべてにあいさつをしたりと、とにかく毎日その日の気分次第であっちこっち動き回っているのである。
自然は、双葉にとってやさしい友だちである。野山で一度としてケガをした記憶がないことが「やさしい」の理由だが、いつも繊細で傷つきやすい友だちと遊ぶようにして木石の声に耳をかたむけ、花鳥に親しむその姿勢を思えばふしぎではない。
もちろん自然の怖い面も子どもなりに心得ている。夏の烈日に熱せられた岩場を裸足で歩けば、足の裏だけでなく全身を蒸し焼きにされてしまうような恐怖がある。霜風の吹く真冬の山に登れば、呼吸するごとに体内の血が凍りついてしまうような不安がある。また、縄張りをおかされたクマバチに目をつけられたり、静寂みなぎる夕闇の中で正体不明の動物に追いかけられたり、さらには、山頂付近で急な夕立に見舞われたり……と例を挙げれば切りがない。
しかし、だからこそ、当たり前のように繰り広げられる生命のドラマと常に感動をもって接することができるのである。だからこそ、魂のゆりかごであるこの大地の上で、多くの事象を見、聞き、嗅ぎ、味わい、感じることができるのである。
そこには難しい知識は無用だった。
木下家から少し歩いたところに、町のいこいの場である小高い丘がある。
そこから真っ直ぐに北を向くと見事なシンメトリーを成す二座の山が見え、山の手前には小さな湖が確認できる。ここからの風景は町の人々から《母のふところ》と愛称されている。
東側に見える山の中腹の水辺には〈顔なじみ〉がいる。
この日は、双葉の方が早く水辺に姿を見せた。少し遅れてあらわれた〈顔なじみ〉は見事な紅葉をつけた大きなナナカマドの根本に落ち着いた。
彼女は相手の様子にいつも興味津々である。せせら笑うような顔をして舌で鼻の頭をなめてはプイッとそっぽを向いてしまう様子。時折虚空を見据えて時間から抜け出したように動かなくなる様子。念入りに毛づくろいをする様子。少女の方に近づくような素振りを見せながら尾を振ってその場でクルッと回る様子。
一方〈顔なじみ〉は好奇心にあふれる少女の視線に気づいても、「マタキミカ」とでも言うようにゴロゴロと喉を鳴らすばかりである。
※
初めてこのヤマネコと出会ったのは二年前の春のことであった。ヤマネコは静かに少女を見つめていた。ところが双葉が近寄ると、ヤマネコは一目散に逃げてしまった。以来彼女はヤマネコと出会っても、その距離感を大切にするようになった。
※
双葉が得意の鼻歌や口笛を聴かせると、ヤマネコはいつも高慢ちきな視線を無表情の中にしのばせて投げてくる。時々訴えるような鳴き声を発することもある。音楽が終わるとまたそっぽを向き、何事もなかったように体を丸める。そんなヤマネコの様子に少女はいつも決まって首をかしげ、やがてゆったりと微笑む。
ヤマネコがうずくまると、双葉は思い出したように立ち上がった。するとヤマネコも身を起こし、少女の踏み出した足がシダの葉に触れるより早くどこかへ行ってしまった。
「またね」
双葉は手を振って〈顔なじみ〉を見送ると、色づいた秋麗の山気を感じながら《母のふところ》の西側の山の頂上を目指して走り出した。晴れている日の日課で、暮れゆく太陽にあいさつするためである。
到着した時、夕日は遠くの山の端に手をかけたところだった。少女は大きな木に止まって一休みするコゲラのように口笛を響かせ、力にあふれた全身を悠然と震わせつつ沈みゆくその様子を打ちながめた。あたりが少しずつ暗くなり始めても、なおしばらくその場にとどまり、目を輝かせた。《母のふところ》の東側の山からガンの群れがさけび声を上げて、夕日に吸い込まれていくのが見えたのである。一団は途中で二手に分かれ、遠くへ向かわなかった一団はふたつの山の間で旋回し、一糸乱れぬ動きで小さな湖に向かって急降下していった。
双葉にとって毎日が新鮮の連続である。いつも通る道も、決まって勢いよく飛び越える小川も、落葉したブナの森も、ナナカマドの水辺も、何もかもが同じであってそうではない。日が替わればその目に映るものはすべて初めて見るもののように更新される。そんな風に、常に新鮮な気持ちでこの大地とまじわるのである。
