「ロゼット」 第十話

第十話 誕生日

 この日、大石先生が杏やゲンちゃん他数名の生徒をつれて見舞いにおとずれた。最近になって学級委員制度が再開され、杏は今、双葉の親友ということで不慣れながら学級委員を務めている。彼女は小町に、双葉が戻ってきたら盛大なもよおしを開こうとしていることや、一年生の時のように再び学級委員になってもらうおうと企画していることなどをマスク越しに話して聞かせた。つまりは、杏は双葉の代理学級委員ということである。
 ニュースの記事を読んでくるという日々の宿題は、今はもう行われていないらしい。大石先生が言うには、やはり小学校低学年の子どもには難しく、選ぶ記事が任意であるため、内容もかたよってしまうからだという。
「あれはとてもいい試みだと思いますけどね」
 小町が窓を少し開けながら言うと、大石先生は小声で答えた。
「実はもともと木下さんのために始めたことなのです。ですから、戻ってきたら再開するかもしれません」
 先生としては、双葉が孤立していることでクラス全体がバラバラになっているような錯覚があり、それで、皆が同じ問題をかかえることでクラスの結束力を高めようという狙いがあってのことだったらしい。
 しばらくして、小町が子どもたちに「双葉の花壇を元に戻したいから手伝ってほしい」というお願いをした。あまり長い時間寝室にいると感染が心配だという意味で言ったことはあきらかで、事情を知らされている大石先生はすぐに察した様子だったが、そうでない子どもたちはその場を離れたがらず、なおしばらく小町から渡された以前の花壇のデッサンをながめながらおしゃべりに打ち興じた。これをまとめたのはゲンちゃんだった。彼は双葉が学校を休むようになってからというもの、人が変わったように落ち着いた兄貴肌の少年になっている。
 杏を中心に子どもたちが花壇の〝再生〟作業に取り組む中、ゲンちゃんはその輪から離れて、大石先生と一緒にいる小町におずおずと声をかけた。最初のうちはどうも言葉が出てこない様子だったが、大石先生に背中を押される形で話し始めた。

                ※

 昨夏のニワトリ事件以来、彼はずっと恐怖と後悔の中にあった。とりわけ事件直後は、双葉が「食べなさいよ!」とニワトリの死がいを突きつけてきた光景をよく夢に見て、夜中に起きてしまうことがあるほどであった。日々悩み続けていた彼は、「双葉と仲良くなればいいのかもしれない」と思いきった接近を試みた。ところがひどく拒絶され、わけもわからずイジメを繰り返してしまった。 

                ※

 それが、双葉が無断欠席をした翌日にした短い〝演説〟によって大転換を起こした。ゲンちゃんはその日の放課後、ひとりニワトリの墓をおとずれ、心からの謝罪をした。具体的にあの話の中の何が彼の心を動かしたのかは本人もよくわからないらしい。
 どうであれ、その結果が今の彼であり、双葉はよそながらひとりの少年を急激に成長させたわけである。杏もまたそうだろう。
 しかし当の本人は何も知らずに眠り続けていた。

 目を覚ました時、ちょうど小町が寝室のとびらを閉めて出ていったところで、ゆっくりと階段を下りていく足音が聞こえた。よく寝たためか具合はよく、ベッドから降りても立ちくらみしなかった。
 カーテンをそっと開けると、夕暮れ空を見上げながらつぶやいた。
「秋山先生が言ってた〝あたしらしく〟って、どういうことなんだろう?」
 ベッドには戻らず、床の上で大の字になって天井を見据えていると、階下から父と伯母の話し声が聞こえてきた。床に耳を押し当ててみると、どうやら母のことが話題になっているようだった。そっと部屋を出て、壁につかまりつつゆっくりと階段を下りた。伯母と父の声が十分に聞けるところまで来て、腰を下ろした。
「迷子になったり、ケガをしたりしてもおかしくなかったんだから! かわいそうに、あの子が無事でいられたのはよっぽど幸運だったからとしか考えられないわ」
「もうすんだことだよ。それに双葉は私たちが思っている以上に、賢い、器用な子だ」
「そんなのは言い分けよ。考えてもごらんなさい。小さな子どもをひとりで野山を歩かせるのがどんなに危険なことか!」
「そんなこと、いろははよくわかっていたよ」
「それじゃ何、双葉が危険な目に遭うかもしれないことを承知の上でそうしていたというの? ……いろははどんな教育を親から享けたのかしら? 大体、いろはの父親は川崎にいるんでしょう? どうして一度もここに顔を出さないのかしら? お葬式にだって来なかったじゃない」
 椅子を引く音が鈍く響いた。やがて父のいつにない感情的な声が聞こえてきた。
「今さら何だ。ついこの前まであんな小さな子と本気で言い合いしていたのは誰だ?」
「だって…あの子がそういうのが好きなんだから、仕方ないでしょう……」   
 伯母の応答は力ないものだった。
「そうだとしても、どうして姉貴はもっとやさしい言葉で接してやれないんだ。おれにも時々わからないようなことを言うんだから、あの子にはどんなに重いことか」
「だって、口癖なんだから、仕方ないでしょう……」
「仕方ない、仕方ないって、それで片づけられるんならいろはのことだって仕方がないことなんじゃないのか? 大体姉貴はいろはの何を知っているっていうんだ。知ろうともしなかったんじゃないのか? それなのにアレコレと言う資格は姉貴にはないよ」
「………」
 しばらく会話が途切れた。やがて再び聞こえてきた父の言葉の内容から察するに、伯母は譲歩して、あらためて弟にいろはのことをたずねたのだろう。
「いろははね──」
 健児は自分と歌い手・いろはのことを語った。

