『執着』

ベランダ読書は、もう無理ね。

※以下、物語の核心に触れる記述があります。未読の方はご注意ください。

ハビエル・マリアスの『執着』。

開始二十ページほどで、思わず「しつこいなー」と笑う。
改行もなく、時には一ページ丸ごとに及ぶほど長く伸びていく一文。しかし、そのしつこさこそがたまらなく好き。
哲学小説だからこそ、人間が頭の中でこねくり回す思考のすべて、言いたいことのすべてを、一滴も余さず言葉として搾り尽くしていく。その粘り強いモノローグの流れが滑らかに身体に染み込んだ。

物語は、主人公マリアの目には完璧な幸福の象徴のように映っていたある男の、理不尽な死という唐突な喪失から始まる。

遺された者が、死者との関係性を手探りでつなぎ止めようとする痛切な独白。だから私は、これは哀悼と喪失の物語なのだと思っていた。
しかし、物語が導く着地点は、その先にある、もっとおぞましくも鮮やかな「執着」に見事な旋回を遂げる。

そうなると、原題の『恋に落ちる(Los enamoramientos)』はスペイン語では複数形(らしい)で語られているところもなんだか意味深。
ここには様々な人間の「恋」の形が並列して語られる。献身も、嫉妬も、欲望も、喪失も、犠牲もね。そして読み進めるうちに、結局いつものように、ある一つの疑問が頭から離れなくなった。

この物語が暴き出す「執着」の正体とは、結局のところ、すべて「自己愛」なんじゃないかって。

特定のものを強烈に求める「偏愛」なら、そこには純粋な熱量がある。しかし、心がそこに囚われて離れられない「執着」の根底には、常に「手放すことへの恐怖」や「コントロール欲」が潜んでいて、それは相手そのものを愛しているというより、その存在によって保たれている「自分の世界」や「自分の正しさ」に、必死にしがみついている状態に見えた。

長い自己分析の流れには、身を焦がすような「犠牲的な愛」すらも語られる。
あなたのためなら私は身を引く、という美しく悲劇的な選択。一見、それ以上ない純愛に見えるそれすらも、読み進めるうちに私は、「美しく犠牲になる自分」を愛する自己愛であり、あるいは、そうすることで相手の心に一生消えない爪痕を残したいという、静かで強烈な「執着」なのかもしれないと思うようになった。

この物語の「恋」がどれも一方通行に感じられるのは、誰もが生身の相手を見ていないように映るからだろうか。

彼らはみな、自分の都合のよい「死者像」や「恋愛関係」という幻を相手に押し付け、その幻を愛している。相手の生々しい変化や意思を拒絶し、自分の頭の中の綺麗なかたちのまま固定しようとする。
でもこれって、誰もがしていることではないか。
その不条理な一方通行の重なりこそが、原題の示す「複数形の恋」であり、邦題が『執着』という鋭い一言で串刺しにした人間の業なのか。

...怖いよね。


これほど饒舌に人間の内面を解剖しながら、最後には、真相に辿り着いたのかわからないまま、底のない自己愛の深淵へ突き落とす。

このしつこさは、クセになる。

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