「今日はね、うちにきこりのおじちゃんが来るから早く帰らないといけないんだ。また明日も来るね。さようなら」
普段より早足で山を下り、自宅近くのアスファルトの道に出るころには、いくつかの星がまたたき始めていた。
「久すぶりだな、双葉。寒ぐねのが?」
双葉が畳の間に姿を見せるなり、〈きこりのおじちゃん〉こと鈴木正敏が肉厚な顔をほころばせた。彼は広義での林業従事者で製材業も並行して営んでいるが、木を伐ったりもする人というただそれだけの情報から、双葉だけは〈きこりのおじちゃん〉と呼んでいる。たまにこうして顔を出すだけの彼とちがって、その妻の里恵は毎日朝夕、家事の手伝いのためこの家にやってくる。
続いて、コタツを挟んで正敏と何やら話している父健児と目が合った。父はいつも仕事で外出しており、たまに幾日か家を空けることもあるので、一緒に暮らしていながらも双葉にとって妙に距離感のある存在である。
畳の間のとなりには洋間があり、ふたつの部屋の間の戸はいつも開放されている。洋間には母いろはのお気に入りのソファやダンロがあり、それらに合わせた洋風の家具や雑貨が配置されている。
変わったたたずまいの家である。ダンロや煙突など付近にはこの家にしかない。いつか双葉が両親から教えてもらったところによると、この家はもともと外国人の家族が別荘として使っていたものらしい。ところがその外国人はある時を境に来なくなり、いつしか売りに出されたという。
※
木下家はある事情で東京都からここ山形県に引っ越してきた。なぜよりによってこの家を選んだのかというと、両親に言わせれば、「おもしろそうだから」ということであった。
都会暮らしに馴染んできただけに当初は色々と苦労が多く、とりわけ近所づき合いには腐心させられた。周囲に雰囲気にそぐわない洋館で、近所の子どもたちから〈幽霊屋敷〉と呼ばれ、大人たちからも奇異な目で見られていたからである。持ち主がいる以上この家をどうこうしようという権限は周囲にはないわけだが、「取り壊してほしい」というのが近隣の総意だっただけに、木下家に対する風当たりは強いものであった。
畳の間があったり、いかにも日本風の庭があったりするのは、そういう経緯による。
※
いろははもじもじする娘を手招きして近くに呼ぶと、ハンカチを口に当ててささやいた。
「おかえり、双葉。どんどん寒くなっていくみたいだから、明日からはもう少し早く帰るようにしてね」
「ただいま、お母さん。でもね、お母さん。あたし知ってるんだけど、昼も夜もあんまり変わらないんだよ」
「お願い。明日からは早く帰るようにして」
双葉はフゥと駄々っ子のようなため息をつくと、ソファに上がって母の腕に抱きついた。
いろはは乾いた外気で乱れきった娘の髪の毛を整えながら、そっとなでた。
「ねえ、双葉。明日の天気はどう?」
「晴れるよ!」双葉は自信たっぷりに答えた。「でも風がちょっと強いと思う。だって遠くの山がかさをかぶってるの、さっき見たもん!」
「それなら明日、フリージアの球根を植えようかな? 手伝ってくれる?」
「いいよ!」
「ありがとう。それなら明日は早く私を起こしてね」
双葉は甘えきった笑顔を惜しげもなく開花させ、太陽を見上げるタンポポように母のまぶしいほどの笑顔を見つめた。
「うん。あたしがお母さんを起こしてあげる! じゃあ今日は早く寝ないとね!」
寒い中を走って帰ってきたため、双葉はその心地良い疲労と母のぬくもりとに誘われるまま満ち足りた気分で目を閉じた。
いろはは「母として」というより「人間として」双葉と接する。それだから進んで娘に教えさとすようなことはしなかった。想像力と自立心の向上のため、何事もまず思うままにさせ、間違ったらそこで初めて注意し、好ましい判断だったなら大いにほめてやるのである。このように、彼女は双葉に考えることよりまず見ること、触れることを暗に教えた。
いろはは歌が好きで、いつも近くに誰もいないことを確認してから口ずさんだ。双葉は母の歌声はもちろん、唄っている時の母の表情が大好きなので、ふしぎに思いながらも歌が聞こえてくるとじっと物陰に隠れて耳をかたむけつつ観察することを常とした。