                ※

 ふたりの出会いは、歌い手志望のいろはが健児の勤めている関内のライブハウスのオーディションにおとずれた時のことであった。いろはは当時から異彩を放っていた。言動からして奔放な自信家で、そのわりに何も知らないような澄みきった目をしており、緑というどちらかといえば控え目な色の装いを好む、きわめて強い個性の持ち主であった。初めて会った時から健児は彼女に惹かれるようになった。
 一年ほどのステージ活動ののち、当初からあった支配人との確執が解消されず、いろははライブハウスを去っていった。その際、彼女は健児に芸能界に進むべきかどうかと相談したという。結局その道には進まず、新宿にある別のライブハウス、というよりキャバレーの歌い手となった。
 その後のことは健児もあまり関知していないのだが、どうやら余程のことがない限り人の助言を容れようとしない、そのやや難のある性質が災いし、苦労したようである。
 そんないろはには、両親以外で唯一心から敬意を表した人物があった。著名な作詞家で、音楽家の健児はもちろん、小町も名前くらいは聞いたことのあるほどの人物である。作詞家は、いろはが活動しているキャバレーの最大の後援者だったという。
 趣味で唄うならまだしも、歌で食べていくというのならやはり広く芸能界で活躍しなければ難しい。
 かたくなだったいろはがそう思い直したのは二十代も半ばに差しかかったころのことであった。その決意にはこの作詞家の存在によるところが大きかったと思われる。
 いろはは歌い手の養成所に通い始めるも、そこで何があったのか急に翻意した。とある芸能事務所から誘いを受けたというのに、これを蹴り、養成所も辞め、再び新たなキャバレーで唄い始めたのである。この間に彼女の両親は離婚していた。
 健児がいろはのそうした身の上を知ったのは、彼女との接触を望む例の作詞家から連絡を受けたためであった。作詞家は芸能関係者からいろはが誘いを蹴ったことを聞かされて、当時彼女がどんな状況に置かれているのかを表面的に把握していたようである。ところが肝心の連絡先がわからなかったため、様々な方面に訪ね回り、やがてピアニストの知り合いを経て健児のところに行き着いたのであった。それほどこの人はいろはのことを気にかけ、また歌い手として買っていたのであろう。
 健児はこの作詞家の懇願を受け、というより自分がいろはの役に立てるのならと、望まれた通り彼女の勤める銀座のキャバレーでピアニストとして活動するようになった。
 いろはは以前の時とほとんど変わっていなかった。奔放で、感情的で、それはステージのパフォーマンスにあきらかであった。
 しかし彼女は、ふとした時、人がちがったように暗く沈んだ。健児は寂しそうにしている大よその事情はわかっていた。両親の離婚後、最愛の母と死別していたのである。
 そんな失望のどん底にあって、先の見えない不安に常につきまとわれながらどこか攻撃的ともいえるパフォーマンスを続ける彼女をどう支え、はげましたものかと、健児はとにかく日々いろはに、時として仕事とは関係なくにつき添うようになった。そうこうするうちに自然の成り行きでふたりは結婚し、都内で新婚生活を始めた。
 由来、いろはは母の遺伝で胸が弱く丈夫ではなかったのだが、こうして逆境を乗り越えられたのは健児のおかげというより、本人の歌に対するひたむきな愛、それに気合いや意志といったものの賜物だったことであろう。だが流産を経験したことで、病はいよいよ見て見ぬふりをしてはいられないものとなった。それは歌い手活動に支障を来たすものであった。
 双葉が生まれたのはふたりが第一子を亡くしてから二年後の秋のことであった。この時ほどいろはがよろこぶ顔を健児は見たことがなかった。しかし結局はこのことが彼女の体を弱らせた。
 奔放な性格が急激に変容し、双葉のよく知るいろはになったのはこのころのことであった。
 それは歌に強く影響した。おそらくいろはの中では、歌への愛と娘への愛が相克していたと思われる。大きすぎて同時にはとてもかかえきれないふたつの想いを胸に唄い続けるいろはの姿には、よろこびよりもむしろ悲しみの方が濃く、目に見える体の衰弱よりも痛々しいものがあった。彼女には、どうも自分の体のことをよく心得ている節があった。
 やがて娘の存在こそが何にも比べることのできないものと悟ると、彼女は双葉との時間とその教育を優先し、そのために家族は都会を離れることとなった。いろはがステージから身を退いたのは、双葉が二歳になろうかというころのことであった。

