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引き換えるもの


これは、いわゆる〈異世界転生〉というやつなのだろうか。濃い緑色の舗装道路を、なぜだか必死で走りながら——どうやら逃げているらしい——頭の中を過ったのはそれだった。でも違う。別にマンガに出てきそうな、なんちゃってヨーロッパ的世界でもなさそうだし、仰々しいドレスを着た大層なご身分の悪役令嬢とかでもないらしい。随分と小ぎれいな庭園や澄んだ水の流れる川。時代や土地の分からない建物。なんだか見慣れない風景だと思ったけれど、いや、日常的ではないけれども、見たことはあると思えた。
 しかし、では何なのだろう。呆然としたまま辿り着いた答えは〈夢〉だった。安直極まりない、と自分でも溜息が出たが、仕方ない。私の貧弱な脳みそで他に考えられるものはなかったのだ。夢ならば、話は早い。異世界転生でも何も問題ないし、わけも分からずに走って逃げていても驚かない。しかし、何から逃げているのか。それが分からない。夢ならば夢で、そのへんのことをはっきりさせて欲しいものだ。いや、夢って、そういういい加減なものではなかったか。でも、考えてみたら私は滅多に夢を見ない。夢は誰でも見ているというが、それなら、覚えていない。だから、普通に夢といわれても、それが本当に夢かどうかも怪しいと思うくらいだ。
 とはいえ。苦しい。息が切れて、もう走り続けることはできそうもない。何かから逃げてはいるが、何から逃げているのかわからない。止まった。足がもつれてしまいそうだったからだ。私が着ているのは、ドレスでもなければ、昨日着ていたTシャツでもなく、ましてや寝間着にしているジャージでもない。これまた、よく分からない衣服だった。ぴったりしたスパッツみたいな上から緩くて薄い大きなセーターみたいなチュニックらしいものを着ている。これはなんとなく中世っぽい。けれど、靴はというと、おしゃれなブーツみたいで、どちらかというと未来チックだ。
「そこまでだ」
 気が付くと両脇から腕を掴まれていた。誰、というよりも、どこから出てきたのか。二人の人物は、ガタイのいい男二人だったが、別にナーロッパの兵士でもなければ、現代のエージェント風でもなく、私と大して変わらないようなナリだった。
「逃げてもいいことはないぞ」
「どこへ行っても同じだ。わかっているだろうに」
 妙に穏やかに告げられる。
 どうして自分が追われているのかと問い質そうと思ったが、なぜか声が出ない。
「ああ、仕方ないな」一人が言った。「まあ、後で話させてやるから」
 そう言ったかと思うと、手の中にあった何かをぐっと押した。と、足元が無くなった。腰を抜かしそうになりながら、自分を捉まえている両脇の腕にしがみついて目を閉じた。なんだか、こちらの頭の中を読まれたような気がした。喋ろうと思っても、喋れないのだ。やはり、これはむしろ未来。SFの世界の話なのか。
と、今度は突き放されるように放り出された。
「手間をかけさせたなノア」
 何やら威厳を纏った声が響いた。驚いた。名前だけは同じなのか。いよいよ異世界ではないらしい。
「待ってくれ!」
 声だけが響いた。誰もいない。
「話をさせてくれ」
「誰?」
 声が出た。両脇の二人が、少しだけ驚いて私を見る。本来喋れないはずの状況らしい。
「話がしたいか?」
「はい」
 誰だか知らないが、それは何か必要なことに違いない。途端に、両脇の二人は消え、広々とした部屋に、ぽつねんと、私ともう一人、似たような年頃の男が残されていた。誰か、やはり分からない。
「あなた誰?」
 相手は引いた。
「やっぱり」
「何が?」
 相手は首を振った。知っているような、そんな気がする。きっと知っているのだ。
「いいか」彼は声を潜めた。「声は届かないが、僕らの姿はみんな見えている。だから、滅多なことはするな。大声も出すな」
 わけが分からない。
「君を連れてきたのは僕だ」
 連れてきた?
「ここは、君の生きていた時間じゃない」
「どういうこと」
「手短にいうと、僕と君はやっちゃいけないことをやって裁かれている。このままでは消滅刑となる」
「ショウメツケイ?」
「早い話が、死刑だ」
「はあ?」
大声が出た。いくら夢でも、いきなりすぎる。
「夢じゃない」
 彼は言った。言って、私の掌に小さな針を刺した。痛い! ただの意識ではなくて、本当に痛かった。何するのジュノ! あ、そういう名だった。なぜ突然思い出したのか。と思う間もなく次から次へと記憶が甦る。彼は私の伴侶だ。共に暮らして七年になる。記憶を失っていた私を拾って、面倒を見てくれ、そして恋をした。何もかも、失くしてもよかった。記憶を取り戻さなくてもいい、と決めて、もう何年も経つ。
「ジュノ! ジュノ! どうして? 何をしたの? 私が? あなたが?」
「僕が、だ」
 彼は驚いていない。
「君を還す。だから、今は言う通りにしてくれ」
「いやだ」私は小さく叫んだ。「帰らなくていい、って決めた」
「このままでは二人とも死刑なんだ。君をそんな目に合わせられない」
 わけが分からない。
「君を、連れてきてはいけない所から、連れて来たんだ。それで裁かれている。知っていたなら君も咎められる」
「そんなこと」
「聞いてくれ。記憶はもう少ししたら、戻る。もう一日かそれ以上。でも、今はまだだ。じきに、君は薬を投じられる。嘘をつくとすぐに分かるやつだ。でも、今はまだ記憶は戻っていない。まだ戻らない。だから言うんだ。何を訊かれても。記憶にないと。今なら本当だから。前の世界の何もかも、今なら、知らない。だからその通りに言うんだ」
 いや、知っている。何か、ついさっきまで、あれこれと、細かいことを覚えていたような、思い出していたような気がする。これは、ジュノが仕組んだことなのか。そのせいで、知っていたことが消えたり出てきたりするんだろうか。でも、今頭の中にあるのはこの七年のことだけだ。庭の赤い花。二人で作った。名前は何だったか。天井に描いた星の絵。今私が作っている蜘蛛繊維の織物。何よりも、小さな命。明日、告げようと思っていたそのことを。今、私はどうすればいい……。
「言うんだ。その通りに。覚えていないのだと」
「そうすれば、助かる」
 ジュノは頷いた。
 あなたも? 押し殺した声を彼は聞かなかったことにして顔を上げた。
 
