桜虫
ああ、桜。桜よ、桜。
渡米が決まった時、私の胸に去来したのは、なんだか妙におセンチな台詞だった。戦前や戦中の軍歌や国威高揚の歌じゃあるまいし。さらには普段、そんなに桜に思い入れがあるわけでも何でもない。ただ、外国の学校へ行くのだと思うと、入学が春ではないのだという、その事ばかりが頭を過った。そんなことより、全く得意じゃない英語とか、内向的といっていい性格の方を心配すべきなのだが、これは一種の逃避なのかもしれない。
転勤が決まった時、父は家族会議を開いた。母と兄と姉と私。一緒に行くかどうするか、だ。もちろん、父の単身赴任でもいいわけで、そう言って済ませることもできた。わざわざそんなことを切り出したのは、もしかして、父自身が一人暮らしに自信がなかったからではないかなどと勘繰ってみたりもした。何しろ、家事とかは殆どやらない人だ。母は子供三人に音を上げて、たまにパート勤めをする程度で、専業主婦に近いものだから、殆ど家事はやってしまうので、父は何もしない。別に前時代的に関白なわけじゃないけど、いきなり一人暮らしは不安なのかも。しかし、父は首を振った。これでも学生時代は一人暮らしだったんだ。なんでもやったぞ。料理だって、掃除も洗濯も、と当たり前のことを言う。兄妹皆が半分目を伏せ、口も開かずに鼻孔の奥で「ふーん」と音を立てた。似たような反応に互いに顔を見遣る。母はそれを見て笑い、「本当だよ」と言った。そこでまた三人そろって「へー」と言ってしまう。私たちはそんなに仲がいいのか。しかし、そこから先の反応は違った。
母は、一緒に行く、と言った。ただし、これは末子である私が行く場合で、私が残るなら、一緒に残る、という。
兄。大学一年。留学はしてみたいが、授業や単位や、留学に関する大学側の扱いが不明でタイミングが悪すぎる、という。
姉。高校二年。こっちに彼氏がいるので、離れたくない。でも、本当はアメリカには行ってみたい。彼氏と離れて振られるのがこわいんだろうな。(でも、あの二人は、そのうち別れる、と私は思っていた)もし、姉だけが残ることになったら、母はどうするのだろう。高二の娘一人、なんて、それはそれでやばくはないのか。
そして、私、中学三年。半年ずらしてアメリカの高校に入学するか、順当にこちらの高校に進学するか。
そもそも、ずるい、とは思う。母は、私に心配させないつもりで、私が残ったら自分も残る、と言ったのだろうけれど、本当は行きたいのは分かっていた。即答だったし。姉は、私が茶々を入れなくても、一人で声に出して自問自答して、うんうん言ってる。自分だけが残る場合、母がどうするかは考えていないっぽい。
父は時々、自分は本当に大丈夫だからな、と念押ししながら、皆が好きに話しているのを聞いている。
「で、どうする。優香」
結局、やはり、私が最後になった。母の自由を縛るようで嫌だな、と小声で言うと。母はけらけら笑った。
「え、そんなの気にせんでいいって。行きたくなったら、ポイ、って行くから私。単に、タイミングの話。それだけ」
誰も、友達のこととか訊かない。姉の彼氏のことはからかうのに。私の友達のことは訊かない。そうだよ。そんな心配はいらないからね。
私はずうっと見ていたスリッパのスヌーピーの絵柄を見詰めていた。チャーリーブラウンはアメリカ人とは思えないほど、なんだかんだいつも思い詰めている。あ、これはアメリカ人に失礼か。偏見だな偏見。でも、きっと彼は日本人に一番多いA型だと思うんだよね。でも、そんな彼も決して内向的じゃない。言いたいことは口にするし、それぞれ自分勝手な友人たちはこれまたお構いなしで適度に関わっている。わかってる。アメリカの子供がみんなあんなわけじゃない。でも、自尊心は高いよね。卑屈にならないってすごい。
むやみにアメリカに夢を見るな、と思う。アメリカにだってイジメはある。でも、そう。何かのキッカケ。多分。父がこんな会議を持ったのは、それを選びやすくするためだ。
どうしょっかなぁ、と兄は呟き続ける。姉は携帯を取り出し、手にしたまま小さく呻いてる。
桜。中学の校門の両脇にそれはあって、入学式には絵にかいたような桜吹雪が舞っていた。葉桜の頃、桜の木には毛虫が付いた。名前を知らないので桜虫と呼んでいた。黒っぽいやつで、落ちたものを踏むと黒ずんだ体液が滲んだ。一年後、私に向かってそれは投げられた。桜、桜。花が終わると、学校には行かない。桜が咲いても咲かなくても、私はもう行かない。
「制服、ってないんだよね」ぼそっと、言った。「じゃあ、その分のお金はいらないね」
母は頷いている。入学式は秋だ。桜は咲かない。そもそも桜と入学をくっつけて意識するのは日本人くらいよね。たとえあっても、校門の傍とかじゃない。虫が降って来るとこじゃないよね。
「何着てこうかな。入学式」
「入学式はないんだよ」
父は、何の抑揚もないような声で言った。何か、気を使ったのかもしれない。
「へえ」とまた、三人声が揃った。いや、四人だ。母も口を揃えていた。
「それは、いいね」
兄と姉が何か言う前に、私は言った。
了
