藤本弘と手塚治虫、5年違いの相似形
(本稿は敬称略で書きます)
手塚治虫が開拓した少年漫画の道を、藤本弘は後から辿り、その道を太くしたのは藤本弘であった。正式な師匠と弟子という訳ではないが、手塚という天才と、その天才に憧れたもう一人の天才によって、日本の漫画界、特に児童向け漫画の世界が確立したのは間違いない。
『まんが道』などを読んでいると手塚の方がすごく年上の印象があるが、実際は藤本と5歳違いである。今となっては同年代と言ってしまってよい。そして、5年の差があれど、二人の天才の運命は驚くほど似通っている。
まずデビューについて。
手塚は、1928年生まれ。戦中からディズニーの影響を受けて漫画を描き始めて、1946年17歳で少国民新聞(後の毎日小学生新聞)の四コマ漫画『マァチャンの日記帳』でデビューを果たす。
藤本は、1933年生まれ。1951年に、安孫子との合作で、手塚のデビューと同じ毎日小学生新聞の四コマ漫画『天使の玉ちゃん』でデビューを果たしている。生まれもデビューも5年違い。ここまで全く同じ道程を歩んでいる。
続けて出世作について。
手塚は1947年『新宝島』で単行本・長編デビュー。これと、翌年の『ロストワールド』によって、一躍漫画界にその名が知れ渡る。映画のカット割りを強く意識した「ストーリー」を持ち込む画期的なマンガだった。この時若干19~20歳のことである。
それから5年、1953年藤本は、最初で最後の単行本書き下ろしとなる100ページのSF巨編『UTOPIA 最後の世界大戦』(足塚不二雄名義)を書き上げる。この時藤本19歳。
上京。
既に売れっ子だった手塚は、1952年に上京し、翌53年にトキワ荘に入居。
まだ売れる前だった藤本は1954年、安孫子と共に上京し、手塚がトキワ荘を退去することになったため、その部屋を継いで入居した。上京は5年違いとはならなかったが、手塚の部屋を敷金そのままに、藤子不二雄コンビが継いだことは意味深い。
ここまでの経歴を見ていくと、常に先を行く手塚に対し、藤本は離されまいとしっかり後を付いていっているように思える。
その後、一躍人気作家となった後、二人は劇画タッチの流行に苦心をしたり、アニメーションスタジオを立ち上げたりと趣味嗜好がよく似ている。作風としても、二人とも科学的な知識を取り込んだり、少女漫画も描けるなど、共通点が非常に多い。
亡くなり方もよく似ている。
手塚は1989年、胃がんで60歳の生涯を閉じる。最期までアイディアを出し、複数の漫画の執筆を続けていた。
藤本もまた、胃がんの病に冒される。亡くなったのは1996年、62歳だった。大長編ドラえもんのため、最期まで鉛筆を握りしめていたと言われている。
藤本は、5歳年上の手塚に憧れ、プロの漫画の世界へと飛び込んでいく。
追われる立場であった手塚は、初めて藤本と会った時のことを後に述懐する。
「初めて漫画を見せてもらった時に、とんでもないライバルが現れたと思った」と。
このnoteでは、藤本弘、すなわち藤子F先生についての考察を行っているが、その藤本が憧れ、その背中を追っていった手塚治虫先生についても、当然その影響についてしっかりと考察をしなければならない。
ただ残念ながら、僕自身が、手塚治虫の著作を体系立てて読めていない。手元には初期の書き下ろし長編を数冊持っているので、せめてその部分でも改めて考察をしてみたいとは思う。
いずれにせよ、藤子F研究の完成のためにも、死ぬまでには手塚作品もきちんと読み込まねばならないだろうと強く感じる日々なのである。
