「被害者性」で責任問題を消臭する 〜伊藤詩織「450時間の痛みを生き直す――なぜ『Black Box Diaries』を撮ったか」を読んで〜
2025年1月23日、ジャーナリスト・伊藤詩織さんの初の長編ドキュメンタリー映画『Black Box Diaries』が、米映画界最高の栄誉とされる第97回米アカデミー賞の長編ドキュメンタリー部門にノミネートされました。
しかしこの映画は、伊藤さんの元代理人弁護士から、「裁判以外の場では一切使用しない」と誓約したうえで提供されたホテルの防犯カメラ映像や、タクシー運転手の姿や証言、捜査に関わった刑事や弁護士らとの会話が無断で使われているとして、内容変更を求められています。
これは裁判資料の目的外利用であり、取材源の秘匿が守られていないという人権上の問題や、ジャーナリストの職業倫理問題があります。
こうした状況が影響してかはわかりませんが、伊藤さんの映画『Black Box Diaries』は現時点(2025年2月11日)で日本公開の目処がたっていません。
そうした中、岩波書店のWEBマガジンである「WEB世界」が、伊藤さんの手記「450時間の痛みを生き直す――なぜ『Black Box Diaries』を撮ったか」を掲載しました。
上記を読み、私は大きく困惑しました。
そして、「性暴力被害者の権利回復」を訴えるジャーナリストの活動として無責任だと感じました。
伊藤さんの元代理人弁護士が訴えたのは、彼女の作品が、取材源の秘匿が守られていないという人権上の問題だけでなく、「性暴力被害者の権利回復手段を潰しかねない」という重大な問題を抱えているからです。
「裁判以外の使用はしない」という誓約が反故にされるような事例が続けば、今後性暴力被害者のために監視カメラ映像などを提供してくれる施設が減る可能性があり、それは、ただえさえ証拠が少ない性犯罪事件の被害者の裁判を不利にするからです。
今回は、「450時間の痛みを生き直す――なぜ『Black Box Diaries』を撮ったか」に書かれている内容の要約と感想を述べていきたいと思います。
冒頭
冒頭には、編集部の註記として以下の記載があります。
映画『Black Box Diaries』をめぐっては、昨年10月、伊藤氏の元代理人弁護士らが記者会見を開き、作品内での監視カメラ映像、警察官や代理人の音声使用などに関して問題があると指摘している。
なぜ自ら残した記録を基にドキュメンタリーを制作したのか。作品で何を描こうとしたか。制作者本人の言葉をお届けする。
上記を読むと、伊藤詩織さんの手記は元代理人弁護士らの指摘を踏まえて掲載されたものだということがわかります。
元代理人弁護士の訴えに対し、どのような見解を述べるだろうと関心を持って読み進めていきました。
映画館という場所
内容
「スクリーンの前は私にとってグループセラピーのような場所だった。」
という書き出しから始まり、スマホ使用も大きな声で発言することも許されない映画館は、外の世界と遮断されたセーフスペースであると主張する。
初めての長編ドキュメンタリー作品『Black Box Diaries』の各国での上映数(予定含む)やアカデミー賞ノミネート状況を報告する。
日本での上映未定、日本で評価がされていないと嘆き、映画を制作した理由を自分自身と対話のもと記したいと述べる。
感想
読者をいきなり「映画館」という場所に誘導し、叙情的な描写からはじまる。冒頭の元代理人弁護士の訴えに対する説明を期待した読者は肩透かしを感じるだろう。
「裁判資料の目的外利用」「取材源の秘匿が守られていない」という他者の権利侵害の説明があるのかと思い読み進めたら、「トラウマの回復体験」という、多くの人が否定しづらいがまったく別の話がはじまったのだ。
驚いたと同時に、質問に対する回答が的外れであっても、それが性被害に関するものであれば、善良な人ほど沈黙するだろうと感じた。
意図的か否かはわからないが、「人が指摘をしにくい形で話をそらす」ことのようでもある。
日本人監督が米アカデミー賞長編ドキュメンタリー部門でノミネートされるのは市川崑監督の『東京オリンピック』以来約60年ぶりだと快挙を喜ぶ一方で、
この原稿を執筆している現時点ではまだ、日本での上映は決まっていない。評価もされていない。いまは、公開へと進めない難しさこそ、この映画が光をあてたかったことなのかもしれない、と考えている。
と、冒頭に編集部が記載した権利関連の問題など存在しないかのように、ただただ真摯な自分が日本で評価されていないと嘆くのだ。
これがジャーナリストの文章なのだということを忘れてはいけない。
ジャーナリストにはジャーナリストの職業倫理があるし、情報を広く伝えることには責任が伴うはずだ。
また、それを差し置いても「映像を公開する必要」を感じるなら、それを自分の言葉で語る必要があるのではなかろうか。
「新しいストーリーではない」
内容
映画『Black Box Diaries』が世界最大級の映像配信プラットフォーム米本社から配信オファーがあったにも関わらず日本支社の反対により実現しなかったこと、日本支社の反対理由を、国内テレビ局出身者が多いということに結びつけ、中居正広の女性トラブルやフジテレビの騒動に言及する。
映画について「私のレイプの経験についての物語ではない。私が伝えたかったのは、その後の話にある物語なのだ。」と述べる。
感想
そもそも、世界最大級の映像配信プラットフォームの日本支社が『Black Box Diaries』の配信に反対したのは、国内テレビ局出身者が多いからなのだろうか?
