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正しさより先に知りたいことタトゥー、宗教、LGBT、AI——私が「なぜ?」を繰り返す理由

「理解しろ」

「受け入れろ」

「アップデートしろ」

SNSを見ていると、そんな言葉を目にすることがある。

政治。

宗教。

LGBT。

タトゥー。

AI。

ハラスメント。

マウント合戦。

話題は違う。

登場人物も違う。

しかし、なぜか同じ構図に見えることがある。

誰かが言う。

「これが正しい」

別の誰かが言う。

「いや、それは間違っている」

そこまではいい。

人間はそれぞれ違う考えを持っている。

価値観も違う。

生まれ育った環境も違う。

信じているものも違う。

だから意見がぶつかること自体は、むしろ自然なことだと思う。

問題はその先だ。

「だから、お前もこちら側に来い」

「理解しないお前が悪い」

「変わるべきなのはお前だ」

このあたりまで来ると、私は少し立ち止まる。

本当にそうなのだろうか。

私は別に、反論したいわけではない。

誰かの価値観を踏みにじりたいわけでもない。

ただ知りたいだけなのだ。

なぜそう考えるのか。

なぜそう信じるのか。

なぜそれが正しいと思うのか。

なぜ相手にも同じように考えてほしいのか。

どうやら私は昔から、この「なぜ?」を繰り返して生きてきたらしい。

今回は、そんな自分自身の思考回路について書いてみようと思う。

なお、この記事はタトゥーについての記事ではない。

宗教についての記事でもない。

LGBTについての記事でもない。

AIについての記事でもない。

これは、私自身の思考回路についての記事である。

社会問題を語っているようで、実際にはかなり濃厚な自己紹介である。

自覚はある。



AIに対しても、結局同じことをしている

私はAIをかなり活用している。

仕事でも使う。

勉強でも使う。

趣味でも使う。

何なら、こういう文章を書く時にも使う。

AIは便利だ。

調べ物もできる。

文章も整えられる。

壁打ち相手にもなる。

人間相手だと途中で「めんどくさい」と言われそうな話でも、AIならある程度付き合ってくれる。

ありがたい時代である。

ただし、私はAIを無条件に信じているわけではない。

AIは間違える。

しかも、堂々と間違える。

もっともらしい顔をして、存在しない論文や制度や事実を出してくることがある。

いわゆるハルシネーションである。

だから私は、AIの回答を見るたびにこう思う。

その根拠は?

どの情報に基づいている?

なぜそう判断した?

どこまでが事実で、どこからが推論なのか?

