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小泉文夫さんのこと

 小泉文夫といっても、いまは知っている人が少ないかもしれない。民族音楽の研究者として先駆的な仕事をした人である。ぼくは一度だけ、彼が企画したコンサートを聴きに行ったことがある。世界各地の民族音楽の演奏家を集めた、とても楽しいコンサートだった。あまり楽しかったので、そのときに会場で売っていたレコードを二枚買って、いまでも持っている。一枚は『バグダードのアラビア音楽』、もう一枚は『ウイグル民謡とベンガル民謡』で、いずれも小泉さんが監修したものだ。当日は、他にもいろいろなシルクロード周辺の音楽が実演された。
 ぼくが小泉さんのコンサートを聴きにいったのは1981年7月29日で(日付をレコードにマジックで書き入れている)、小泉さんはそれからまもない1983年に56歳で亡くなってしまう。惜しいなあ。とにかく発想や着想が天才的な人で、その点はやはり若くして亡くなった三木成夫さんと似ている。彼の『音の根源にあるもの』(平凡社ライブラリー)は名著と言っていいだろう。このなかに「自然民族における音楽の発展」という講演の冒頭で、人間がリズム感を獲得したのは馬を利用するようになってからではないか言っている。こういう鮮やかなひらめきがたくさんある人だった。
 この講演のなかで小泉さんは、「ベッダ」というスリランカに住む山岳民族の音楽を紹介している。彼らの歌を聴いてみると、病気を治すときの歌も山のなかを歩くときの歌も子守歌もみんな同じメロディなのだそうだ。小泉さんによると、ほとんどの民族はただ一つの歌しかもっていないらしい。本当に身についている固有の歌は、それぞれの民族にたった一つということだろうか。その歌をベッダの人たち三人に一緒にうたってもらうと、これが見事にばらばらだったという。お互いに仲間意識があり、一緒にうたいたいという切なる気持ちがあるにもかかわらず、一人ひとりの歌が違う。メロディはよく似ているし、スタイルも同じようだが、まったく同じではない。人間が違えばそれぞれ違う歌になってしまうのである。
 リズムや拍子を揃えて一緒に歌うという行為は、共同作業の必要性のなかから出てきたのではないか、というのが小泉さんの仮説である。食料を得るために働かなければならない、身を守るために、生きてくために共同社会をつくらなければならない。そういう必要性のないところでは、人は一緒にうたうことができない。ここから小泉さんは「私たちが音楽的だと考えていることが、本当は人間の不幸のはじまりかもしれない」と考える。「すばらしい音楽をもつということと人間の不幸とは、何か直接の関係があるような感じがしています」って、ねっ? 面白いでしょう。(2026.8.3)
 

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