見出し画像

短編小説|猫と元カレ【恋愛/ヒューマンドラマ】

九時十五分

 猫がキャリーに入らない。

 いつもは入る。今日は入らない。

 病院の日だけ入らないのは、この猫が病院の日を知っているからだと思う。獣医に言ったら「よく言われます」と言われた。

 わたしはバスタオルを持って、寝室の隅に追い詰めた。

 ふくは、ベッドの下に入った。

 ベッドの下は、去年から入られないように衣装ケースで塞いである。塞いだのはわたしである。

 塞いだはずのところに入っている。

 衣装ケースを引き出したら、隙間が三十センチできていた。三十センチあれば猫は入る。猫の体は液体だという説を、わたしは支持している。

 バスタオルで包もうとして、二回失敗した。

 一回目は腕を抜かれ、二回目は顔だけ出したところで蹴られた。左手の甲に、線が三本ついた。

 この猫は、爪を立てるときと立てないときがある。今日は立てた。

 九時三十分に、洗濯ネットを使って捕まえた。

 洗濯ネットに入れてからキャリーに入れると、手足が引っかからないので早い。これは元カレが調べた方法である。

 こういうものだけが、別れたあとも残る。

十時

 駅の南口で、亮と会う。

 毎週土曜の十時である。一年間、この時間と場所を変えていない。

 わたしがキャリーを持っていって、亮に渡す。翌週の土曜に、亮がここへ持ってくる。

 それを一年やっている。

 どちらが言い出したのかは、覚えていない。

 別れると決めた日に、荷物を分ける話をした。家具と食器はすぐ決まった。猫のところで止まった。

 その日は結論が出なくて、とりあえず一週間ずつにした。

 とりあえずが、一年続いている。

「おはよう」

「おはよう」

 挨拶も一年変わっていない。

 最初の三か月くらいは、もう少し何か言っていた気がする。天気の話とか、仕事の話とか。

 いまは、これだけである。

 削っていったら、これだけ残った。

 キャリーの受け渡しは、やたら丁寧になる。

 持ち手を両手で支えて、相手が握ったのを確認してから、離す。中身が猫なので慎重になるのは分かるが、一年もやっていると儀式めいてくる。

 駅の南口には、待ち合わせの人がたくさんいる。

 その中で、わたしたちだけが箱を渡している。

 一度、警察官に声をかけられたことがある。

 箱を受け渡す男女というのは、たぶん、そういうふうに見えるらしい。

 キャリーを開けて中を見せたら、その人は「あ、猫ですね」と言って、それから「かわいいですね」と言った。

 ふくは、そのとき一声も鳴かなかった。

「今日、病院」

「うん」

「予防接種の日か」

「それと、この前の」

 亮の顔つきが少し変わった。

「まだ出てんの」

「二回目」

 三か月で二回である。

 一回目は九月で、そのときは一週間で治った。今回は、まだ続いている。

 トイレの回数が増えて、そのわりに量が出ない。出たあと、ふくはトイレの前でしばらく座っている。

 あれを見ているのは、けっこうきつい。

十時十五分

 動物病院は、駅から歩いて七分のところにある。

 二人で行く。

 一年のあいだに、二人で行くのは五回目である。ふつうの受け渡しの日は五分で解散するが、病院の日だけは一緒に行く。

 どちらかが行けばいいのだが、そうなっていない。

 なぜそうなっていないのかを、わたしは考えないようにしている。

 歩きながら、キャリーは交代で持つ。

 誰が決めたわけでもないが、信号で止まるたびに持ち手が移る。四キロある猫を七分持ち続けると、腕にくる。

 交代のタイミングは、一年で合うようになった。

 待合室は混んでいた。

 土曜の午前は、どこの病院も混む。

 番号札は十七番だった。呼ばれているのは九番である。

 待ち時間は、少なくとも一時間半になる。

 この病院は予約が取れない。取れないので、みんな朝から来る。犬が七頭と、猫が四匹と、鳥が一羽いた。

 鳥は静かだった。犬は静かではなかった。

 長椅子に座った。亮とわたしのあいだは、こぶし一つぶんくらい空いた。

