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【小説】悪役令嬢から転生した王女が商才の魔王と手を組んで、人間界を実効支配する手始めとして、王国に物流革命を起こす話。

国を救おうとした結果、「悪役令嬢」として断罪され、命を落とした少女――アレイシア。
次に目を覚ました彼女は、百年後の世界で、魔王に囚われた王女エリシアへと転生していた。
目の前に現れた魔王が口にした願いは、世界征服ではなく「結婚」。
しかも、その目的は武力ではない。
「人間界を、経済で支配する」
列強に搾取され、衰退を続ける祖国アウレリア王国。
物流は滞り、産業は疲弊し、人々の暮らしは少しずつ貧しくなっていた。
その現実を知ったエリシアは、かつて誰にも理解されなかった自らの知識と経験を武器に、魔王ヴァルディスと手を組むことを決意する。
最初の一手は、誰も通れない魔獣の森を利用した物流革命。
商人として人間界に潜り込み、市場を動かし、貴族を味方につけ、国そのものを経済から変えていく――。
これは、剣でも魔法でもなく、経済・物流・投資・交渉を武器に世界を書き換える、異色の異世界改革ファンタジー。
悪役令嬢と理知的な魔王が目指すのは、人間と魔族が共に豊かに暮らせる新しい世界。
その革命は、一台の馬車から始まる。


01 魔王の求婚


 私は、間違えたのだろうか。
 ――国の未来を、信じ方を。

 ――嘆きの塔なげきのとう
 そう呼ばれる高い塔の縁に立ち、吹きつける夜風に、
 薄いドレスのすそがはためく。
 眼下には、灯りを失いつつある王都――
 アウレリア王国。

 古より、英雄や聖女を生み出してきた由緒ある国。
 だが今は、
 その栄光も色褪せ、列強に押され、内側から崩れ始めていた。

(……このままでは、この国は滅ぶ)

 そう思ったからこそ、私は必死だった。

 無駄を嫌い、甘えを許さず、結果を出せぬ者には厳しく当たった。
 とりわけ、聖女と持てはやされていた少女
 ――フィオナ・リリィハートには。

 彼女は優しかった。
 だが、考えが浅く、現実を見ようとしなかった。

 私は悪意からではなく、危機感から彼女を叱責した。
 それが、いつの間にか「いじめ」と呼ばれるようになった。

 婚約者だったレオンハルト・ヴァイスは、私を見なかった。
 考えることを放棄し、流されるまま、フィオナの隣に立った。

 結果――
 私は“悪役令嬢”として裁かれ、幽閉され、すべてを失った。

「……もう、いいわ」

 誰も理解しない世界なら。
 国も、人も、未来も。

 私は、静かに一歩を踏み出した。

 ――冷たい。

 背中に感じる感触で、私は目を覚ました。

「……?」

 天井が高い。
 見覚えのない、黒を基調とした豪奢な寝室。

 私は、確かに死んだはずだった。
 嘆きの塔から身を投げて――。

 ベッドから起き上がり、ふらつく足で部屋を見回す。
 重厚な調度品。
 分厚いカーテン。
 窓の外は夜で、激しい雨と雷鳴が響いている。

「ここは……どこ?」

 部屋の隅に置かれた姿見の前に立ち、
 私は――息を呑んだ。

 鏡に映っていたのは、十三、四歳ほどの少女。
 あどけなさの残る顔立ち。
 大きな瞳に、不安と怯えを宿している。

「……私、じゃない」

 そう思った瞬間、
 頭の奥に、焼け付くような痛みが走った。

 ――思い出す。
 この身体の記憶を。

 王女として生まれ、
 城で大切に育てられ、
 ある日、突然――魔王にさらわれたこと。

 恐怖。
 暗い城。
 異形の魔物たち。

(……そうか)

 私は、理解した。

 私は――
 アレイシア・フォン・アウレリアだった記憶を持ったまま、
 別の人生を生きている。

 この少女の名は――
 エリシア・フォン・アウレリア。

 アウレリア王国の王女。
 一か月前、魔王に誘拐され、
 今は魔王城に“客人”として囚われている。

 毎日、恐怖に震え、泣き叫び、
 魔王の前では、言葉すら発せなかった少女。

(……皮肉ね)

 国を救おうとして断罪された私が、
 今度は国の象徴として、魔王の城にいるなんて。

 そのとき。

 コン、コン。

 控えめなノック音が、静まり返った部屋に響いた。

「エリシア様。失礼いたします」

 扉が開き、
 黒いローブを纏った若い女性が入ってくる。

 年の頃は十七、八。
 整った顔立ち。
 そして――頭の左右から、二本の角が伸びている。

「……魔族」

 彼女はうやうやしく頭を下げた。

「魔王様がお呼びです」

 その言葉を聞いた瞬間、
 また、記憶が蘇る。

 毎日のように呼び出され、
 玉座の前に立たされ、
 そして――

(求婚、されていたわね)

 泣いて、首を振ることしかできなかった日々。

 私は、深く息を吸った。
 震える心を押し込み、理性を取り戻す。

「……分かりました。案内してください」

 女魔族が、一瞬だけ目を見開いた。

 ――初めて聞いた。
 泣いていない、エリシア王女の声。

 謁見の間は、薄暗かった。

 天井は高く、壁に等間隔で立てられた蝋燭の炎が、
 揺らめきながら空間を照らしている。
 影が伸び、縮み、まるで生き物のように蠢いていた。

 私は、魔族たちに囲まれながら、玉座の前まで進む。

 右手には、先ほど寝室に来た黒マントの女性。
 静かな所作で立ち、こちらをちらりとも見ない。

 左手には、ひときわ大きな男。
 背は高く、体格は岩のようにごつい。
 年の頃は、黒マントの女性と同じくらいだろうか。
 牛のような角と顔立ちをしているが、その目は意外なほど落ち着いていた。

 ――護衛、というより側近ね。

 そう判断したところで、玉座に座る人物が、ゆっくりと口を開いた。

「よく、眠れたかな。王女」

 低く、落ち着いた声。
 威圧はあるが、怒気やあざけりはない。

 魔王は、顔を上げた。

 ――若い。

 思わず、そう思った。
 
 年の頃は、黒マントの女性と同じくらいに見える。
 整った端正な顔立ち。
 鋭い眼差し。
 黒髪に、頭から伸びる二本の角。
 威厳はあるが、老獪さよりも、理知的な印象が勝っている。

(……思っていた“魔王”とは、だいぶ違う)

 その瞬間。

 魔王が、わずかに目を細めた。

「……ほう?」

 私を、じっと見る。

「何か、雰囲気が違うな」

 謁見の間に、静寂が落ちた。

 黒マントの女性が、わずかに息を呑む気配。
 ごつい男も、視線をこちらに向ける。

 魔王は、口元に小さな笑みを浮かべた。

「さて、エリシア王女。
 今日こそ、返事を聞かせてくれるかな?」

 魔王は、ゆっくりと言葉を紡ぐ。

「我が妻となってくれるか?」

 その声は、淡々としていた。

「なに、そなたはまだ子供だ。
 私も礼節はわきまえている。
 すぐにとは言わん。
 そなたが成人する、二年後までは待つつもりだ」

 ――この言葉。

 王女エリシアは、毎日、これを聞かされていた。

 そして、毎回、泣いていた。
 声をあげ、首を振り、言葉を失い。
 そこで会話は終わっていた。

(……でも)

 私は、違う。

 恐怖はある。
 足は、正直、震えている。

 だが、それ以上に――
 知りたいという感情が、胸の奥で頭をもたげていた。

 なぜ、この魔王は。
 なぜ、王女である私を。
 なぜ、求婚などという回りくどい真似を?

 私は、ぎゅっと拳を握りしめ、口を開いた。

「……わ、わたしを」

 声が、少し震える。

「わたしを、妻にしたい理由は……なんですか?」

 次の瞬間。

 魔王が、はっきりと目を見開いた。

「――ほう?」

 そして、低く笑った。

「これは、驚いた」

 玉座の肘掛けに指を置き、こちらを興味深そうに見つめる。

「はじめてだ。
 そなたが、言葉を発したのは」

 黒マントの女性が、思わず私を見る。
 ごつい男も、目を丸くしていた。

 魔王は、満足そうに頷いた。

「いったい、どういう風の吹き回しか……
 いいだろう」

 その表情から、冗談めいた色が消える。

「その理由を、話そう」

 魔王は、ゆっくりと立ち上がった。
 蝋燭の光が、その影を大きく伸ばす。

 その影は、玉座の背後の壁に巨大な輪郭を描き、
 まるで、この城そのものが意思を持ったかのように見えた。

「私は――」

 魔王は、ためらいなく言った。

「人間どもの国を、支配するつもりだ」

 ――やはり。

 胸が、きゅっと締めつけられる。

(魔族……やはり、そういうことか)

 反射的に身構えた私の様子に気づいたのか、
 魔王は片眉を上げ、口元をわずかに歪めた。

「おっと。そう警戒するな」

 片手を軽く上げる。

「武力で、というわけではない。
 ――経済で、だ」

「……経済?」

 思わず、声が漏れた。

 その言葉。

 生前の私が、
 誰よりも重要視し、
 誰にも理解されなかった概念。

 それが、
 魔王の口から語られたという事実に、
 頭が一瞬、真っ白になる。

「この世界は、豊かだ」

 魔王は、ゆっくりと謁見の間を歩きながら語る。

「資源は潤沢。土地は肥え、技術の芽もある。
 本来であれば、我々も、人間どもも、
 今より遥かに繁栄できるはずだ」

 彼は、鼻で小さく笑った。

「だが、人類は愚かだ。
 いつまで経っても、権力争いと戦に明け暮れ、
 国家という単位すら、まともに運営できていない」

 その言葉は、冷酷で、
 しかし――否定できないほど、的確だった。

「この世界を、愚かな人類に任せておくのは宝の持ち腐れだ。
 だからこそ、私が支配し、管理し、再編する必要がある」
 
 その声音は冷静だったが、
 そこに、人を数としてしか見ていない冷たさが、
 ほんの一瞬だけにじんだ。
 
 私は、唇を噛みしめた。

(……正論だ)

 少なくとも、
 生前の私には、そう聞こえた。

 魔王は、私の反応を確かめるように、一瞬だけ視線を向け、
 再び話を続ける。

「我が力で、人間どもを屈服させるなど、造作もない」

 ごつい男が、無言で頷く。
 黒マントの女性は、表情一つ変えない。

「だが――問題は、そこではない」

 魔王の声が、少し低くなった。

「厄介なのは、
 そなたの故郷――アウレリア王国で、勇者が誕生したことだ」

 心臓が、跳ねた。

(……勇者)

 この身体――エリシアの記憶にも、確かにある。

 私が生まれる少し前、
 アウレリア王国に、勇者が現れたという話。

 古より英雄を生んできた我が国にとって、
 決して珍しいことではない。

 魔王は、淡々と続ける。

「知っていると思うが、
 アウレリア王国は、今や列強の属国だ」

 その言葉に、胸が痛む。

「魔族領に最も近い地理的条件もあり、
 我が魔王軍討伐の“先陣”を切らされている」

 彼は、私を見る。

「――その事実も、知っているかな?」

 私は、黙って頷いた。

 魔王は、再び歩き出す。

「そのアウレリア王国から、
 勇者が、魔王討伐のために旅立った」

 蝋燭の火が、揺れた。

「勇者という存在は厄介だ。
 今は貧弱でも、あっという間に力をつける。
 常識外れの成長を遂げる――化け物だ」

 声に、わずかな苛立ちが混じる。

「そして、何より厄介なのは……
 たとえ死んでも、神の加護によって蘇ることだ」

 謁見の間が、静まり返った。

「……いずれ」

 魔王は、あっさりと言った。

「私は、勇者に殺されるだろう」

 あまりに淡々とした口調に、
 逆に、背筋が寒くなる。

(なるほど……)

 勇者は、
 魔王にとっての、避けられない“天敵”。

「だから、考えた」

 魔王は、立ち止まり、私の正面に立つ。

「私は、アウレリア王国と手を結ぶ」

 まっすぐに、こちらを見る。

「そのために――
 そなたと、婚姻関係を結ぶ」

 胸が、どくりと鳴った。

「アウレリア王国に、
 勇者の出征を取りやめさせる」

 その言葉は、
 計算され尽くした一手だった。

 私は、息を呑む。

(……外交結婚)

 武力ではなく、
 経済と政治で、世界を動かす。

 ――生前の私が、
 夢見て、叶えられなかったやり方。

 魔王は、静かに問いかける。

「エリシア王女。
 これが、私がそなたを妻に迎えたい理由だ」

 その視線には、
 欲望ではなく、
 打算と、覚悟と、――わずかな期待が宿っていた。

 はっきりと分かる。

 この魔王は、
 ただの“敵”ではない。

「どうかな。難しかったかもしれないが、
 少しは理解してもらえたかな?」

 魔王は、私の反応をうかがうように、穏やかな口調で言った。

「アウレリア王国にしても、
 列強に苦い汁をなめさせられている今より、
 我々と手を組んだほうが、よほど幸せだと思うのだ」

 静かに、しかし断言する。

「双方にとって、悪い話ではない。
 ――そなたにとっても、な」

 そして、少しだけ声を低くする。

「理由は話した。
 今一度、問おう。
 エリシア王女、私の妻となってくれるか?」

 ――面白い話だ。

 私は、心の中でそう呟いた。

 あの愚かな人間ども。
 生前、命を落とす直前には、
 正直、こう思ったこともある。

(……いっそ、滅びてしまえばいい)

 自分たちの首を、自分たちで締めることしかできない者たち。
 ならば、魔族の支配下に置かれた方が、
 よほど合理的ではないかと。

 そして――
 目の前の魔王を、改めて見る。

 若く、整った顔立ち。
(……かわいい、じゃないか)

 私は、一拍おいてから、答えた。

「――承知しました」

 謁見の間の空気が、一瞬、凍りつく。

「私は、あなたの妻となりましょう」

 次の瞬間。

「……そうか。やはり、拒否するか!」

 魔王は、残念そうに、そう言いかけ――

「まあ、時間はある。
 じっくりと考えてもらえれば……」

 途中で、言葉が止まった。

「…………」

 数秒の沈黙。

「……って、今、なんと?」

 魔王が、信じられないものを見るように、私を見た。

 私は、首を傾げ、丁寧に言い直す。

「ですから、妻になります、と申し上げました」

 胸の前で手を重ね、形式ばった口調で続ける。

「不束者ではありますが、
 どうぞ、よろしくお願いいたします」

「ええっ!?」

 魔王と、
 右に立つ黒マントの女性、
 左に立つごつい男が、
 同時に、素っ頓狂な声を上げた。

 ……滑稽だった。

02 姫の一手


「よいのか……?
 ほ、本当によいのか!?」

 魔王は、目を見開いたまま私を凝視していた。

「ああ……よかった……本当によかった……
 いや、礼を言おう。我が妻よ!」

 そこで、はっと我に返ったように首を振る。

「いや、まだ妻と呼ぶには早すぎるか……?
 どうしたものか……いや、それより新居の準備か?
 それとも、まずは祝宴を――」

 次の瞬間。

 先ほどまで、世界の行く末を冷静に語っていた魔王が、
 せきを切ったようにあたふたし始めた。

「……?」

(え、誰この人)

 あまりの変わりように、思わず言葉を失っていると、

「ちょっと!
 ぼっちゃん――じゃなくて、魔王様!」

 黒マントの女性が、手をブンブンしながら魔王を制止する。

「ああもう、落ち着いてください!さっきまでの威厳が台無し!」

「……」

 左手に立つごつい男だけが、
 腕を組んだまま、黙って成り行きを見守っている。

(……なんか、さっきと雰囲気が全然違うのだけど)

 数秒後。

 咳払いひとつ。

「……失礼した」

 魔王は姿勢を正し、深く息を吸った。
 その一瞬で、先ほどまでの浮ついた空気が、跡形もなく消えた。

「そうだな。
 では、まずは改めて名乗ろう」

 玉座の前に立ち、
 今度こそ、はっきりとした声で言う。

「我が名は、ヴァルディス・レグナール。
 魔族を統べる者だ」

 その一言で、場の空気が引き締まる。

 続いて、黒マントの女性が一歩前に出た。

 流れるような所作で一礼する。

「私は、セリス・ノクティア。
 魔王ヴァルディス様に仕える参謀です」

 簡潔で、無駄のない名乗り。

 そして。

 左手に立っていた、ごつい男が前に出る。

「……グラド・バルムガル」

 低く、太い声。

「魔王様の近衛。
 護衛長を務めている」

 それだけ言って、元の位置に戻る。

 私は、その三人を順に見渡し、
 自然と背筋を伸ばした。

「エリシア・フォン・アウレリアです」

 私は、はっきりと名乗った。

 王女として、
 そして――交渉相手として。

「至らぬ点も多いと思いますが、
 これから、よろしくお願いします」

 一瞬、沈黙。

 セリスの視線が、ほんのわずかに和らいだ。

 グラドは何も言わなかったが、
 その巨体が、わずかに揺れた。
 ――頷いたのだと、私は理解した。

 ヴァルディスは、満足そうに頷く。

「うむ。
 では次だ、エリシア王女」

 その声音は、もう落ち着いている。

「……その前に。
 この部屋、暗すぎるな。明るくせよ」

 ヴァルディスがそう命じた瞬間だった。

 玉座の間が、ぱっと明るくなる。

 壁に灯っていた蝋燭の炎が消え、
 天井から柔らかな光が降り注ぎ、
 重厚な窓の遮蔽しゃへいが外れた。

 差し込む陽光。
 青く澄んだ空。

 つい先ほどまでの、
 薄暗く、おどろおどろしい雰囲気は跡形もない。

「……」

(さっきまでの“魔王城”はどこへ)

「先ほどの、暗い部屋は?」
 思わず問いかけると、

「演出だ」

 ヴァルディスは、さらりと言った。

「雰囲気、出ていただろう?」

 ……出てはいた。

(なんというか……
 思っていた“魔王”像と、違う)

「我が姫よ」

 ヴァルディスは、機嫌よさそうに続ける。

「今夜は祝宴としよう。
 私とそなたの婚約のな。
 今は、ゆっくり部屋で休むがよいだろう。
 細かい話は――」

 そのときだった。

 バタン!

 謁見の間の扉が勢いよく開き、
 息を切らした衛兵が駆け込んでくる。

「た、大変です!
 魔王様!」

 場の空気が、一瞬で引き締まる。

「勇者が、近づいてきております!
 ゼオリ川の付近まで到達したとの報告です!」

「……なに?」

 ヴァルディスの眉が、ぴくりと動いた。

「ゼオリ川だと?
 それは……我が領地のすぐ近くではないか」

 不機嫌そうに腕を組む。

「飛ばしすぎではないか?
 まだ旅立って間もないはずだろう」

 すぐに、セリスへ視線を向けた。

「セリス、どうする?」

 魔王の声は冷静だが、
 判断は早い。

「始末するか?
 ……いや、無造作に殺せば、
 神の加護によって強化され、再び現れる」

 小さく舌打ち。

「厄介な仕組みだ」

 セリスは、すぐに首を振った。

「魔王様。
 お待ちを。今、策を練りますゆえ」

 彼女の目が、すでに高速で思考を巡らせているのが分かる。

(……なるほど)

 勇者を排除することはできる。
 だが、それは最善ではない。

 今は――
 足止めが必要なのだ。

 私は、静かに考えた。

 ――勇者。

 名前は、クラウス・ローディア。

 この身体――エリシアの記憶にもある。
 何度か、王都で見かけたことがあった。

 朴訥ぼくとつで、真面目そうな青年。
 悪人ではない。

(……だからこそ、扱いやすい)

 勇者クラウスを、
 殺さず、怒らせず、しかし遠ざける。

 こういう作戦を考えるのは――
 生前の私の、得意中の得意だった。

 私は、一歩、前に出た。

「魔王ヴァルディス!」

 謁見の間の視線が、一斉に私へ集まる。

「私に、策があります」

 ヴァルディス、セリス、グラド。
 三人が同時に、こちらを見る。

 セリスが、すっと目を細めた。

 その瞳に、
 炎のような光が宿る。

「……ほう」

 口元に、わずかな笑み。

「姫。
 その“策”とやら、聞かせていただきましょうか」

 声音は丁寧だ。
 だがそこには――

 子供に何ができる
 私の方が分かっている

 そんな、わずかな上から目線と、
 参謀としての対抗心が滲んでいた。

 私は、内心で小さく笑う。

(いいわ。
 その顔、嫌いじゃない)

 そして、口を開いた。

「まずは――
 私を、ゼオリ川のほとり。勇者の近くまで派遣してください」

 私がそう言うと、
 一瞬、謁見の間が静まり返った。

 次いで、セリスが口元を吊り上げる。

「なるほど。
 このどさくさに紛れて、逃げようという魂胆ですか」

 くすり、と笑う。

「いかにも、子供の考えそうなことですね」

 ヴァルディスも、腕を組んでうなずいた。

「姫よ。
 そなたを、この城の外へ出すわけにはいかんぞ?」

(……まあ、それもそうよね)

 正直、想定通りだ。
 それに、この作戦――

(私自身が行くには、少々“役不足”かもしれない)

 そう思い、
 私は、ふと視線を横へ向けた。

 ――セリス・ノクティア。

(……この子、なかなかの美貌)

 整った顔立ち。
 均整の取れた体つき。

 私の、値踏みするような視線に気づいたのか、
 セリスが、ぴくりと肩を震わせ、一歩後ずさる。

 私は、にこりと微笑んだ。

「分かりました、魔王ヴァルディス」

 そして、はっきりと言う。

「では、
 セリス様のお力をお借りすることはできますか?」

 ――俺は、勇者クラウス。

 祖国アウレリアの期待と重圧を背負った男だ。

 今、俺は魔王城へ向かっている。

 目的は、ただ一つ。
 魔王に囚われた、第三王女――
 エリシア様の救出。

 魔王と決戦するつもりはない。
 今の俺は、まだ非力だ。

 だが、魔族や魔獣との遭遇を避け、
 密かに城へ侵入できれば、
 姫の救出は可能だと踏んだ。

 国王陛下は、約束してくださった。

 ――救出の暁には、姫との結婚を。

 エリシア様。
 何度かお見かけしたことがある。

 まだ年若いが、
 気品があり、美しい方だ。

 ……正直に言おう。

 タイプだ。

 あの方が、将来、俺の妻になる。
 そう思えば、苦しい旅も苦ではない。

 今頃、
 暗い城で一人、泣いておられるのだろう。

「お待ちください、エリシア様……
 このクラウス、命に代えてもお救い申し上げます!」

 そして今――

 俺は、
 魔族の領域にほど近い、
 ゼオリ川のほとりまで辿り着いていた。

 ここまで来るのに、3か月。

 慎重に、
 音を立てぬよう、森を進む。

 ――そのとき。

 ばしゃっ。

 川の方から、水音。

(魔獣か?)

