#480 原爆の投下目標は長崎ではなかった?
1945年8月9日。
長崎市に原子爆弾が投下されました。
午前11時2分、現在の長崎市松山町にある爆心地公園付近の上空約500mで原爆が炸裂しました。
長崎は、広島と並ぶ原爆被爆地として知られています。
しかし、
アメリカ軍の爆撃機は、最初から長崎を目指していたわけではありませんでした。
8月9日の第一目標は、現在の福岡県北九州市にあたる小倉でした。
そして小倉を断念した後に向かった第二目標が長崎だったのです。
さらに興味深いのは、長崎に到着してからも、現在の爆心地である松山町が最初から狙われていたわけではなかったことです。
本記事では、8月9日にどのような経緯で現在の場所に原爆が落とされたのかについて解説していきます。
第一目標は「小倉」だった
1945年8月8日、アメリカ軍は翌9日に原爆を投下する作戦を命令しました。
その際、第一目標が小倉、第二目標が長崎とされていました。
8月9日、原爆を搭載したB-29「ボックスカー」は、北九州の小倉を目指してテニアン島を出発します。
小倉が重要な目標とされたのには理由があります。
小倉には小倉陸軍造兵廠があり、兵器生産の拠点となっていました。
つまり、小倉は日本の戦争遂行能力に関係する重要な軍事・工業都市だったのです。
また、原爆投下の候補地を選ぶ際には、軍事的な重要性だけでなく、
原爆による破壊効果を調査しやすいこと
も考慮されていました。
長崎についても、一般空襲による被害が比較的少なかったことや、造船・兵器などの軍需工場が集中していたことが、候補地として選ばれた理由とされています。
なぜ小倉を断念したのか?
ボックスカーは小倉上空に到達しました。
ところが、目標を簡単には確認できませんでした。
前夜の八幡への空襲による煙などが小倉上空に残っており、さらに雲やもやも重なって、視界が悪かったのです。
ボックスカーは小倉上空で3回の爆撃航程を試みましたが、目標を目視できませんでした。
そして小倉上空で約45分を費やした後、第一目標への投下を断念します。
もし小倉上空の視界が良ければ、8月9日の歴史は違ったものになっていた可能性があります。
もちろん、歴史に「もしも」はありません。
しかし、長崎への原爆投下が、最初から一本道で決まっていたわけではなかったのです。
長崎は第二目標だった
小倉を断念したボックスカーは、長崎へ向かいます。
長崎市の公式資料によれば、8月8日に出された作戦命令で、長崎は小倉に次ぐ第二目標とされていました。
では、なぜ長崎が候補になったのでしょうか。
一つには、長崎に軍需産業が集中していたことがあります。
三菱の造船所や兵器製作所など、日本の戦争遂行に関係する工場が存在していました。
もう一つは、原爆による破壊効果を調査しやすい条件があったことです。
長崎市の資料では、一般空襲による被害が比較的少なく、原爆の威力を調査するのに適していたことも、選定理由として挙げられています。
ここからさらに状況が変わります。
長崎上空にも雲が広がっていました。
ボックスカーは長崎に到着すると、レーダーを使って接近しました。
長崎市の公式資料によれば、機長のチャールズ・スウィーニー少佐は、目標を目視できなければレーダーによる投下もやむを得ないと判断していました。
しかも、燃料はかなり少なくなっていました。
資料によれば、燃料は沖縄基地までようやく到達できる程度まで減っており、爆撃航程もほぼ一回分しか残っていない状態でした。
小倉で長時間を費やしたことも、こうした状況につながっていました。
つまり、長崎上空に到着した時点で、ボックスカーは決して余裕のある状態ではなかったのです。
長崎での本来の投下目標はどこだった?