私はAIが嫌いなのではない。

根拠のない断定が苦手なのだ。

逆に、根拠が示されるなら受け入れる。

分析過程が妥当なら受け入れる。

限界や不確実性が説明されているなら受け入れる。

つまり、私は結論だけを見ているわけではない。

その結論に至る過程を見ている。

よく考えると、これはAIに限った話ではなかった。

人間相手でも同じだ。

「これが正しい」

と言われた時、私はまず思う。

なぜそう言えるのか。

そこを飛ばされると、どうにも落ち着かない。


タトゥーの話:入れる自由と、警戒する自由

たとえばタトゥー。

私はタトゥーを入れていない。

今後もたぶん入れない。

痛そうだし、後戻りもしにくい。

何より、日本で生活する上では面倒が増えそうだ。

温泉。

プール。

ジム。

職場。

親戚づきあい。

そういった場面で、余計な説明コストが発生しそうに見える。

だから私は入れない。

ただし、入れる人を否定するつもりもない。

自己表現として入れる人もいるだろう。

ファッションとして入れる人もいるだろう。

大切な人への思いを刻む人もいるだろう。

文化的、宗教的、民族的な背景を持つ人もいるだろう。

海外ではタトゥーがかなり一般化している地域もある。

米国では、Pew Research Centerの2023年調査で成人の32%がタトゥーを持つとされている。

そう考えると、タトゥーを持つこと自体を一律に否定するのは雑だと思う。

一方で、日本でタトゥーに警戒感を抱く人がいることも、私はそこまで不思議だとは思わない。

日本では、入れ墨が刑罰や反社会的勢力と結びついてきた歴史がある。

もちろん、それだけが日本の入れ墨文化ではない。

火消し、職人、漁師、芸能、信仰など、別の文脈もある。

しかし、大衆的なイメージとしては、

怖い。

近寄りがたい。

反社っぽい。

そういう印象が残っている。

この文化的記憶は、そう簡単には消えない。

それなのに、

「タトゥーを怖がる方がおかしい」

「受け入れない社会が悪い」

とだけ言われると、少し違和感がある。

いやいや、そこには日本なりの背景があるでしょう、と思う。

一方で、

「タトゥーがある人間は全員ろくでもない」

も、やはり乱暴だと思う。

人を一つの特徴だけで決めつけるのは危うい。

結局、どちらにも理由がある。

入れる自由もある。

警戒する自由もある。

問題は、その自由同士がぶつかった時に、どう扱うかだと思う。

タトゥーを入れる人には、その人なりの理由がある。

しかし、それを見て警戒する人にも、その人なりの文化的背景がある。

どちらか一方だけを「正しい」として、もう一方を「遅れている」「偏見だ」と切って捨てると、たぶん話はこじれる。

自由にはコストがある。

そして、自分の自由によって生じる社会的コストを、他人にすべて肩代わりさせようとすると、反発が起きる。

私が気になるのは、たぶんそこなのだ。

タトゥーそのものよりも、

「自分の選択を、他者がどう受け取るかまで支配しようとする態度」

に違和感を覚えるのだと思う。


伝統的なタトゥーと、現代のファッション

もう少し掘ると、タトゥーには伝統文化としての側面もある。

たとえばマオリのタ・モコ。

サモアのタタウ。

ポリネシア地域の伝統的な入れ墨。

これらは単なるファッションではなく、共同体、家系、地位、成人儀礼、誇り、責任と結びついている。

ニュージーランド国立博物館テ・パパは、マオリのタ・モコを系譜や社会的地位、アイデンティティと結びつくものとして説明している。

また、米国国立公園局の教材では、サモアのタタウが地位、尊敬、誇り、共同体的意味を持つものとして紹介されている。

つまり本来、身体に刻むという行為は、「自分だけの自由」というより、共同体との関係性の中にあった。

そこが面白い。

現代の一部のタトゥー論は、

「私の身体だから私の自由」

という個人主義に寄っている。

もちろん、それ自体は否定しない。

しかし、伝統的なタトゥー文化が持っていた重さや共同体性を考えると、現代のファッションタトゥーとはかなり違うものにも見える。

だから私は思う。

タトゥーを入れること自体が問題なのではない。

問題は、その選択によって生じる他者の反応まで否定しようとする態度なのではないか。

入れる自由はある。

だが、他人がどう受け取るかまでは支配できない。

この線引きが、案外大事なのではないかと思う。


宗教の話:信じる自由と、信じない自由

宗教も似ている。

私は宗教そのものを否定するつもりはない。