 警戒しつつ、
 離れた場所から様子をうかがう。

 そこにいたのは――

 一人の、若い女性だった。

 川で、水浴びをしている。

 こちらに背を向けているが、
 その背中越しにも分かる、見事なプロポーション。

 かき上げられた髪が、
 風に揺れる。

(……天女か?
 それとも、モノノケか?)

 ちょうどよく、
 視線の先に草陰がある。

(もっと、近くで確かめねば……!)

 俺は、
 目を離さぬまま、そちらへ忍び寄った。

 ――その瞬間。

 女性が、
 顔だけを、わずかにこちらへ向ける。

 横顔が見えた。

 ――美しい。

 刹那。

 足元が、ぼわりと光った。

「……!?」

 地面に描かれた、魔法陣。

(しまった!
 転移魔法だ!)

 気づいた時には、遅かった。

 光に包まれ――

 目を開けると、
 見慣れた天井があった。

 ――アウレリア王国、謁見の間。

 俺は、床に寝そべっていた。

「……?」

「おお、勇者よ」

 国王陛下が、怪訝な顔でこちらを見る。

「なぜ、戻ってきた?」

 魔王城・謁見の間。

 ヴァルディスは、
 両手を打って大笑いした。

「さすがではないか、我が姫!」

 楽しそうに言う。

「男の悲しい本能さがを利用するとは、
 実に愉快だ!」

 そして、セリスへ向き直る。

「セリスも、よくやってくれた。
 名演技だったぞ!」

 褒められた本人は――

「……もう、お嫁にいけない……」

 と、
 半泣きだった。

 私は、腕を組み、満足そうに頷く。

「魔王ヴァルディス。
 勇者について、一つ、有益な情報が得られました」

 したり顔で、宣言する。

「彼は――
 むっつりです」

03 祝宴にて


 夜。

 私――エリシア・フォン・アウレリアと、
 魔王ヴァルディス・レグナールの婚約を祝う宴が、
 魔王城の大広間で、静かに、しかし盛大に催されていた。

 天井は高く、黒曜石の柱が並ぶ広間は、
 数え切れぬ魔法灯に照らされ、柔らかな光に満ちている。

 上座には、ヴァルディスと私が並んで座り、
 その両隣を、参謀のセリスと護衛長のグラドが固めていた。

 視線を下ろせば、
 広間は多くの魔族たちで埋め尽くされている。
 
 やがて、ヴァルディスが静かに立ち上がった。

 大きな動作ではない。
 それでも、その場にいた全員が、自然と息を潜める。

「今宵は――」

 低く、落ち着いた声が、広間に響いた。

「私と、このエリシア王女の婚約を祝う宴だ」

 隣に座る私へ、ちらりと視線が向けられる。

「彼女は、恐怖に屈してこの城にいるのではない。
 自らの意思で、ここに座っている」

 魔族たちの間に、静かなざわめきが走る。

「私は、いずれ、この姫を伴侶として迎える」

 ヴァルディスは、杯を手に取った。

「――我ら二人の婚約に」

 一瞬の間。

「そして、新たな縁に」

 その言葉に応えるように、
 広間のあちこちで杯が掲げられる。

「乾杯」

 次の瞬間、
 無数の杯が触れ合い、澄んだ音が重なった。

 ざわめきはあるが、無礼な喧騒ではない。
 どこか、節度と緊張を含んだ祝宴だった。

 長い卓には、所狭しと料理が並ぶ。

 焼き色の美しい肉料理。
 香草の効いた煮込み。
 色鮮やかな果実や、艶のあるパン。

 そして、惜しげもなく注がれる酒。

 ……ただし。

 私の前に置かれているのは、
 透き通ったオレンジ色の飲み物だった。

 ――オレンジジュース。

(そうよね)

 この身体は、まだ十四歳。
 いくら前世の記憶があろうと、飲酒は許されない。

 前世の私は、酒が好きだった。
 晩酌も、祝い酒も、嫌いではなかった。

(この世界でも、早く成人したいものだわ)

 そんなことを考えながら、
 私はオレンジ色の液体を、そっと口に含んだ。

 甘くて、酸味が心地よい。

 ふと、広間を見渡す。

 豪奢《ごうしゃ》ではあるが、
 どこか落ち着いた雰囲気だ。

 暗く、威圧的で、
 おどろおどろしい――
 そうした「魔王城らしさ」は、ここにはない。

(……もう、私向けの演出はやめたのね)

 昼間の謁見の間とは、まるで別の場所のようだった。

 それに――

(料理も、お酒も……)

 人間界のそれと、変わらない。

 正直、
 魔族という存在から、私はもっと――
 身の毛のよだつような食文化を想像していた。

 だが、目の前にあるのは、
 人間の王都の宴席と、ほとんど同じものだ。

 思わず、率直な感想が口をついて出た。

「……魔族も、
 人間と同じものを召し上がるのですね」

 ヴァルディスは、グラスを置き、
 こちらを見て微笑んだ。

「ああ。
 魔力の差はあれど、身体の構造は人間と大差ない」

 当然のことのように言う。

「味覚も、嗜好もな。
 食を楽しむ気持ちは、どちらも同じだ」

 なるほど。

 そう言われてみれば、
 広間の魔族たちも、皆、普通に食事を楽しんでいる。

 角が生えている者は多いが、
 顔立ちや体つきは、人間とほとんど変わらない。

(……見た目だけで、ずいぶん誤解していたわね)

 前世の私も、
 きっと同じ偏見を持っていた側だった。

 さらに、気になっていたことを口にする。

「では……
 人間界に出没する魔獣は?」

 ヴァルディスは、少しだけ表情を引き締めた。

「あれは、我々魔族が操っているわけではない」

 はっきりと断言する。

「魔獣は、もともとこの世界に生息している存在だ。
 魔族とは、別の生き物だ」

 グラドが、低く補足する。

「……よく、人間は混同する」

 ヴァルディスが頷いた。

「確かに、
 魔族が魔獣を使役したり、
 戦の道具として利用することはある」

 だが、と続ける。

「我々が滅びたとしても、
 魔獣がいなくなることはない」

 淡々とした口調だった。

「むしろ、管理する者を失い、
 より手に負えなくなるだろうな」

 私は、静かに息を吐いた。

(……なるほど)

 人間が恐れている「魔族の脅威」と、
 実際の世界の構造には、
 大きな隔たりがある。

 知らないから、恐れる。
 分けて考えないから、憎む。

 前世で、
 何度も目にしてきた構図だ。


 
「ところで……魔王ヴァルディス」

 そう呼びかけた瞬間、彼は小さく手を上げた。

「おっと、我が姫。
 我々はいずれ伴侶となるのだ。そんな仰々しい呼び方は、やめてくれまいか」

 ……それも、そうね。

 どうにも彼は、
 前世の感覚では、年下の――少し可愛げのある青年に見えてしまう。

「では……ヴァルディス」

「うむ。いい響きだ」

 満足そうに頷き、こちらを見る。

「それで、なんだ。エリシア?」

「人間の私が、あなたの妻になることについて……
 反対する人はいないの?」

 ヴァルディスは、少し考える素振りを見せてから答えた。

「そうだな。
 まず、我ら魔族には、人間のような権力争いというものがない」

 淡々と、事実を述べる口調。

「そもそも、魔族は権力そのものに、あまり執着しない。
 だから、反対するかどうか、という発想自体が薄いのだ」

 そして、肩をすくめる。

「魔王が誰と結婚しようが、構わない――
 それが、我らの感覚だな」

「なるほど……」

 私は、素直に頷いた。

「そういうところは、人間とは大きく違うのですね。
 でも……私は、そちらの方がすっきりしていて好きです」

「はは」

 ヴァルディスは、楽しそうに笑った。

「エリシアは、本当に面白い。
 それに――さとい」

 少しだけ、目を細めて続ける。

「なぜ、今まで猫をかぶっていたのやら」

04 魔王と姫の布石


 私は、魔王城の図書館にいた。

 高い天井。
 壁一面を埋め尽くす書架。
 整然と並ぶ、無数の書物。

 ――まず、その光景自体が、意外だった。

(……魔王城に、図書館?)

 魔族といえば、戦と暴力。
 そんな先入観が、いとも簡単に裏切られる。

 本は、ただの装飾ではない。
 どれも使い込まれ、背表紙は擦れ、頁の角は丸くなっていた。

(……読まれている)

 魔族は、考え、記録し、学ぶ。
 人間と、驚くほどよく似ている。

 書架を眺めながら、私は歩いた。

 魔族自身が記した書。
 魔族史、魔法理論、地理、経済、法制度。
 そして――人間界から集められた本。

 交易で手に入れたもの。
 戦の戦利品として持ち帰られたもの。
 あるいは、亡命者が持ち込んだもの。

 その中に、探していた一冊があった。

『アウレリア王国正史・近代編』

 私は、その本を手に取り、静かに頁を開く。

 ――確かめなければならなかった。

 エリシアの記憶では曖昧なこと。
 前世、アレイシアとして生きていた時代から、
 今に至るまでの――アウレリアの歩みを。

 最初の数頁は、見慣れた名前が並んでいた。

 王家。
 貴族。
 聖女。
 勇者。

 そして――

『王太子妃候補、アレイシア・フォン・アウレリア、断罪』

 文字を追う指が、わずかに止まる。

 そこには、感情のない筆致で、
 私が「悪役令嬢」として裁かれ、
 幽閉され、
 やがて命を落としたことが記されていた。

 理由も、経緯も、簡潔に。

(……ずいぶん、あっさりね)

 あれほどの騒動も、
 歴史の中では、数行に過ぎない。

 頁をめくる。

 その後、王国は混乱に陥り、
 内紛が起き、
 国力を削り――

 やがて、列強の介入を許した。

『アウレリア王国、属国化』

 私は、静かに息を吐いた。

 やはり、そうなるのか。

 私が恐れていた未来。
 必死に食い止めようとした結末。

 それは、私が消えたあと、
 きちんと現実のものとなっていた。

 さらに頁を進める。

 改革は進まず、
 貴族は私腹を肥やし、
 王権は弱体化。

 勇者の輩出だけが、
 かろうじて国の威信を保つ手段となっていく。

 そして――

『第三王女エリシア・フォン・アウレリア誕生』

 ここで、ようやく、現在に近づく。

 頁の端に、小さく年代が記されていた。

 ……約百年。

 私が死んでから、
 この身体に生まれ変わるまで、
 それだけの時間が流れていた。

(百年、か)

 あの頃、私の周囲にいた人間は、
 もう誰もいない。

 断罪した者たちは寿命を全うし、
 断罪され、滅んだはずの私だけが、
 こうして、この世に居座っている。

(……皮肉ね)

 思わず、小さく笑ってしまう。

 私は、魔王であり将来の夫であるヴァルディスと肩を並べて、
 魔王城の庭園を歩いていた。
 庭園といっても、アウレリア城のそれとはまるで違う。
 花壇はなく、噴水もない。
 整えられた石畳と、規則正しく植えられた背の低い樹木。
 機能性だけを重視した、静かな空間だ。

(……実に、魔族らしい)

 無駄がない。
 だが、嫌いではなかった。

 私は歩調を合わせながら、口を開く。

「……婚約したとはいえ、この先はどうするおつもりですか?」

 率直な問いだった。

 ヴァルディスは、歩みを止めることなく、少しだけ口元を緩めた。

「聡い姫のことだ。
 事が、すんなりいくとは考えていないだろう」

 まるで、こちらの思考をなぞるような言い方。

 そのまま、視線を前に向けたまま続ける。

「突然、姫が、
 “魔王と婚約しました。だから勇者の派遣は中止してください”
 などと国王の前に現れれば――」

 肩をすくめる。

「『魔王なんぞと婚約しおって』と罵られ、
 最悪の場合、破門されて終わりだろうな」

 あまりにも冷静な分析だった。

(……やはり、この男)

 見えている。

 感情ではなく、構造で物事を捉えている。

「だからだ」

 ヴァルディスは、私の方を見た。

「周囲から、固める」

 短く、しかし断定的な言葉。

「王一人を説得する必要はない。
 王が逆らえない状況を、先に作る。
 人間の国は、
 表向きは王が統べているが、
 実際に国を動かしているのは――」

「有力貴族と、お金?」

 私が先に言うと、ヴァルディスは一瞬目を瞬かせ、すぐに笑った。

「まったく。話が早い」

 庭園の奥、石のベンチの前で、私たちは足を止めた。

「では、どう動くおつもりなのです?」

 私が尋ねる。

 ヴァルディスは、少し考える素振りを見せてから答えた。

「まずは、私が表に出る」

「魔王として?」

「いや。
 それでは意味がない」

 きっぱりと言い切る。

「正体は伏せる。
 魔族であることもな」

 私は、眉をひそめた。

「……人間界に?」

「そうだ」

 ヴァルディスは、平然と続ける。

「アウレリア国内の有力貴族に近づく。
 肩書は――そうだな。
 国外から来た、大商人か、投資家あたりがいい」

(投資家、ね)

 やはり、言葉の選び方がどこか現代的だ。

「まずは、経済的な実績を作る。
 産業を立て直し、雇用と税収を生む。
 列強依存の流通を断つ。
 
 そして――
 “この男に逆らえば国が傾く”
 そう思わせる」
 
「そこで正体を明かす。
 ――婚約の話だ」
 
 私は、思わず感嘆の息を漏らした。

「……そこまで、考えていたのね。
 本当に、すごい」
 
 ヴァルディスは満足そうに頷き、しかしすぐに表情を引き締める。

「もっとも、これはあくまで大筋にすぎん。
 具体的な実行計画に落とし込まねばならない」

 少しだけ言いよどみ、続けた。

「だが、私は人間界の事情には疎い。
 エリシア、そなたの意見も聞きたい。
 経済状況について、学んでいたりはしないかな?」

 私は、しばし考え込む。

 ――魔族の力を背景に、
 人間界で“経済的な実績”を作る具体策。

 頭の中で、過去と現在の知識が重なり合う。

 そして、ひとつの光が差した。

「……ひとつ、案があります」

 執務室。

 テーブルの上には、広げられた地図。

(百年前と、そう変わっていなければ……)

 私は、地図を指し示しながら説明を始めた。

「ご存知の通り、アウレリアは農業が盛んな国です。
 ですが、都市部まで食料が十分に行き届いていません」

 ヴァルディスが黙って聞いているのを確認し、続ける。

「原因は、物流です。
 農村地帯と都市部を結ぶ経路に、大きな問題があります」

 指先が、地図の中央をなぞる。

「この森――通称『眠りの森』が、行く手を阻んでいるためです。
 魔獣が生息する密林地帯で、人間は通行できません」

 結果として。

「輸送は、安全な街道を大きく迂回するしかありません。
 時間がかかり、輸送費も嵩み、
 何より、流通の主導権を握れないのが問題です」

 私は、そこで言葉を切った。

「――これが、アウレリアの弱点です」

 眠りの森。
 優しい名とは裏腹に、凶暴な魔獣が棲む死の森。
 無事に通り抜けるのは、ほぼ不可能とされている。

 ヴァルディスは、地図を見つめたまま、ゆっくりと頷いた。

「……なるほど」

 そして、私の意図を正確に言い当てる。

「つまり、
 眠りの森を通る物流経路を開拓する、ということだな」

 私は、静かに首肯した。

「魔獣は魔族を襲わない。
 誰が“上”か、理解しているからな」

 ヴァルディスの声には、当然の事実を述べる落ち着きがあった。

「移動時間は大幅に短縮され、
 流通全体の遅延や不確実性も解消される」

 彼は、はっきりと言った。

「良い案だ、エリシア。
 ……まったく、これで十四歳とは信じられん知識と知恵だ」
 
 魔王は目を細め、私の頭をナデナデした。

05 眠りの森を越えて


 アウレリア王国南部。
 広大なサウスヴェル平原は、国内随一の穀倉地帯として知られている。

 なだらかな丘陵に広がる麦畑。
 季節ごとに色を変える大地は、この国の胃袋そのものだった。

 ――ヴェルハイム。
 サウスヴェル平原の中心に位置するこの街は、
 周辺農村から集まる穀物を管理・流通させる要衝である。

 巨大な穀倉。
 活気ある市場。
 そして、街の中枢に構えられた食糧商会。

 その日、
 いつもと変わらぬ午前の刻。

 商会の扉を押し開け、
 一人の若い男が、ふらりと姿を現した。

 仕立ての良い外套。
 無駄のない装飾。
 腰に下げた装身具は控えめながら、確かな価値を感じさせる。

 ――裕福。
 そして、ただ者ではない。

「失礼する」

 低く、落ち着いた声。

 若い男は、
 西方連合から訪れた商人で、
 名をヴァルスという。

 その名乗りを聞いた瞬間、
 受付の若い職員は、反射的に背筋を伸ばした。
 西方連合――
 それは、この街の商人にとって、
 軽々しく扱っていい相手ではない。

 ほどなくして、
 食糧商会の長――ランドロス・ヴァルケインが姿を現した。

 壮年の男。
 商人らしく腹は出ているが、目は鋭い。

「話を聞こう。こちらへ」

 応接室に通され、向かい合って腰を下ろす。

 形式ばった挨拶のあと、
 ヴァルスは、前置きもなく切り出した。

「森を抜ける、試験輸送を請け負いたい」

 ランドロスの眉が、わずかに動いた。

「……森、とは?」

「《眠りの森》だ」

 一瞬、空気が固まる。

 ランドロスは、思わず苦笑した。

「冗談を言われるとは思っていなかったが……
 あそこは、人間が通れる場所ではない」

 魔獣の巣窟。
 多くの商人が挑み、失敗し、命を落とした禁忌の地。

 常識だ。

 だが、ヴァルスは顔色一つ変えなかった。

「承知している」

 静かに言う。

「だからこそ、
 貴族直轄ではなく、こちらの商会に話を持ち込んだ」

 ランドロスは、腕を組む。

「理由を聞こう」

 ヴァルスは、淡々と説明を始めた。

 護衛の配置。
 魔獣の行動範囲。
 森を通過する時間帯。
 人間側の被害を最小限に抑える移動方法。

 それは、
 単なる夢想ではなかった。

(……詳しすぎる)

 ランドロスは内心で舌を巻く。
 まるで、
 眠りの森を“よく知っている者”の説明だ。

 「成功した場合、
  輸送時間は大幅に短縮される」

 ヴァルスは続ける。

「遠回りを強いられてきた輸送が不要となり、
 余計な日数もコストも消える。
 価格決定の不利も、ここで終わりだ」

ランドロスは、喉を鳴らした。

――それが実現すれば。
商会の利益は、跳ね上がる。

 だが。

「失敗したら?」

 あえて、問いかける。

 ヴァルスは、少しだけ微笑んだ。

「その場合の損失は、すべて私が負う」

 きっぱりと。

「商品代も、輸送費も、補填する」

 応接室が、静まり返る。

(……そこまで言うか)

 ランドロスは、目の前の男を改めて観察した。

 虚勢ではない。
 逃げ道も用意していない。

 ――本気だ。

 しばしの沈黙ののち、
 ランドロスは、ゆっくりと息を吐いた。

「……よかろう」

 机の上に、手を置く。

「実験的に、小規模な農産物で試そう」

 大量輸送ではない。
 価値も限定的な作物。

 失敗しても、致命傷にはならない。

「条件は一つだ」

 ランドロスは、鋭く言った。

「死人は出すな。
 それだけは、絶対だ」

 ヴァルスは、静かに頷いた。

「約束しよう」

 その瞳に、迷いはない。

 試験輸送は、早朝に始まった。

 ヴァルスが用意したのは、荷馬車一台。
 御者一人。
 従者が一人。
 そして、護衛が二人。

 いずれも寡黙で、無駄なことを口にしない。
 装備は簡素だが、よく手入れされている。

(……本当に、これだけで森を抜けるつもりか?)