「そこまでだ」
 声が響いた。
 やけに真っ白かった部屋は、落ち着いた灯りに戻り。目を遣ると、周囲にずらりと人々が並んでいる。声は聞こえなかったのだろうか。本当に。これほど周到なのに?
 
「腕を」
 一人の白衣の男が近づいて来て手を差し出した。右腕を差し出すと、小さなカプセルから、筆記具のようなものが押し当てられた。痛くはない。ペンでちょっと付いた程度のものだ。
 助かる、というのは、どういうことなのか。私は夢から覚めるのか。夢でないなら。どうなるのか。でも、消滅、といった。消滅、とは。ここからのことを指すのか。ならば、私は戻されるのか。どうしてジュノは私の記憶が後から戻るようにしたのだ。今、自分は助かるのか。それとも、やはり無理なのか。そうだ。思い出した。少し記憶が戻ると、今のことを忘れるのだ。
 嫌だ。
「ジュノ! 嫌だ」
 小さく叫んだが、彼は動じなかった。
「僕は、わすれない」
 と、その口は動いた。
 
「ノア・カイト。以前のことを覚えていますか?」
 絶対に嘘はつけない。
「――記憶に、ございません」
 頬を動くものがあった。何かが伝っていった取り戻せない記憶のように。今はまだ。覚えている。今はまだ。あなたのことを。
 


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