                ※

 都会の病院でゆっくりと療養していればあるいは、と健児は続けた。
「だけどね、姉貴。いろはは双葉のことで真剣だった。おれにできることはいろはの思いを汲んで、それを支えてやることだけだった。双葉には、その人生の初めを自然に囲まれた環境で過ごしてもらいたいといろはは心から望んでいた。その理由をくわしくは語ってくれなかったけど、いろはなりに考えがあったんだろう。だから田舎暮らしを望むいろはにおれはただ賛成したんだ。もちろん、何か確信があったわけではないだろう。実際に子育てしながら悩んだり反省したりする姿は何度も見てきた。だけど一度だっていろはは自分の教育のやり方に後悔したことはなかった。おれにわかることは、いろはは双葉を何者かに仕立てようとしていたわけじゃなく、ただ健康で健全な子どもに育てようとしていただけだっていうことだ。とにかくね、いろはの教育が決して思いつきのものではなかったと、おれは信じてるよ」
 長い沈黙を置いて、小町がつぶやいた。
「考えはあったかもしれないけど、それがいい結果になったかは別でしょう?」
 小町の力のない反論は、弟にあっさりくじかれた。
「たしかにこっちでずっと生活していたなら姉貴の言ういい子になったかもしれない。でもいろはの教育があの子をどんなにゆたかにしていることか、それは姉貴も気づいているはずだ。いろはの教育があの子を堕落させているとは思わないだろう?」
「そりゃ、まあ。でも──」
 健児は熱心に続けた。
「姉貴の価値観もいろはの価値観も関係なく、子どもっていうのは無知でそれでいて好奇心にあふれているものだから、いつだってある意味ではたたかっているんだ。大人は、子どものそういう入り組んだ心を見守ってやらないといけない。……他人のことをとやかく言えた立場ではないけど、そういう大事な面を大人は見過ごしてしまっているということを、おれはこっちに来てからの双葉を見ていて思うようになったんだ」
 論点を外れつつも徐々に力がこもっていく彼の在りようは、まるで父親としての不甲斐ない姿勢への後悔をぶちまけるかのようだった。

 母の話題が過ぎると、崖をよじ登るようにして階段を上がり、部屋に戻った。
 机の引き出しから母がつけていた成長記録を取り出し、ベッドに腰を下ろした。うつむきながら字を追ったりイラストをながめたりする表情はやや切なげだったが、やがて天井に、それから窓の外に目を向けた表情は笑っていた。そんな調子だったので階下でちょっとした事件が起こっていたことになど気づくはずもなかった。白亜が桐ヶ谷家を訪ねてきたのである。
 成長記録を大切にしまうと、図鑑や参考書、子ども向けの小説や童話集、いろんなことをたくさん書いたノート、それから手製の楽器や白亜からもらったカスタネットなどがぎっしりとつまっている本棚に向かい、裏の隙間に手を伸ばした。そこには母との思い出の赤い傘が保管されていた。
 それから机の上に飾ってある、里恵にもらったポプリの小びんをひさしぶりに手に取った。ところが、香りが失せていた。