 ランドロスは内心で首をひねった。
 眠りの森は、名の通りではない。
 一度足を踏み入れれば、眠るのは永遠――
 そう噂される魔獣の巣だ。

 しかし、荷は最小限。
 失敗しても痛手が少ない、実験用の量。

(まあ、どうせ戻らんだろう)

 そう思いながらも、完全には切り捨てきれない。
 ヴァルスという男には、奇妙な説得力があった。

 荷馬車は、朝霧の中、静かに街を出た。
 行き先は、眠りの森を抜け、
 アウレリア王国中央都市――セントベニア。

 翌日の夕方。

 ヴェルハイムの門に、見覚えのある荷馬車が姿を現した。

「……戻った?」

 最初に気づいた門番が、目を瞬かせる。

 荷馬車は、何事もなかったかのように街へ入ってきた。
 車輪は欠けていない。
 馬は怯えた様子もなく、落ち着いている。

 そして――

「荷が、増えている……?」

 ランドロスが駆け寄り、荷台を見て、言葉を失った。

 行きに積んだ農産物は、確かに降ろされている。
 その代わりに、帰りの荷が、きっちりと積まれていた。

 塩。
 加工品。
 都市部でしか手に入らない生活物資。

 どれも、品質が良い。

「ば、馬鹿な……」

 通常、セントベニアまでの往復には二十日かかる。
 危険地帯を避けた遠回りの街道を進み、
 検査や積み替えを重ねて、
 ようやく戻ってくるのが常だった。

 それを――

「……二日?」

 ランドロスは、信じられないものを見る目で、
 ヴァルスを見た。

 男は、平然と頷くだけだ。

「問題なく、通れました。
 予定通りです」
 
「予定通り……だと?」

 声が裏返る。

 眠りの森だ。
 魔獣が跋扈する、あの森を。

 護衛の二人は、傷一つない。
 従者も、欠伸を噛み殺している。

(……奇跡、か?
 いや……)

 ランドロスは、商人だ。
 奇跡よりも、再現性を信じる。

「……次だ」

 彼は、ゆっくりと口を開いた。

「次は、荷を増やす。
 実験ではなく、商いとしてだ」

 周囲の商会員たちが、ざわめく。

 ヴァルスは、わずかに口角を上げた。

「構いません」

 淡々とした声。

「失敗した場合の損失は、
 引き続き、私が負いましょう」

 その一言で、場の空気が変わった。

 ――これは、実験ではない。
 ――流れが、変わり始めている。

 ランドロスは、確信した。

(……この男)
(アウレリアの物流を、ひっくり返す気だ)

06 月下の祝宴


 魔王城。

 セリス、グラドらと共に、
 第一歩の成功を祝う、ささやかな宴が開かれていた。
 ――眠りの森を越えた、最初の物流実績。
 
 場所は、大広間ではない。
 城の一角にある、小さな食堂。

 天井には円形の天窓があり、
 そこから、今宵の満月が静かに覗いている。

 豪奢さはない。
 だが、必要なものはすべて揃っていた。

 温かな料理。
 程よく冷えた酒。
 そして――肩の力を抜いて語らえる距離。

「おめでとうございます、魔王様」

 セリスが、エールの入ったジョッキを掲げた。

 普段の冷静な参謀の面影は薄く、
 頬はほんのり上気し、
 笑みにはどこか妖艶さすら滲んでいる。

 ……かなり飲んでいる。

「……」

 グラドも、無言のままジョッキを持ち上げた。

 こちらも、量は相当いっているはずだが、
 表情は微塵も崩れない。

 まるで、飲酒が無効化されているかのようだ。

 私は、二人の様子を眺めながら、
 ずっと気になっていたことを、そっと口にした。

「ヴァルディス。
 あなたと、セリス卿、グラド卿は……
 どういう関係なのですか?」

 問いかけに、ヴァルディスは少しだけ目を細めた。

「ああ。
 ふたりはな――」

 少し間を置いて、懐かしむように言う。

「私が幼いころにつけられた、同い年の世話役であり、
 遊び相手の家来だ」

 さらりと付け加えた。

「人間風に言えば、幼馴染だな」

(……いや、それは)

 私は、内心で小さく首を傾げる。

(幼馴染とは、言わないと思うのだけれど)

 ヴァルディスは、
 温かい視線で二人を見やる。

「幼いころは、
 セリスはお転婆というか、完全にガキ大将でな」

「ちょっ……!」

 セリスが、慌てて声を上げる。

「魔王様!
 幼少期の話は勘弁してください!」

「グラドは、逆に泣き虫だった」

「……」

 グラドは何も言わない。

 ほんの一瞬だけ、
 照れたように視線を逸らした。

「おもしろい思い出が、いくつかある。
 今度、ゆっくり話してやろう」

「そんなこと言ったら、
 ぼっちゃんも、よっぽどでしたけどね!」

 セリスが、勢いよく言い返す。

 グラドが、無言で、深くうなずいた。

 その仕草だけで、
 すべてを物語っている。

(……ああ)

 私は、静かに思った。

 この三人は、
 単なる主従ではない。

 長い時間を共に過ごし、
 同じものを見て、
 同じ恐怖と責任を分け合ってきた――
 揺るがない絆だ。

 やがて、話題は自然と戻る。

 ――物流経路改革の件。

 私は、
 オレンジジュースをちびちびと口に運びながら、
 素朴な疑問を投げかけた。

「ヴァルディス。
 今回の従者や護衛たちは……
 魔族が“化けて”いたのでしょう?」

 彼は、あっさりとうなずく。

「そうだ」

「正体がばれることは、ないのですか?」

 セリスとグラドも、
 さりげなくこちらに意識を向ける。

「余程の人間――
 たとえば、大司教クラスでもない限り、
 見破られることはないだろうな」

 たいした自信だ。

(……自信というより、
 経験から来ている顔ね)

「まあ、心配はいらん」

 ヴァルディスは、ジョッキを傾け、
 ふっと口角を上げた。

「いずれ、こちらから正体を明かすつもりだ」

「こちらから……?」

「ああ」

 彼の目が、
 一瞬だけ、鋭くなる。

「後戻りできなくなった、その時にな」

 ――悪い顔だ。

 策を語るときのヴァルディスは、どこか楽しそうで、同時に容赦がない。

「私は、これから“商人ヴァルス”を演じていくわけだが……」
 ヴァルディスは、杯を指先で軽く回しながら言った。
「少しばかり、小細工をしたい」

「小細工、ですか?」

「ああ。
 最初に大きな実績を見せた。
 次は――信用の構築だ」

 なるほど。
 いきなり利益をもたらす存在は、怪しまれる。
 だが、実績を積み、生活をこの街に根付かせれば話は別だ。

「ヴェルハイムに屋敷を構える」
 ヴァルディスは、さも当然のように言った。
「“最近、この街に越してきた西方の大商人”としてな」

 私は、静かに頷いた。

「私一人ではない」
 彼は続ける。
「お前たちとも、一緒に暮らしている設定にする」

「……設定?」
 思わず聞き返す。

「ああ。もちろん、私は主人だ」
 少しも迷わず言い切る。
「グラドは――執事」
 一拍置いて、
「セリスは、メイドだな」

 一瞬、頭の中に光景が浮かんだ。

 黒髪をきちんと結い、
 きびきびと動くメイド服姿のセリス。

(……あれ?)
(普通に、可愛いのでは?)

 私は、口元を押さえながら、にこやかに言った。

「とても、お似合いなのではないでしょうか?」

「なっ――!」
 セリスが、勢いよく立ち上がる。
「参謀のこの私が、メイドですか!?」

 声が裏返っている。

 その横で、グラドは腕を組んだまま、黙っている。

(執事……は、さすがに無理があるわね)

 どう見ても、威圧感が強すぎる。
 屋敷の前に立っているだけで、不審者が逃げ出しそうだ。

 私は、率直に言った。

「執事は……少し厳しいかと。
 グラド卿は、力仕事担当の方が自然です」

 ヴァルディスは、少し考え、すぐに頷いた。

「そうだな。庭師だ」
 即決だった。

「庭師……」
 グラドが、小さく呟く。

 だが、その口調には拒絶はなかった。
 むしろ――

(……まんざらでもない?)

 ほんのわずか、口元が緩んだように見えた。

 セリスは、まだ納得していない様子で、ぶつぶつと何か言っている。

「……問題は」
 ヴァルディスは、そこで言葉を切り、
 ゆっくりと視線をこちらに向けた。

「エリシア、そなただ」

 値踏みするような視線。
 いや、違う。

 計算している目だ。

「そなたを、どういう立場で置くか」

 私は、自然と背筋を伸ばした。

(……来たわね)

 この“設定”の中で、
 私がどんな役を演じるのか。
 それは――
 ただの付け足しでは、済まない。

 ヴァルディスは腕を組み、即断した。

「婚約者のままでは無理がある。
 だが、
 年端もいかない少女が同じ屋敷に住んでいても自然な設定としたい」

 一拍。

「妹だな!」

 ドヤ顔である。

(妹枠。きた)

「そうですね。一番自然かもしれません」
 私は即座に同意しつつ、
「……顔はまったく似てませんが」

「細かいことだ」

 横で聞いていたエリスが、遠慮がちに口を挟む。

「で、では……私は、妹その二、ということで……?」

 しかし、その声はきれいにスルーされた。

「問題は呼び方だな」

 ヴァルディスが指を折り始める。

「お兄さん。
 お兄様。
 兄貴……」

「――やはり、ここは」

 溜めて、

「おにいちゃん、か!!」

(そこに本気出すな)

「お兄様とお呼びしますね」

 私は即答した。

 ぴしゃり。

「……む」

 不満げに唸るヴァルディス。

「まあ、仕方あるまい……」

 こうして私は、
 “商人ヴァルスの妹”となった。

07 信用と恐怖


 その日、
 商人ヴァルスの屋敷に、食糧商会の長――ランドロスと、数名の幹部が招かれた。

 名目は、親睦を深めるための食事会。

 屋敷は、ヴェルハイムでも名の知れた有力貴族がかつて住んでいたものだ。
 “新興の大商人”が住まうには、これ以上ない器だった。

 夕刻。

 屋敷の扉を叩いた一行を迎え入れたのは――
 メイド姿のセリスだった。

「ようこそいらっしゃいました。
 主人がお待ちです。どうぞ、こちらへ」

 完璧な所作。
 声の調子も、間の取り方も、非の打ちどころがない。

(……あれだけ嫌がっていたのに)

 内心、私は感心していた。

 参謀根性なのか。
 それとも――
 本当に、気に入っているのか。

 ランドロスたちは、一瞬だけ目を見張り、
 しかしすぐに“そういうものだ”と納得した顔になる。

 美しい使用人がいる屋敷。
 裕福な商人の象徴だ。

 食堂では、
 私と――兄である商人ヴァルスが、客人を迎えた。

「お越しいただき、ありがとうございます」

 ヴァルスが、穏やかな笑みで応じる。

 間近で見る“商人としての魔王”は、やはり見事だった。
 威圧も、威光も、完全に封じられている。

 そこにいるのは、
 品の良い、若き実業家。
 人当たりが柔らかく、しかし芯のある男――そんな印象だ。

「お招きいただき、ありがとうございます」

 ランドロスが応じ、
 その視線が、自然と私へと向けられる。

 値踏みするような、商人の目。

 ヴァルスが、さりげなく紹介した。

「こちらは、私の妹。
 アレイシアです」

「アレイシアと申します。
 兄が、いつもお世話になっております」

 私は、淀みなく一礼した。

 この種の挨拶は、
 かつて王城で、嫌というほど叩き込まれている。

「ほう……これはこれは」
 ランドロスが、目を細める。
「なんと、可憐な妹君だ」

 ――十分だ。
 地方の商人の目をくらますには、過ぎるほど。

 ちなみに、
 “妹アレイシア”という名は、偽名だ。

 だが、生前の私の名でもある。
 愛着もあるし、何より――
 呼ばれても、自然に反応できる。

 食事が始まる。

 セリスが、次々と料理を運び入れた。
 魔王城の料理人が腕によりをかけた逸品だ。

 香り。
 盛り付け。
 温度。

 どれも、商会の幹部たちの舌を満足させるに足る。

 そして――
 彼らの視線が、自然とセリスに集まっているのが分かる。

 優雅な所作。
 無駄のない動き。

 一瞬、セリスがこちらを見る。

(いかがでしょう?)

 そんな顔だ。

(……はいはい、完璧です)

 私は、内心で苦笑した。

 食卓は、終始、和やかだった。

 物流の話。
 作柄の話。
 街の噂話。

 ヴァルスは、決して前に出すぎない。
 だが、要所では的確に話を拾い、
 相手に“話しやすい男”という印象を刻み込んでいく。

 ――信用は、こうして積み上げる。

 食事が終わる頃には、
 ランドロスたちの表情は、すっかり柔らいでいた。

 帰り際、
 ささやかながら手土産を持たせる。

 都市部の加工品。
 保存の利く良質な食材。

「これは……」
 ランドロスが、目を丸くする。

「気持ちばかりです」
 ヴァルスが、微笑む。

 彼らは、明らかに上機嫌だった。

 ――実験ではない。
 ――これは、もう“商い”だ。

 客人たちの背が門の向こうに消えるのを見送りながら、
 私は、静かに確信した。

(……第一印象は、上々)

 商人ヴァルスは、
 この街に――
 確かに、根を下ろし始めていた。
 

 夜。
 屋敷に、ちょっとした騒動が起きた。

 賊が――数名。
 敷地内に侵入したのだ。

 商会からの探りか。
 それとも、越してきたばかりの金持ちを狙った、単なる強盗か。

 いずれにせよ、手際は悪くない。

 賊たちは、塀の死角を選び、
 足音を殺し、
 まるで以前からこの屋敷を知っているかのように動いた。

 裏手。
 使用人用の小窓。

 細い工具が差し込まれ、
 鍵が、かすかな音を立てて外される。

「ちょろいもんよ」
 賊の一人が、鼻で笑った。
「越してきたばかりの成金は、用心が足りねえ」

 窓枠に足をかけ、
 身を滑り込ませようとした、その瞬間。

 ――寒気。

 背筋を撫で上げるような、
 本能的な違和感。

 賊は、反射的に振り返った。

 そこにいた。

 ――山のような、大男。

 いつから立っていたのか、分からない。
 気配すら、なかった。

 大男は、すでに大剣を振り上げている。
 月明かりを受けた刃が、鈍く光った。

(……背中を、取られた?)

 理解が、遅れて追いつく。

(この俺が?
 いつの間に?)

 大男の目が、赤く光った。

 獣のそれだ。
 知性ではなく、捕食のためだけに据えられた眼。

(――殺される)

 思考よりも早く、
 本能が、全力で警告を鳴らした。

「……っ!」

 賊は、声も上げず、
 一目散に駆け出した。

 塀を越え、
 闇へと溶けるように逃げ去る。

 背後から、追撃はない。

 ただ、
 あの赤い眼だけが、
 いつまでも脳裏に焼き付いていた。

 翌朝。

 朝の光が、屋敷の窓をやわらかく照らしている。

 食堂では、
 いつもと変わらぬ朝が始まっていた。

「グラド。
 よくやってくれた」

 ヴァルディスが、静かに言う。

 グラドは、無言でうなずいた。
 それだけだ。

「なるほど」
 ヴァルディスは、紅茶の湯気を眺めながら続ける。
「人間とは、ずいぶん姑息なことをするものだな」

 私は、カップを手にしながら問いかけた。

「……しかし、
 わざと取り逃がしてよかったのですか?」

 賊を捕らえることも、
 命を奪うことも、
 あの場では容易だったはずだ。

 ヴァルディスは、口元だけで笑った。

「なに」
「これで十分だ」

 視線を、窓の外へ向ける。

「屋敷は“強固”であることが、
 今頃、街に知れ渡っているだろう?」

 恐怖は、噂になる。
 噂は、勝手に広がる。

 ――剣を振るうより、
 よほど効率的だ。

 その横で、
 メイド服姿のセリスが、
 優雅な所作で紅茶を注いでいる。

 昨夜の騒動など、
 まるで無かったかのように。

「おかわり、いかがですか?」

 にこやかな笑顔。

 すがすがしい朝だった。

 ――あまりにも。

08 仕組まれた邂逅


 その日、魔王城に、緊張が走った。

「またしても、勇者が近づいてきております。
 現在、カレディアの街の付近――」

 玉座の間に響く、伝令の声。
 私は、その地名を聞いた瞬間、思わず眉をひそめた。

「カレディア……。
 王都から、もうそこまで?」

 距離を考えれば、早すぎる。
 前回、こちらが“親切にも”スタート地点まで強制送還してあげたはずなのに。

「前より、ペースが上がっていないか?」

 隣で腕を組むヴァルディスが、低く言う。

「ええ。
 おそらく……前回の件で、よほど国王にお灸を据えられたのでしょうね」

 脳裏に浮かぶのは、私の父――国王が、
 玉座の前で勇者を正座させ、延々と説教している光景。

「……ふむ。
 ならば、こちらも何か手を打っておいた方が良さそうだな?」

 ヴァルディスの問いに、場の視線が集まる。

「私が、何か策を――」

 真っ先に手を挙げたのは、参謀セリスだった。
 忠義に厚く、行動も早い。実に優秀な参謀である。

 だが――

「いいえ。
 “策”なら、すでにございます」

 私は、即答した。

「はやっ」

 セリスが、素で絶句する。

「ほう……?」

 ヴァルディスの口元が、わずかに吊り上がった。

「おもしろい。
 我が姫エリシアよ。そなたの策とやら、聞かせてもらおう」

 ……やはり。
 こういうのは得意だ。いや、大好きだ。
 生前、
 私が“悪役令嬢”と呼ばれていた所以は、きっと、こういうところなのだろう。

「はい。
 まず、今回も――セリス卿に、ご協力いただきたいと思います」

 私は、にこやかに微笑み、セリスへと視線を向けた。

「――っ」

 セリスの顔が、みるみる引きつる。

 嫌な予感がしたのだろう。
 彼女は反射的に両手で身体を覆い、一歩、後ずさった。

 ……ええ、セリス卿。
 その予感、残念ながら――

「敵中、です」

 私は、心の中でそう告げながら、静かに言葉を続けた。

 ――俺は、勇者クラウス。

 祖国アウレリアの期待と重圧を、その身に背負う男だ。

 今、俺は魔王城へと向かっている。
 目的は、ただ一つ。

 魔王に囚われた、第三王女――
 エリシア様を、必ず救い出すこと。

 前回、俺は奴らの姑息な罠にかかった。
 油断し、慢心し、結果として――屈辱的にも、元の地点へと送り返された。

 だが、もう二度と同じ過ちは繰り返さない。

 俺は昼夜を問わず走り続けてきた。
 休息は最低限、立ち止まることもほとんどなかった。

 そして――
 もうすぐ、カレディアの街に着く。

 空を見上げれば、太陽はすでに傾き始めている。
 日が落ちる前に、街へ入らなければ。

「……先を急ごう」

 そう呟いた、そのときだった。

「きゃあっ!」

 女性の悲鳴。

 近い――すぐそこだ。

「なにごとか!」

 俺は反射的に声を上げ、音のした方へと駆け出した。

 路地の先。
 そこにいたのは、ひとりの神官の女性と――
 いかにも賊といった風体の男たち、数名。

 女性は、賊の一人に腕をつかまれていた。

「はなしてください……!
 はなしてください……!」

 泣きながら、必死に抵抗している。

「威勢のいい女だな」
「へへ……さあ、こっちへ来い」

 賊たちは下卑た笑みを浮かべ、じりじりと距離を詰める。

 ――許せるはずがない。

「やめろ!」

 俺は咄嗟に剣を抜き、賊たちの前に立ちはだかった。

「なんだ、邪魔するな!」

 男たちが刃を構え、歯向かってくる。

 だが――

 数合、剣を交えただけで、勝敗は明らかだった。
 一太刀、地面を裂いた。賊の顔色が変わった

「……くそっ、こいつ、強いぞ!」
「かなわねえ、逃げろ!」

 賊たちは叫びながら、散り散りに逃げ去っていった。

 静寂が戻る。

 地面に崩れ落ちていた神官の女性が、ゆっくりと顔を上げた。

「……助けていただき、ありがとうございます」

 涙に濡れた瞳で、そう言って俺を見る。

 夕暮れの光が、彼女のその美しい横顔をやさしく照らしていた。
 乱れた髪、震える肩、それでも必死に礼を述べる、その姿。

 ……

 …………

 ――好きだ。
 

 俺は身分を明かした。

「まあ……勇者様だなんて。
 お礼をさせてください」

 セリスと名乗った神官の女性は、そう言って微笑んだ。

 カレディアの街の食堂で、
 俺とセリスは向かい合い、食事を共にしている。

「神の導きに従い、一人旅をしているのです。
 突然、男たちに絡まれてしまって……」

「セリス殿のような美しい方なら、そういうこともあるでしょう」

「まあ、勇者様はお上手ですね」

 くすりと笑う。
 笑顔も、かわいい。

 食事が終わるころ。

「勇者様は、これからどちらへ?」

「まっすぐ、魔王城を目指している」

「まあ、奇遇。私と方向が同じです」

 一拍置いて、上目遣いで。

「もし……勇者様がよろしければ、
 途中まで、旅をご一緒させていただけませんか?」

「いいですとも!」

 気づけば、俺は、かぶせ気味に答えていた。

09 勇者の恋


 その夜、俺とセリスは同じ宿に泊まった。
 ――もちろん、部屋は別々だ。俺はそんな無粋な男ではない。

 翌朝、ともに街を後にする。
 朝日が、並び歩くセリスの横顔を照らし、きらきらと輝いて見えた。

 彼女が一緒では、今までのように駆けるわけにはいかない。
 歩調を合わせ、たわいもない話を交わす。

「ええ、クラウス。そんな罠に引っかかってしまったの?
 私がいれば、見破ってあげられたのに」

 軽口を叩くようにもなった。

 夜。
 近くに街がなく、森で野宿することになる。

 火を焚き、セリスがスープを作ってくれた。

「はい、どうぞ。熱いから気をつけてね」

「ありがとう。……ふーふー。うん、うまい」

「そう? お口に合ってよかった」

 うふっと笑う。

 ……これは、まるで恋人か、夫婦のようではなかろうか。
 なかろうか!!
 
 毛布にくるまり、俺の肩にもたれかかるセリス。
 やがて、静かな寝息を立て始める。

 焚き火の光が、その横顔を照らす。

 こんな旅がずっと続けばいいのに――
 そんなことを、ふと思った。

 翌日、隣の村に到着した。
 ちょうど、祭りが開かれている。

「ちょっと、見て回らない?」

 はしゃぐセリス。
 まあ、いいだろう。

 アクセサリーの露店で、セリスが立ち止まる。
 青い水晶の首飾りが、どうやら気に入ったらしい。

「旦那。彼女さんに、プレゼントどうかね?」

「か、彼女!?」

 慌てて否定しかけた俺に、
 セリスは首飾りを胸元に当て、にこりと笑う。

「……似合うかな?」

「買います」

 即答だった。

 そのとき、花火が打ち上がった。

「きれい……」

「ねえ、あっちから、よく見えそう。行ってみましょう」

 手を引かれ、足を速める。

 ――俺は、いま、セリスと手をつないでいる。
 手を……つないでいる、だと!?

 小高い丘の上。
 人影はない。花火が、よく見える。

 手をつないだまま、空を見上げる。

 心臓の鼓動が、やけにうるさい。

 俺は、この気持ちを伝えたい。

「セリス。俺は――」

 その瞬間だった。

 セリスの手が、俺の手から引きはがされる。

 見れば――

 武装した大男が、
 セリスを抱え、そこに立っていた。
 男の頭には角。
 魔族!

「はなして! クラウス、助けて!」

 咄嗟に剣を構える。

 俺のセリスを返せ!