よく山に行っては母のするのを真似して唄った。だが、メロディばかりが頭に入っていたのでしばしば歌詞がわからなくなり、鼻歌混じりになった。そのうちだんだん歌詞の部分も鼻歌や口笛になり、それが今ではヤマネコと何となくの心の交信ができる手段となるほどまでに上達している。
ところで、いろはは胸を患っている。具体的にどんな病気なのか、なぜ町の病院に入院しないのか、健児はもちろん、鈴木夫妻も、双葉以外は皆知っている。
しかし誰もその仔細を双葉には教えなかった。彼女が知っていること、それは母がひとりだけ他の人と離れたところで食事をすること、最近になって会話の途中で突然苦しそうな咳をするようになったこと、そのせいで同じ屋根の下で暮らしていても会えない時があること、それから裏庭の小さな畑のことである。母はここを自分専用のものとし、一年前までは様々な農作物を育てたり凝った花壇を作ったりしていた。それが今では簡素な花畑だけとなっている。
こうしたことが双葉を日々寂しがらせ、一層母に執着させた。
睡魔と必死にたたかっていると、「おばんです!」と玄関から里恵の元気な声が聞こえてきた。彼女は自宅から持ってきた自家栽培のキノコを台所のテーブルに置きながら、ここに来る途中で友だちとばったり会ってつい立ち話をしていたと遅くなった理由を楽しげに告白しつつ、手際よく夕食の準備を始めた。
里恵はとても感情ゆたかで快活な人である。双葉のようなくせっ毛はいつも手ぬぐいで適当にまとめている。といっても毎日異なった柄のものをつけているので、おしゃれ好きでもあるらしい。「手ぬぐいの下はどうなってるんだろうね?」と双葉はよく母にささやいた。見ているだけで楽しい気持ちにさせてくれる人があるものだが、里恵はそんな類の人である。
「腹減って死にそうだ」正敏が冗談めかして言うと、
「おめえみたいなのがほだなことで死ぬもんか」と里恵は軽くやり返した。
「いつもありがとうございます」いろはが申し訳なさそうに頭を下げた。「でも何か用があるようでしたら、いつでも言ってくださいね。うちのことはまかせっきりですけど、私だってまだまだできるんですから」
「そのこたァ言わねえ約束だず」里恵は目をそむけて首を振った。「それに私のことはええんだず。食べるのとおんなじくらい料理するのが好きなんだがらな」それから双葉の方を向いて、「おや、双葉は私が見る時はいっつも笑ってるねぇ。ええよ、笑顔が一番だず。おめえはきっと母ちゃんに似て、おっけぇなったら笑顔の似合うエエオナゴになっがらな。その役に立てんなら私ゃうれしいよ。あァそうだ、これはおめえが前に種菌ば打ち込んだシイタケだ」
里恵は乾燥したミズナラの木で双葉の興味を引き、食卓に向かわせた。里恵は台所の方へ向かいながら冗談ぽく頭の手ぬぐいから飛び出た数本の縮れ毛を引っ張って真っ直ぐにし、指を離して一層ひどい状態にした。双葉はお腹をかかえて笑い転げた。
鈴木夫婦には六人の子どもがいる。上のふたりの子どもは都会に出て、それぞれで生活している。あとの四人は今も両親の元で暮らしている。双葉より三つ年上の末娘は、以前は里恵につれられて木下家によく遊びに来ていた。疲れるか眠くなるか痛い目を見るまで遊び続ける子で、おかしい時は周囲を揺らすように笑い、腹を立てた時は雷のように怒り、泣く時は火事のようにわめいた。里恵の言うところの「キカナス」であった。一時期、いろはの病が悪化したことがあって、そのころを境に顔を出さなくなったが、それは家の中のことで、その後も表では双葉と遊んでくれていた。最近ほとんど会うことがなくなっているのは、その子が小学校に通うようになったためで、また、双葉はひとりで山を歩くことの楽しさを知ったためであった。
コタツの上は、いつしかところ狭しと様々なキノコ料理が盛られた皿で埋もれていった。双葉は、食べ物は太陽や空気や水、それに大地と同じでありがたいものだと教え込まれている。だから甘い食べ物は甘い食べ物として、苦い食べ物は苦い食べ物として、いつもありがたくいただく。
食事が終わるまでは母の近くに行ってはいけないと言いつけられているので、楽しい食事も双葉にとってはいつも何となくの物足りなさがあり、そのため父と正敏がよくする堅苦しい会話に耳をかたむけるのが常となっている。