「権利問題がすべてクリアになっていない作品は配信できない」という判断は、メディアやエンターテイメント産業従事者の基本的な倫理観であるはずだ。
また、自身の作品の問題を、現在広くあまねくバッシングされている中居正広やフジテレビの問題にスライドさせることで、映像配信プラットフォームの日本支社が伊藤詩織さんに対してもなんだか悪いことをしているような印象をもたせる、逆ハロー効果のような演出にも見える。
ハロー効果:
ある対象を評価する時に、それが持つ顕著な特徴に引きずられて他の特徴についての評価が歪められる現象。認知バイアス。
伊藤さんの欧米圏でのインタビューに顕著なのだが、彼女はジャーナリストなのに、真偽不明だがとにかくセンセーショナルな単語で注意を引き、「真実だ」と訴える※。統計的な情報や日本の一般常識はあらかじめ排除されるのだ。
※:「日本で育つと誰でも性暴力や性的暴行を経験している」「女子高生は毎日痴漢にあう」「毎朝教室では、精液をかけられたとかスカートを切られたとかの話題で持ち切り」
※:「日本語では、女性はこう話すべきだという決まりがあるんです。怒りを表に出したり、感情的になったりしてはいけません。そして年上の男性にはすごく丁寧にしないといけません」
※:「等身大の人形を使って 実際に起ったレイプを再現させられました 床に寝て(警察の性被害再現は、等身大の人形=被害者役、警察官=加害者役、被害者=人形と警察官の再現シーンを見て確認」という役割分担)」
なぜ記録を始めたか
内容
映画撮影は2015年からスタートしたこと。
自身で取材・撮影することは、警察の対応への不信だけでなく、目の前のジャーナリストたちにも託せなかったからだとしたうえで、450時間に及ぶ記録の編集を「もう一度同じ痛みをあらためて生き直すような経験だった」と語る。
被害者像を壊したかった
内容
自らのサバイバーとしてのミッションの一つに、「“Perfect Victim”=完璧な被害者像のステレオタイプを壊すこと」があるとし、自分の目線、自分の手で、自分のみてきた世界を映画にしたかったと語る。
感想
「なぜ記録を始めたか」「被害者像を壊したかった」という見出し下の主張に反論はないが、依然として、監督としての責任の話や他の人間の権利の話は1mmも出てこない。
社会的責任を放棄した姿勢は、被害者史観を印籠化しているようにも見える。
もしあなたが
内容
サバイバーとして自分の言葉で、自分の意志で自分の物語を紡げることほどエンパワーされることはない
として、トラウマへの対処法として映画製作などの創作活動を勧める。そして、「何より、映画を観てから判断してほしい。」と締める。
感想
創作行為がトラウマの昇華につながりうることには同意する。
だが、最後の最後まで、一言も、冒頭の「元代理人弁護士らの指摘」への言及がないのはどういうことなのだろうか。
サバイバーとして自分の言葉で、自分の意志で自分の物語を紡げることほどエンパワーされることはない
というが、その作品に対して、「他者の権利の侵害」や「今後の性暴力被害者裁判の困難化の懸念」が指摘されているのだ。
他者は主演である伊藤詩織さんの背景ではなく、一人ひとり生活があり、蹂躙されてはいけない人権を持っている。性暴力被害者の権利回復は、伊藤さんにとって無視できる問題なのだろうか。
「450時間の痛みを生き直す」というタイトルが象徴するように、この手記には自分の痛みのことしか書かれておらず、他者の痛みへの想像力は皆無だ。
総じて演劇的、演出過剰
この手記は、演劇的で演出過剰だが、肝心の中身がない。
装飾的な情緒表現や、「被害者性」によって責任追及を逃れるレトリックがあるだけで、監督としての責任に向き合う姿勢はまるで感じられない。
許諾を得ていない映像や音声を公開することに公益性があると言うなら、ジャーナリストとして、自分の言葉でそれを説明するべきだ。
そのことをもって私は、この手記を胡散臭い文章であると判断する。
伊藤詩織さんにとって、ジャーナリズムとは?
石橋湛山記念早稲田ジャーナリズム大賞の受賞者を講師の中心にする記念講座「ジャーナリズムの現在」の、2019年春学期開講講座の講義録として出版された『ニュースは真実なのか』において、伊藤詩織さんは、
私は、いつも取材相手との関係性こそ一番大切なものだと思ってドキュメンタリーを制作しています。報道後も、その人の人生は続きます。報道したことでどんなことが起きるのか、そこまで一緒に考えた上で声を聞いていかないといけない。
と述べています。
著書『Black Box』では、伊藤さんを新潮編集部に繋いだジャーナリスト・清水潔氏の言葉
「小さな声にこそ耳を傾け、大きな声には疑問を持つ。何のために何を報じるべきなのか、常にそのことを考え続けたいと私は思う」
を引用し、私が目指すべき指針であるとしています。
「なぜこの映画を制作したのか、自分自身と対話をしつつ記せたら」というのなら、かつてご自身で書いたであろうこれらの言葉や、元担当弁護士の主張に耳を傾けて欲しいと願っています。
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