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#406 なぜ鎌倉武士は「田舎者」扱いされたのか?

京都から見た「東国武士」

私たちは、「武士」と聞くと、日本の歴史の中心にいた存在というイメージを持っています。特に御恩と奉公の関係によって「いざ鎌倉」と将軍のために駆けつける鎌倉武士には、「質実剛健」「勇ましい」といった印象を抱く人も多いでしょう。

しかし、鎌倉幕府が成立した頃は、京都の朝廷や貴族たちは、鎌倉の武士たちを「田舎者」のように見ていました。

当時の日本では、政治も文化も圧倒的に京都が中心でした。
天皇や貴族が暮らす京都には、美しい和歌や華やかな宮廷文化があり、「都こそが文明」という感覚が強かったのです。

一方、鎌倉は関東の地方都市にすぎません。現在でこそ首都圏に近い場所ですが、当時の京都人から見れば、関東は遠く離れた「東国」でした。

実際、当時の文学作品『平家物語』には、東国武士を「東夷(あずまえびす)」と呼ぶ表現も見られます。「夷」という言葉には、「蝦夷(えみし)」という言葉にも表れているように、「都から離れた未開の人々」というニュアンスが含まれており、京都の人々が東国武士をどこか粗野な存在として見ていたことがうかがえます。

武士と貴族では価値観が違った

そもそも、京都の貴族社会と鎌倉武士では、価値観そのものが大きく違っていました。

平安時代の貴族たちは、和歌や香、装束、儀式作法などを重んじていました。どれだけ美しい歌を詠めるか、どれだけ優雅な振る舞いができるかが重要だったのです。

しかし、東国武士たちにとって大切なのは、土地を守ることでした。

彼らは自ら田畑を管理し、ときには武装して争い、馬に乗って戦いました。命がけで所領を守る実務的な武装集団だったのです。

そのため、京都の貴族から見ると、武士たちは洗練されていない「荒っぽい地方武装勢力」のように見えていたのです。

「坂東武者」は恐れられていた

当時、関東武士は「坂東武者(ばんどうむしゃ)」とも呼ばれていました。

坂東武者については、荒々しい性格を示す逸話も多く残されています。たとえば、鎌倉幕府の歴史書である吾妻鏡には、武士同士の激しい争いの記録がたびたび登場します。

武士たちは面目を重視し、ときには小さな争いでも命がけで対立しました。これは武士社会の価値観でもありましたが、京都の公家社会から見れば、礼儀や教養より武力を優先する粗暴な集団にも映ったのです。

また、京都の貴族たちは、武士が政治の中心へ進出してくること自体に強い警戒感を抱いていました。

源頼朝はなぜ鎌倉を選んだのか

こうした東国武士をまとめ上げたのが、源頼朝 です。

頼朝は平氏打倒に成功した後、京都ではなく鎌倉に本拠地を置きました。これは、彼の支持基盤が関東武士団だったためです。
鎌倉は「東国武士の土地」だったのです。

しかし、当時としては、政治の中心を京都以外に置くこと自体が異例でした。
頼朝は京都の貴族社会に依存するのではなく、関東武士団を基盤に新しい政治体制を築こうとしたのです。

朝廷側から見れば、「東国の武士たちが勝手に政権を作った」という感覚もあったと考えられています。

このことは鎌倉の政権に対する呼称にも表れており、当時は朝廷や貴族たちは鎌倉幕府のことを「関東」と呼んでいたと言われています。(「鎌倉幕府」という言葉は後世の人がつけた名称で、当時は使われてはいませんでした)

後鳥羽上皇が抱いた武士への反発

武士政権への不満を強く抱いていた人物として知られるのが、後鳥羽上皇 です。後鳥羽上皇は「朝廷こそが日本の中心」という意識を強く持っていました。
そのため、東国武士を基盤とする鎌倉幕府が大きな力を持つことに強い反発を抱くようになります。

そして1221年、後鳥羽上皇は鎌倉幕府を倒そうとして「承久の乱」を起こしました。
しかし結果は、幕府側の圧勝でした。京都の朝廷軍に対し、坂東武者たちは大軍を率いて進軍し、わずか1か月ほどで戦いを終わらせます。

この戦いによって、政治の主導権は完全に武士側へ移っていきました。
かつて京都の貴族たちに「東国の田舎者」と言われていた坂東武者たちが、ついに日本の支配者となったのです。

「田舎者」が時代を変えた

鎌倉幕府の成立によって、日本では武士による政治が本格的に始まりました。それまでの貴族中心の政治から、武士が実権を握る時代へと移っていったのです。

さらに、武士の価値観も次第に社会へ広がっていきます。
華やかな宮廷文化よりも、実務能力や忠誠、武勇を重んじる考え方が強くなり、日本社会そのものが変化していきました。

歴史を振り返ると、「田舎者」や「時代遅れ」と見られていた存在が、後に時代の中心になることも少なくないのかもしれません。

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