 この距離も、一年で決まった距離である。近くもなく、遠くもない。誰かに指摘されたことはない。

十一時

 隣に座っていた年配の女性が、話しかけてきた。

 トイプードルを抱いている。

「猫ちゃん?」

「はい」

「かわいいわねえ。おいくつ?」

「四歳です」

「ご夫婦で来られたの」

 わたしと亮は、同時に「いえ」と言った。

 同時に言ったので、余計に変な感じになった。

 女性は「あら」と言って、それ以上聞かなかった。優しい人である。

 二年前なら、この質問はうれしかったと思う。一年前なら、たぶん少し傷ついた。

 いまは、何とも思わなかった。

 何とも思わなかったことに、少し驚いた。

 キャリーの中で、ふくが鳴いた。

 病院に来ると、この猫はほとんど鳴かない。家では朝からずっと鳴いているのに、ここでは黙る。

 黙るというより、固まっている。

 わたしは指をキャリーの網に当てた。ふくは、鼻を寄せてきた。

 亮も、反対側から指を当てた。

 両側から挟まれた形になって、ふくは真ん中で丸くなった。

 三十分くらい、そのままだった。

 誰も何も言わなかった。指だけ出していた。

 途中で、亮の指が動いて、わたしの指に当たった。

 二人とも、手を引かなかった。

 猫が、下から見ていた。

十二時

 診察室に呼ばれた。

 先生は五十くらいの人で、この病院に十年以上いる。ふくは子猫のときからここに来ている。

 診察台に乗せると、ふくは置物になる。

 家では触らせない腹を、先生には触らせる。爪も切らせる。口も開ける。

 わたしが同じことをやると、血が出る。

 一度、コツを聞いたことがある。

「毎日やってると慣れますよ」と言われた。

 年に二回しか会わない人が、毎日会っている人より上手いのは、たぶんそういうことではない。

 体重を測って、注射をして、それから膀胱の話になった。

「前回が九月ですね。今回で二回目です」

「はい」

「検査では、石も細菌も出ていません」

 先生はカルテを見ながら言った。

「こういうタイプは、ストレスが関わっていることが多いです」

「ストレス」

「はい。環境の変化とか」

 わたしは、亮のほうを見なかった。

 見なかったが、亮が動かなかったのは分かった。

「引っ越しとか、来客が多いとか、そういうことが引き金になります」

 先生は、そこで一度、こちらを見た。

「この子、いま、どういう環境ですか」

 わたしは答えた。

「一週間ごとに、二つの家を行き来しています」

 言ってから、自分の声が思ったより小さかったことに気づいた。

「一年です」

 亮が付け足した。

 先生は、しばらくカルテを見ていた。

 それから、こう言った。

「猫は、場所に強くつく動物です」

「はい」

「人よりも、場所です」

「はい」

「一週間ごとに全部変わるのは、この子にはたぶん、けっこうな負担です」

 わたしは、キャリーの中を見た。

 ふくは、診察台の上でおとなしくしていた。この子は病院では抵抗しない。抵抗しないのは、たぶん、諦めているからである。

「環境を、一つにできますか」

 先生は、そう言った。

 誰が悪いとも言わなかった。責める言い方でもなかった。ただ、そう言った。

 わたしは「はい」と言った。

 何に「はい」と言ったのか、自分でも分からなかった。

 亮も「はい」と言った。

 二人で「はい」と言って、それから二人とも黙った。

 先生は、もう次のカルテを出していた。

 この人にとっては、今日十七件目である。

十二時三十分

 病院を出た。

 外は晴れていた。十二月にしては暖かい日で、コートを着ていると少し暑い。

 どちらも、しばらく何も言わなかった。

 キャリーは、わたしが持っていた。

「一年、やってたな」

 亮が言った。

「うん」

「猫のためだと思ってた」

「わたしも」

 二人で、そう思っていた。

 毎週渡していれば、どちらの家にもいられるし、どちらも会えなくならない。そのほうが猫にとってもいい、と思っていた。

 思っていただけだった。