          ※  ※  ※

 真っ白な世界を、双葉は緑色の服を着た母に手を引かれながら散歩しています。
 ふたりはどちらが言うでもなく、追いかけっこを始めました。
 母は真っ白な世界をとてもはやく駆けていきました。
 一所懸命に追っても、どんどん引きはなされていきます。
 双葉がどんなに大声でさけんでも、母は遠くで笑いながら娘を呼び続けるばかりです。
 双葉が泣き出すと、母は急に目の前にあらわれました。
 娘の涙をぬぐった母は、ゆったりとした調子で双葉の大好きな歌をうたい始めました。
 双葉は母の顔を見ようと顔を上げましたが、ぼやけてよく見えませんでした。

          ※  ※  ※

 一斉にマスクをつけた家族の必死な顔が目に飛び込んできた。双葉は順々にぼんやりとながめた。
 そのうち、涙にむせぶ小町がしぼり出すような声で言った。
「私じゃ、お母さんの代わりはつとまらない?」
「……どうしたんですか、伯母さん?」
 何やら口ごもる伯母とは無関係に、双葉の前に朝のよろこびが一気に広がった。しぼんだ花のようにうなだれる小町の横から、琴子が芳香を放つポプリの小びんを差し出したのである。
 小びんを手に取るなり、双葉は顔を紅潮させた。琴子の得々とした様子をよそに、彼女は何度も冷たい小びんを火照った頬にくっつけては観察した。
 家族は双葉の様子を、その一時を、多弁な沈黙をもってぐっとかみしめるように見つめた。
 双葉は瞳を輝かせ、髪の毛をいじりながら家族の方に目を向けた。琴子が身を乗り出して顔を近づけてきたが、彼女の声は小町の元に向かった。
「その手どうしたんですか、伯母さん?」
 小町は包帯を巻いた腕を隠すと、玄関のとびらにうっかり挟んでしまったと答えた。双葉は、伯母のその少しとぼけたよう言い方に、心配しつつ笑った。
 双葉は身近なしあわせを味わうようにゾクゾクと身を震わせた。あたたかい朝、なごやかな雰囲気、平和な時間、そして家族が皆一緒であるということ──。
 ところが、間もなく心地良い静謐はやぶられた。
「ねえ、どうなの、それ?」
 双葉はポカンとして、少しの間沈黙していたが、琴子の妙に生き生きとした視線の先に目を落とすことで、うなずいた。
「これが、どうしたの?」
 琴子は双葉の耳元に口を近づけた。
「いい香りでしょう?」
「ずっと、どこに行ってたんだろうね」双葉は琴子の催促するようなまなざしをよそに、夢見心地につぶやいた。「でも帰ってきてくれたから、それで十分だよ。──やっぱりポプリだって生きてるんだね」
「タネ明かししてあげる」琴子が得意げに言った。
 エッセンシャルオイルを示されて、双葉は首をかしげた。琴子は従妹の注意がそっくり向けられるなり、ここぞとばかりにポプリについてのちょっと調べた知識を饒舌に語り始めた。
「………」
 双葉は恍惚の表情のままうつむき、小指を立て、そのまま眠りに落ちた。
 数時間後、小町の代わりに昼食を運んできた従姉のうれしそうな鼻歌を聞きつけ、双葉は目を開けた。
「おはよう、双葉」イタズラっぽくベッドの縁に腰かけた琴子は、相変わらず頑固な曲線を描く双葉のくせっ毛を耳のうしろにそっとかき上げた。「ほんと、あんたってよく寝るね」
「あっ、お姉ちゃん……?」
「お姉ちゃん?」
「……ねぇね。おはよう、ねぇね」
 何か秘めたような微笑を浮かべる双葉を見て、琴子は急に感極まり、出し抜けに従妹を抱擁した。
「あんたにプレゼントがあるの」そう言うなり琴子は視線をつなぎ合わせたままベッドを離れ、本棚の横から小さな植木鉢を持ってきた。
 それは黄色のフリージアだった。一切の動きを止めた双葉の体はやがて鼓動に揺すぶられるかのごとく震え出した。そしてその春の馥郁たる香りに酔いしれるまま、思い出の花に飛びついた。ポプリの香りが帰ってきた時の何倍ものよろこびようだった。
「ありがとう、ねぇね」
 彼女は満面の笑みで感謝を伝えると、目をうるませて横になった。
 やすらかな寝息を立てる従妹の髪をやさしくなでながら、琴子は陶然とつぶやいた。
「……この子は、やっぱりほんとに心のやさしい子なんだね」
 この先、どんなにおどろかされても、どんなにがっかりさせられても、琴子はありのままの双葉を愛し続けることだろう。

