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休めないジジイに花束を

平日しか休みが取れない。
いや、正確に言うと休みじゃないんだけど。
休日は全部予定が入っていて、自由になる時間は平日しか無くなってきた。その平日も、まあまあ侵食されてきた。
薬局に行く暇もない。

仕事はできるだけ断っているのに、なんでこんなに忙しいんだ。

AIが代わりに働いてくれるんじゃなかったのか。
忙しいよむしろ。

AIを働かせる方が、AIが働く以前よりも忙しい。
結局人間は、いつまで経っても楽ができない生き物なのだ。
何か手が空いたら、他にやることを探してしまう。
ずっとNetflixを見ているだけで時間を過ごすことができるほど、落ち着いていられない。

床屋にも行きたいが時間がない。
今日こそ薬局に行かなくては。

最近発売されたiNZOIっていうゲームを少し遊んでみたのだが
なかなか退屈ですぐにやめてしまった。
まあこういうゲームが好きな人はいるだろうからそういう人にはいいんだろうな。

ただ個人的にはこういうことにGPUマシンを使うのが少し「もったいない」と思ってしまった。本来のGPUの用途を考えたら、ゲームに使う方が正しいのだが。

昔、ブログがブームになった時、誰でもブログのようなものを書いていた。
しかしブログのブームは長くは続かなかった。
文章を書くというのは普通の人にとってはどうやら大変すぎるのだ。

あちこちで「ブログに書くネタがない」という内容のブログを見た。
ネタがなければ書かなければいいのだが、「ブログは毎日書け」みたいなドクトリンがあって、書かないといけないという強迫観念のようなものに支配されてしまうと、ネタもないのに書くということになってしまう。

僕の場合、「書きたいことはたくさんあるが、表で書けない」ことが多くて、そういうものを密かにGoogle DriveやEvernoteにしたためている。

これは僕しか見ない原稿なので、その時の気持ちがストレートに表現されている。いつかこの内容を全部読ませたAIを作れば、僕が死んだ後も僕の考えは引き継がれるようになるだろう。ある程度の時代までは。

Twitterやインスタグラムが主流になると、「ネタがない」と騒ぐ人はいなくなった。

Twitterは気になるニュースをシェアするだけで「自分の何か」を表現できるし、インスタは飯の写真を撮るだけで「自分の何か」を記録できる。

ただ、飯の写真だけ20年分貯めても、それは意味のあるデータセットにならないだろう。その人の人格はある程度反映されるかもしれないが、その人の考え方や人となりは「その他大勢」の中に溶けていくことになる。

だって不可能でしょ。どんな天才でも、インスタの写真だけからその人の人格を完全に想像したり再構成したりするなんてことは。

未来の世界を思い描くと、おそらくこういうことになる。

おそらく、望むと望まないとに関わらず、我々は、未来の世界で生き続ける。

「生きる」という言葉の意味は様々だが、例えばニュートンの万有引力の法則を今も我々が使っている時、「ニュートンは生きている」と考えることができる。

ニュートンは新しいことを言わないかもしれないが、「ニュートンならどう言うだろうか?」と言うことは想像することができる。

ところが、秦の始皇帝まで遡ると、その人の直接の言葉はほとんど残っていないため、実際にどう言う人だったのか、その人が結果としてやってしまったこと(中華統一)から逆算的に想像するしかない。それはもはや二次創作である。

「キングダム」が魅力的なのは、秦の始皇帝がミステリアスな存在だからだ。その失われている情報の大部分を現代人の作者が想像力で補完することによって現代人にとって魅力的な物語になっている。

そこで一つ恐ろしいことに気が付く。
食事の写真ばかりあげている人と、拙くても日々感じたことをどこかに記録している人では、未来世界における存在感が全く異なる。

食事の写真ばかりあげている人は、未来社会においてはモブにすぎない。なぜならその人の人となりは、想像するしかないからだ。

昔、うちの父親がポンペイの遺跡を訪れた時、大噴火でそのまま影になって壁に焼き付いてしまった人の遺体を見た。

この遺体の有り様から、様々なことを想像することはできるが、本当はどうだったのか確かめる方法はない。

どんなに無名な人でも、その人の文章さえ残っていれば、未来の世界で自分を復元できる可能性が高まる。文章ではなく、雑談でもいい。でも文章、特に内省的な文章の方が、その人が遠い未来で復元される可能性は高まる。

現時点ですら、大規模言語モデルにニュートンのように考えろということは言えるし、僕の文体を真似させることもできる。

ブログを書くときに「ネタがない」と言ってしまっていた人たちは、その瞬間、何をしていたのだろうか。おそらく、「ネタがない」と言ってしまっていた人たちの「ないネタ」は、未来世界で復元されたとき、より大きな空洞として再生される。つまり、「何もしない日」が何もしないまま復元されるだろう。

若い頃は、「何もしない日」が耐えられなかった。
休日を何もせずに夕方まで過ごしてしまうと、強烈な喪失感と罪悪感に襲われた。

「その日一日、幸せで平穏に過ごした」ことが、自分にとって犯罪的に思えた。百人の社員がいて、株主から資本を預かり、それを全力で回していかなくてはならなかった。資本の使い方を考えるのは責務であり、社員の未来を考えることが義務だった。僕は「持てる者」であって、平穏な幸福を穏便に享受していい立場ではないと思っていたからだ。

今はどうだろう。
今や僕は「持たざる者」になった。

今の僕に残ったのは、ささやかな経験値と、頭脳だけだ。今の僕の生活を支えてくれるのは、悲しいかな。このささやかな知能資本だけなのである。

これまで頼り切っていたこの頭脳も、正直、あと何年役に立つのか自信がない。

ある時点で、AIが再構成した「僕の考え」が、生身で生きている「僕の考え」を追い抜く日が来る。しかも、それはおそらく僕が生きているうちに来る。興味深い。それが僕のシンギュラリティだ。

そんなとき、ふと、「休みがないことは幸福なのかもしれない」と思うのだ。今働くのは貯金をしているだけだ。それはお金を貯めるという意味ではなく、将来の自分または自分のAIが、一歩でも先へ進むための、助走なのだ。

人間の知性は必ず衰える。それは残念ながら単純な事実に過ぎない。
誰とて老いに逆らうことはできない。

かつて賢かった自分が、自覚的に賢くなくなっていく。
知性とは、なんと儚いものか。

ダニエル・キイスも、そう言うつもりで話を書いたのかもしれない。