この時、健児たちは地域新聞をコタツの上に置いて、遠くの山が開発されたことについて話していた。
「考えてみれば、何でも端を発するその時はささやかなものです。子どものようにすなおに一方のみを見つめているその時だけが純粋なんですね」
健児の思案顔に正敏は同意した。
「元をたどりゃ、ちちゃこえきっかけが原因になしったことばっかりだもんな」
「一見したところ必然的な出来事も、実は偶然の連続に過ぎないのかもしれませんね」
正敏は健児とは対照的に、きわめて気楽である。
「木下さん、そりゃひょっとすたら道理がもすれねえな。人の一生なんてもんは、いっつも他人やら何やらど関わりながら他人や何やらに振り回されるもんだがらなァ」
健児は思いついたように、「進化」というものについて私論を展開した。──進化とは昔なら生き物の形の変化を指したものだが、今は主に人類の発展のことを指すのではないか。人間はあきらかな不自然さえも自然の姿にすり替えてしまう。魔術のようなもので、具体的にはそれらを正当化する知識であり、それらをいっしょくたにしてしまう科学がそれである。
「山の開発も自然の流れの中のひとつなのかもしれませんね。必要だからそうした、といったところでしょうか」
「ん…まァ」正敏は常に携帯しているパイプをもてあそび始めた。「……人ば中心に考えればだげっどな」
「ほう。と言いますと?」
「木下さんの言う進化ってのは、技術の進歩やら知恵の発達のごどだべ?」
「そうですね」
「おれは、そういったごどは必ずすも人間の進歩や発達にはならねど思う。便利になっても楽するごどばっかりになったら人間はおすまいだ。……その時点でだば、人間はむすろ退化すてるどいえるんでねが?」
「うーん、なるほど。そういう考え方もありますね」
双葉はふたりの会話についていけなくなったあたりで、誰にともなくつぶやいた。
「……こないだまでよく見てたキツネの母子、どうしたんだろう?」
実際は何でもないことなのかもしれない。双葉の知る由もない因果があったのかもしれないし、自然の中ではごくありふれた微妙な変化に過ぎないのかもしれない。どうであれ、真相はキツネの母子にきかなければわからない。
双葉は冷めてしまった料理を一気にかっ込むと、台所で洗い物をする里恵に皿を渡し、コタツには戻らずそのまま母のソファの小さな隙間に飛び込んだ。
「あったかい料理は、あったかいうちに食べないとね」
「………」
双葉はほとんど減っていない母のご飯に目をやり、首をかしげつつうなずいた。
いろはは微笑みながら娘の耳元でささやいた。
「あと、今みたいに急いで食べるのも、作ってくれた人に悪いわ」
「わかった」とは答えたものの、どうしても直らない癖だったので彼女は母にはそういったことをこれまでにも再三言わせていた。
いろははひとつ咳払いすると、何か言いたげに視線を向けてくる娘の目をまじまじと見つめた。
「考え事でもしてたの?」
「うん、ちょっとね、カンガエゴトしてた」双葉は得意げに言った。それから少し悲しそうな顔をして、「あたしね、ネコを飼いたいんだ。うん、そのことをずっと考えてたの」
いろはは、ちょっと厳しい表情を見せた。
「私にも似たような経験があるから双葉の気持ちはよくわかるけど、でも、あなたと暮らしたいって思っているネコはいるのかな?」
「うーん、よくわかんない」
しょげながらもじもじと体を揺する娘のふくれっ面に、いろはは顔を近づけた。
「立場を入れ替えて考えてごらん。たとえばね、双葉が好きなように遊んでいる時に、知らない人に突然抱き上げられてその人に家につれていかれるの。そうされたら、双葉はどう思うかな?」
「………」
「たしかにその人に守られるんだからお腹が空くこともなくなるだろうし、外で寒い思いもしなくてすむかもしれない」母は羽織っていた真っ白なガウンをそっと娘の体にかぶせた。「でもそういう心配がなくなる代わりに、それまで当たり前だった自由がうばわれてしまうとしたら、もっとつらいんじゃないかな?」
「………」
「世の中のことは何でもそういう目で見なくちゃ。何でも知ろうとすれば知ることができるし、それに、何でもとてもフクザツ。でもそれは〝おもしろい〟ということでもあるの」