人間には意味が必要だ。

共同体も必要だ。

死や苦しみや不条理に向き合うために、宗教が果たしてきた役割は大きい。

信じることで救われる人もいる。

祈ることで立ち直る人もいる。

共同体に支えられる人もいる。

その価値まで否定する気はない。

信じる自由はある。

ただし、信じない自由もある。

ここはセットだと思っている。

私が少し苦手なのは、

「私はこう信じている」

ではなく、

「だからあなたも信じるべきだ」

になった瞬間だ。

救いたい。

導きたい。

正しい方向へ連れて行きたい。

その気持ちは尊いのかもしれない。

しかし、救われたいと思っていない人間からすると、それは侵入に見えることがある。

「あなたのため」

「社会のため」

「未来のため」

こういう言葉は便利だ。

だが、その言葉を使って他人の思考を飛ばそうとした瞬間、私は警戒する。

なぜなら、私が考える前に結論を飲ませようとしているからだ。

信仰は自由だ。

だが、信仰の自由には、信じない他者を尊重する責任も含まれているはずだ。

私はあなたの信仰を否定しない。

だから私の非信仰も否定しないでほしい。

あなたが何を信じるかは、あなたの領域だ。

私が何を信じないかは、私の領域だ。

そこにズカズカ踏み込まれると、どうしても身構えてしまう。

ここでも、結局同じ問いに戻る。

なぜ人は、他人を変えたがるのだろう。

本当に相手のためなのか。

それとも、自分の正しさを確認したいだけなのか。

私には、そこが気になる。


LGBTの話:尊重と強制の境界線

LGBTについても、私の考え方は基本的に同じだ。

まず前提として、性的指向や性自認を理由に暴力を受けたり、不当に排除されたりするのはよくない。

職場。

住居。

医療。

教育。

社会生活の基本的な場面で、不必要な不利益を受けるべきではない。

人としての尊厳は守られるべきだ。

ここにはかなり多くの人が同意できると思う。

ただし、議論が進むと難しい領域が出てくる。

教育内容。

スポーツ競技。

公共施設。

言語表現。

宗教的価値観との衝突。

こうした領域では、複数の価値がぶつかる。

自由。

平等。

安全。

安心。

伝統。

信仰。

身体的な違和感。

心理的な抵抗感。

これらを全部同時に満たすのは難しい。

ここで私が違和感を覚えるのは、

「理解しない人間は差別主義者だ」

という短絡である。

もちろん、本当に差別的な言動はある。

それは批判されるべきだ。

しかし、人間の嫌悪感や違和感には、生物学的要因、文化的背景、生育歴、個人的経験が混ざっていることもある。

たとえば、自分が異性愛者である場合、同性から性的に言い寄られたら違和感や拒否感を抱くこともあるだろう。

それは存在の否定とは別の話だ。

「あなたの存在を否定しない」

「でも、私の感覚まで否定しないでほしい」

この二つは両立するはずだ。

しかしSNSでは、この両方を同時に扱う余裕が失われているように見える。

一方は、

「認めろ」

と言う。

もう一方は、

「気持ち悪い」

と言う。

どちらも雑になる。

本来必要なのは、

どこまでが尊重で、

どこからが強制なのか、

そこを丁寧に考えることではないかと思う。

私は、誰かの存在を否定したいわけではない。

だが、自分の違和感や距離感まで否定されたくもない。

多様性を語るなら、他人の違和感もまた、多様性の一部として扱えないだろうか。

これは少し危うい言い方かもしれない。

しかし、私はそう思う。


共感の話:聞いてほしいだけ、の重さ

人間関係でも似たようなことがある。

「聞いてくれるだけでいい」

この言葉がある。

気持ちは分かる。

人には、ただ話を聞いてほしい時がある。

解決策はいらない。

助言もいらない。

ただ受け止めてほしい。

そういう場面は確かにある。

家族の死。

大病。

失恋。

大きな失敗。

そういう時に、いきなり解決策を出されても困る。

まずは受け止めることが必要な時もある。

ただ、私はこの言葉に少し複雑な感情を持っている。

なぜなら、聞くことにもコストがあるからだ。

相手の怒り。

悲しみ。

不安。

不満。

被害感情。

それらを受け取り続けるのは、決して無料ではない。

特に、相手の感情を真面目に受け取ってしまう人間にとって、共感はかなり重い作業だ。

話している側は、吐き出して軽くなる。

しかし、聞いている側は、その感情を一時的に引き受ける。

しかも、

「でも」

「だって」