 魔族の男が、嗤う。

「この娘が、ただの神官だと思っていたか。
 この娘は、我が預かる。
 取り戻したければ――“最果ての塔”まで来るがよい」

「クラウス――!」

 その叫びと同時に、まばゆい光。

 気づけば、大男もろとも、セリスの姿は消えていた。

「……転移魔法か!」

 地面に落ちていたのは、
 先ほど買ってやった、水晶の首飾り。

 俺はそれを拾い上げ、強く握りしめる。
 掌の中で、青が冷たく光った。
 
 それだけが――
 彼女が、確かにここにいた証のようだった。

「待っていろ、セリス。
 すぐに助けに行く!!」

 そう叫び、俺は駆けだした。
 

 魔王城。

「最果ての塔は遠い。
 半年はかかるだろう。しかも、魔王城とは正反対の地だ」

 玉座に深く腰掛けたヴァルディスが、満足そうに腕を組む。

「これで、だいぶ勇者の足を遅らせることができる。
 今回の策も、実に見事であったな。エリシアよ」

 その声には、隠しきれない喜色が滲んでいた。

「ありがとうございます」

 私は軽く一礼し、口元に笑みを浮かべる。

「やはり、私の読み通りでした。
 勇者は――むっつりなうえに、ちょろいです」

「はっはっは!」

 ヴァルディスは大きく笑った。

「否定できぬな。
 正義感が強く、恋に不慣れ。扱いやすいこと、この上ない」

 そして、視線を横に向ける。

「そして、セリス!
 よくぞ勇者を策にはめてくれた。
 お前の功績は、まことに大きいぞ!」

「は、はい……ありがとうございます、魔王様……」

 そう答えたセリスは、頭を下げながらも、どこか歯切れが悪かった。
 称賛されているはずなのに、表情が晴れない。

「……どうした、セリス?」

 怪訝に思ったヴァルディスが、問いかける。

「いえ……その……」

 セリスは指先をもじもじと絡めながら、視線を泳がせた。

「あの勇者……
 思っていたほど、悪いやつではなかったな、と……」

 一瞬、玉座の間に沈黙が落ちる。

「と、いいますか……
 すこし、良心が痛むと申しますか……」

 消え入りそうな声だった。

 それを聞いて、私は思わず、まじまじとセリスを見つめる。

(……あら)

 魔族であり、参謀であり、冷静沈着。
 そういう存在だと思っていたのに。

(魔族なのに、人間の私より人間らしい……
 いえ、それどころか――)

 私は、内心で小さく頷いた。

(意外と、乙女なのでは?)

 私は、口元の笑みを深める。

(ふふ……これは、少し作戦の方向性を変えたほうが良いかも。)

10 静かなる浸透


「――この地方の有力貴族を、紹介してほしいと?」

 ここは、ヴェルハイムにある食糧商会の応接室。
 重厚な机を挟み、ランドロスは腕を組んだまま、ヴァルスを見つめていた。

 しばし、低く唸るように考え込み――やがて、口を開く。

「それならば……ディートリヒ・フォン=グライツ様だろうな」

 その名を口にした瞬間、部屋の空気がわずかに引き締まる。

「しかし、ヴァルス。
 近頃、実績を上げつつあるとはいえ、この街ではまだ新顔だ。
 私の紹介といえども、そう簡単に会える相手ではないぞ」

 そう前置きしつつ、ランドロスは声を落とした。

「――もっとも、大きな声では言えんが。
 ディートリヒ様は、利に聡いお方でな。
 それなりの手土産があれば、話を聞いてもらえる可能性はある」
 その言葉に、ヴァルスは小さく笑った。

「そうだろうと思っていた。
 手土産なら、すでに用意してある」

「ほう……?」

 ランドロスの眉がわずかに動く。

「それは、どのような品だ?
 金か、それとも珍しい品物か?」

「どちらでもない」

 ヴァルスは、即答した。

「情報だ。
 平たく言えば、儲け話だな」

 一瞬、ランドロスの目が細まり――次の瞬間、はっきりと輝いた。

「……その話。
 くわしく聞かせてもらおうか」

 その日。

 ディートリヒ・フォン=グライツの屋敷に、二人の男が訪れた。

 一人は、ヴェルハイム食糧商会の長――ランドロス。
 もう一人は、西方連合から来たという商人、ヴァルス。

 事前にランドロスから、
「手土産に“大きな儲け話”がある」
 と聞かされていたディートリヒは、上機嫌で二人を迎え入れた。

「初めまして。
 ヴァルスと申します」

 ヴァルスは丁寧に頭を下げつつ、さりげなく相手を観察する。

 なるほど。
 噂に違わぬ――欲が、隠しきれていない男だ

「最近、この辺りで名を売っていると聞いていたが……
 なるほど、ヴァルスか。よく来た。くつろぐがいい」

 挨拶もそこそこに、話題はすぐに本題へと移った。

 儲け話の概要は、こうだ。

 物流経路の改善により、近い将来、小麦の流通量が増える。
 それに伴い、小麦の価格は、大きく下落する見込みだ。

 そこで――その前段階で、先物取引を行う。

 今よりやや安い価格で、
「一定量の小麦を、この価格で売る」
 と都市部の取引先と契約を結ぶ。

 やがて、小麦の価格は、さらに大きく下がる。
 その時点でも、契約上は、
 暴落前の価格を確保したまま、小麦を売ることができる。
 
 差額は、すべて利益となる。

「……なるほどな」

 ディートリヒは、顎に手をやった。

「だが……話がうますぎる。
 もし外れたら、どうする?」

「先物取引に必要な資金は、私が出します」

 ヴァルスは、落ち着いた声で続ける。

「もし損が出た場合――
 その金は、返していただかなくて結構です」

 室内が、静まり返った。

「……ほう?」

 ディートリヒの目が、はっきりと欲に染まる。

「ディートリヒ様への“お近づきの印”です」

 ヴァルスは、わずかに笑みを浮かべた。

「私が、どれほど使い物になるか。
 ぜひ、お示ししたい」

「我が商会も、この話に乗るつもりです」

 ここで、ランドロスが口を挟む。

「ディートリヒ様も、ひと口いかがかと」

 しばしの沈黙の後――
 ディートリヒは、豪快に笑った。

「ははは!
 よかろう、その話、乗ってやる!」

 まったく、迷いはなかった。

 ――強欲な人間ほど、扱いやすい。

 その様子を眺めながら、
 ヴァルス――
 いや、魔王ヴァルディスは、心の中でそう思った。

 ヴェルハイムにある、商人ヴァルスの屋敷。

 応接室の窓から差し込む午後の光はやわらかく、
 上質な調度品に反射して、落ち着いた空気を作っていた。

 メイド――セリスが淹れてくれた紅茶を口に含みながら、
 向かいに腰掛けるヴァルディスと、言葉を交わしていた。

「ヴァルディス。
 すっかり商会は、“眠りの森”経由の輸送を信頼したようですね」

 私の言葉に、ヴァルディスは余裕の笑みを浮かべる。

「ああ。
 今のところ、すべての荷が無事に運ばれているからな」

「疑う理由がありませんものね」

 紅茶の香りが、ふわりと立ちのぼる。

「では……
 次の手は、眠りの森の輸送能力の大幅な向上、
 といったところでしょうか?」

「その通りだ、エリシア」

 ヴァルディスは頷き、地図の一点を指でなぞる。

「今は細い山道に過ぎない。
 これを整備し、森の奥を一直線に突っ切る――輸送幹線をつくる」

「……大工事になりますね」

「そうだな。
 魔族総出の、突貫工事だ」

 私は小さく息をつく。

「眠りの森に幹線道路が完成すれば、
 商品の輸送だけでなく、兵站輸送にも使えますね。
 結果として、アウレリアの軍事力も向上する」

「そう」

 ヴァルディスは、楽しげに目を細めた。

「ただし――
 アウレリアの軍隊も、我々魔族の付き添いなしでは、
 眠りの森を通ることはできない」

「魔獣、ですか」

「ああ。
 森は、依然として危険だ。
 我々が抑えていなければ、到底、安全は保てん」

 私は、紅茶のカップを置く。

「つまり……
 軍隊でさえ、魔族の手の内に入る、ということですね」

「ふふ……そういうことだ」

 二人の間に、静かな笑みが交わされた。

 その様子を、紅茶のおかわりを用意しながら、
 セリスはじっと眺めていた。

 そして、ため息混じりに口を開く。

「……そういうお話をなさっているとき、
 お二人そろって、本当に“悪い顔”になりますよね」

 呆れたような声だった。

「ほんと……
 『似たもの夫婦』とは、まさにおふたりのことですね」

11 剣士見習いの矜持


 ヴェルハイムにある、商人ヴァルスの屋敷。

 ――その日。

 ヴァルディスが、一人の少女を連れ帰ってきた。

 剣士姿。
 短く切り揃えられた黒髪。
 年の頃は、私と同じくらいだろうか。
 背筋を伸ばし、まっすぐこちらを見ているその瞳には、妙な覚悟の色があった。

「紹介しよう。彼女は、カエデ。剣士見習いだ」

 ……剣士?

 思わず、セリスと顔を見合わせる。
 ふたり揃って、きょとん、である。

「ランドロスに頼まれてな」
 ヴァルディスは、少し困ったように肩をすくめた。
「ある知り合いの娘だそうだ。住み込みで働かせてほしい、と」
「商会からの頼みだ。無碍にもできん」

 なるほど。
 商会の“お願い”ね。

(……つまり、密偵、という可能性もあるわね)

 まあ、ヴァルディスが承知した以上、問題はないのだろう。

 その少女――カエデは、一歩前に出ると、きっちりと剣士の礼を取った。

「カエデ・ミナセと申します。よろしくお願いします」

 硬い。
 いかにも“剣士”という感じの挨拶だった。

 ヴァルディスは、順に私たちを紹介する。

「こちらが、私の妹のアレイシアだ」

「よろしくお願いします。お嬢様」

 次に、セリス。

「そして、メイドのセリス」

「よろしくお願いします!!」

 逐一、律儀に頭を下げる。
 真面目すぎて、少し面白い。

「あと、庭師のグラドがいる。今は裏で仕事中かな。後で紹介しよう」

 そう言ってから、ヴァルディスがこちらを見た。

「さて。カエデのこの屋敷での仕事だが……アレイシア、どうしたものかな?」

 その瞬間だった。

「はい!」

 カエデが、前のめりで声を上げる。

「まだ見習いではありますが、多少剣には自負がございます!」
「世間は物騒です。ぜひ、このお屋敷の警備、皆さまの警護をお任せください!!」
「この屋敷の安全、私が守ってごらんにいれます!!」

 熱意が、すごい。
 まっすぐすぎて、少し眩しいくらいだ。

 そんな彼女に、

 私は、

 メイド服を着せた。

「…………」

「お、お嬢様?」
 挙動不審になりながら、カエデが自分の格好を見下ろす。
「この、服は……?」

「警護は、グラドで十分間に合っています」
 私は、淡々と告げた。
「カエデには、このセリスの下で、メイドとして働いてもらいます」

「……な?」

 完全に固まるカエデ。

「わ、私はこれでも剣士の端くれです!」
「大変失礼ながら、庭師の方に後れを取るとは思えません!!」
 身振り手振り、必死に訴えかけてくる。

「いいでしょう」

 私は、あっさりと言った。

「では、グラドと勝負してください」
「グラドから一本取れたら、あなたに屋敷の警護をお願いしましょう」

 そして、付け加える。

「もっとも……」
「グラドは強いので、ハンデを差し上げます。両手使用禁止で」

「……!」

 カエデの眉が、ぴくりと動いた。

「庭師殿に、そこまでのハンデとは……
 私も、まだまだ未熟と見られているのでしょう。
 ですが――承知しました。
 その勝負、剣士としてお受けいたします」

「では、今から庭で」
「セリス、グラドを呼んできてください」

 屋敷の庭。

 待ち構えるカエデの前に――
 “それ”が現れた。

 ……山?

 そう思ったのも、無理はない。
 それがグラドだと認識するまで、数秒を要した。

「ちょっ……!?」
 カエデが慌てふためく。
「……庭師と伺っていましたが……?」
「この方、どう見ても庭師の体格じゃありませんよね!?」

「ですから、言いましたでしょう」
 私は涼しい顔で答える。
「グラドは強い、と」

 ほどなくして。

 両手を縛られたグラドと、カエデの試合が始まった。

「……」

 無言で立ち尽くすグラド。

 対するカエデは、合図と同時に表情が変わる。
 集中。
 一瞬で、剣士の顔だ。

 直進――かと思わせて、手前でフェイント。
 すっと横に跳び、側面から一撃。

 速い。
 うまい。

(なるほど。一本取ればいい、という割り切りね)

 だが。

 グラドは、その一撃をひょいとかわすと――

「ちょん」

 軽く、カエデの足を払った。

「わっ――!」

 くるん、と一回転。
 勢いよく、すっころぶ。

「いたっ……」

 起き上がれない。

「それまで」

 私が告げる。

「約束通り。あなたには、メイドをやってもらいます」

「……はい」

 すっかり意気消沈するカエデ。

 だが、私は続けた。

「もっとも、それで剣が鈍るのも気の毒です」
「日々の仕事の傍ら、グラドから稽古をつけてもらうといいでしょう」

「……!」
「よ、よろしいのでしょうか!?」

 一瞬で、目がきらきらする。

「先生!」
「どうぞご指導、よろしくお願いします!!」

 グラドに、深々と頭を下げるカエデ。

「……」

 グラドは、ほんのり照れていた。

「では、メイドとしての仕事を教えます」
 セリスが、腕を組んで言う。
「しっかり、覚えるように」

「……はい」

「メイドは、奉仕の精神がすべてです」
「たかがメイドと侮ってはいけませんよ」

「……はい」

「それから」
 セリスは、にこりと微笑む。
「私のことは、セリスメイド長と呼ぶように」

「……はい。セリスメイド長」

 やけに生き生きと指導するセリス。
 すっかりしおらしくなったカエデ。

 その様子を眺めながら、
 ヴァルディスが、怪訝そうに私を見た。

「……エリシア」
「そなたが時折見せる、その“悪女っぷり”は、一体なんなのだ?」

12 剣士見習いの試練


 私は、カエデ・ミナセ。
 剣士見習いだ。

 今は、わけあって――
 ヴェルハイムにある、商人ヴァルス様のお屋敷で働いている。

 ……。

 護衛として、ではない。

 メイドとして、だ。

 最初にこの事実を突きつけられたとき、正直、頭が真っ白になった。
 剣を握ることしか知らない私が、メイド。
 どう考えても、場違いだ。

 これまで、私は男同然に育ってきた。
 剣の腕には、誰にも負けないという自負がある。
 だが――

 掃除。
 洗濯。
 配膳。
 裁縫。

 普通の女の子が嗜むそれらは、まったく、できない。

 できる自信も、なかった。

 そんな私に、セリスメイド長は、静かに言った。

「メイドに大切なのは、経験ではありません。
 奉仕の心――それがすべてです」

 不思議と、
 「形だけの言葉ではない」と思えた。
 理由は分からない。けれど、妙に説得力があった。

 セリスメイド長は、
 女の私でさえ、思わず見惚れてしまうほど凛とした美しさを持つ方だ。
 立ち居振る舞い、言葉遣い、視線の置き方。
 どれを取っても、非の打ち所がない。

 ――メイドの鏡。

 きっと、数え切れないほどの経験と実績を積まれてきたのだろう。

(私とは、分野は違うけれど……)

 それでも、見習うべき点は、確かにある。
 そう思えた。

 とはいえ。

 メイドの仕事は、やはり、四苦八苦の連続だった。

 姿勢。
 歩き方。
 物の持ち方。
 挨拶の角度。

 そこから始まり、
 トレイの持ち方、配膳の仕方。
 掃除、洗濯、繕い物。
 その他、細々とした雑多な仕事。

 メイドの仕事は、思っていた以上に多岐にわたる。
 そして――奥が深い。

 力任せでは、どうにもならない。
 相手の立場を考え、空気を読み、先を想像する。

(……剣とは、まるで違う)

 それでも。

 やると、決めたことだ。

 最後まで、やり抜く。
 それが、私の――剣士としての矜持だ。

 アレイシアお嬢様とは、仕事の合間に、ときおり言葉を交わす。

 最初の印象は――
 正直に言えば、少し、怖い人だった。

 どこか、ヴァルス様と似た雰囲気がある。
 静かで落ち着いていて、どこか底が見えない。
 さすが、ご兄妹だと思った。

 けれど。

 接しているうちに、その印象は少しずつ変わっていった。
 普段は、あどけない、やさしげな年頃の令嬢の雰囲気だ。

「気軽に、アレイシアって呼んでね。カエデ」
「仕事は、慣れてきた?」

 驚くほど、気さくに声をかけてくれる。
 私の失敗にも、笑って付き合ってくれる。

 普段は部屋にこもって熱心に本を読まれていたり、
 ヴァルス様とどこかへ出かけられたりしている。
 教養もあり、私の知らないことを、いろいろ教えてくれる。

 ――さすが、あの兄にこの妹。

 聞けば、私と同い年だという。
 大変失礼ながら、
 女友達とは、こんな感じなのかもしれない、と思うことがある。

 だが、ときどき。
 年上のお姉さんと話しているような気分になる。

 不思議な人だ。

 時間が空いたときは、グラド先生に、稽古をつけてもらっている。

「技に、執着している」
「基礎を、怠るな」

「お前の剣は速い。だが……」
「速さを、信じすぎだ」

「……力で、勝とうとしている」
「相手を、見ていない」

「剣は、振るうものではない」
「……“通す”ものだ」

 剣の話になると、先生は、よく喋る。
 ――驚くほど、喋る。

 普段の寡黙さとの落差が、すごい。

 正直、
「俺の背中を見て育て」
 というタイプの指導を想像していた。

 だが、全然、違った。

 身振り手振りで説明し、
 手本を見せ、
 必要なら手を添えて、何度でも。

 今まで出会った教官の中で、
 一番、丁寧で、的確で、分かりやすい。

 その理由が気になって、
 一度、素朴な疑問をぶつけたことがある。

「俺も、小さいころは……とても、弱かった」

 意外な答えだった。

「カエデ。才能は、お前のほうが、よっぽど上だっただろう」

 だが。
 良い師に出会えたから、ここまで来られた。
 だからこそ、分かるのだと。

 ――手本を見せること。
 ――やらせてみること。
 ――褒めること。

 それが、どれほど大切か。

 なるほど。
 そんな過去がおありだったのか。

 そして、先生は、少し照れたように付け加えた。

「それと……」
「俺は、剣が好きだ」

 一拍。

「その剣について、語れる相手ができた」
「……とても、楽しいのだ」

 その言葉は、
 なぜか、胸の奥に、温かく残った。

 ――ここでなら。

 剣も。
 奉仕も。

 どちらも、学べる気がする。

 私は、そう、思い始めていた。

13 静かなる救済


 その月は、記録的な長雨が続いた。

 雲は切れ目なく空を覆い、雨は昼夜を問わず降り続けた。
 やがて、アウレリア王国を東西に流れるジオ川の水位は限界を超え
 ――下流域で、大規模な洪水が発生した。

 川沿いの村や街は、次々と濁流に呑まれる。
 田んぼは洗い流され、畑は泥に埋まり、
 収穫を目前にしていた作物は壊滅状態だった。

 被害は広範囲に及び、
 このままでは、深刻な飢饉が起きかねない――
 そんな不安が、声にならないまま、周辺一帯を覆い始めていた。

 その報が、ヴェルハイムにある商人ヴァルス邸にもたらされたときのこと。

 報告を聞き終えた瞬間、
 ヴァルディスの目が、わずかに光った。

「――好機だな」

 低く、確信に満ちた声だった。

 私は、紅茶のカップを置き、視線を向ける。

「支援、ですね?ヴァルディス」

「ああ」

 ヴァルディスは、頷く。

「商会にも、貴族にも、すでに食い込んだ。
 だがな……名声を“個人”に集約するには、まだ足りん」

 一拍置いて、続ける。

「今回の騒動で、民衆からの名声を得る」

 地図の上で、彼の指がジオ川流域をなぞった。

「被災地は、魔族領にも近い。
 魔獣の出没も多く、周囲は眠りの森に囲まれている。
 ――通常の物資支援は、ほぼ不可能だ」

 私は、静かに頷く。

「ですが……私たちなら、それができる」

「そういうことだ」

 ヴァルディスは、口元をわずかに吊り上げた。

「商人ヴァルスが、身を削って慈善に踏み出す。
 表向きはな」

「ふふ……」

 思わず、笑みが漏れる。

「また、ふたりそろって“悪い顔”をしていますよ」

 脇でお茶を淹れていたセリスが、また、呆れた顔をした。

 食糧商会・応接室。

「ジオ川の洪水被害にあった街へ、物資を送る、だと?」

 商会の長――ランドロスは、腕を組んだまま、半ば呆れたように言った。

「気の毒なのは分かるがな。
 救ったところで、何の得にもならんぞ?」

 ヴァルスは、穏やかな表情を崩さない。

「困っている人を放っておけない性分でね」

 軽く肩をすくめる。

「眠りの森の輸送経路を使えば、輸送自体はそれほど難しくない」

 ランドロスの眉が、わずかに動いた。

「……あそこを使う、か」

「そこで、お願いがある」

 ヴァルスは、静かに切り出した。

「穀物を、通常より安く私に卸してほしい。
 なに、商会に損をさせる話ではない」

 ランドロスは、しばし黙り込む。

 やがて、低く息を吐いた。

「……まあ、お前の言うことだ。
 何か考えがあってのことだろう」

 顔を上げ、にやりと笑う。

「いいだろう。その話、乗ろうじゃないか」

「感謝する」

 ヴァルスは、深く頭を下げた。

 ◇

 救援物資を満載した商人ヴァルスの馬車隊は、
 被災地である街――ゼオグリフへ向けて出発した。

 ヴァルス自身も同行。
 私も、そして――
 屋敷の使用人であるセリス、グラド、カエデも、共に馬車に乗り込んだ。
 ヴァルス一家総出での支援だった。
 それが、どういう意味を持つか――世間が放っておくはずもない。

