『Thursday with you』 -第8章-
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【第8章】 それぞれの道、それぞれの空
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──坂本賢吾、49歳。
京都・烏丸御池にある町屋をリノベーションした小さなオフィス。
暖簾に描かれた「雅(みやび)コンサルティング株式会社」の文字が、朝の光に照らされている。
「おはようございます、坂本さん! 今日も暑くなりそうですね」
「おはよう。熱中症には気をつけて、水分しっかりね」
穏やかで優しい坂本の声に、社員たちはにこやかに頷く。
現在、社員は4名。みんな20代〜30代の若いメンバーばかりで、活気と和気あいあいとした空気に満ち溢れている。
仕事の合間には冗談も飛び交い、時折、坂本のカメラ好きが高じて、社内SNSに社員の笑顔を投稿することもあった。
「ほんとに、社長って40歳に見えないですよね〜」
「何言うてんねん、社長まだ35歳やで」
「え?私とタメやん!」
「こらこら、それ以上言うとお給料下げるぞ」
「それだけは堪忍してくださいっ!」
そんな会話に、坂本は目を細めて笑った。
坂本は今、実家のある京都・桂に住み、愛車のバイク──「HONDA CB400SB」で毎朝通勤している。
鮮やかなトリコロールカラーの車体にまたがるその姿は、まるで大学時代に戻ったかのように若々しく、どこか風を追いかける少年のようだった。
── 「両親の介護のため、退職して京都に戻ります」
それが、東京の会社を去ったときの、彼の理由だった。
けれど──実のところ、坂本の両親は10年以上も前に他界していた。
本心は、ただ一つ。
“吉川菜未の将来を、邪魔したくなかった。”
MBAという大きなチャンスを前に、彼女が立ち止まってしまうことがあってはならない。
ましてや、自分はその頃には50歳を迎えている。
「あなたと平穏で幸せな家庭を築きたい」なんて言葉を、彼女に背負わせたくなかった。
だから、自分の存在を完全に消す──
彼がくだしたその決断は、あまりに静かで、そしてあまりに切なかった。
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──そのころ、カリフォルニア州バークレー。
吉川菜未は、大学の広大なキャンパス内にある寮の一室で、静かにノートを閉じた。
今週末のケーススタディ発表に向けて、グループディスカッションが夜遅くまで続いていた。
「……やっぱり、ここに学びにくる人たちは違うな」
同級生のなかには、企業の幹部候補や起業経験者、政府系機関から派遣された人々までいる。
討論は苛烈で、日々の予習と復習に追われ、睡眠時間は常に足りなかった。
最初の半年は、何度も泣いた。
坂本と過ごした木曜日を思い出し、ひとりきりの部屋で涙をこぼす夜もあった。
(坂本さん。私はまだあなたのことが……)
でも、自分で決めた道だった。
渡航の決意をしたあと、留学までの1年半はTOEFLやGMATのほか準備と勉強に追われ、ようやくこの地に立った今、振り返る暇などなかった。
けれど──ほんの少しだけ時間が空いた週末。
彼女は、レンタカーを借りて車を走らせた。
テスラ モデル3。
未来的で静かな走りのその車で、サンフランシスコの海岸線をひとりで流す。
ハンドルを握りながら、ふと思うのは、坂本のこと。
彼は今、何をしているのか。元気でいるのか。
(きっと、どこかでバイクに乗ってる。優しい笑顔で、誰かを支えてるんだろうな)
2人の空を隔てる距離は、地球の裏側ほどに遠かった。
でも、心の奥には、変わらず風が吹いていた。
その風は、京都にも吹いている。
坂本はバイクのシートに腰かけ、空を見上げる。
吉川は、レンタカーの窓を開け、潮の匂いに目を細める。
──違う場所、違う空、違うモビリティ。
けれどふたりは、同じ想いを心の奥にしまいながら、進んでいた。
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季節はまた巡り、時間は淡々と過ぎていった。
3年半という月日。
決して短くはない時間の中で、ふたりはお互いの成長を胸に、それぞれの木曜日を胸の奥で抱きしめていた。
そして──物語は、静かに再会の予感へと向かっていく。
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【第8章 完】
(→続く 第9章 へ)