「わかんない。やっぱりおもしろくない。……やっぱり、どうでもいいや」
「ううん、双葉。私は双葉にそんな風に考えてほしくないな。……うん、そうね。カンガエゴトをしすぎると、難しくて、疲れて、イヤになってしまうこともあるけど、でも、何にでも興味を持って。そうすればどうでもいいことなんてひとつもないってわかるから」
いろははまた咳をした。今度は数度、胸と口に手を当てて苦しそうに。双葉は母にうながされるままソファから離れた。
急いで台所から駆けつけた里恵はいろはに薬を飲ませると、背中とソファの間に挟まれていたクッションを枕代わりにして、手慣れた作法で病人を横たえた。
食事を下げようとする里恵の手を、いろははややあわてた様子でこばんだ。里恵がまなざしで問いかけると、彼女はガウンを握りしめたまま目をキョロキョロとさせて棒立ちしている娘の方に一瞥を投げた。里恵は何事もなかったように台所へ戻っていった。畳の間から心配そうな視線をくれるふたりにも同じような仕草で伝えた。
ゆっくりと身を起こしたいろはは、充血しつつも柔和な瞳で娘を正気づかせた。
「人の気持ちって、何となくわかるものでしょう? 相手が人じゃなくてもおんなじこと。そのうち双葉もわかるようになるよ」
母の声はとても静かで厳しく、そして相変わらずやさしいものだった。
双葉は冷めたスープをすすり始めた母の腰元にもたれかかり、安逸の中で目を閉じたものの、一瞬の熟睡ののち、現実に戻ってきた。さっきまであんなにも優美な声音を奏でていた母の口から繰り返されるゴホゴホという痛々しい響きを耳にしたのである。
父が座っていた座布団の上から跳ね起きた彼女は、母のソファへ息せききって駆け寄っていった。同時に、電話を切った正敏が表に飛び出していった。いろはの主治医を迎えに車を出したのである。
いろはの口からはわずかに鮮血が流れていた。健児は体をふたつに折って咳き上げる妻を楽にさせようと、そっと横にし、里恵は食事の乗ったおぼんをテーブルにどけた。それから新しいタオルを彼女の口にあてがった。双葉が握っていたガウンも父にうばわれ、病人の上に戻された。
里恵はオロオロし、健児は落ち着きなくまぶたを激しくまたたかせているが、当のいろはは静穏さを保っている。彼女はただ一心にその口元を見つめてくる娘に平然とした視線を投げかけ、そのままの表情で夫に頼んだ。
「私は大丈夫だから、それより双葉を、寝かせてあげて」
健児は言われた通りに、娘を寝室につれていった。
明くる日、普段より少し遅く起床した。いつもなら目を覚ますなりすぐに寝床を出て着替えるのだが、今朝は爪をかみながら髪の毛をいじりつつ、しばらくの間ヒビの入った漆喰の白い壁をぼんやり見つめていた。
居間の風景は普段通りである。空気は澄んでおり、ソファに座って朝のあいさつをしてくる母も新聞を読みながら一瞥だけくれる父もいつもの通りである。ただ、一点だけちがっていることがあった。母のソファにかぶせられていた無地の敷布が花柄のものに変わっていることだが、双葉は今、その上にいる。
何となく居心地の悪さを感じていた双葉は、食事中、早く外に出ていきたくてたまらないとばかりに玄関の方を気にした。フリージアのことも思い出せないほどなのだから、朝だというのに里恵がいないことについて両親にたずねるわけもなかった。ちなみに鈴木夫婦は夜中までいろはのためにずっと残っていて、時間外勤務をしてくれた医師を送ったり、掃除をしたり、朝食の支度をしてくれたりしていた。
急いで朝食を平らげると、双葉は気づかわしげにそそがれる両親のまなざしから逃れるように表に出ていった。出がけに母からフリージアの球根を植えておいてほしいと頼まれて、彼女は顔を赤くしながら花壇にスコップを入れた。
この日も双葉は歩き慣れた道を進んだ。だが終始ぼんやりとしており、田んぼで脱穀が行われていても、畑でサトイモやラッカセイの収穫が始められていても目を向けようとはせず、どこかから薪を割る単調な小曲が物悲しく響いてきても、落ち葉かきをする熊手のリズミカルな即興曲が聞こえてきても耳を澄ませようとはせず、低く飛び交うイナゴがすぐ目の前を勢いよく横切っても気を向けようとはしなかった。