 眠りの森に入ると、
 幹線道路の上を、長蛇の馬車列が粛々と進んでいく。

 私は、先頭の馬車の荷台に揺られながら、ふと思った。

(……そういえば)

 眠りの森を通るのは、これが初めてだった。

 かつては“人を拒む森”と恐れられた場所。
 だが今、工事は着々と進み、道はかなり整備されている。

 馬車の乗り心地も、思ったより悪くない。

 木々の間を抜ける風は湿り気を含み、
 遠くで魔獣の気配が揺らぐのを感じるが――
 不思議と、恐怖はなかった。

(この道が……)

(人を救うために使われる日が来るなんて)

 私の隣では、
 荷台の窓に張り付いて、
 外を眺め、感嘆の声をあげている。

 幹線道路は、静かに、しかし確実に、
 新しい役割を帯び始めていた。

 一日もかからず、ゼオグリフへ到着した。

 被害の光景は、事前の報告どおり――いや、それ以上だった。
 広大な田畑はすべて水に沈み、境界も畝も判別できない。
 家々は、まるで湖の上に建つ建物のように、水面へ歪んだ影を落としている。

 街は、静まり返っていた。
 人の気配はある。だが、生きる音が、消えかけている。

 私たちは、まず高台へ荷を下ろした。
 ここなら、さらなる増水があっても安全だ。

 同時に、緊急の避難所を設営。
 天幕を張り、簡易の仕切りを作り、炊き出しの準備に取りかかる。

 動きに、無駄はなかった。

 商人ヴァルス本人は、街へ下りていく。
 支援物資の到着、避難場所の案内、炊き出しの告知――
 一軒一軒、声をかけて回った。

 疲れ切った人々にとって、
 それはまるで、闇の中に灯された明かりだっただろう。

 街の人々の目に、
 彼はきっと――救世主のように映ったはずだ。

「ここは任せた。
 そなたなら、問題なく取り仕切れるだろう?」

 高台の施設の取りまとめは、
 ヴァルディスから、私に一任された。

 本部として設営された天幕の中。
 私は地図を広げ、次々と指示を飛ばす。

 セリスとグラド、それぞれが中隊をまとめ、
 トップダウンで命令を流す。

 手下たち
 ――実際は、魔王配下の魔族の皆さんだが――
 誰一人として戸惑うことなく、黙々と働き始める。

 動きは統制され、正確で、迅速だった。

 やがて――
 避難所には、街の人々が続々と集まり始めた。

 疲れた顔。
 不安に揺れる目。

 そんな中で、

 十四歳の少女が、
 まだ幼さの残る声を張り上げ、
 多くの大人たちをまとめ上げている。

 その光景に、
 人々は、一様に驚愕したようだった。

 もちろん、
 「商人ヴァルスの妹、アレイシア」という名を、
 広めることも忘れてはいない。

 名は、静かに、しかし確実に、
 人々の記憶へ刻まれていった。

 災害時は、必ず治安が悪化する。

 支援物資の略奪。
 混乱に乗じた暴力。

 考えうることだ。

 だからこそ、夜の警備は怠らない。

 ――そして、やはり。

 賊の侵入があった。
 あるいは、堂々たる襲撃と言ってもいい。

 だが。

 グラドとカエデが、都度、これを撃退した。

 影のように現れ、
 気づけば、賊は地に伏している。

 商人の護衛が相当の手練れであることが、
 あっという間に知れ渡り、
 結果として、
 賊は、ほどなくして近寄らなくなった。

 夜の避難所には、
 恐怖ではなく、静かな安堵が満ちていく。

 焚き火の明かりの下、
 人々は、ようやく――眠ることができた。

 その中心に、
 商人ヴァルスと、その妹アレイシアの存在があった。

 名声は、
 叫ばずとも、
 確かに、根を張り始めていた。

14 道は王都へ続く


 眠りの森の幹線道路を、数台の馬車が進んでいた。

 それは単なる移動ではない。
 王都ルクシオンへ向かう、公式な同行――
 商人ヴァルスが、民と商会の世界を離れ、
 初めて王権の中枢へと踏み込む旅だった。
 
 整備された道の中央を、ゆったりと進む一行。
 その中でも、ひときわ装飾の整った馬車があった。

 乗っているのは――
 ヴェルハイムの商人、ヴァルス。
 そして、
 サウスヴェル地方を治める貴族、ディートリヒ・フォン=グライツ。

 馬車は、眠りの森を抜け、王都へと向かっている。

「このたびは、陛下への拝謁の機会をお取り計らいいただき、感謝いたします」

 ヴァルスは、改めて頭を下げた。

「なに、わが友の頼みだからな」

 ディートリヒは、鷹揚に笑う。

「それに――
 先日のゼオグリフ救済の英雄を、王に紹介できるのだ。
 私としても、鼻が高い」

 そう言って、窓の外へ視線を向けた。

「しかし……はじめてこの道を通るが、壮観なものだな」

 馬車の左右には、眠りの森の深い木々が高くそびえ、
 その合間から、やわらかな日光が差し込んでいる。

「幹線道路の工事は、どこまで進んでいる?」

「まもなく完成するでしょう」

 ヴァルスは、穏やかに答える。

「本日は作業を休ませていますが」

(巨人族や翼竜などでごった返している工事現場など、
 さすがに見せられないからな)

 ディートリヒは、満足そうに頷いたが、
 すぐに、ふっと表情を引き締める。

「……完成後、本当に軍の兵站として使えるのか?」

 探るような視線。

「商人の道が、軍の命脈になる。
 王がどう判断するかは、別の話だぞ?」

 ヴァルスは、一瞬も迷わず答えた。

「ええ。だからこそ、今回の謁見があります」

 静かな声だった。

「軍が使える“現実”を示せば、
 王が選ばぬ理由はありません」

 ディートリヒは、低く笑った。

「……なるほどな」

「なお、軍の使用に際しては」

 ヴァルスは、話を続ける。

「サウスヴェル地方として、
 通行税を徴収されるのがよろしいかと存じます」

 ディートリヒは、声を上げて笑った。

「いつもながら、そなたの抜け目のなさには感心させられる」

「商人ですから」

 ヴァルスは、控えめに肩をすくめた。

 ◇

 王都ルクシオン。
 王宮。
 謁見の間。

「こちらが、最近、
 わがサウスヴェル地方において功績を重ねている商人、
 ヴァルスでございます」

 ディートリヒの紹介に、王は玉座から穏やかに視線を向けた。

「ディートリヒ、遠路ご苦労であった」

 そして、ヴァルスに向き直る。

「ヴァルス。そなたのことは、すでに噂に聞いておる」

 王の声は、落ち着いていたが、確かな興味を帯びていた。

「眠りの森の物流経路を開拓したという偉業。
 見事である。
 さらに、私財を投じてゼオグリフを救済したと聞く。
 名声は、すでに王都にまで届いておるぞ」

 ヴァルスは、恭しく一礼する。

「陛下。こうしてお目通り叶い、光栄に存じます」

 顔を上げ、静かに続けた。

「眠りの森の幹線道路は、ほどなく全線の整備を終えます。
 その暁には、この道は――王国の力を広げる器となるでしょう」

 一拍。

「王国におかれましては――
 軍の展開と補給を支える幹線としてご活用いただくのが、
 最も実利にかなうかと存じます
 軍の展開力は、大きく向上するはずです」

 王は、ゆっくりと頷いた。

「その件については、すでにディートリヒから報告を受けておる。
 王国として、前向きに進めよう」

 ヴァルスは、再び深く礼をした。

 その一瞬、王の顔を静かに観察する。

(……この男が、我が姫の父君か)

(なるほど。
 善良そうな顔をしている)

「ところで、ヴァルス」

 王が、ふと思い出したように言う。

「そなたの妹君の活躍も、聞き及んでおる。
 ゼオグリフでの采配、実に見事だったそうだな」

 王は、微笑んだ。

「十四歳だとか?
 我が娘と、同じ年ではないか。
 感心なことだ。――ぜひ一度、会ってみたいものだ」

「ええ」

 ヴァルスは、穏やかに答える。

「ぜひ、次の機会には妹を伴い、改めてご挨拶申し上げたく存じます」

(……この魔王ヴァルディスの婚約者としてな)

 その言葉は、胸の内にだけ留められた。

 だが――
 この日の謁見は、確かに示していた。

 商人ヴァルスは、
 もはや一地方の成功者ではない。

 王国の中枢に、
 名と存在を刻み始めていた。
 

 ヴァルディスが、たくさんの土産を抱えて、王都から戻ってきた。
 皆で出迎える。
 
「おかえりなさい。お兄様。お疲れでしょう」

 私は、いつもどおりの調子で声をかける。

「国王陛下は、お元気でいらっしゃいましたか?」

 言葉を選んだ。
 カエデがそばにいる手前、
 “父上”とは呼べない。

「ああ。元気そうだったぞ」

 その一言に、胸の奥で小さく息をついた。

「それに……今度、アレイシアに会ってみたいと、そう言っておられた」

 胸の奥が、かすかに揺れる。

「ふふ……」

 思わず、笑みがこぼれた。

「その日も、近いのかもしれませんね。
 それで……お話のほうは?」

 私が知りたいのは、そこだった。

「ああ。眠りの森を、軍の兵站として使う話だが……
 陛下は、かなり乗り気であられた」

「……そうですか」

 静かに息を吐く。

「いよいよですね」

「ああ、いよいよだ」

 ヴァルディスの声は落ち着いていた。

「ああ、そうだ」

 ヴァルディスは、ふっと表情を和らげた。

「皆に、土産を買ってきた。
 まずは――カエデには、これだ」

「えっ、私ですか?」

 驚くカエデの声。
 包みを受け取って、ぱっと顔を明るくする。

 ――平和な光景。

 私は、その様子を眺めながら、胸の奥でそっと思った。

(大きな流れが、動き始めている)

(けれど……)

 この屋敷の中だけは、変わらず穏やかだ。

15 分岐する運命


 すでに、眠りの森の幹線道路は完成していた。

 今やこの道は、
 アウレリアの中央と、南の穀倉地帯――サウスヴェル地域を結ぶ、
 物流と兵站の主要動脈となっている。

 森の出入り口から都市へと続く道々には、
 いつの間にか宿場町が生まれ、
 馬車宿、倉庫、飲食店と、
 副次的な商業が次々と立ち上がっていた。

 人が集まれば、金が動く。
 金が動けば、街が育つ。

 眠りの森は、もはや「忌避すべき境界」ではない。
 人と物とを循環させる、王国の要衝となっていた。

 一方で――
 かつて南部と都市部を結んでいた旧来の迂回路は、
 見る影もなく通行量を失っていく。

 その道沿いで商いを営んでいた者たちは、
 店を畳み、別の土地へと移るか、
 あるいは、静かに姿を消した。

 繁栄は、平等ではない。

 だが、もはや誰もが理解していた。
 アウレリアにとって、
 眠りの森の幹線道路は、
 生活と国力を潤す、なくてはならぬ存在なのだと。

 ある午後のこと。

 ヴェルハイムにある商人ヴァルスの屋敷では、
 私とヴァルディスが、
 セリスの淹れてくれた紅茶を口にしながら、
 穏やかな談笑を交わしていた。

 窓の外からは、

「えいーーっ!」

 カエデが、グラドに稽古をつけてもらっているらしい掛け声が、
 風に乗って微かに届いてくる。

 平和な時間だった。

 ――だが。

 その空気を切り裂くように、
 一通の報せが、魔王城よりもたらされた。

 通知を読み終えたヴァルディスの顔から、
 ふっと笑みが消える。

「……勇者が、まもなく“最果ての塔”に到着するそうだ」
「予想より、早かったな」

 その言葉に、
 セリスがびくりと肩を震わせた。

 私は、紅茶を置き、軽く首を傾げる。

「勇者も、相当頑張ったのでしょうね」
「……愛の力、でしょうか」

 ちらりと、セリスの方を見る。

 彼女は、ティーポットを手にしたまま、
 ぴたりと動きを止めていた。

 私とヴァルディスのやり取りを、
 固唾を飲んで見守っている――
 そんな様子だ。

「では」

 私は、静かに言った。

「次の“策”を、準備しましょう」

「ふむ」

 ヴァルディスは、愉快そうに口元を緩める。

「エリシアの策は、毎回、実に楽しみだ」

「まずは――」

 私は、セリスに視線を向けた。

「セリス卿には、前回同様“神官セリス”に扮していただきます」
「最果ての塔、最上階の玉座の間で、王座に座っていてください」

「……それだけ、ですか?」

 セリスは、恐る恐る、といった調子で問い返す。

「ええ。それだけで結構です」

 私は、淡々と続けた。

「そして、玉座の前には、転移魔法の魔法陣を描いておきます」
「――あの勇者のことです」
「神官セリスを見つけた瞬間、周囲など目に入らず、駆け寄るでしょう」

 私は、小さく笑う。

「そして、神官セリスに気を取られたまま、魔法陣を踏む」

「なるほど!」

 ヴァルディスが、手を打つ。

「またしても、勇者をどこかへ飛ばしてしまう、というわけだな!」

「ええ」

 私は、頷いた。

「ですが、今度は――
 スタート地点へ戻す、などという生ぬるいことはしません」

 静かな声で、言い切る。

「この世界の“果て”へ飛ばします」
「戻ってくるのに……十年は、かかるでしょう」

「それはよい!」

 ヴァルディスは、心底楽しそうに笑った。

「では、セリス。今回も頼むぞ!」

 ――いつもなら。

「また、お二人そろって、悪い顔して!」

 そんな軽口が飛んできても、おかしくない。

 だが。

 今回のセリスは、違った。

 言葉少なに、
 静かに頷くだけ。

「……承知しました」
「必ず、成し遂げます」

 その表情は、どこか思いつめたようで、
 いつもの余裕は、そこになかった。
 

 ――俺は、勇者クラウス。

 祖国アウレリアの期待と重圧を、その身に背負う男だ。

 今、俺は最果ての塔へと向かっている。
 目的は、ただ一つ。

 俺の最愛の人――
 セリスを、必ず救い出すこと。

 ここまで、駆けに駆けてきた。
 休むことなく、迷うことなく。

 もうすぐだ。
 まもなく、たどり着く。

(待っていてくれ、セリス)
(必ず、俺が君を助ける)

 最果ての塔は、想像以上に静かだった。

 なにもない高台に、ぽつんと建つ古びた塔。
 風にさらされ、時に忘れ去られたような、寂しげな姿。

(こんな場所に……)

 ここで、セリスは、たった一人囚われていたのか。

 そう思った瞬間、胸の奥が締めつけられた。
 怒りと悲しみが、入り混じる。

 俺は、躊躇なく塔へ駆け込んだ。

 階段を一気に駆け上がる。
 途中、魔族の襲撃を覚悟していたが――
 何事もない。

(どういうことだ……?)

 だが、立ち止まる理由はない。

 最上階。
 中央の部屋へと続く扉の前に立つ。

 ぎぃ……と、古びた音を立てて扉が開く。

 玉座の間だろう。
 部屋の中央には、王座が据えられていて――

 そこに、彼女がいた。

 玉座に座り、こちらを見つめている。
 その表情は、どこか悲しげで――
 それでも、間違いなく、セリスだった。

「セリス!」

 名を呼ぶ。
 俺は、迷いなく駆け寄ろうとした。

 その瞬間――

「来ないで!!」

 思いもよらぬ叫びに、俺は思わず足を止めた。

「……え?」

「セリス?」

 彼女は、必死な表情で叫ぶ。

「そこに、魔法陣があります!」
「転移魔法です。罠です!」

 言われて、足元を見る。

 よく見なければ気づかないほど薄く、
 床に魔法陣が描かれていた。

(……危なかった)

「ありがとう、セリス」
「だが……いったい、どういう状況なんだ?」

 問いかける俺に、
 セリスは――泣いていた。

 そして、震える声で言う。

「ごめんなさい……」
「私は……あなたを、だましていました」

 その瞬間だった。

 セリスの身体が、淡く青い光に包まれる。
 光が消えたとき――

 彼女の頭には、角が生えていた。

 理解が、追いつかない。

 セリスは、涙を流しながら続ける。

「私は、神官ではありません」
「本当は……魔王軍参謀、セリス・ノクティア」

 胸の奥が、冷たくなる。

「すべては……あなたを、魔王様から遠ざけるための演技でした」

 その言葉の意味を、
 理解するのに、数秒かかった。

「あなたは……善良な人です」
「これ以上、あなたをだますことは……私には、できません」

 不思議なことに、怒りは湧かなかった。

 心を満たしたのは――
 ただ、深い悲しみだった。

「私は、魔王様の命令を破ってしまいました」
「もう……許されることはないでしょう」

 セリスは、微笑もうとして、うまくできずに続ける。

「たとえ、許されたとしても……
 魔王城にたどり着いたあなたに、私は殺される」

「だから……ここで、お別れです」

 胸が、痛む。

「これからも、魔王様は……あなたを罠にかけるでしょう」
「どうか……気をつけて」

 そして、最後に。

「あなたと過ごした時間……とても、楽しかった」

 そう言い残し、
 セリスは部屋の奥へと駆け出した。

「待ってくれ、セリス!」

 俺は、慌てて後を追う。

 次の部屋に飛び込んだ瞬間、
 目に入ったのは――魔法陣の上に立つセリスの姿。

「やめろ! セリス!」

 だが、彼女は振り返り、
 こちらを見て、寂しそうに微笑んだ。

 そして――

 瞬間。
 セリスは、魔法陣と共に消えた。

「……くそっ!」

 拳を握りしめる。

「おのれ……魔王!」

 そのとき、俺は初めて――
 魔王に対して、はっきりとした怒りを覚えた。

「待っていろ……魔王!」

 魔王城。

 転移魔法の光が消えたその場に、
 セリスは崩れ落ちるように立っていた。

 肩が、小刻みに震えている。

 ――泣いていた。

「申し訳……ございません……」

 声はかすれ、言葉は途切れがちだった。

「作戦を……台無しにしてしまいました……」
「どのような罰でも……受ける覚悟です……」

 深く、頭を垂れる。

 その姿を前に、
 私とヴァルディスは、無言で顔を見合わせた。

 そして――
 私が、静かに口を開く。

「……謝るべきは、私のほうです。セリス卿」

 セリスの肩が、びくりと揺れた。

「今回のあなたの行動――
 私は、想定していました」

「……え?」

 セリスが、戸惑ったように顔を上げる。

「あなたが、勇者に真実を告げること」
「命令よりも、自分の心を選ぶこと」

 私は、視線を逸らさずに続けた。

「それを予測したうえで――
 私は、何も告げませんでした」

 沈黙が落ちる。

「それもすべて……
 あなたの飾らない本心を、勇者にぶつけてもらうため」

 セリスの目が、見開かれる。

「そして――
 魔族としてのあなたを、勇者に“信用”してもらうため」

 私は、ゆっくりと言葉を選ぶ。

「どうやら……その思惑は、成功しました」
「勇者は、あなたの正体を知った今でも――
 あなたを、愛しています」

 その一言が、
 セリスの胸を撃ち抜いた。

 唇が震え、
 声にならない息が漏れる。

「……方針を、転換します」

 私は、はっきりと告げた。

「これまでのように、勇者を“遠ざける”のではない」
「これからは――勇者を、こちらへ取り込む」

 セリスは、ただ呆然と私を見ている。

「そのための第一歩として……
 あなたの“真心”を利用しました」

 一瞬、言葉を切る。

「……ごめんなさい」

 私は、正面から頭を下げた。

「すべては、魔王様を守るため――
 などという、きれいな言い訳はしません」

「あなたを、傷つけると分かったうえで、
 私はこの策を選びました」

 隣で、ヴァルディスが苦々しく口を開く。

「……俺もだ」
「許してくれ、セリス」

 バツの悪そうな顔で、
 それでも、逃げずに言い切る。

 セリスは、しばらく言葉を失っていた。

 やがて――
 かすれた声が、漏れる。

「……あなたたちは……本当に……」

 そこまで言って、
 言葉は続かなかった。

 次の瞬間、
 堰を切ったように、涙が溢れ出す。

 声を殺そうともせず、
 子どものように、ただ泣いた。

 怒りでもなく、
 恐怖でもなく――
 張りつめていたものが、すべて崩れ落ちた泣き方だった。

16 揺れる忠誠


 私は、カエデ・ミナセ。
 剣士見習いだ。

 今は、わけあって――
 ヴェルハイムにある、商人ヴァルス様のお屋敷で働いている。

 ……。

 護衛として、ではない。

 メイドとして、だ。

 正直、最初はかなり戸惑った。
 剣を握ることしか知らなかった私が、
 掃除や給仕、礼儀作法に追われる日々を送ることになるなんて、
 思ってもいなかったから。

 けれど――
 気づけば、もうすっかり馴染んでしまっている。

 屋敷の皆さまは、本当によくして下さる。
 ヴァルス様は、いつもさりげなく気にかけてくださるし、
 セリスメイド長は、仕事の指導は厳しいけれど、
 それ以上に、可愛がってくれているのが伝わってくる。

 アレイシア様とは――
 もう、主と使用人というより、
 同じ年頃の友人、そんな距離感だった。

 そして、先生。

 毎日、欠かさず剣の稽古をつけてくれる。
 稽古の合間に交わす剣談義が、私はとても好きだ。

 おかげで、
 自分でも分かるほど、腕は上達してきた。
 それだけは、胸を張って言える。

 ある日の稽古終わり。
 先生に、ふと、こんなことを聞かれた。

「なぜ、剣士を目指す?」

 その問いに、私は言葉に詰まった。

 剣が好き。
 それは本当だ。

 でも、その先――
 「なぜ好きなのか」「何のために剣を振るのか」
 そこまで、深く考えたことはなかった。

 逆に、私が先生に聞き返すと、
 先生は、少しも迷わず答えた。

「友を守るためだ」

 即答だった。

 先生に、友達がいるなんて、初めて聞いた。
 興味が湧いて、どんな人たちなのか尋ねてみると、

「トラブルメーカーが一人」
「お転婆が一人」

 そんな答えが返ってきた。

 思わず、笑ってしまう。
 なんだか、とても楽しそうな仲間だ。
 一度、会ってみたい――そう思った。

 夕方。
 稽古を終えたあと、私は一人、基礎訓練をしていた。

 そのとき、ふと、屋敷の入り口に人影が見えることがある。

 父の使いの人だ。

 その姿を見かけたとき、
 私は懐に忍ばせている手紙を、そっとその人に渡す。

 手紙の内容は、
 この屋敷で起きた出来事。

 とはいえ、
 たいそうなことは、ほとんど書いていない。

 今日もメイドの仕事をした。
 先生に稽古をつけてもらった。
 アレイシア様と話をした。

 そんな、日常のたわいもないことばかりだ。

 ――けれど。

 いつか、
 何か重要なことを書く日が来るかもしれない。

 打ち明けよう。

 私の本当の名前は、
 ソフィア・ヴァルケイン。

 食糧商会の長――
 ランドロス・ヴァルケインの娘だ。

 父から出された条件は、二つ。

 剣士になることを許す代わりに、
 この屋敷で働くこと。

 そして――
 日常の状況を、報告すること。

 ……密偵。
 そう呼ぶのだろう。

 当時は、それほど重く考えていなかった。
 少し、面白そうだとすら思っていた。

 けれど、今は違う。

 後悔している。

 この屋敷の人たちに、情が移った――
 それだけかもしれない。

 でも、
 あの人たちに、隠し事をしたくない。
 迷惑をかけるような存在には、なりたくない。

 だから私は、
 父への手紙に、
 「重要なこと」を書かずに済むよう、
 ただ、祈っていた。

 ――だが。

 とうとう、その日が来てしまったのかもしれない。

 いつものように屋敷を掃除していたとき、
 私は、ある異変に気づいた。

 いつも南京錠がかかっている部屋。
 旦那様の重要な書類が保管されていると、
 説明を受けていた部屋。

 その扉の鍵が――
 開いていた。

 そのときは、
 好奇心が勝ったのか。
 それとも、魔が差したのか。

 私は、扉をそっと開け、
 中を覗いてしまった。

 書斎のような部屋を想像していた。
 だが――違った。

 薄暗く、
 何もない部屋。

 その中央に、
 青く光る魔法陣が描かれていた。

 ――?