「それは無理」

「私は悪くない」

「相手が変わるべき」

が延々続くと、聞き手側は消耗する。

解決策を出しても拒否される。

別案を出しても拒否される。

しかしまた同じ愚痴が来る。

これはもはや、感情処理コストの外部委託ではないかと思うことがある。

もちろん、人間には支え合いが必要だ。

いつも合理的に解決できるわけではない。

ただ、慢性的に一方通行で感情をぶつけられる関係は、持続可能ではない。

私は共感を否定しているのではない。

共感の重さを知っているからこそ、慎重になる。

だから思う。

話す自由があるなら、聞く側への配慮も必要なのではないか。

ここでも結局、同じ構造がある。

「私の感情を受け止めてほしい」

は分かる。

しかし、

「あなたの負荷は知らない」

となると、一歩引きたくなる。

私は冷たいのだろうか。

たぶん、そう見える時もある。

しかし私としては、感情を軽視しているわけではない。

むしろ、感情の重さを知っているからこそ、無制限には引き受けられないのだ。


戦争の話:利害と正義

さらに大きな話にすると、戦争も似た構造を持っているように見える。

もちろん、戦争の原因は単純ではない。

資源。

領土。

安全保障。

民族。

宗教。

権力。

経済。

色々ある。

「あっちは持っている。こちらは持っていない。だからよこせ」

という極めて現実的な利害もある。

だから、

「みんな仲良くすれば戦争はなくなる」

という単純な話ではない。

人間社会には利害対立がある。

国家には安全保障がある。

集団には生存戦略がある。

しかし興味深いのは、戦争を始める側は、たいてい正義を語ることだ。

祖国を守るため。

奪われた土地を取り戻すため。

同胞を救うため。

神のため。

秩序のため。

未来のため。

そのまま「領土が欲しい」「資源が欲しい」と言えば侵略になる。

しかし、正義をまとえば大義になる。

ここが怖い。

人間は、自分が悪をなしていると思っている時より、善をなしていると思っている時の方が暴走することがある。

ブレーズ・パスカルにも、善をなすという名目で人間が悪を行うことへの警句がある。

正義そのものが悪いわけではない。

むしろ、人間には正義が必要だ。

何を守りたいのか。

何を許せないのか。

何を大切にするのか。

そういう軸は必要だ。

しかし、正義は危うい。

自分を律するための正義ならよい。

弱い人を守るための正義ならよい。

不正を止めるための正義ならよい。

しかし、他人を切り伏せる快感のために正義を抜くようになると、かなり危ない。

SNSの炎上を見ていると、時々それに近いものを感じる。

人は、自分が正しいと思った瞬間に、相手を変えたくなる。

そして、相手が変わらないと、今度は裁きたくなる。

この流れが怖い。


私はどちらの味方なのか

こういう話をすると、たぶん聞かれる。

結局、どちらの味方なのか。

この問いが、私は少し苦手だ。

なぜなら、その問い自体がすでに二択だからだ。

A派か。

B派か。

賛成か。

反対か。

味方か。

敵か。

もちろん、現実には立場を決めなければならない場面もある。

しかし、すべての問題をその二択に押し込めると、大事なものが抜け落ちる。

私の答えはたぶんこうだ。

双方の味方であり、双方の敵である。

私は、あなたの自由を守る側に立つ。

しかし、あなたが他人に強制し始めたら止める側に回る。

私は、あなたの違和感を否定しない。

しかし、その違和感を根拠に他人の存在を否定し始めたら止める側に回る。

私は、あなたの提案を聞く。

しかし、私の思考を飛ばして従わせようとするなら打ち返す。

どちらかの陣営に属したいわけではない。

私が守りたいのは、特定の結論ではない。

考える余地そのものだ。

だから、SNSでの議論にはあまり向いていないのだと思う。

SNSは、どちらの味方かを求める。

私は、問いの立て方そのものを疑い始める。

そりゃ嫌われる。

分かっている。


どうやら昔から似たことを考えていた人たちがいるらしい

ここまで書いていて、ふと思った。

私は単なる面倒くさい人間なのだろうか。

たぶん、それは半分正しい。

しかし調べてみると、どうやら昔から似たようなことを考えていた人たちがいるらしい。

ジョン・スチュアート・ミルは『自由論』で、他者へ危害を与えない限り、個人の自由は尊重されるべきだと論じた。

いわゆる危害原理である。

「自由はある。しかし他者への危害が問題になる」

これは、私の感覚に近い。