 ──自分に嘘は言わないようにね。いつでも自分に正直にね。
 母のこの言葉を、
 ──双葉らしく。
 という秋山医師の言葉と結びつけたとすれば、深まりつつある秋の道を《タヌキの眠る林》に向かって歩くことに、ふしぎはひとつもない。
 途中、一度だけその足が止まった。ビルとビルの間の、ネコの通り道のような細い路地の入り口近くで、春をひたすら待つ色あせたロゼットを見つけたのである。
 林に着いて〝儀式〟を終えると、菩提樹の下でしばらくうずくまった。それからやにわに立ち上がり、陰雲の広がる天に向かって枝を伸ばす木をあおぎ見て、苦しげに胸を押さえつつ卒倒した。
 どれくらいの時間が経っただろう、わずかにまぶたを開け、横浜に来てからの出来事を追懐した。多くの出会いのことや、話し、学び、笑ったことを口にしては笑顔を浮かべた。けんかをし、バカにされ、うんざりさせられたことを口にしては顔をしぼませた。
 やがて、その表情は再び溶け出すように輝き出した。都会に越してきて、それまで以上に自然を恋しく思うようになったのは、実は都会のおかげだったのかもしれない。
「──ああ、あたしは、何もかもを、愛していたんだね」
 小さな双葉の、大きな悟りだった。
 その様子を見ていた者がある。小町と健児と、そして白亜だった。
 父に抱きかかえられながら、双葉はゆっくりとあたりを見渡した。伯母はいつにない狂熱的なあわれみと限りない慈しみの表情を向けているが、双葉の視線はそのとなりにいる青年にそそがれている。
「にぃに……約束やぶって……ごめんね」
 平然としていながらも命の一片を燃やすように言うと、視界をさえぎるように小町が顔を近づけてきた。その頭髪には、以前は見られなかった白いモノが混じっているのがみとめられた。
「双葉……」
「……どうしたんですか? 伯母さんがそんな顔あたしに見せるなんて、初めてですね? ああ…あのう、焚きつけを拾いにきたんですけど、ちょっと眠たくなってしまったんです……」
 小町は、口でもって姪の流血をぬぐった。白亜はその光景に悲痛のまなざしを投げている。健児は取り乱すことなく、目を閉じてすべきことは何かと思案している様子である。
 美しい秋の夕暮れは、毎年の芳しい季節の静寂の舞いと哀惜の狂乱を隠しつつ、厚い雲の向こうで輝いていたことだろう。その光景を双葉はむやみにもとめなかった。ただその小さな手は、わずかに残ったタヌキの骨のひとかけらに向かって伸びていた。