 その瞬間、背後に気配。

(セリスメイド長……?)

 焦った私は、
 思わず、その部屋へ飛び込んだ。

 そして――
 踏んでしまった。

 魔法陣を。

 視界が歪み、
 足元が消えた。

 気づけば、
 まったく知らない場所に立っていた。

 足元には、光を失った魔法陣。

 天井が高く、広い部屋。
 薄暗く、
 ぞっとするような寒気が走る。

 ――城?

 不意に、足音が聞こえた。
 近づいてくる。

 私は、慌てて物陰に身を隠した。

 少し離れたところを、
 その足音の主が通り過ぎる。

 人……いや、兵士のようだった。
 槍を持ち、見回りをしている。

 そして――
 頭に、角が生えていた。

 魔族……?

 その瞬間、
 足が震え、心臓が破裂しそうになる。

 私は、必死に息を殺し、
 忍び足で、再び魔法陣へ戻った。

 踏み込む。

 空間が歪み――
 気づけば、元いた屋敷の部屋に戻っていた。

 急いで、その部屋を出る。

 幸い、
 周囲に人の気配はなかった。

 その日は、
 なんとか平静を装って仕事をした。

 けれど――
 心臓は、いつまでも、
 バクバクと鳴り続けていた。

 あそこは、いったい何だったのか。

 この屋敷の人たちは、
 一体、何者なのか。

 このことは、
 まだ、父への手紙には書いていない。

 ……私は。

 どうすれば、いいのだろう。

17 一旦、OKです


 商人ヴァルスの屋敷では、
 私とヴァルディスが、
 セリスの淹れてくれた紅茶を口にしながら、
 ちょっとした相談をしていた。

 窓の外からは――

「えいーーっ!」

 カエデが、グラドに稽古をつけてもらっているらしい掛け声が、
 風に乗って、微かに届いてくる。

 ……が。

 心なしか、元気がない。

「少し、薬が効きすぎではないか?」

 ヴァルディスが、眉をひそめる。

「今日のカエデ、明らかに挙動不審なのだが」

 私は、紅茶を一口飲み、静かに答えた。

「そうですね。
 徐々に私たちの正体を明かしていくつもりでしたが……」

 小さく、ため息をつく。

「剣士とはいえ、十四歳の少女には、
 少々刺激が強すぎたのかもしれませんね」

「初手で魔王城を見せるとか、
 どこが“徐々に”ですか!」

 セリスが、ぴしゃりと切り込んできた。

 完全に、おかんむりだ。

「カエデが可哀想です!」
「あんな年頃の子に、あんなものを見せるなんて!」

「……たしかに、いささか気の毒ではあるな」

 ヴァルディスは、咳払いを一つ。

「しかし、次の手はどうする?」

「そうですねぇ……」

 私は、少し考え込む。

 そして――

「ここは!」

「……ここは?」

 ヴァルディスとセリスが、同時に身を乗り出した。

「セリスメイド長に、お任せしましょう」

 ……。

「あ、あなたって人は!
 あなたって人は!!」

 セリスは、言葉を失った。

 稽古の後。

「……なにか、思い悩んでいるようだな」

 先生が、そう声をかけてくれた。

 稽古に身が入っていないのは、
 きっと、誰の目にも明らかだったのだろう。

 私は、先生の顔をまじまじと見つめる。

(先生も……何者なんだろう)

 そんな疑問が、胸をよぎる。

 けれど、先生は――
 「相談に乗ろう」とは、言わない。

 ただ、淡々と話し出した。

「おれは、難しいことは分からない」

「……はい」

「ただな」
「二人の友を守る。それだけを考えている」

「それで、十分だと思っている」

「……はい」

 不思議と、
 胸の重しが、少し軽くなった。

(私は……)

(剣士として、誰を守りたいんだろう)

 自分の心に、問いかける。

 稽古のあと、
 私は応接室に呼ばれた。

 部屋に入ると――

 旦那様。
 アレイシア様。
 そして、セリスメイド長。

 テーブルを挟んだソファに、座らされる。

 向かいには、アレイシア様。
 その隣の一人用ソファには、頬杖をついた旦那様。
 そして、私とアレイシア様を挟むように、
 セリスメイド長が立っている。

 ――完全に、包囲されている。

(……バレた)

 あの部屋に入ったこと。
 そう、確信した。

 心臓が、口から飛び出しそうだ。

 やがて、
 アレイシア様が静かに口を開いた。

「カエデに、大切な話があります」

 一拍。

「セリスメイド長にお願いしようとしたら、
 “丸投げするな”と怒られたので……
 私が話します」

 ……すでに嫌な予感しかしない。

「きっと、あなたも気になっていると思います」
「私たちの正体について、です」

 ――え?

 てっきり、
「見ましたね?」
と詰められるのかと思っていた。

 予想外の展開だ。

 アレイシア様が、立ち上がる。

「まず……
 私は、商人ヴァルスの妹アレイシアではありません」

 ごくり。

 息を呑む。

「私の本当の名前は――エリシア・フォン・アウレリア」
「アウレリア王国、第三王女です」

 ……!?

 あまりにも予想を超えた言葉に、
 驚くというより、現実味がない。

 けれど――
 これまでの立ち振る舞いを思い返せば、
 妙に納得もできてしまう。

 冗談、ではなさそうだ。

「……一旦、OKですか?」

「は、はい……一旦、OKです」

 かすれた声で、なんとか答える。

「では、次に、この方」

 エリシア王女は、旦那様へと目線を送った。

「この方は、商人ヴァルスではありません」

 ごくり。

「この方は――魔王ヴァルディス・レグナールです」

「……ま・お・う?」

 理解が、完全に追いつかない。

 旦那様は、頬杖をついたまま、
 指先だけを軽く上げてみせた。

 ……あれ?

 いつのまにか、旦那様。頭に角を生やしていらっしゃる。

 角!?

 角
 ↓
 魔族
 ↓
 魔王。
 
 魔王ぉ!!

 現実が、一気に押し寄せてきた。

(旦那様が魔王!!では、この屋敷は魔族のすみか?戦う?無理、勝てっこない。逃げなければ。とにかく、逃げなければ。だめだ、身体が動かない。腰を抜かすとは、このことだろうか。そういえば、腰を抜かしたことなど、生まれて初めてかもしれない。体の震えが止まらない。はしたなくて大変申し訳ないのだが、おしっこもらしそうだ。ああ、私はどうなってしまうのだろうか。きっと、私、魔王に食べられちゃうのだ。私、食べられちゃ――――)

「一旦、OKですか?」

「『一旦、OKですか?』じゃありません!」

 セリスが、ついに爆発した。

「カエデが、完全にいっぱいいっぱいじゃないですか!」
「いきなり魔王様の正体を明かすなんて、
 どこが“徐々に”なんですか!」

「……しかし、話には順序というものが……」

「順序もへったくれもありません!」
「姫、そういうところです!
 そういうところ!!」

 二人のやり取りが、
 だんだん遠くに聞こえてくる。

 そのとき。

 ――バタン!

 扉が勢いよく開いた。

 先生だった。

 先生と、目が合う。

 先生は、何も言わない。
 ただ、じっと、私を見つめている。

 優しい目。

 その目を見た瞬間――

(……大丈夫)

 そう、言われた気がした。

 胸のざわめきが、
 すっと、引いていく。

 私は、深く息を吸った。

「……だ、大丈夫です」

 震える声で、でも、はっきりと言う。

「いっ、いったん……OKです!」

18 一旦、OKではありません


 私の返答を聞いて、
 エリシア王女は、少しだけ間を置いてから続けた。

「ところで、カエデは――
 『魔族』について、どのような認識を持っていますか?」

 突然の問いに、胸が小さく跳ねる。

「おそらくですが……」

 王女は、責めるでもなく、静かな声で言葉を重ねた。

「恐ろしい姿形をしていて、
 残忍で、殺戮を好み、
 人間の敵――
 そんなところでしょうか?」

「……は、はい」

 私は、正直に頷いた。

「だいたい……そんな感じです」

 エリシア王女は、私の答えを否定しなかった。
 ただ、次の問いを投げかける。

「では、あなたは――
 本物の『魔族』を、見たことがありますか?」

「い、いいえ……」

 首を振る。

「一度も、ありません」

「そうでしょう」

 王女は、静かに微笑んだ。

「実は、多くの人間が、
 実際に『魔族』を見たことがないのです」

 言われてみれば、その通りだった。

 私は、魔族を“知っているつもり”で、
 ただ、話や教えを信じていただけなのかもしれない。

「では……」

 エリシア王女は、声を落とす。

「もし、その認識が――
 すべて、でたらめだとしたら?」

「!?」

 思わず、声が漏れた。

「で、でも……!」
「魔獣は……魔獣は見たことがあります!」
「魔獣は、人を襲います!」

 必死に、反論する。

 王女は、すぐに頷いた。

「ええ。とても良い観点です」

 そして、はっきりと言う。

「魔族と魔獣は、
 まったく別の存在なのです」

 頭が、追いつかない。

「魔族がいなくなっても、
 魔獣はいなくなりません」

「魔族が、魔獣を操って
 人間を襲わせている――
 そういうわけでも、ないのです」

「……すみません」

 私は、小さく頭を下げた。

「理解が……追いつきません」

 エリシア王女は、少しだけ困ったように微笑んだ。

「そうでしょうね」

「生まれてから今まで、
 ずっと信じてきた常識を――
 いきなり、覆せと言われても、無理でしょう」

 責める声ではなかった。
 むしろ、とても優しかった。

「ですから……」

 王女は、まっすぐ私を見る。

「ただ一つだけで、構いません」

「『もしかしたら、魔族は敵ではないかもしれない』」

「その可能性を、
 胸の片隅に置いたまま――
 これからも、私たちと過ごしてほしい」

「それが、私の望みです」

 私は、言葉を失った。

 そっと、
 旦那様――
 いや、魔王に、恐る恐る視線を向ける。

 先ほどまでのような、
 心臓を締めつける恐怖は、不思議と感じなかった。

 頬杖をついたままの、その姿は、
 相変わらず、どこか気の抜けたままだ。

(……本当に、この人が……)

 魔族が、敵ではない可能性。

 それは、
 今まで一度も、考えたことのない発想だった。

 けれど――
 とても重要な言葉のように、胸に残る。

「……わかりました、とは」

 私は、正直に言った。

「まだ、言えません」

 それでも。

「でも……」
「そう思えるよう、努めたいと思います」

 精一杯の言葉だった。

 エリシア王女は、
 満足そうに、静かに頷いた。


 
「さて……」

 エリシア王女は、軽く間を取ってから続けた。

「セリスメイド長の正体も、話しておきましょう」

 セリスメイド長が目を細める。

「彼女は、メイドではありません」
「魔王の右腕にして――
 魔王軍参謀、セリス・ノクティア卿です」

 いつのまにか、セリスメイド長の頭にも角が生えていた。

(あ、やっぱり、セリスメイド長も魔族だったんだ。
 しかも、参謀って、すごい人なんだ。
 じゃあ、メイドも演技だったってこと?
 演技であの完璧さ!なんてすごいひとなの!
 あ、でも、あの角、ちょっと、かっこいいかも。)

 魔王という前例を経たせいか、
 自分でも驚くほど冷静だった。

「……一旦、OKですか?」

 エリシア王女の確認が入る。

「はい。一旦、OKです」
「セリスメイド長、すごいです」

 思わず、素直な感想が口から出た。

 セリスメイド長は、
 なぜ褒められたのか分からない、という顔で固まっている。

「では、次に――」

 エリシア王女は、先生に視線を向ける。

「庭師のグラドですが」
「彼は、魔王の近衛にして――護衛長を務める……」

「グラド・バルムガルだ」

 その先を、先生が引き取った。

 そう名乗ると同時に、
 先生は私に向かって、静かに戦士の礼を取る。

 ――武人としての、正式な挨拶。

 私は、はっとして立ち上がり、
 慌てながらも、同じく礼を返した。

 先生は、少しだけ目を細めた。

 剣の稽古のときと同じ、
 あの安心する表情だった。

「……一旦、OKですか?」

 エリシア王女が、再び問いかける。

「はい。一旦、OKです」
「先生……ありがとうございます」

 その言葉を口にした瞬間。

 先ほどまで張りつめていた空気が、
 ゆっくりと溶けていくのを感じた。

 ――凍りついていた場が、
 ようやく、解け始めた気がした。

「さて――次は、カエデ」

 エリシア王女が、こちらを見て言った。

「あなたの自己紹介を、してもらえますか?」

 ――不意打ち。

 気が抜けかけていたところに、
 思わぬカウンターが飛んできた。

「え。あ……はい」

 またしても、挙動不審になる。

 だが、そこで思い直した。

 エリシア王女は、
 自分たちの正体を、逃げずに明かしてくれた。

 ならば――
 剣士として、ここは誠意で返すべきだ。

 私は、ゆっくりと息を吸い、口を開いた。

「……私は」
「私も、カエデ・ミナセではありません」

 一瞬、部屋の空気が張りつめる。

「本当の名は、ソフィア・ヴァルケイン」
「食糧商会の長――
 ランドロス・ヴァルケインの娘です」

 言葉が、静かに落ちる。

「父から、この屋敷で働くこと」
「そして、日常の状況を報告することを命じられていました」

 視線を伏せ、続ける。

「……あ、でも」
「あの部屋のことは、報告していません」
「今後も、するつもりはありません」

 ここだけは、はっきりと言えた。

「結果として……」
「皆さんを、だます形になっていました」
「申し訳ありません」

 私は、深く頭を下げた。

 しばしの沈黙。

 やがて――

「よく、本当のことを話してくれました」

 エリシア王女が、やさしく言った。

 その声を聞いた瞬間、
 ああ、この人は――最初から気づいていたんだ、と分かった。

「だましていたのは、お互い様です」

 王女は、穏やかに続ける。

「ここは、水に流しましょう」
「私たちの事情は……追々、きちんとお話しします」

 一拍。

「でも、今は」

 彼女は、少しだけ微笑んだ。

「私は、アレイシア」
「商人ヴァルスの妹」

「あなたは、剣士見習いで」
「私の――友達、カエデ」

「それで、今まで通り」
「この屋敷で過ごしていきたいのだけれど……」
「いいかしら?」

 その問いに、
 先生の言葉が、ふっと胸によみがえった。

(誰を守りたい?)

 答えは、もう決まっている。

(この屋敷で、家族のように迎えてくれた人たち)
(私は――この人たちを、守りたい)

「……はい」

 私は、迷わず答えていた。

「わかりました」

 その瞬間、
 屋敷が、いつもの落ち着きを取り戻した気がした。

「あ、そうそう」

 思い出したように、
 エリシア王女――いや、アレイシア様が口を開く。

「ちなみに」

「私は、今、魔王ヴァルディスに、誘拐されています」

「えっ?」

「それと」
「近い将来、私は――
 魔王ヴァルディスの妻になります」

「えええええええ!!」

 頭が追いつかない。

「……一旦、OKですか?」

「一旦、OKでは――ありません!!」

 私の叫び声は、
 見事に屋敷中へと響き渡った。

19 アル=レグナール見聞録


 ある午後のこと。

 ヴェルハイムにある商人ヴァルスの屋敷では、
 私とヴァルディスが、
 カエデの淹れてくれた紅茶を口にしながら、
 穏やかな談笑を交わしていた。

 ふと、私は以前から胸の奥にあった疑問を思い出す。

(魔族は……どんな場所で暮らしているのだろう?)

 そのまま口に出して尋ねると、
 ヴァルディスは、わずかに目を細めて言った。

「では、一度、見せてやろう」

 こうして私は、
 魔族の住む街を見学させてもらうことになった。

 ふと視線を向けると、
 カエデが目を輝かせてこちらを見ている。

「カエデも来る?」

「よいのですか? 行ってみたいです」

 そうして、彼女も一緒に連れていくことにした。

 案内役はヴァルディス。
 セリスとグラドも同行する。

 屋敷の転移魔方陣を使い、
 まずは魔王城へ。

 カエデは、ここに少しトラウマがあるようで、
 私の袖を掴んで離さなかった。

 ヴァルディスは、そんな私たちを城の高台へと導く。

 そこからは――
 眼下に、城下へ広がる巨大な街並みが一望できた。

 城下町。
 アル=レグナール。

 アウレリア王都ルクシオンと同等、
 いや――それ以上の規模かもしれない。

「さて、街を案内する前に」

 ヴァルディスはそう言って、
 私たちの前に、いくつかの“角”を並べた。
 精巧なレプリカだ。

「人間が来たとなれば、目立つからな」
「この角を付けて、魔族に変装してもらう」

 まず、大きな角を試す。

「……エリシア様」
「それでは、魔族というより、牛です」

 次に、枝分かれした角。

「カエデ。あなたは鹿にしか見えません!」

 キャッキャと騒いだ末、
 結局、短めで可愛らしい角に落ち着いた。

 城下町に降り立った瞬間、
 私は、空気の違いを肌で感じた。

 まず、建物の形が違う。

 アウレリア王都のような、
 白い石造りの整然とした街並みではない。

 ここでは――
 石、煉瓦、日干し煉瓦、木材が混在している。

 壁は分厚く、窓は小さい。
 外壁は淡い砂色や赤褐色が多く、
 ところどころに幾何学模様の装飾が刻まれている。

 屋根は高く、
 緩やかなドーム状のものもあれば、
 雨や雪を流すための急勾配の屋根もある。

 美しさよりも、
 暑さ、寒さ、風、砂塵に耐えることを優先した建築だった。

 街路は、碁盤目状ではない。

 曲がり、折れ、重なり合い、
 まるで人の暮らしが自然に積み重なってできたような形だ。

 だが、不思議と歩きにくくはない。

 日陰が連なり、
 水場が等間隔に配置され、
 露店と工房が、生活動線に沿って並んでいる。

 ――意図していなくとも、結果として計算されている。

 秩序ではなく、
 経験の積み重ねによる合理性。

 人々の服装も、アウレリアとは違っていた。

 豪奢な貴族服は少ない。
 だが、誰もみすぼらしくは見えない。

 長衣や外套が多く、
 色は深い藍、砂色、焦げ茶、濃緑。

 装飾は控えめだが、
 腰帯や留め具、靴には、
 しっかりとした金属が使われている。

 ――実用品だ。

 作業にも、商談にも、
 いざという時には戦闘にも耐える服装。

 私たちは、市場へと向かった。

 石畳の通りの両脇に、
 木と石を組み合わせた屋台や常設店が密集している。

 屋根は完全な建物ではなく、

 布の天幕。
 編んだ葦の庇。
 木枠に布を張った簡易屋根。

 それらが連なり、
 強い日差しを柔らかく遮っていた。

 焼き肉の脂がはぜる香り。
 クミンやコリアンダーの乾いた刺激。
 甘い果実と蜂蜜。
 革製品と木材の匂い。

 ――生きている匂い。

 並ぶのは、

 香辛料の山。
 平焼きパンの籠。
 鉄製の鍋や農具。
 織物、絨毯、革袋。
 簡素だが丈夫な工具。

 贅沢品よりも、
 「毎日の生活に必要なもの」が主役だった。

 石と布と人の熱が混じり合い、
 この市場そのものが、
 一つの生き物のように感じられる。

 王都ルクシオンの整然とした市とは違う。
 だが――
 こちらの方が、よほど「国が動いている」気がした。

 屋台で、私たちは食べ歩いた。

 まずは、
 香草焼き肉のフラットブレッド包み。

 屋台の鉄板で焼かれた細切り肉を、
 クミン、コリアンダー、にんにく、塩だけで味付け。
 薄く焼いた平たいパンに包み、
 刻み玉ねぎと、少し酸味のあるヨーグルトソース。