自由は尊重したい。

しかし、その自由が他者への強制や侵害になるなら話は別だ。

次に、アイザイア・バーリン。

彼は『二つの自由概念』で、自由について論じた思想家である。

また、価値多元主義の代表的な思想家としても知られる。

人間にとって大切な価値は一つではない。

自由も大事。

平等も大事。

安全も大事。

伝統も大事。

尊厳も大事。

しかし、それらは時に衝突する。

つまり、

「これだけが唯一の正義だ」

とは簡単に言えない。

この考え方は、かなりしっくりくる。

さらに、カール・ポパー。

彼は批判的合理主義や『開かれた社会とその敵』で知られる。

人間は絶対的な真理を簡単には持てない。

しかし、誤りを見つけて修正し続けることはできる。

これは品質分析やプロジェクト改善にも近い。

最初から正解を決め打ちしない。

仮説を立てる。

検証する。

誤りを直す。

改善する。

非常に仕事っぽい。

というか、ほぼ仕事である。

そして、ストア派。

マルクス・アウレリウスの『自省録』などに見られるように、ストア派は、自分が制御できるものとできないものを分けることを重視する。

他人の思想は完全には制御できない。

他人の感情も制御できない。

他人の評価も制御できない。

制御できるのは、自分の判断と行動である。

これもまた、私の感覚に近い。

他人を変える前に、自分の判断を整える。

相手を屈服させる前に、自分の思考を確認する。

なるほど。

どうやら私は、ただの面倒くさいおじさんではなく、面倒くさい思想をいくつも煮込んだおじさんだったらしい。

濃い。

安心したような、余計な仲間を見つけてしまったような、複雑な気分である。


私の受け入れ基準

ここまで書いておくと、私の受け入れ基準はだいたい見えてくる。

提案は歓迎する。

反論も歓迎する。

データも歓迎する。

経験談も歓迎する。

新しい視点も歓迎する。

興味深ければ検討する。

根拠があれば受け入れる。

妥当だと思えば考えを変える。

しかし、強制は歓迎しない。

「みんなそう言っている」

「常識だ」

「正しいから従え」

「理解できないお前がおかしい」

「黙って受け入れろ」

こういうものには、だいたい反射的にバットを持つ。

提案なら聞く。

強制なら打ち返す。

別に喧嘩がしたいわけではない。

ただ、考えることを放棄したくないのだ。

自分の頭で考える前に、結論だけを飲み込まされるのが苦手なのだ。

だから私は、何かを強く主張されると、つい聞いてしまう。

なぜ?

その根拠は?

別の見方はない?

本当にそれしかない?

おそらく、これが私の思考の癖なのだと思う。

そしてこの癖は、仕事では役に立つ。

品質分析。

プロジェクト管理。

レビュー。

改善提案。

どれも、表面的な結論で止まっていると間違える。

欠陥が多い。

では、誰が悪いのか。

担当者か。

ベンダーか。

レビュー観点か。

教育か。

プロセスか。

体制か。

組織文化か。

そうやって掘っていく。

だから日常会話でも、同じことをしてしまう。

タトゥー。

宗教。

LGBT。

AI。

戦争。

共感。

全部違う話に見える。

しかし私には、どれも同じ問いに見えてしまう。

なぜそう考えるのか。

なぜそれを相手に求めるのか。

なぜ強制したくなるのか。

根源は何か。

ここが気になる。

本当に面倒くさい。


正義の刃について

人は誰でも、自分なりの正義を持っている。

それは悪いことではない。

むしろ必要なものだと思う。

正義がなければ、何を守るべきか分からない。

何を許せないのかも分からない。

自分がどこに立っているのかも分からない。

ただし、正義は刃物にもなる。

自分を律するための正義ならいい。

弱い人を守るための正義ならいい。

不正を止めるための正義ならいい。

しかし、他人を切り伏せるための正義になった瞬間、それは危うくなる。

SNSを見ていると、そんな場面を時々見かける。

正義の刃は誰もが持っている。

問題は、それを持っていることではない。

抜きたくて仕方がなくなることだ。

私も含めて。

だから今日も私は考える。

その正義は、本当に抜くべきものなのか。

それとも、鞘に納めておくべきものなのか。

そして結局、また同じ場所へ戻ってくる。

正しさより先に知りたいことは何か、と。


参考文献・参考情報


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