「どっちが取る?」

 亮が言った。

 この一年、初めて出た質問である。

「そっちでいいよ」

 わたしは言った。

「なんで」

「そっちのほうが家、広いし」

「広さの問題じゃないだろ」

「じゃあ、そっちが決めて」

「決められないから聞いてる」

 一年前に決められなかったから、いまこうなっている。

 あのとき決めていれば、この猫は一つの家で一年過ごしていた。膀胱炎にもならなかったかもしれない。

 そう思ったが、言わなかった。

 言うと、亮も同じことを思っていると分かってしまう。

 わたしたちは、歩道の真ん中で立ち止まっていた。

 後ろから来た自転車が、避けて通っていった。

「先生、環境って言ってたよね」

 わたしが言った。

「言ってた」

「場所だって」

「言ってた」

「じゃあ、うちだ」

「なんで」

「拾ったの、うちの近くだから」

「近くって」

「近くは近くでしょ」

 これは屁理屈である。

 ふくを拾ったのは四年前で、そのときわたしたちは一緒に住んでいた。だから「うちの近く」も何もない。同じ場所である。

 亮は、それを指摘しなかった。

 指摘できたのに、しなかった。

十二時五十分

 駅に向かって歩いた。

 病院から駅までは七分だが、その日は十五分かかった。

 どちらも急いでいなかった。

 名前の話になった。

 わたしはこの子を「ふく」と呼ぶ。亮は「たろう」と呼ぶ。

 拾った日に、わたしが「ふくにしよう」と言って、亮が「いや、たろうだろ」と言って、そのまま決まらなかった。

 カルテには「ふく」と書いてある。最初に病院へ連れて行ったのがわたしだったからである。

 さっきの診察で、先生が「ふくちゃん」と言ったとき、亮が一瞬こっちを見た。

 四年、この件は保留になっている。

 わたしが「ふく」と呼ぶと、こっちを見る。

 亮が「たろう」と呼んでも、こっちを見る。

 この猫は、たぶんどちらでもいい。音が二つあるだけだと思っている。

 困っているのは、人間のほうである。

「たろうって呼ぶの、やめないの」

「やめない」

「カルテ、ふくだよ」

「カルテは書類だろ」

 書類である。それはそうだ。

 ふくは、キャリーの中で寝ていた。

 朝あんなに暴れたのに、帰りはいつも寝る。往路と復路で別の生き物みたいになる。

 この子は、二つの名前で呼ばれて、二つの家を行き来して、一年やってきた。

 わたしたちは、それを猫のためだと思っていた。

 駅の南口が見えてきた。

 いつもなら、ここでキャリーを渡す。

 今日は渡さない。今日から渡さない。

 一年やってきたことが、今日の午後、獣医の一言で終わった。

 終わってみると、あっけなかった。

 亮が立ち止まった。

 わたしも立ち止まった。

「じゃあ」

 亮が言った。

「うん」

「たまに、見に行っていい?」

「いいけど」

 わたしは、キャリーを持ち直した。

「猫は、場所につくんだって」

「聞いてた」

「だから、うち来る?」

「え」

「猫が、うちにいるから」

「猫が」

「うん」

 亮は、少し黙った。

「俺は?」

 わたしは、答えなかった。

 答えなかったが、歩き出した。

 駅の南口は、右である。

 わたしは、まっすぐ歩いた。

 右に曲がらなかったのは、一年で初めてである。

 亮も、まっすぐ歩いた。

 こちらは何も言わなかったし、向こうも聞かなかった。

 キャリーの中で、ふくは寝ていた。この子は今日、二つの家を行き来する生活が終わったことを、まだ知らない。

 知らないまま、寝ている。

 それでいいのだと思う。

 わたしたちが一年かけて決められなかったことを、この子は一度も相談されていない。


読了ありがとうございました
スキ❤️やフォロー🤝、チップ💰で応援してもらえると嬉しいです
コメントもお待ちしています

いいなと思ったら応援しよう!

緋月カナデ|✒️小説投稿中 よろしければ応援お願いします! いただいたチップはクリエイターとしての活動費に使わせていただきます!