大根役者、観客ひとり
140gのあんかけうどんを浴びた。
「正解」は、ひとつも浮かばなかった。
営業力には、そこそこ自信があった。
スイッチをONにすれば初対面の人とも打ち解けられるし、相手の話を引き出すのも、苦ではない。場の空気を読むことも、嫌われない振る舞いも、わりと体に染みついている。感覚的には、くしゃみと同じカテゴリーだった。
ただ、この「営業力」という言葉は、私の中であまり良い位置づけではない。
営業力とは、その場しのぎの「正解」を演じ続ける力だ。少なくとも私は、そうやってなんとかやってきた。保険の営業では毎月ノルマを達成していたし、就職イベントでは無名の会社のブースを満席にした。友人から相談を受ければ、大して共感できない話にも、前のめりで興味を示し、共感する姿勢を見せた。
一応、うまくやれていた。でも同時に、そんな自分にうんざりしていた。社交的な人物を演じることに慣れすぎていたし、疲れてもいた。本音と建前が、洗濯機の中で絡まった靴下みたいに、ずっと一緒に回っていた。
そんな私が、娘を産んだ。
はじめて育児をする日々の中で、思ったことがある。子育ては、演技力が必要だ。おいしそうに食べるふりをしながら、ごはんを与える。狸寝入りで、寝かしつける。大げさなリアクションで、読み飽きた絵本を読む。やっていることは、営業とそれほど変わらない。ひとつ違うのは、相手がまったく乗ってこないことだった。
スプーンを口元に持っていっても、顔を背けられる。食べるふりをして「お〜いし〜い!」と笑顔を作る。声のトーンも上げている。それでも、娘は思春期の中学生のような顔で、こちらをじっと見ているだけだった。反応がなさ過ぎて、彼女の黒目に映る自分と目が合った。蛍の光が聞こえた気がした。
私の渾身の演技は、見事にスベっていた。
その視線には、評価も共感もない。
ただ、「いらない」という事実だけがあった。
ある夜、140gのあんかけうどんを作った。
栄養も温度も完璧で、今日はきっといける、という自信作だった。スプーンを口元に運ぶと、パクっと一口で含んでくれた。しっかりと咀嚼している。これは勝ち試合だと思った。
次の瞬間、娘は「ブー」という音を発しながら、うどんを放射線状に噴き出した。突然の出来事にあっけにとられていると、彼女は机に飛び散ったうどんの破片を両手で集め、こねくり回し、洗髪でもするかのように頭に塗りたくった。
それでも私は、笑顔を保とうとした。
「おいしいよ〜」とトーンを上げてみる。
無理だった。
最終的に、うどんはほとんど噴射された。おそらく、娘の胃には30g程度しか食事が届いていないだろう。必死に作った笑顔の仮面を床に投げ捨てたい衝動にかられた。
それでも、何か食べさせないといけない。近くにあったバナナの皮をむき、半ば投げやりに手渡した。彼女はそれを、信じられないスピードで黙々と食べきった。さっきまでの時間は何だったのか。私はしばらく動けなかった。
この夜、私の自信はうどんと一緒に飛び散った。うどんは少し乾いて、床から離れまいとしがみついていた。それを力いっぱい引きはがしながら、床を擦った。
「営業力とは、その場しのぎの『正解』を演じ続ける力だ」なんて言い切った奴の頬をひっぱたきたい。少なくとも、それは我が子には通用しないものだった。
それでも、娘の前で演じることは、不思議と苦しくなかった。ウケてはいないが、嫌われてもいない気がした。
娘は、私の演技に一切興味を示さない観客だ。でも、その無反応さに、私は少し救われていた。
今日も、目の前のこの人に機嫌よく過ごしてほしくて、必死に演じている。
拍手はない。
たまに「ブー」が飛んでくる。
それなら、せめて大根くらいは食べてほしい。
