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また食べにきていいですか?

この世の中には、相手のためを思ってつくいい嘘と悪い嘘、言いたくても黙っているべきこと、正直に話さないといけないことがある。置かれた立場で事情があることを分かりなさい、許しなさいと、天の誰かに諭されているようだけれど、それでもこの何年にも及ぶやるせない気持ちは、わたしの中で湧き出てはゆっくりと沈殿し、それが固まるまでには、上澄が透き通ってくるまでには、まだ毎度時間を要する。 
 
前よりは、その湧き出たやるせない気持ちが沈殿し、固まり、上澄が透き通ってくるまでの時間は短くなってきたように思う。だから、少しずつではあるけれど、諦めることや気にしないでやり過ごすことが、わたしなりに身についてきたとは思う。でも、またか、またこれか、いつまで巻き込むつもりだ、放っておいてくれ、とやるせない気持ちが一向に沈殿せず、心の奥底から水面を超えて、大暴れに巻き上がることが未だにある。 

周辺で蠢く何かに、はっきりと知らされることのない切迫感のある何かに、わたしを巻き込んで利用し続けるものへの怒りと、感情に流されてしまうわたし自身への怒りも混じる。蠢く何かがありながら、それでもわたしを守ってくれている存在があることはわかっている。でも、それは身を隠し息を潜めていて、わたしは誰からも真実を説明されない。

こんな状況になるまで、考えたことなど一度もなかったけれど、歴史や小説の中にも描かれているように、人が集まるところには、必ず足の引っ張りあいと滑稽な心理操作が潜むようだ。それに、喜ばしくもなんともない現代の技術が相乗することによって、今かつてないほど不可解な時代に突入しているように思う。

人はパソコンやスマートフォン、SNSのない世界にはもう戻れないのだろうか。技術の進歩というものが、人の健康の多くを占めるこころの健康に抗うと感じる人は、わたしに限らず大勢いるはずだ。でも、技術の進歩とこころの健康と、双方の折り合いをどこの誰が考えているだろう。冷静にそれらを考え、声をあげられる確かな人は、いったいどこにいるだろう?

これまでわたしは人を信じ過ぎていたのかもしれない。人はそんなものなのか?その程度なのか?どうでもいいものとどうでもよくないものも、わたしとわたし以外では違う。沈殿物と上澄の中間の処理が、まだできないわたしがいる。空模様でいうなら、どっちつかずの曇り空も楽しめるようになれば、こんなときも、明るく楽しく過ごせるのだろうか…。 

   
  …


今日は朝から悶々とやるせない感情が巻き上がっていた。でも、まずはバイトがあって助かった。バイトは淡々と数をこなすものなので、集中しないことには終わらない。夕方、バイトが終わり、外に出ると未だ明るかった。わたしは近くにある木が生い茂る大きな神社に気持ちが向いた。 

本殿に続く参道を歩き始めた時、今朝吹き出したやるせない気持ちは沈殿し、固まりつつあったけれど、まだ上澄は透き通ってきていなかった。長い参道を歩きながら、今日は神様へ何を話そうか?と、頭を整理した。あれこれと考えたけれど、神様にはいつだって正直に話さないといけない。結局、やっぱりいつもと同じことをお話しすることにした。

お賽銭は10円では今回は不足ですよ、という声をなんとなく感じていつもの10倍、100円にした。夕暮れ時のもういい時間なので、そのまま素直に帰ろうと本殿を背に歩き始めたのに、おみくじ引いていったら?という声もなんとなく感じて、これまた100円をおみくじ箱に投下して1枚引いた。気になっていたことが簡潔に書かれていた。要は「落ち着きなさい」ということだった。それから「このおみくじを引いた者は天津神社でスクナビコナをお参りなさい」なんて書いてあった。こんなこと書いたおみくじを引いたのは初めてだった。スクナビコナ?天津神社の総本山に行きなさい、ということ?正しい術がわからないので、お札を売っている宮司さんのところへ質問にいった。わたしが声をかけるとムッとした表情で愛想も何もない宮司さんだったが、あまりにも簡単な質問で安心したのか、そんな当たり前のこときくなよ、といった表情と容易い質問だぜ、といった得意げな表情を混在させ、天津神社は境内の中にあるのでそこをお参りするように言われた。

わたしは早速、近くの境内案内図で天津神社の位置を確認した。本殿までの通り道にあるから、今日もこれまでも前を通っているはずなのに、その神社のことを認識していなかった。天津神社のある来た道を引き返す。天津神社は、比較的大きく立派な構えをしていたので直ぐに見つかった。