《母のふところ》の東西の山に決まった入り口があるわけがないのだが、彼女はいつも同じふもとから入山した。東側の山の入り口には一年中葉を茂らせてそそり立つスイカズラの森が広がっており、晴れた日でも暗く、地面が湿っている。
途中、めずらしく転んでしまい、手のひらに軽いケガを負ってしまった。振り返って確認すると、木の根っこが土の中から盛り上がっているのがわかった。
「気をつけなかったあたしがいけないんだよね」
そこで、今度は気をつけて下を向いて歩いた。すると木の枝を横切る動物の影が見えた。急いで上を向いたが、もういなかった。双葉はブツブツこぼしながら土を払い、母に持たされたハンカチで手をつつむと、つぶやいた。
「転んでもいいや」
少し残る痛みも、ちょっとした幸福感にすっかりやわらいだ。時折この山ですれ違うウサギが草の中からひょっこりと姿をあらわしたのである。言葉は通じないし目も合わせてくれないが、このウサギは双葉が近づいてもあの〈顔なじみ〉のようにあからさまな逃げ方はしない。この日も細い道を半分ずつ分け合って、たがいに素知らぬふりしてすれ違った。いつの時とも変わらない、うれしい瞬間だった。
頂上に着くなり、真っ直ぐな太陽光線に迎えられた。普段なら真っ先にあたり一帯が見渡せる絶好の眺望に目が向かうのだが、この日はせず、双葉はたくさんのツルリンドウの自生するひっそりとした場所へ向かった。
樹皮のはげたシラカバの木の陰に腰を下ろして、彼女は虚空を見つめた。……どれくらいの時間そうしていたのか、何となくツルリンドウに視線を向けるなり、おどろいた。土をいじりすぎたために花の細い根っこが外気にさらされ、あわれな姿になっていたのである。双葉は謝りながらあわてて元に戻した。
「お母さんが言ってたんだけどね、痛いとか寒いとかっていうのはシンケイが教えてくれることなんだって。人とか動物とかはそういう時見ればわかるけど、ねえ、どうなの? やっぱり寒かった?」
彼女は腹這いになって、土の濃い香りを嗅ぎつつ花に顔を近づけ、茎を指先で軽く突っついた。
「こんなに話しかけてるのに、夢の中じゃないと何も言ってくれないね」
よく花と話をする夢を見る。相手は決まって昼間にこうして話しかけた花で、昼間の返事をくれるのである。だが、それが夢だと気づくのは決まって目を覚ましたあとだった。
昼食のために一度家に帰るのを日課としていたが、この日はそうしなかった。
かといって何か特別なことをするわけでもなく、双葉は目に見えるものが黄昏色に染まるころまで山の中をめぐり歩いた。つい、暮れゆく太陽にあいさつすることをわすれ、そのまま下山した。
小さな湖を過ぎたあたりで、夜が降りてきた。ひそやかに唄う虫たちの声を別にすれば、枯草の敷きつめられたあぜ道を行く少女のかすかな足音だけが響いている。点々と灯る裸電球の周りに架かるはっきりとした虹色の円は、例年より早い冬の到来を予感させた。
自宅の前で待っていた里恵は、双葉の姿をみとめるなり走り寄ってきた。母の具合が悪いらしい。双葉は急いで母の寝室に向かった。部屋の入り口には普段ならまだ仕事から帰ってきていない健児と、めずらしく二日続けて訪ねてきている正敏が立っていた。
医師の診察を受けているいろはの姿をとらえた双葉の目には、じんわりと涙が浮かんでいる。
「どうして、お昼、食べに、帰ってこなかったの?」いろはは横になったまま、ベッドの縁に手をついてうつむく双葉にたずねた。
「………」
微笑む母にならうように娘も笑顔をつくると、火照った頬にできたえくぼに向かって涙が流れた。
母は普段の調子で問いかけた。「どうして泣いてるの?」
娘はしぼり出すように答えた。「転んだの……」
母はハンカチが巻かれた娘の手を取った。「よっぽど痛かったのね」
娘は首を振りながら、「うん」と返事をした。「あと、お腹が空いたから……」
その間、他の人たちは誰も口を挟まなかった。
と、突然いろはが咳き込んだ。それは激しく、たちまち顔は真っ赤になり、涙があふれた。握っていたハンカチを口に当てるとそのまま壁の方を向き、隠そうにも隠しきれない涙声で言った。