ここで、さらに意外な事実があります。
実際の爆心地である松山町も、長崎で最初から設定されていた投下目標ではありませんでした。
アメリカ陸軍の原爆投下命令を調べると、長崎での投下目標は、中島川に架かる常盤橋から賑橋付近とされていました。
そこは当時の長崎市の商業の中心部でした。
現在の爆心地である松山町とは場所が異なります。
目標上空が雲に覆われていたことで、当初の照準点を目視することができませんでした。
そして、投下直前。
長崎市の公式資料によると、投下まであと約30秒というところで、爆撃手の目に雲の切れ間から長崎市街の一部が見えました。
そこに見えたのが、
三菱グランド付近から三菱製鋼所・兵器製作所にかけての工業地帯
でした。
目視による投下が重要な条件だったため、ここが急遽、投下目標となったのです。
運命の11時2分
そして1945年8月9日午前11時2分。
長崎市松山町171番地のテニスコート上空約503mで、原爆が炸裂しました。
しかし、実際の爆発地点は、急遽設定された目標地点から約500~600m北にずれました。
爆発したのは、長崎市松山町171番地のテニスコートの上空です。
現在の爆心地公園の上空にあたります。
爆撃機は、小倉では目標を確認できず、45分ほど上空を飛びました。
その結果、燃料は大きく消費されました。
長崎へ向かったときには、燃料に十分な余裕がありませんでした。
そして長崎に到着しても、今度は雲に阻まれます。
目視による投下ができなければ、レーダーによる投下も検討せざるを得ない状況でした。
それでも、投下直前になって状況が変わります。
あと約30秒。
そのとき、雲の切れ間が現れました。
爆撃手の目に、長崎の工業地帯が見えたのです。
そこを急遽目標として、原爆が投下されました。
そして爆弾は目標から約500~600mずれ、松山町の上空で炸裂しました。
ここには、いくつもの「めぐりあわせ」があります。
もし小倉上空の視界が良ければ。
もし長崎上空の雲がなければ。
もし投下直前に雲の切れ間が現れなければ。
長崎で起きた出来事は、違った形になっていた可能性があります。
もちろん、これは「偶然だった」と言いたいわけではありません。
原爆を投下するという大きな作戦自体は、事前に決定されていました。
しかし、
「小倉ではなく長崎だったこと」
「長崎の中でも現在の松山町付近だったこと」
には、その日の天候、機体の燃料、雲の切れ間、そして現場の判断が重なっていました。
それら一つ一つが積み重なった先で、1945年8月9日午前11時2分という瞬間を迎えたのです。
おわりに
私たちは、
1945年8月9日、長崎に原爆が投下された。
と覚えています。
もちろん、それは間違いではありません。
しかし、その一文の裏側には、複雑な経緯がありました。
第一目標は長崎ではなく小倉でした。
小倉上空では、煙や雲によって目標を確認できず、投下を断念しました。
そして第二目標だった長崎へ向かいます。
ところが、長崎上空でも雲が目標を覆っていました。
しかも、ボックスカーの燃料はかなり少なくなっていました。
そんな中、投下直前に雲の切れ間が現れます。
そこから見えた工業地帯が急遽目標となり、原爆が投下されました。
そして、実際の爆心地はそこから約500~600m離れた松山町となりました。
つまり、
小倉上空の煙と雲、長崎の雲、機体の燃料、投下直前の雲の切れ間、そして投下位置のずれ。
こうしたさまざまな条件が重なって、現在私たちが知る「長崎への原爆投下」という歴史が形づくられました。
今年も8月9日を迎えました。
原爆投下について考えるとき、「なぜ原爆が使われたのか」という大きな問題を考えることはもちろん重要です。
同時に、
「なぜ長崎だったのか」
「なぜこの場所だったのか」
「その直前に何が起きていたのか」
を知ることも大切です。
一つの歴史的事実を詳しくたどっていくと、そこには、戦争という大きな出来事の中で生きていた人々の判断と、天候や地理、機体の状況といったさまざまな要素が複雑に絡み合っていることが見えてきます。
そして、その先にあったのは、
長崎で暮らしていた多くの人々のかけがえのない命と日常が失われるという、取り返しのつかない悲劇
でした。
8月9日という日に、「長崎に原爆が落ちた」という事実だけでなく、そこに至るまでに何が起きていたのかを知ること。
それもまた、長崎の歴史を記憶する一つの方法なのではないでしょうか。
【関連記事】
【目次】
【参考】