 夜が落ちて来、闇がまたたく間に広がった。
 ここは仲良くなった秋山医師の医院である。病床にはゆっくりと呼吸を繰り返し、時々まぶたをビクビクと動かすばかりの双葉が横たわっている。その右手には秋山医師が椅子に座っており、そのとなりでは琴子が真っ青な顔で茫然としている。左手の窓際には健児がいて、ベッドの足元には間隔を開けて小町と白亜が立っている。皆、身じろぎひとつせずに双葉を見つめている。
「わずかな可能性があるのならそれに賭けたいところですが、もはや手の施しようがありません。今から大きな病院に搬送しても……」いつもはきわめて厳粛で冷静な秋山医師の、涙にぬれた声である。「──残念だ」
 その抑揚の調子、憐憫の震えは、あきらかに医師と患者の関係を超えていた。おそらく助けてやれなかった自分の娘のことをしのんでいるのだろう。
 長い沈黙をやぶったのは、琴子のか細くも大胆な、挑むような声だった。
「ママ、双葉は死んじゃうの? 双葉はまだやっと……そうだ! 明日は双葉の誕生日よ!」
「………」
 小町は何も答えなかった。病室内に響くのは、取り乱して右往左往する、混乱と茫然とにもてあそばれる琴子の足音だけである。
 ところが間もなく、場の雰囲気はがらりと変容した。
「あなたのせいよ!」
琴子が白亜につめ寄り、悲鳴にも似た声を上げたのである。その言葉は繰り返されるうちに涙におぼれて沈んでいった。憤怒と興奮に我をうしない、目の前の青年に対する憎悪に打ちひしがれ、それに従って息をつまらせてしまったのである。それでもブツブツと取りつく島がない様子でなおも続けられた。
 琴子の言葉は小町に引き取られた。敵意むき出しの態で続けられるその罵倒は一方的なものだったが、憔悴しきっているためか弱々しいものだった。無念そうに患者の脈を診ている秋山医師と窓際で幽霊のように立ち尽くす健児をよそに、憤怒を全身ににじませる小町と錯乱ぎみに震える琴子は白亜と対峙するも、白亜は黙然と双葉に視線をそそいでいる。
 やがて双葉の目は小さな光を宿して開かれ、わずかな時間、息を吹き返したようにはっきりとした口調で言った。
「ねぇね……伯母さん……にぃには悪くないよ。だから──」それから真っ直ぐに両腕を伸ばして、白亜の方に向けた。「こっちに来て、にぃに……。手、つないで……」
 親友の手の熱がつたわると、双葉は表情を平安に満たした。充実となごみの泉で存分に跳ね回り、変わらない光を放つ太陽に嬉々として挑み、静寂と豊穣とが見事にたわんだ大地に寝そべり、芳しい空気に触れ、双葉はしあわせだった。知識の増幅は自然児の感動をうばい、肉体を摩滅させ、魂の均衡をくずしはしたが、それでもいろいろなことをすべて思い出としてひっくるめて、双葉はしあわせだった。
 白亜はほどなく人事不省に陥った双葉の小さな手を両手でつつむと、涙をこらえながらつぶやいた。
「双葉は、小さすぎた……。守るべき者が守っちゃれず、理解しちゃるべき者が理解しちゃれんかった……。音楽だけを愛しょったなら、こがぁに苦しまのうてすんだじゃろうに……」
 しかしその言葉は、怒り狂い、悲しみに打ちひしがれている小町には理解されず、信じたくない現実を前に失神した琴子にはとどかなかった。
 握り合っていた手は小町によって強引に引き離されたが、それはもはや双葉の知るところではない。

          ※  ※  ※

 にぃにはどうしてあたしの誕生日を知ってたの? 
 あれ、ちがうよ、誕生日は明日だよ。
 まあいっか、何もきかない約束だもんね。
 ヒヤシンス元気かな? 
 ケモノとか鳥とかにほり起こされて食べられたりしてないかな? 
 どんな花が咲くんだろう。
 春が待ちどおしいね。
 そうだ、今度はあたしが前に住んでたところにつれてってあげるね。
 またふたりでバスとか電車とかに乗ろうね。
 あと、新しい手作り楽器を思いついたんだけどね──。
 ねえ聞いてる、にぃに? 
 どうしてさっきから何も言わないの? 
 どうしてあたしにばっかりしゃべらせるの? 
 あれ、この手、ネコの……。
 そうだったんだ! 
 にぃにがあのヤマネコさんだったのね! 
 こっちに来る時、駅まで見送りにきてくれてたよね。
 すごくうれしかったよ。
 それで一緒に電車に乗ったんでしょう? 
 それから──。
 でもまた会えてよかった。
 ううん、ずっと会ってたんだからそんな言い方は変だね。
 何て言えばいいのかな? 
 こんにちはかな? 
 そうね、こんにちは! 

          ※  ※  ※

 もう、何ものも小さな双葉の夢をさまたげはしない。その魂は、そっと彼方へと飛翔していった。抜け殻となったその身は今、住み慣れた桐ヶ谷家の部屋のベッドに安置されている。細く開けられた窓から流れ込む風の音が秋の虫たちの声と混じり、しめやかに鎮魂歌を奏でている。

 夜明け前、一切が静かになった部屋の片隅で、ひとり健児だけが覚めていた。
「誰しも幸福を望むものだが、それにはまず自分にとっての幸福がどういうものなのかを知らなければならない。だけど、それは普段の生活の中ではただ何となく感じるばかりのものだ。この子はそれをはっきりと知っていたのだろう。きっとすべての人に共通するしあわせの姿を、この子ははっきりと見ていたのだろう。──この子は、生まれつき翼を持っていたんだね。そうじゃないかい、いろは?」
 健児は、姉が双葉の誕生日のプレゼントにと用意していたいろはの歌の録音を持って、一階奥の部屋へ消えていった。
 双葉の亡きがらのそばでウトウトしていた小町は、長い間ほったらかしにされていたグランドピアノの音に耳を澄ませた。

                 了            

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