「里恵さん…双葉に何か…食べさせてあげてくれませんか」
食卓で双葉はため息をついた。それから所在なげにそばにくっついて離れようとしない里恵に、顔をそむけたままお願いした。
「あたし、ひとりで食べれるよ。ちゃんとあと片づけするから、お母さんのところに行っててあげて」
里恵は浮かない顔で、しかしすなおに居間を出ていった。
ひとりになるなり並べられた夕食に無心でがっつき、半ば無理やりにお腹をふくらませた。満腹になると、里恵との約束も遠く、母のソファの上で眠ってしまった。
※ ※ ※
夢に見たのは、昼間に山でおしゃべりしたむらさき色のツルリンドウではなく、毎年春になると自宅の裏庭で見る黄色のフリージアでした。
いつものことながら双葉は夢とは思わずにながめています。
夢なのに、なぜだかはっきりと甘い香りもかぎとれました。
あきらかにフリージアのものではありませんでしたが、双葉は疑いませんでした。
「こんにちは双葉。どうしたの、元気がないみたいだね?」
双葉はうなずきました。
「そうなんだ。でも元気のないのは双葉にはにあわないよ。──植物に痛みや寒さが感じられるか、だっけ? ごめんね、それには答えられそうもないよ」
双葉は「どうして?」と、身ぶりでたずねました。
※ ※ ※
誰かが運んでくれたらしく、目を覚ましたのは自分の部屋のベッドの上だった。起き上がってカーテンを開けると、乳色の空に朝虹が架かっているのが見えた。再びベッドに戻るなり、はだけていた毛布を頭までかぶって眠りに落ちた。
※ ※ ※
さっきとは別の夢のように、あたりは強い光に満たされています。
目を細めると、見なれない老木が立っているのがわかりました。
光は、木の根本に横たわっている動物の形をしたものからまぶしく放たれています。
双葉はその光体の毛並みをなでました。
光体は少女のいる大地と溶け合っているようで、なでているとふしぎと大地そのものと触れ合っているような気分にひたれました。
すぐそばにもうひとつ、人の形をした別の光体があるのに気がつきました。
笑いかけると気持ちがたちまち軽くなりました。
双葉はさっき黄色のフリージアから聞けなかったことを相手にたずねました。
人型の光体はのんびりとした口調で言いました。
「きみはやさしいね。──だから相手のことを何でも知りたいって思うんだろう。だけど何もかも知ってしまうなんてそんなの悲しいよ。双葉のやさしさ、ぼくはそれを追及することじゃなくて、そのもののありのままを見守ることに向けてほしいって思うよ」
とてもやわらかな、そして未知の声でした。
※ ※ ※
「変な夢……」
まったくその通りだった。しかも甘い芳香は今もただよっている。
部屋の中を何となく見回すうちに、小さな棚に見慣れない小びんを見つけた。小びんにはいくつもの小さな穴の空いた薄紙と輪ゴムでフタがされており、中には乾いた色とりどりの花びらがたくさんつめられている。甘い芳香はそこから放たれていた。
冷たい小びんを手に取り、いとおしむように火照った頬に当てていると、突然父が部屋に入ってきた。
健児は少しの間何も言わずじっと娘を見つめてから、普段の物静かな声で寝坊したことをからかい始めたが、双葉は取り合わず小びんのことをたずねた。これは里恵が花を加工して作ってくれたものらしい。彼女は唇をとがらせた。
食卓に着いた娘に、父は気づかうようにして断続的に話しかけた。里恵がこしらえたのはポプリというものだと説明したり、着替えもしないで寝たことをからかったりした。しかし、普段が普段なだけに言葉は続かなかった。
食後、双葉がようやく一言発した。
「お母さんは?」
「部屋で寝てるよ」健児は視線をそらして答えた。「だけど今日は咳が治まらないみたいだからお母さんの部屋に行ってはいけないよ」
食器を片づけた双葉は分厚い上着を着込み、玄関で赤い傘を取って、表に飛び出していった。
道々、双葉は何度となく足を止めては深呼吸を繰り返した。ここしばらく快晴の日が続いていたが、今日は上空低くに鉛色の雲が居座っており、わずかに見える青空もうろこ雲の向こうである。