 ひと口かじった瞬間――
 香ばしさと肉汁が、一気に広がる。

「……なにこれ。おいしい……!」

 続いて、
 ひよこ豆と香辛料の揚げ団子。

 外はカリッと、中はほくほく。

 豆の甘みとスパイスの香りが立ち、
 レモンをひと搾りされて手渡される。

「豆なのに、お肉みたい……?」

 そして、
 羊乳ヨーグルトにはちみつとナッツ。

 濃厚で、ほのかな酸味。
 琥珀色のはちみつが、やさしく溶ける。

「甘すぎないのが、いいわね……」

 私もカエデも、すっかり満足だった。

 だが――
 何より私たちを虜にしたのは、
 『ドーナツ』――そう呼ばれる揚げ菓子。

 目の前で揚げられ、
 砂糖をたっぷりまぶして渡される。

 アウレリアには、ない。

「あっまい。おいしい!」
 カエデのほっぺが落ちる。

「こ、これは!」
 私のほっぺも落ちた。

 そのとき、
 セリスが静かに忠告した。

「お気を付けください」
「その食べ物は……悪魔の食べ物です」

 私とカエデは、同時にごくりと喉を鳴らす。

「……食べ過ぎると」

 セリスは、にこりともせず告げた。

「――あっという間に、太ります」

「「キャーーーー!」」

 私とカエデの悲鳴が、
 アル=レグナールの市場に、響き渡った。

 市場には、生活必需品だけでなく、
 思わず足を止めてしまうような“かわいいもの”も溢れていた。

 色とりどりの石をはめ込んだ耳飾り。
 細かな彫刻が施された指輪。
 革紐に小さな金属飾りを通した首飾り。

 アウレリアでは見かけない、
 どこか異国めいた意匠のアクセサリーばかりだ。

「こういうデザイン、魔族特有ですよ?」
「えっ、かわいい!」
「こっちも……!」

 私とカエデ、セリスは、
 あちらでキャッキャ、こちらでキャッキャ。

 気づけば完全に――
 女子会と化していた。

 すると、そんな私たちに、
 魔族の若い男の子たちが、何度となく声を掛けてくる。

「どこ行くの?」
「みんな、かわいいね」
「このあと、どう? おれたちと――」

 軽い調子。
 悪意はないが、距離感も近い。

 そのたびに。

 ――すっ。

 グラドが、私たちの背後へ立つ。
 影が、彼らを覆った。

 そそり立つ大男。
 無言。
 無表情。

 そして――

 ぎろり。

 たったそれだけで。

「あ……」
「す、すみません!」

 魔族の少年たちは、
 蜘蛛の子を散らすように去っていった。

 私は、思わず小さく息を吐く。

「……こういうのは」
「人間の街も、魔族の街も、同じなのね」

 ――異文化でも、
 人の営みは、驚くほど似ている。

 そんなことを思いながら、
 私たちはまた、次の屋台へと向かった。
 

 夜。
 私たちは、市場から少し離れた石造りの食堂に入った。

 外観は素朴だが、中は思いのほか広い。
 低い天井から吊るされた灯りが、
 琥珀色の光となって、店内をやわらかく満たしている。

 豆と野菜の濃いスープ。
 炭火で焼かれた肉料理。
 香辛料の香る米料理。

 昼の屋台とはまた違う、
 落ち着いた味わいに、自然と会話も穏やかになる。

 食事がひと段落した頃、
 ヴァルディスが、湯気の立つ杯を置いて言った。

「どうだった。魔族の街は」
「だいぶ、楽しんだようだが」

 私は少し考えてから、肩をすくめる。

「そうね」

 食べて、買い物して……
 ほんとに、ただ楽しんだだけ、って感じだ。

 でも――

 昼の賑やかさ。
 夜の静けさ。
 働き、笑い、食べ、休む――人々の営み。

 私は、ふと気づく。

 ――魔族の街も、
 ちゃんと「暮らし」の延長線にあるのだ、と。

 特別でも、異質でもない。
 ただ、生きている場所。

 私は、ヴァルディスを見て、静かに言った。

「人も魔族も……変わらないって、思ったわ」

 その言葉に、
 ヴァルディスはすぐには答えなかった。

 だが、ほんのわずか――
 満足そうに、目を細めた気がした。

20 夕暮れの再会


 ――俺は、勇者クラウス。
 
 祖国アウレリアの期待と重圧を、その身に背負った男だ。
 
 今、俺は魔王城へ向かっている。
 目的は、ただ一つ。
 
 俺の最愛の人――
 セリスを、魔王の手から取り戻すこと。
 
 魔王。
 お前を、必ず倒す。
 

 
 魔族領の縁をかすめるように進む。
 この一帯には、点在する村があるが、寄り道をするつもりはない。
 今の俺には、前へ進むことしか許されていなかった。
 
 夕刻。
 西日が地平線に溶けかけた頃――
 
 村へ続く脇道の端に、人影が立っているのが目に入った。
 
 ……人?
 
 こんな時間に?
 こんな場所で?
 
 次の瞬間、心臓が跳ねた。
 
 ――見覚えがある。
 
 いや、違う。
 見覚えがある、どころじゃない。
 
 (……セリス?)
 
 息が止まりそうになる。
 
 見間違うはずがなかった。
 あの佇まい。
 あの髪。
 そして――俺を見つめる、その瞳。
 
 セリスは、わずかに微笑んでいた。
 
 「……セリス!!」
 
 気づけば、俺は走り出していた。
 考えるよりも早く、腕が伸び、彼女の身体を抱きしめていた。
 
 温もり。
 確かな体温。
 
 (……生きている)
 
 胸の奥が、熱くなる。
 
 会いたかった。
 無事でよかった。
 
 ふと、甘い香りが鼻をくすぐる。
 腕の中で、柔らかな感触が伝わる。
 
 (……あ)

 ――そこで、我に返った。
 
 おもわず、抱きついてしまったが。
 ……これは、かなりキモイのではないか。
 セリスに、嫌われてしまう。
 嫌われて――しまうのではないか!?

 だが。
 
 セリスは、俺の腕から離れなかった。
 むしろ、そっと身を預けてくる。
 
 そして、静かに囁いた。

「クラウス……あなたに、お願いがあります」

 その声は、柔らかく――
 けれど、どこか揺るがない決意を帯びていた。

 俺は、思わず息を呑む。

(……お願い?)

 セリスは、俺の胸元にそっと額を寄せたまま、続ける。

「この先の村に、立ち寄ってください」
「私と、一緒に」

 村へと続く土の道を、並んで歩きながら、
 セリスは静かに語り始めた。

「この近辺の村々では……」
「ここ最近、連日のように“魔族の襲撃”が起きています」

 夕暮れの風が、畑の匂いを運んでくる。

「この先にある、ハルミナ村も……そのひとつです」
「あなたに、その魔族を討ってほしいのです」

 俺は、思わず足を止めた。

「……待て」
「その相手は、君の同族なんだろう?」

 視線を向ける。

「どうして……」
「どうして、同族を、俺に殺してほしいなんて言う?」

 セリスは、少しだけ目を伏せた。

「……本当なら、こんなことを頼める立場ではありません」

 そして、真っ直ぐに俺を見た。

「でも……」
「私を、信じてください」

 その瞳には、逃げも迷いもなかった。

(事情が、ある……)

 それだけは、分かる。

「……分かった」

 俺は、短く答えた。

「君の言う通りにしよう」

 ハルミナ村は、静かな村だった。

 人の気配はあるが、どこか張りつめている。
 村長に名乗ると、彼は目を見開き、深々と頭を下げた。

「神官様が……」
「勇者様をつれて来てくださったのですか……!」

 震える声だった。

「もう、若い者たちだけで立ち向かうのは限界でして……」

 俺とセリスは、ひとまず村長の家で待機することになった。

 夕食が出された。
 粗末ではあるが、精いっぱいのもてなしだと、すぐに分かる。

 セリスと並んで食事を取る。

(分かっている)

(彼女は、魔族だ)

 それでも――
 この時間が、どうしようもなく穏やかで、
 胸の奥が、温かくなるのを止められなかった。

 夜が更けた頃。

 ――来た。

 空気が、変わる。

 俺は、即座に立ち上がった。

「外だ!」

 家を飛び出し、村の入口へ向かう。

 そこには――
 数十の人影。

 村の若者たちが、必死に槍を構え、対峙している。

 相手は、角を生やした山賊風の男たち。

(魔族……!)

 俺は、地を蹴った。

《中域火炎》
《中域風刃》
《中域氷塊》

 走りながら、呪文を放つ。

 炎球が。
 風刃が。
 氷塊が。

 俺を追い越し、魔族どもをなぎ倒していく。

 剣を抜き、その中心へ飛び込んだ。

 魔族たちが、一斉に俺へ殺到する。

 だが――

 一閃。

 また一閃。

 俺の剣は、迷いなく命を刈り取っていく。

 あっという間に戦列は崩れ、
 残党が、ようやく異変に気づいて逃げ出した。

「逃がすか!」

《広域大爆発》

 閃光と轟音。

 夜が、白く染まる。

 ――戦いは、終わった。

 村の若者たちが駆け寄り、口々に感謝を述べる。

 足元には、魔族の死体が転がっている。

(……セリス)

(これで、良かったのか?)

 ふと、彼女が近づいてきた。

 その表情は――険しい。

「……これを、見てほしいの」

 セリスはそう言うと、
 無言で一体の死体に近づいた。

 そして、不意に――
 頭の角を掴み、引き上げた。

「……すぽん」

 間の抜けた音と共に、角が抜け落ちる。

 セリスは、それを俺の手に押し付けた。

「見て」

 受け取ったそれは――
 明らかに、作り物だった。

「……これは?」

「どういうことだ……?」

 俺も、村の若者たちも、言葉を失う。

 セリスは、死体を見下ろし、
 憎悪を込めた視線で、はっきりと言った。

「この賊たちは――」

「魔族に扮した、人間です」

 夜風が、冷たく吹き抜けた。

 俺の中で、
 これまで信じてきた“敵”の輪郭が――
 音を立てて、崩れ始めていた。
 

 村長の家に、村人たちが集められた。

 広くはない家の中は、すぐに人で埋まり、
 皆、不安と期待が入り混じった表情で前を見つめている。

 その前に座るのは、村長、俺、そして――セリス。

 しばしの沈黙の後、
 セリスが静かに口を開いた。

「最近、この一帯で狼藉を働いていた“魔族”――」

 その声は落ち着いており、感情を抑えたものだった。

「彼らの正体は、魔族に扮した人間です」

 ざわ、と空気が揺れた。

「おそらく、隣国から流れ込んだ者たちでしょう」
「目的は、恐怖を煽ること。正体を隠すこと。混乱を生むこと」
「理由は様々ですが……」

 セリスは、一度、言葉を切る。

「結局のところ」
「“悪いことは魔族のせいにしておけば都合がいい”」
「そう考えている人間がいる、というだけの話です」

 村人たちは、息を潜めて聞いていた。

「ここハルミナ村だけではありません」
「国中で起きている“魔族による村の襲撃や略奪”」
「その多くが、実は――人間の仕業です」

 重い沈黙。

 誰も、すぐには言葉を発せなかった。

 だが、恐怖よりも先に、
 困惑と、理解しようとする沈黙が広がっていた。

 翌朝。

 俺たちは、ハルミナ村を後にした。

 村の人々は、何度も頭を下げ、
 言葉にならない感謝を、その表情で伝えてくる。

 振り返ると、
 あの静かな村が、朝靄の中に溶けていった。

 歩き出してしばらくした頃、
 セリスが口を開いた。

「……この件はね」
「魔王様からの命令なの」

 俺は、黙って耳を傾ける。

「あなたに、この事実を知ってほしい、と」
「そして――」

 一拍、置いて。

「あなたに、会ってほしい人たちがいるの」

 視線が、真っ直ぐに俺を射抜いた。

「サウスヴェル地方」
「ヴェルハイムの街に、来てほしい」
「……私と一緒に」

(そこに、魔王がいるというわけか)

 胸の奥が、わずかに高鳴る。

 恐怖ではない。
 好奇心――いや、覚悟に近いものだ。

「……いいだろう」

 自然と、そう答えていた。

「今回の件で、少し興味が湧いた」
「魔王と、対峙する時が来たのかもしれない」

「ありがとう、クラウス」

 俺は、ふと思い出して尋ねる。

「サウスヴェルまでは距離がある」
「転移魔法で移動するのか?」

 セリスは、小さく首を振った。

「いいえ」
「魔王様から、転移魔法の使用は禁止されたの」

「この一帯に残っている“偽魔族”の残党を一掃しながら」
「あなたと一緒に、歩いて戻れ――そう命じられたわ」

 一瞬、言葉を失った。

 そして、次の瞬間――

「……それって」

 思わず、声が弾む。

「セリスと、サウスヴェルまで」
「一緒に旅ができるってことじゃないか!」

 自分でも驚くほど、声が大きくなった。

 胸が、いっぱいになる。

 ずっと――
 ずっと夢見ていたことだった。

 隣を歩き、同じ景色を見て、
 同じ夜を越えていく旅。

 俺は、不意に泣きそうになった。

「魔王が……」
「こんな計らいをしてくれるなんてな」

 俺は、荷袋に手を伸ばす。

 そして、そっと取り出した。

 ――あの村で。
 祭りの夜に、セリスのために買った、水晶の首飾り。

 彼女の前に立ち、
 ゆっくりと、その首にかけてやる。

 ようやく――
 ようやく、渡すことができた。

「……似合うかな?」

 セリスは、少し照れたように微笑んだ。

 朝日が、その横顔を照らす。

 透明な水晶が、光を受けてきらめいた。

21 器は、静かに生まれた


 ある午後のこと。

 ヴェルハイムにある商人ヴァルスの屋敷では、
 私とヴァルディスが、
 カエデの淹れてくれた紅茶を口にしながら、
 穏やかな談笑を交わしていた。

 窓から差し込む陽は柔らかく、
 庭では風に揺れる木々の影が、静かに揺れている。

 ――平和、そのものだ。

「どうぞ。おかわりです」

 カエデが、慣れた手つきでティーカップに紅茶を注ぎながら、
 ふと、思い出したように口を開いた。

「そういえば……
 セリスメイド長、しばらく“出張”とのことですが」

 ちらりと私たちを見る。

「どちらへ行かれたのですか?」

 ヴァルディスは、何でもないことのように答えた。

「ああ。勇者を迎えに行っている」

「……え?」

 カエデの動きが、ぴたりと止まる。

「……ゆ、勇者?」

 聞き返す声は、裏返っていた。

「魔王の次は……勇者、ですか」

 呆然としたまま、ぽつりと零す。

 カップから、紅茶が一滴、こぼれた。

 最近は、
 魔王ヴァルディスの存在にも、
 この屋敷の“事情”にも、
 ずいぶん慣れてきたつもりだったらしい。

 だが――
 さすがに、その単語は想定外だったようだ。

「勇者といえば……」

 カエデは、眉をひそめて考え込む。

「国王陛下から、
 魔王討伐の勅命を受けた人物だと、聞いています」

 そして、ゆっくりと顔を上げる。

「……その勇者を」
「魔王自らが、わざわざ、迎えに行く……?」

 どう考えても、話が噛み合わない。

 私は、紅茶を一口飲んでから、静かに補足した。

「ヴァルディスはですね」
「勇者クラウスと、交友を深めるおつもりなのです」

「…………はあ」

 今度こそ、
 完全に言葉を失ったようだった。

 口が半開きのまま、数秒。

「……あの」

「お二人の話は、いつも……」
「本当に、斜め上を行かれますね」

 感心しているのか、
 呆れているのか。

 カエデは、自分でも分からないような声で、そう呟いた。
 

 ヴァルディスは、いつものように紅茶をひと口含んでから、
 何でもない世間話でも切り出すかのように言った。

「ところで、エリシア。
 私は――株式会社を作ろうと思っているのだ」

「……かぶしきがいしゃ?」

 思わず、そのまま聞き返してしまった。
 聞き慣れない言葉だ。少なくとも、この世界では。

 今や、ヴァルディス――商人ヴァルスが取り仕切る物流組織は、
 ヴェルハイムを拠点に、王都ルクシオンをはじめ、複数の都市へと広がっている。
 食糧商会との仲介、街道整備に伴う輸送量の増加。
 従業員の数も、気づけば片手では数え切れなくなっていた。

 ヴァルディス自身も、各地の事務所を飛び回っている。
 昨日はヴェルハイムにいたと思えば、今日は王都。
 次の瞬間には別の街に現れる――そんな神出鬼没ぶりに、
 「分身しているのでは」と、本気で囁かれるほどだ。

 もっとも、その理由を私は知っている。

 眠りの森の幹線道路によって移動が格段に早くなったのは事実だが、
 実際には――
 各事務所に内密に設置された転移魔法陣を使っているのだから、
 文字通り“飛び回っている”のが実情だった。

(……そろそろ、限界よね)

 組織が大きくなりすぎた。
 勢いだけでは回らない段階に、確実に入っている。

 ヴァルディスは、私の視線を感じ取ったのか、軽く肩をすくめて続けた。

「株式会社とはな――
 簡単に言えば、“組織そのものを一つの人格として扱う仕組み”だ」

 彼は、驚くほど簡潔に説明してくれた。
 責任の所在。
 資金の集め方。
 人を増やし、役割を分け、長く続けるための形。

 ……なるほど。

 話を聞くうちに、頭の中で点が線になっていく。

「つまり――」
 私は、考えを整理しながら口にする。
「個人の力量や寿命に依存せず、
 組織として永続的に機能する“器”を作る、ということですね」

 一瞬の沈黙。

 次いで、ヴァルディスは楽しそうに笑った。

「さすが、エリシア。」
「飲み込みが早い。いつもながら感心する」

 そう言って、私の頭をナデナデした。

(たしかに、これは必要な一手ね)

 勇者を迎え入れようとしている今。
 魔族と人間の境界を揺さぶろうとしている今。

 この組織もまた、
 “仮の姿”から次の段階へ進む時期に来ているのだと――
 私は、静かに確信していた。
 

 程なくして――
 アウレリア王国、いや、この世界で初となる株式会社が設立された。
 
 その名は、アウレリア連合商業会社。
 
 個人の信用に依存していた従来の商会とは異なり、
 組織そのものが責任と意思を持ち、
 人と資本を束ねて動く、新たな仕組みだった。
 
 そして、
 その初代代表取締役に就任したのは――
 ヴァルディス。
 
 表向きは、商人ヴァルスとして。
 だが、その裏で会社を導く意思は、紛れもなく魔王のものだった。
 
 人と魔族、
 商業と兵站、
 そして王国の未来をつなぐための「器」が、
 いま、静かに動き始めた。
 

 アウレリア連合商業会社の最初の一手は、
 《アウレリア共通取引市場》の開設だった。

 ヴェルハイム郊外――
 眠りの森幹線道路の起点に、
 各地の商人が自由に出店できる、
 前例のない「共通取引市場」が設けられた。

 城壁の外。
 かつては、ただの空き地だった場所だ。

 そこに、まず倉庫が建った。
 次に、石畳が敷かれ、
 簡素だが頑丈な屋根付きの取引棟が並び始める。

 看板は、まだ控えめだった。

 ――《アウレリア共通取引市場》。

 派手な装飾も、貴族の紋章もない。
 だが、その名は、
 じわじわと商人たちの間に広がっていった。

 最初に集まったのは、
 大商会ではなかった。

 地方の小商人。
 没落しかけた行商人。
 旧来の街道から外れ、行き場を失っていた者たち。

「出店料が安すぎる」
「身元保証が、商会ではなく“市場”になっている?」
「仲介を通さず、直接売買できるだと?」

 疑いながらも、
 彼らは馬車を止め、荷を下ろした。

 ――理由は単純だ。

 眠りの森の幹線道路を通る馬車が、
 必ず、ここを通過するからだ。

 市場は、驚くほど静かに始まった。

 開会の宣言もない。
 祝典もない。
 王都からの使者も、まだ来ていない。

 だが――
 気づけば、品が並び、
 値がつき、
 金が動いていた。

「この麦、南部より安いぞ」
「鉄材が、王都より三割早く届く」
「……ここ、話が早いな」

 商人たちは、
 知らず知らずのうちに、
 同じ言葉を口にするようになる。

 ――“使いやすい”。

 市場の奥には、
 ひときわ目立たない建物があった。

 看板はない。
 出入りも少ない。

 だが、そこからは――
 日々、膨大な帳簿と指示が流れ出ている。

 価格の記録。
 流通量の推移。
 地域ごとの需要。

 それらは、すべて集められ、整理され、
 次の一手のために蓄えられていた。

 誰も知らないうちに、
 市場は「取引の場」であると同時に、
 「世界を観測する目」になり始めていた。

 ヴェルハイムの街では、
 まだ噂話の域を出ていない。

「新しい市場ができたらしい」
「商人ヴァルスのところだろ?」
「まあ、流行れば使うさ」

 王都ルクシオンでは、
 まだ話題にも上がっていない。

 貴族たちは、
 自分たちの領地の帳簿しか見ていない。

 だが――

 物流は、すでに変わり始めていた。

 この日を境に、
 商人たちは、意識せずとも選択を迫られることになる。

 《アウレリア共通取引市場》を使うか。
 それとも、使わないか。

 そして、ほどなくして、
 誰もが気づくことになる。

 ――使わない、という選択肢が、
 いつの間にか消えていたことに。

 器は、静かに満たされ始めていた。

22 学院設立前夜1


 ある午後のこと。

 ヴェルハイムにある商人ヴァルスの屋敷では、
 私とヴァルディスが、
 カエデの淹れてくれた紅茶を口にしながら、
 穏やかな談笑を交わしていた。

 窓から差し込む陽は柔らかく、
 庭では風に揺れる木々の影が、静かに揺れている。

「学校を作ろうと思う」

 不意に、ヴァルディスが、切り出した。

「ほう。」
「それは、どんな学校ですか?」

「商いを教える学校だ。
 そうだな、『アウレリア商業学院』とでも名付けよう。」

 即答だった。

「読み書き、計算、契約、物流。
 金の流れと、物の流れ。
 ――世界が、どう回っているかを教える」

「貴族向けですか?」

「いや。身分は問わん」

 ヴァルディスは、淡々と続ける。

「才能があれば、誰でもいい。
 商人でも、職人でも、農民の子でもな」

「卒業したら?」

「市場と物流網に繋ぐ。
 学んだことを、すぐ使える場所を用意する」

 私は、少し考えてから言った。

「……それ、
 生まれではなく、学んだ者が国を動かすようになりますね。」
 国の在り方そのものを変えてしまいますね?」

「だからだ」

 ヴァルディスは、静かに笑う。

「剣より、
 よほど確実だろう?」

 私は、思わず頷いていた。
 
「そこでだ」

 ヴァルディスが、少し楽しそうに切り出した。

「エリシア。
 アウレリア商業学院の設立を、手伝ってくれないか。
 こういうの、得意そうだ」

 ……おもしろそうだ。

「わかりました」

 即答だった。

 アウレリア商業学院は、
 王都ルクシオンに設立されることとなった。

 校舎には、
 アウレリア連合商業会社ルクシオン本部の近くにある、
 長らく空き家となっていた屋敷を利用する。

 立地は申し分ない。
 人の流れも、情報の流れも、
 ここを通る。

 翌日。

 私は、設立準備のため、
 その屋敷へ向かった。

 とはいえ――
 連合商業会社までは転移魔法陣で一瞬。
 そこから歩いて、十五分ほど。

 移動は、実に楽だ。

 警護として、
 カエデが同行してくれている。

 一応、
 王女であることが知られないよう、
 伊達メガネをかけて変装した。

 ……一応。

「アレイシア様」

 歩きながら、
 カエデがぽつりと言う。

「それ、
 あまり変装になっていないと思います」


 
 アウレリア商業学院では、
 設立準備にあたるスタッフと顔を合わせた。

 その中心に立っていたのが、
 レオン・アークライトという青年だった。

 年の頃は、十代後半。
 若いが、立ち居振る舞いに落ち着きがある。

 彼は、
 アウレリア連合商業会社の社員であり、
 今回の学院設立にあたり、
 実務責任者として抜擢されたという。

(理知的で、
 無駄のない目をしている)
 
