#456 関ヶ原の戦いの命運を決めた小早川秀秋とは?裏切り者は秀吉の養子だった?
関ヶ原の戦いと聞くと、
徳川家康と石田三成
の対決を思い浮かべる人が多いでしょう。
しかし、他にも
戦いの勝敗を決定づけた人物
がいました。
それが
小早川秀秋
です。
関ヶ原の戦いでは当初中立の立場を取っていましたが、戦いの途中で西軍を裏切り東軍へ寝返ります。
この行動によって戦況は一気に変化し、徳川家康が勝利することになりました。
そのため小早川秀秋は、
「日本史上最大の裏切り者」
と呼ばれることもあります。
彼はなぜ裏切ったのでしょうか。
そして、その後どのような人生を送ったのでしょうか。
小早川秀秋は豊臣家の養子だった?
小早川秀秋は1582年に生まれました。
実は彼は豊臣秀吉と血縁関係を持っています。
秀秋の母は秀吉の正室・ねねの親族であり、秀吉の養子として迎えられました。
つまり、
秀吉の有力な跡継ぎ候補
として育てられた人物だったのです。
しかし、秀吉と側室の淀殿との間に実子である
豊臣秀頼
が誕生すると、秀秋の運命は変わり始めます。
後に毛利氏の一族である小早川家へ養子入りし、
小早川秀秋
を名乗るようになります。
若くして大名となり、将来を期待される存在でした。
朝鮮出兵で評価を落とした
ところが秀秋の人生は順調ではありませんでした。
1592年から始まった
文禄・慶長の役(朝鮮出兵)
で大きな転機が訪れます。
秀秋は若くして軍の指揮を任されました。
しかし戦果をめぐって、
五奉行の一人だった石田三成
と対立します。
三成は戦況や軍功を厳しく評価する立場にありました。
その結果、
秀秋は総大将としての立場をわきまえていない
と報告されたとも言われています。
これによって秀吉の信頼を失い、一時は領地を減らされるなど厳しい処分を受けました。
この出来事が、
後の石田三成への恨みにつながった
とも考えられています。
関ヶ原では最初から裏切るつもりだった?
1600年、豊臣政権内部の対立が激化し、
石田三成率いる西軍
と
徳川家康率いる東軍
が対決することになります。
秀秋は表向きは西軍として参戦しました。
しかし実際には、
家康から事前に寝返りを持ちかけられていた
と言われています。
戦い当日、
秀秋軍は松尾山に陣取ったまま動きませんでした。
西軍も東軍も、
「どちらにつくのか」
分からない状態だったのです。
そして家康は、
なかなか動かない秀秋に対して発砲を命じた
という有名な逸話があります。
真偽については議論がありますが、
少なくとも秀秋が決断をためらっていたことは確かだと考えられています。
裏切りによって関ヶ原は決着した
やがて秀秋は東軍への寝返りを決断します。
その瞬間、
西軍の大谷吉継隊へ攻撃を開始しました。
すると、
他の西軍の武将たちも次々と東軍側へ動きます。
その結果、西軍は総崩れとなり、
関ヶ原の戦いは事実上ここで決着しました。
もし秀秋が最後まで西軍側についていたら、
結果は変わっていた可能性もあります。
そのため秀秋は、
関ヶ原最大のキーパーソン
とも言われています。
裏切りの見返りは大きかった
関ヶ原後、
秀秋は家康から大きな恩賞を受けます。
備前・美作合わせて55万石という巨大な領地を与えられました。
これは当時としては破格の待遇です。
一見すると、
裏切りは成功した
ように見えます。
しかし、ここから先の秀秋の人生は決して幸福なものではありませんでした。
わずか21歳で急死した
関ヶ原の戦いからわずか2年後の1602年。
秀秋は21歳で急死します。
死因についてははっきりしていません。
病死とされていますが、
当時から様々な噂が流れました。
有名なのが、
関ヶ原で討った武将たちの亡霊に苦しめられた
という話です。
特に大谷吉継の祟りを恐れたという伝説はよく知られています。
もちろん史実として確認できるわけではありません。
しかし、
裏切りによって勝利した人物が若くして亡くなった
という事実は、人々に強い印象を与えました。
小早川家は断絶した
さらに秀秋には後継者がいませんでした。
そのため、
小早川家は秀秋の死によって断絶します。
莫大な領地も失われました。
結果として、
関ヶ原で得た栄光は長く続かなかった
のです。
このことも、
「裏切り者は報いを受けた」
というイメージを後世に残すことになりました。
本当に裏切り者だったのか
現在でも小早川秀秋は
裏切り者
として語られることが多い人物です。
しかし見方を変えれば、
彼は18歳の若者でした。
豊臣家の内部対立に巻き込まれ、
東軍と西軍の間で難しい決断を迫られたとも言えます。
また、
石田三成への不信感
や
自らの生き残り
を考えれば、東軍についた理由も理解できなくはありません。
つまり、
絶対的な悪人
というより、
戦国時代の複雑な政治に翻弄された人物
として見ることもできるのです。
歴史は勝者だけで決まらない
関ヶ原の戦いは徳川家康の勝利で終わりました。
しかし、その勝利を決定づけたのは小早川秀秋の決断でした。
だからこそ彼は、
英雄
ではなく
裏切り者
として歴史に名を残しました。
しかし本当にそうだったのでしょうか。
歴史上の人物は、
誰の立場から見るかによって評価が変わります。
小早川秀秋もまた、
単純な裏切り者として片付けるには複雑すぎる人物だったのかもしれません。
そしてその人生は、
戦国時代を生きた人々の厳しさを今に伝えているのです。
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