なだらかな山稜の線をながめながら、彼女はつぶやいた。
「朝ちょっと起きた時、虹が架かってたっけ。──あれは夢じゃなかったんだ」
何となく口笛を吹いた。新しい旋律だった。表情をやわらげたりこわばらせたりしながら、繰り返し吹き、少女はこの曲を完成させた。
気がつけば小さな湖を過ぎ、二座の山の間の道を歩いているうちに、少女は風に押されるようにして東側の山に向かった。秋も半ばだというのに、その額にはしっとりと汗がにじんでいる。
何気なく傘を振り回していると、つい手元が狂ってそばの木にぶつけてしまい、直後近くの茂みから鳥の飛び立つあわただしい羽音が聞こえてきた。少女は足を止めて耳を澄ませたが、聞こえてくるのは森を流れる風の素っ気ない音だけである。
やがて木の向こうから鳥ののんびりとした鳴き声が聞こえてきた。
「あれは仲間を呼ぶ声かな?」
今度は甲高い鳴き声が響いてきた。
「あれはケイカイする声かな?」
ところが、うっかり踏んでしまった枝の折れる高い響きにおどろいて、皆どこかへ飛び去ってしまった。
黄昏時まで方々を歩き回った末、双葉は山の中腹の水辺で歩みを止めた。そのままいつものように赤い実を垂らすナナカマドの根本に腰を下ろした。
しばらくして〈顔なじみ〉が何食わぬ様子で姿をあらわした。ヤマネコは水辺で喉のかわきを癒すと、クルッと振り返り、先の少々曲がった尾をピンと立ててゴロゴロと喉を鳴らしながら、初めはうかがうように、やがて軽やかな足取りで少女のそばに寄ってきた。それなのに、頭上に目をやりながら考え事をしている双葉はそのことに気がつかなかった。
そのうちヤマネコは少女のかたわらでうずくまり始めた。双葉は何やら手触りのいいものをなでながらあくびをした。ナナカマドの根っこの小さなくぼみには野風に散らされた枯葉が集まっており、心地良い天然のベッドをこしらえている。少女がゆっくりと横になった時、ヤマネコはすでに寝息を立てていた。
双葉はさっき作ったメロディを鼻歌で唄いながら、ナナカマドの梢の向こうにのぞく秋陰を、閉じつつあるまぶたの間から見据えた。
「雨は降らなかったみたい。朝見た虹、やっぱり夢だったのかな? そういえば、傘、いつの間にかなくしちゃった……」
第二話:https://note.com/preview/ncfc67748f83e?prev_access_key=4a9bb742a340d5dd3484c2ac0f30b350
第三話:https://note.com/preview/n3f1821ba63e3?prev_access_key=f098e8ad5ae38d1efbee9c7007d6c773
第四話:https://note.com/preview/n25dd421ad75e?prev_access_key=4c6f332d438d05be96767556c9134436
第五話:https://note.com/preview/nd25841b8d76a?prev_access_key=13a56b5fd5fd6c37d4d40824f7e11464
第六話:https://note.com/preview/n13887013f06f?prev_access_key=0a15825b1f5c3ea9e63dc209aa4bd6af
第七話:https://note.com/preview/n1ac23925f450?prev_access_key=9ab448f683b93274302c34072d8e4218
第八話:https://note.com/preview/nfa3545fb2572?prev_access_key=c755956c8ff0b7cb384e3fdf7421f8b8
第九話:https://note.com/preview/n91f2e658f3a4?prev_access_key=64d9b33d25c434be983c0f6662132434
第十話:https://note.com/preview/n64c4a450d81b?prev_access_key=32d34f5218ba318e41e3a39646964bc6