ここでも、なぜか10円では不足ですよ、という声を感じて100円を投入していつもと同じことをお話しした。こういう時に限って、わたしの財布には10円玉ではなく、しっかり100円玉が何枚かある。10円とか100円とかみみっちいことをいうわたしを、神様はケチと思っているだろうか?神様はケチとかケチではないとか思わないと信じている。 

参道を出てすぐのコーヒー屋に入り、よく覚えていなかったこの神社の神様と初耳のスクナビコナ?について、スマホで検索した。スクナビコナは一つの物事をやりとげるための協力の神様とあった。協力するから、ひとりじゃないから頑張りなさいという流れなのか。スクナビコナは小さい手のりサイズの神様で、スマホ検索で目にした紹介イラストに思わずニヤリとなった。わたしの気持ちが徐々に冷静に、そして少し楽しい方向に動き始めた。 

でも、電車でこのまま真っ直ぐ帰宅するほど、まだ上澄は透き通っていない。わたしは一駅前で電車を降り、馴染みのない道を歩いて帰ってみることにした。歩くにはちょうどいい風の夜だった。 

この辺りに住み始めて数ヶ月が経っているので、なんとなく方向はわかるはずだったのに、夜に歩くのはあまりなかったからかもしれない。途中で方向がわからなくなった。スマホで道を検索しても、目の前の踏切を渡れば家に着くのか、渡らなければ着くのか、よくわからず線路の上で何度か行ったり来たりを繰り返した。こっちかな?と結局踏切を渡らない方を選んで歩き始めた。後になってわかったのだけれど、実はそれは行きたい方向とは逆だった。

こっちかな?と歩きはじめてしばらくすると、住宅街に白いのれんが掛かった小さな和風の店があった。一度は店を通り過ぎたものの、全開の引き戸から横目に見えた誰もいないカウンター、あれは一体何屋さんだろう?と気になったわたしは、引き返して白いのれんを確認した。「牛たんの店」。なんと牛たん!!。牛たんは、わたしの好物のひとつだ。ちょうど昨日、明日世界が終わるとしたら牛たんを食べるぞ、と鼻息荒く、人に話したばかりだった。今夜は家に帰れば作り置きの夕飯があるけれど、この牛たんはお参りした神様からのエールとしか考えられなかった。いや、ただの食いしん坊の都合のいい言い訳が、頭を埋め尽くしたというのが正しいかもしれない。

「あのーすみません、お店やってますか?ひとりなんですけど…」

わたしは暖簾をくぐり、カウンターの中に立つ坊主頭の男性に声をかけた。すると、男性はすぐに答えてくれた。

「あいあい、いいですよ。そろそろ店じまいしちまおっかな?なんて思ってたけど、いいですよ」 

まだ夜の7時前だった。休日なのに随分早く閉めるんだな、と思いながらわたしは、カウンターの奥の席に座った。テレビでは、NHKの夜7時前の天気予報が流れていた。
店のメニューは、品数に合わせた何種類かの定食と牛たん専門店ならではの一品料理がいくつかあった。わたしは、牛たん焼きとテールスープ、麦飯、とろろ、漬物の定食を注文した。 

店内は簡素だけれど、掃除が行き届いて清潔だった。坊主頭の主人は70歳代くらいだろうか?生まれも育ちも東京下町で、18歳の頃に家を出て、それから30年ほどを東北のある都市で過ごしたという。仕事はずっと水商売関係で若い頃は相当悪かった、と江戸弁で面白おかしく身の上話ををしてくれた。

「もうおじいちゃんだからね。今は静かになったけどさ」

休日の夜、ひとりでのれんをくぐってきたわけのわからない女を、主人は支度をしながら、まずは会話でもてなしてくれた。

道に迷っていた私がくぐった暖簾の先の世界は、とても心地のよいところだった。店の主人とわたししかいない空間だけれど、そこにカウンターというちょっとした境界線があること、この後大好物の牛たんが登場するという喜びから、わたしのこころの窓が観音開きのように開いた。今朝からのモヤモヤした気分のこと、この店に迷い込んだ不思議な流れのこと、それから、いかに牛たんが大好きかを主人にペラペラと話した。主人によれば、ここは通常予約制で、常連さんもとっておきのご褒美のときに食べにくるような店だった。予約もなくぷらっと立ち寄り、ここの牛たんにありつけるわたしは、どうやら運がいいらしい。 

「ちょうど昨日、明日世界が終わるとなれば、わたしは絶対に牛たんを食べる!って話したばかりなんです。そのくらいわたし牛たんが大好きなんです」

と言うと、主人は、

「明日世界は終わらねえから大丈夫よ、大丈夫」

威勢のいい江戸弁でテンポよく答えてくれた。わたしは笑った。それから、主人は朝早くからどんな風に手間ひまをかけて牛たんの仕込みをしているか、なぜ牛たん屋をはじめたのか、そんなことも話してくれた。(とても楽しい時間!)
わたしの大きく開いたのこころの窓を、主人との爽快な会話が出たり入ったりした。牛たんを食べる前から、わたしはモヤモヤした気分から幸せな気分に置きかわっていたと思う。

