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ヤグルマソウの話

NHKの大河ドラマは毎年、なんだかんだ言いながらだいたい見ている。1年という長丁場も、今どきはSNSや解説動画という伴走者が充実しているので心強い。途中離脱する年もあるけど、あくまで個人的な好みの問題だから作品のせいじゃない。直近だと昨年の「べらぼう」は楽しく完走できた。

「べらぼう」では喜多川歌麿が重要な役回りを担っていた。歌麿と聞いてイメージするのはポッピンを吹く娘や茶屋の娘のような、これぞジャポニズム、って感じの浮世絵の美人画。もちろんすごい絵なんだよね、世界の歌麿だもの。でもあれってみんな、同じ顔じゃない? 私の審美眼の問題?

うりざね顔に引き目、かぎ鼻、おちょぼ口。それが当時の美人の条件とはいえ、もう少しなんとかならんかったのかと思う。まあ、江戸では写実的に描く技法が未発達で、これが限界だったのかもしれない……というのは大変失礼な思い込みだったと、私は「べらぼう」で認識を改めさせられた。

歌麿は決して写実的な絵を描けない下手くそというわけではなかった。「べらぼう」で歌麿が昆虫や植物を写生するシーンが何度か出てきたが、その正確さは現代の図鑑に挿絵として載っていてもおかしくないレベルだったし、その美しさは普遍的に通用する良質なボタニカルアートそのものだった。

どうしたら筆であんな繊細な描き込みができるのかという感嘆と、これだけリアルな絵を描けるなら人物の表情や顔の描き分けだっておちゃのこさいさいだろうになぜだ歌麿、という困惑が交錯する。美人画においてはそっくりに描くことより雰囲気や印象の方が重視されたということなんだろうか。

さて、印象といえば印象派。時期になるとヤグルマソウの花で埋まる休耕地が近所にある。ひょろひょろ伸びた茎から枝分かれした先っぽの一つ一つへ青や紫、赤紫、青紫、水色、白、ピンクの花がポンポンと絵の具を置いたように咲き乱れ、遠目にはその一帯だけふんわり発光しているかのよう。

それを見るたび「なんだかモネっぽいわあ」と思う。いや、モネがどうとか語れるほど私の知識は深くないので、誰でも知っている有名な「睡蓮」の色合いみたいなイメージに引っ張られているだけかもしれないけど、印象派の画家が描いた絵ような雰囲気は毎年楽しみにしている光景の一つだ。

もし絵の価値基準が「そっくりか否か」だけなら印象派の画家の絵も下手くその部類ということになるが、そうはならない。歌麿も同じだ。表現したいことに最適な手法を選んだ結果、ああいうお揃いの顔をした美人画が誕生することになっただけで、それによって彼の技量が否定されるものではない。

鳥が種を運んだのか、うちの庭の片隅にもポツポツとヤグルマソウが生えている。強い品種だからそのうちあのモネの休耕地みたく、べらぼうに群生するかも。それはそれでちょっと困るかな。歌麿の時代にもヤグルマソウはあったのだろうか。写生が残っているなら見てみたいと思いつつ、寝よう。

(2026/6/9)

#ヤグルマソウ #備忘録的日記 #歌麿

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