主人は、わたしとの会話の合間に「もうちょっとかな~、こんくらいかな~」とか言いながら、とろろを擦ったりかき混ぜたりしながら、ブツブツ言っていた。わたしはくすくす、と小さく笑いながらそれをきいていた。

ところで、こういった店の主人に、カウンター越しのお客の表情はどう見えているのだろうか?店に入った時、席に座った時、メニューを選ぶ時、料理を食べる前と食べた後で、お客の表情にどんな変化があるだろう?主人からの何気ない一言や料理一品、同席したお客など、たとえそれがちょっとした介入でも、店を出る時の表情、その晩の眠りを大きく左右することもあるだろう。いつかカウンター越しに主人に訊ねてみよう。間もなくすると、

「はい、お待ちどうさま」

と出来上がった料理がカウンターに置かれた。黒い膳に、七輪で焼かれた牛たん5枚と白菜の浅漬けを添えた皿、小盛りでと注文した麦めし、粉状の青のりがかかった黄色いトロロの椀、そしてたっぷり刻んだ長ネギが入ったテールスープの椀がのっていた。わたしは黒のお膳をカウンターから手前に移動させながら、

「テールスープって、美味しいですよね」

そう言うと、すかさず主人から威勢のいい返事が返ってきた。

「旨いよ。旨いものしか出さねえもん。でも、骨までは食べらんないからね!ワンワンってな」

わたしはお膳を前に置くと、ちょっと手を合わせてから箸を手にとった。先ずは牛たんを1枚、口に運んだ。そう厚くはない牛たんは、柔らかく優しい塩加減で、噛むほどに少し甘みを感じた。もぐもぐ。もぐもぐ。柔らかいけれど、すぐに飲み込むのは勿体無い。だから、さらにもぐもぐ。一枚目をついに飲み込んだわたしは、

「大将、美味しいです!あ~、今日はホント道に迷って良かった!」

と言うと、またカウンターの主人が得意げに言った。

「旨いものしか出さねえもん」

牛たんの次は、やけに黄色いとろろを麦めしにかけて一口。(むむ!?甘い…!)わたしは黙々と5枚の牛たん、とろろをかけた麦めし、テールスープを味わった。わたしが、頭の中で’美味しい~’!と叫びながら、牛たん定食を食べている間、主人は、

「さ、店じまいの準備しよ。もう今日は働きすぎたから閉めちゃう」

とか言いながら、さっさかとカウンターの中を動いていた。開店日の朝は5時から仕込みを始めるのだから、それを考えれば、夜の7時閉店は確かに働きすぎだよな、と思った。最後の一口にと残していたテールスープを飲み干し、箸を箸袋に入れて黒い膳に置いた。

「ご馳走様でした。美味しかったです」

元々食べることが大好きなわたしは、最近料理することを楽しんでいる。そうなると、必然的に外で美味しい料理に出会えば、この味付けは?調理方法は?など、あれやこれやと気になるようになった。この牛たん屋で気になったのは、とろろの甘さ。わたしは主人に質問した。

「どうして、こんなにとろろが甘いんですか?とろろだけの甘さじゃないですよね?卵はわかるんですけど、卵だけでもない…」

すると、主人から、それまでのようなテンポのいい返事がなかった。一瞬、いや二瞬、三瞬してから、主人の口から帰ってきたのは素っ頓狂なものだった。

「ひみつのアッコちゃん」

その言葉が音として頭に入ったものの、意味はすぐに思い浮かばなかった。わたしは、

「へっ?!」

とききかえした。すると、主人は声の音量を上げて、もう一度

「ひみつのアッコちゃん!!」

と言った。わたしは、

「そうですよね、そう簡単じゃないですね!」

言いながら笑った。ひみつのままがいいな、と思いながら。
こんな居心地のいい店のカウンターには、いつまでも腰掛けていたい気分だったけれど、お腹もこころも満たされたわたしは、お会計を済ませて席を立った。

「ご馳走様でした」

のれんに手をかけて店から半分足を出したところで、わたしはくるりとふりかえり、のれんの下から顔を覗かせて、最後にカウンターの主人に訊ねた。

「あの~、また食べにきていいですか?」

すると、瞬時に主人から威勢のいいセリフが返ってきた。

「いいとも~!」 

その返事にわたしは、わっはっはと今日一番の大きな声で笑った。
道に迷うのもそう悪くない。にんまり顔で秋の夜風の中を家路についた。



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