 レオンは、最初のうち――
(こんな少女が?)
 と、内心では困惑していたようだった。

 だが、
 設立方針、カリキュラム案、
 運営体制の整理まで一通り打ち合わせを終える頃には、
 その表情は、すっかり変わっていた。

「……さすがですね。
 社長の妹君と聞いていましたが、
 正直、想像以上でした」

 そう言って、
 レオンは素直に頭を下げた。

 どうやら、
 懸念は完全に払しょくされたらしい。

 そのまま引き上げるつもりでいたのだが、

「このあと、
 よろしければ一緒に食事でもいかがですか」

 と、レオンが切り出した。

 せっかくなので、
 設立スタッフの面々とともに、
 近くのレストランへ向かうことになった。

「こういう学校ができるのは、
 本当に良いことだと思うんです」

 席に着くなり、
 レオンは熱心に語り出した。

「身分に関係なく学べる場なんて、
 今まで、ありませんでしたから」

 理念には、
 本心から賛同しているのだろう。

 ただ――

 話しながら、
 彼の視線が、
 ちらり、ちらりと、
 ある方向へ向かっているのに気づく。

 ……カエデだ。

(あら?
 これは……)

 私の中の、
 “お姉さんの勘”が、
 ぴん、と反応する。

「アレイシア様、
 これ、すごくおいしいです」

 当のカエデは、
 そんな視線にまったく気づかず、
 目を輝かせて料理を頬張っていた。

 それは、
 アウレリア商業学院の開校準備が、
 ようやく軌道に乗り始めた頃だった。

 夕刻。
 校舎の中庭。

 設立スタッフが残って作業をしている最中、
 突然、
 怒号が響いた。

「ふざけるな!
 こんな学校、認められるか!」

 現れたのは、
 学院設立に反発する商会関係者――
 あるいは、
 旧来の特権にすがる者たちだった。

 数人。
 だが、
 手には棍棒や角棒を携えている。
 
「……下がってください!」

 レオンが声を上げるが、
 距離を詰めた瞬間――
 男の一人が、
 彼に向かって踏み込んだ。
 脅しのつもりだろう。

 そのときだった。

 鈍い衝撃音が響く。

 男の棍棒は、
 レオンに届くことなく、
 弾き飛ばされた。

 彼の前に、
 一人の少女が立っている。

 剣を構え、
 足を踏みしめ、
 一歩も退かない。

 カエデだった。

「ここは、
 通しません」

 声は、
 静かで、
 しかし、揺れていない。

 相手は、
 一瞬、怯んだ。

 その隙を逃さず、
 カエデは一歩前に出る。

 斬らない。
 だが、
 近づかせない。

「……まあまあまあ」

 私は、一歩前に出る。
 ここからは――
 私の出番だ。

「お尋ねの皆さん」

 にこやかに、
 しかし、逃げ道を塞ぐ角度で。

「この学校の設立が、
 皆さんにとって不利になると、
 そうお考えなのでしょう?」

 男たちは、
 顔を見合わせる。

「ですが、
 それは誤解です」

 私は、間髪入れず続けた。

「むしろ、その逆。
 この学院は、
 皆さんにとっても、
 大きな利益を生みます」

「詳しい話は――
 あちらで、
 ゆっくりといたしましょう」

 くい、と手で示す。

「さあ、どうぞ」

 この程度の相手だ。
 理と利を並べ、
 少しだけ未来を見せてやれば、
 簡単に転ぶ。

 口八丁、
 手八丁。

 それが、
 私の得意分野だ。

「あとは、
 任せました」

 そう言い残し、
 私は、
 彼らを連れて、その場を離れる。

 ――その間際。

 私は、
 見逃さなかった。

 レオンが、
 顔を赤くしたまま、
 じっと、
 カエデを見つめ続けていたことを。

 当のカエデは、
 何事もなかったかのように、
 剣を整えているというのに。

(……ああ)

 私は、
 小さく、
 心の中で頷いた。

「これ、
 完全に“落ちた”わね」

23 学院設立前夜2


 翌日。
 アウレリア商業学院での作業を終え、帰宅の途についていたときだった。

「……あの、アレイシアさま」

 隣を歩いていたカエデが、珍しく歯切れの悪い声で話しかけてきた。

「どうしたの?」

「さきほど……学院で、レオンに呼び止められまして」

 そう前置きしてから、少し言いにくそうに続ける。

「明日の休日に、ランチをご一緒しないかと……。
 学校のことで、相談したいことがある、と」

 ――あら。

 私は、思わず足を止めそうになるのをこらえた。

(ついに、動いたわね)

「学校のことであれば、私より、アレイシアさまのほうが適任では、
 と申し上げたのですが」
「アレイシアさまではなく……私がいいのだと」

 カエデは困惑したように眉を寄せる。

(……だめだわ)

 この子、
 グラドと同じ系統――
 筋金入りの“剣術バカ”だ。

 剣と任務と護衛のこと以外には、
 とことん鈍感。

 私は、思わず苦笑してしまった。

「いいじゃない。カエデ」
「行ってらっしゃいな」

「……そうですか?」
「はい。では、お言葉に甘えて、そうさせていただきます」

 ぺこり、と律儀に頭を下げる。

(ああもう……)

 翌日の正午前。

「では、いってまいります!」

 私のもとにやってきたカエデは、
 いつもの剣士装束のまま、元気よくそう言った。

「……ちょっと、待った!」

「はい?」

「カエデ。あなた、その恰好で行くつもり?」
「レオンと、決闘でもする気かしら?」

「だめでしょうか?」

 真剣な顔で首をかしげる。
 
「でも私、こういう感じの服しか持っていなくて……」

「だめに決まってるでしょう」

 私は有無を言わさず、彼女の手首を取った。

「ちょっと、こっちに来なさい」

 自室に連れ込むと、
 私は洋服ダンスを開ける。

「私の服を貸してあげるから」

「えっ……よろしいのですか?」

「いいの。背格好、似てるでしょう?」

 実際、
 私とカエデは身長も体型も近い。
 多少の誤差は問題にならない。

 私が選んだのは、
 淡いアイボリー色の、落ち着いたワンピースだった。

 余計な飾りはない。
 だが、布地は上質で、
 動くたびにやわらかく光を含む。
 
「これにしましょう」

 着替えを終えたカエデが、
 少し緊張した面持ちで姿を現す。

 ……あら。

 想像以上に、似合っている。

「……どうでしょうか」
「似合いますか?」

「とっても、かわいいわ」

 素直にそう言うと、
 カエデはぱっと表情を明るくした。

「ありがとうございます!」
「では、行ってきます!」

 いつもの調子で、勢いよく出て行こうとする。

「――ちょっと待った!」

「はい?」

「カエデ」

 私は、にっこり笑って言った。

「剣は――置いていきなさい」


 
 夕方。
 カエデが戻ってきた。

 足取りは軽く、
 表情も、心なしか明るい。

(……あら)

 正直なところ、
 私はずっと、やきもきしていた。

「どうだった?」

 なるべく平静を装って、そう聞く。

「はい!」
 カエデは、ぱっと顔を輝かせた。
「レオンが連れていってくれたお店、料理がとてもおいしくて」

 ほう。

「特に、ミートパイが最高でした!」

「……」

「そ、そう……それは、よかったわね」
 私は咳払いをひとつしてから、続けた。
「それで? レオンは、なんて言っていたの?」

「それがですね」
 カエデは少し首をかしげる。
「面白い話を、いろいろしてくれたのですが……」

 期待する私をよそに、

「肝心の学校の話が、まったく出てこなくて」
「正直、よく分からない人だな、と思いました」

「…………」

 沈黙。

(ああ……)

 私は、そっと天井を仰いだ。

(レオン。
 あなた、少し――
 指導が必要ね)

 それから、しばらくして。

 アウレリア商業学院の開校準備は、すべて整った。
 建物、制度、人員――
 どれも、最低限の形は整っている。

(これで……)

(私の役割も、ひとまず、おしまいね)

「ありがとうございました。アレイシア様」

 レオンが、深く頭を下げる。

 彼は引き続き、学院に残り、
 運営の責任者として舵を取ることになっていた。

「これからが本番よ、レオン」

 私は、静かに告げる。

「この国でも初めての試みだもの。
 きっと、思うようにいかないことも、たくさんあるわ」

 彼は、真剣な表情で頷く。

「でも、この学校はとても意義がある」
「必ず、この国の未来につながるわ」

 少し、声を和らげて続けた。

「誇りを持って、がんばってね」
「何か困ったことがあったら……いつでも、言ってちょうだい」

「ありがとうございます」
「がんばります」

 短い返事。
 だが、その声音には、確かな覚悟があった。

 と――
 レオンは、少しだけ逡巡するように視線を伏せ、
 それから、思い切ったように口を開いた。

「……お言葉に甘えて、
 さっそくお願いがあるのですが……」

 来たわね。

「学院の業務が、まだまだ山積みでして」
「人手も、正直なところ、足りておりません」

 一拍置いてから。

「もし可能であれば……
 あの……カエデに」
「今後も、時間のあるときに、
 手伝いに来ていただくことは、できないでしょうか」

(なるほど)

(外堀から埋めていく作戦、というわけね。悪くないわ。)

 私は、くすりと微笑んだ。
 そして、横に控えていたカエデへ向き直る。

「レオンが、こう言っているわ」
「カエデ。今後も、学院を手伝ってあげてくれる?」

 カエデは、きょとんと目を丸くする。

「はい……それは、大丈夫ですが」
「私なんかで、本当にいいのでしょうか?」

 私は、即座に答えた。

「あなたでなければ、だめなのよ」

「……?」

 相変わらず、意味が分かっていない顔。

 そのときだった。

「……ありがとう、カエデ」

 そう言ったレオンの表情。

 安堵と喜びと、
 抑えきれない感情が入り混じった、
 あの満面の笑みを――

 私は、きっと、忘れることはないだろう。

24 勇者と魔王


 ――俺は、勇者クラウス。

 祖国アウレリアの期待と重圧を、その身に背負った男だ。

 今、俺はサウスヴェルへ向かっている。
 最愛の人、セリスと共に。

 目的は、ただ一つ。

 ――魔王に、会うために。

 サウスヴェルの街の入口に立った瞬間、
 俺は、思わず足を止めた。

 ……いや。
 正確には、たどり着いてしまった、という感覚だった。

 この数か月。
 セリスと旅をした日々は、あまりにも濃く、あまりにも楽しかった。

 偽魔族を蹴散らし、
 初めて見る景色に感嘆し、
 土地ごとの珍しい料理を分け合い、
 各地の人々と、笑い、語り合った。

 どの瞬間にも、セリスがいた。

 ――あっという間だった。

 これで、この旅は終わってしまう。

 (……サウスヴェルが、もっと遠ければよかったのに)

 そんな、子どもじみた願いが、胸をよぎる。

 目的地は、街の中心ではなかった。

 サウスヴェルの外れに建つ、一軒の屋敷。
 この地方の有力商人――ヴァルスの屋敷だと、セリスは言った。

 立派ではある。
 だが、威圧感はない。

 城でもなければ、要塞でもない。
 どこにでもありそうな、上流商人の邸宅。

 (……本当に、ここに魔王がいるのか?)

 疑念が、拭えない。

 屋敷の前に立つと、
 扉は、こちらが名乗るよりも早く開いた。

 現れたのは、
 メイド服に身を包んだ、まだ幼さの残る少女だった。

「勇者様、ようこそ。おいでくださいました」

 丁寧な一礼。

「主人がお待ちです。どうぞ、こちらへ」

 そして、彼女はセリスへ視線を向ける。

「おかえりなさいませ。セリスメイド長」

「留守をありがとう、カエデ」

 ……メイド長?

 今、セリス――
 メイド長って、言ったか?

 疑問を口にする暇もなく、
 少女――カエデと呼ばれたメイドは、食堂の扉を開いた。

 食堂は、広すぎず、落ち着いた空間だった。

 その中央に――
 男が一人。
 そして、その隣に、少女が一人。

 男は、俺を見ると、自然に歩み寄ってきた。

「よく来てくれた。勇者クラウス」

 穏やかな声。

「会いたかった」

 そう言って、右手を差し出してくる。

 (……この男が、魔王?)

 角はない。
 威圧も、殺気も、感じない。

 だが――油断はできない。

 俺は一瞬だけ間を置き、
 差し出された手を握った。

「初めて会う。クラウスだ」

 男は、満足そうに頷いた。

「さあ、席についてくれ。食事にしよう」

 そして、セリスに向かって、

「セリスも、ご苦労だったな。座ってくれ」

 俺は、男から視線を外さぬまま、
 彼の正面の席に腰を下ろす。

 セリスは、俺の隣に座った。

 先ほどのメイド――カエデが、静かにお茶を運んでくる。

 男は、世間話でも始めるような口調で、言った。

「私が――魔王ヴァルディスだ」

 やはり。

 反射的に、剣の位置を確認する。

「最初に言っておこう」

 魔王ヴァルディスは、静かに続けた。

「私は、そなたと戦うつもりはない」

 ……言葉はいくらでも並べられる。

 俺は、目を逸らさない。
 場の空気が、張り詰める。

 そのとき――

「こほん」

 魔王の隣に座る少女が、わざとらしく咳払いをした。

「……わたしのこと、まだお気づきにならないのですか?
 勇者クラウス?」

 その声に、はっとして、少女の顔を見る。

 十四、五歳ほどだろうか。
 柔らかな笑み。
 どこか、気品を帯びた佇まい。

 (……どこかで、会ったことがある)

 王都。
 王宮。

 ――あっ。

「……エリシア王女!?」

 思わず、声が裏返った。

 反射的に、片膝をつき、頭を垂れる。

 少女は、くすりと笑った。

「ふふ。ようやく、気づいていただけたのですね」

「堅苦しい挨拶は不要です。どうか、席に戻ってください」

 混乱する俺の腕を、
 セリスがそっと取る。

 そして、小声で囁いた。

「気をつけて、クラウス」

「彼女――
 魔王様より、ずっと手ごわいわよ?」

 俺が、ようやく席に戻ったのを見計らって――
 エリシア王女が、にこやかに口を開いた。

「勇者クラウス。あなた……
 私のこと、すっかり忘れていましたよね?」

 ――いきなり、ぶっ込まれた。

 図星だ。

「わ、私は、その……成り行きと申しますか……!」

「では、お聞きしますが」

 エリシア王女は、首を傾げる。

「あなた、元々は
 “私を魔王から救い出すため”に、魔王城へ向かっていたのでしょう?」

「……は、はい」

「でも――」

 にっこり。

「いつの間にか、
 私ではなく、セリスを追いかけていましたよね?」

 ぐさっ。

 (お見通し……!?)

「私、少し……ショックでした」

 ずしん。

「も、申し訳ございません……!」

 思わず、深く頭を下げる。

 すると、エリシア王女は、わざとらしくため息をついた。

「まあ……仕方ありませんよね」

「セリスは、大人の女性ですし」
「子供の私なんかより、ずっと魅力的でしょうから」

 ちらり、とセリスを見る。

「プロポーションも、抜群ですし」

「い、いえっ! エリシア王女!!
 私は、セリスのプ、プロポーションについては、存じていないといいますか……
 まだ、というか……!」

 言いながら、何を言っているのか自分でも分からなくなる。

 その瞬間。

「いいえ」

 エリシア王女、即答。

「貴殿、セリスが水浴びしているところ、盗み見しましたよね?」
「以前、ゼオリ川で」

「!!」

 頭の中で、すべてが繋がった。

「えっ!?
 あ、あの時の水浴びの女性――
 あれが、セリス!?」

「ちょ、ちょっと!!
 エリシア様、それ今言う話ですかーーーー!?」

 隣のセリスが、真っ赤になって手をぶんぶん振る。

 だが、エリシア王女は止まらない。

「ええ。あなたが鼻の下を伸ばして、
 魔法陣を踏み抜いたあの事件――よく覚えています」

「そのあと、セリス、泣いていましたよ?」

「“もう、お嫁にいけない……”って」

 にこにこ。

「で? 勇者クラウス」
「貴殿、どう責任を取るおつもりですか?」

「エ、エリシア様ーーーー!!」

 セリスが全力で止めにかかるが、完全に手遅れだった。

「そ、それは……もちろん、責任を――」

 俺が覚悟を決めかけた、その瞬間。

「そういえば」

 追い打ち。

「あなた、私を魔王から救い出した際には」
「私と結婚する、という話でしたよね?」

「……あ」

 完全に、逃げ場が消えた。

 そして――

 エリシア王女は、満面の笑みで、こう言った。

「私と、セリス」
「どちらを選ぶおつもりですか?」

「………………」

 言葉が、出ない。

 (だれか……助けて…………)

25 剣を置いた食卓


「はっはっはっはっは!
 もう、その辺で勘弁してやれ、エリシア。ああ、腹が痛い」

 ついに堪えきれず、
 魔王ヴァルディスが声を上げて大笑いした。

「……まあ、いいでしょう」

 エリシア王女は、肩をすくめるように息をついた。

「セリスに免じて――
 この話は、お父様には内緒にしておいて差し上げます」

「……っ!!」

 全身の力が、抜けた。

「あ、ありがとうございます!!」

 気づけば俺は、反射的に立ち上がり、
 エリシア王女に深々と頭を下げていた。

 ……いや、待て。

(なんで俺、
 お礼、言ってるんだ……?)

 頭の中が、軽く混乱する。

「さて」
「挨拶は、このくらいにして」

 そして、にっこりと微笑む。

「カエデ。お料理を」

「はい」

 即座に応じ、
 カエデが手際よく料理をテーブルに並べていく。

 皿が置かれるたび、
 湯気と香りが立ち上り、
 思わず喉が鳴った。

(……うまそうだ)

「どれも、コックが腕によりをかけて作ったものだ」

 ヴァルディスが、穏やかに言った。

「遠慮はいらん。存分に召し上がってくれ」

「あ、ああ……いただくとしよう」

 ……

 ………
 
 なんだか――
 さっきまで、あれほど気を張っていた自分が、
 ひどく馬鹿らしく思えてきた。

 剣に手をかけ、
 一言一句を警戒し、
 少しの隙も見せまいとしていた、あの緊張。

 今はもう、
 皿の上の料理と、
 向かいに座る“魔王”の顔を見ながら、
 普通に食事をしている。

(……なんだ、これ)

 世界が、少しだけズレたような感覚だった。

「勇者クラウス」

 料理に手を伸ばしながら、
 魔王ヴァルディスが、唐突に切り出した。

「私は――
 アウレリア国王と、同盟を結ぼうと思っている」

 ……同盟?

 思わず、フォークが止まる。

 セリスとの旅で、
 魔族=悪、という単純な図式は、
 すでにかなり揺らいでいた。

 だが、
 同盟という言葉は、
 その想像を、さらに一段、越えてきた。

「私は、魔族と人間は、共存できると考えている」

 ヴァルディスは、淡々と続ける。

「眠りの森の幹線道路の話は、聞いたことがあるかな?」

「ああ。耳にしている」
「都市部の食料不足を解決した、とか……」

「あれは、私が作ったものだ」

「――そうなのか!」

 思わず、声が上ずった。

「ああ。
 私は、アウレリア王国となら、
 互いに発展できると信じている」

 その言葉に、
 嘘や誇張の響きはなかった。

 俺は、苦笑しながら肩をすくめる。

「……魔王ヴァルディスよ」
「正直に言うと、
 かなり、俺の“魔王像”と違う」

 向かいの男を見据えて、続けた。

「もっとこう……
 『世界の半分をやるから仲間になれ』とか」
「姫を抱えて、『力ずくで奪ってみろ』とか」
「あるいは、『まずは魔王四天王が相手だ』とか……」

 俺は、自嘲気味に笑う。

「正直、少し肩透かしを食らった気分だ」

 ヴァルディスは、静かに笑った。

「それは――
 人間の作った物語の中の話だろうな」

 そして、穏やかに言う。

「時間はかかるだろう」
「だが、我々は、まず――
 互いを理解するところから、始めなければならない」

「ああ……その通りだ」

 俺は、深くうなずいた。

「実際、俺は、魔族について、何も知らなかった」
「セリスに出会って……
 今までの認識が、ひっくり返るのを感じた」

 そのとき。

「……わたしも、です」

 控えめな声が、横から挟まる。

 給仕をしていたカエデだった。

「勇者クラウス」
「正直、かなりのカルチャーショックでした」

 そう言って、
 少し照れたように笑う。

 食堂に、
 小さな笑いが広がった。
 

 食事が終わる頃には、
 すっかり夜も更けていた。

 窓の外は静まり返り、
 屋敷の明かりだけが、闇の中に柔らかく浮かんでいる。

「クラウス」

 デザートの皿にスプーンを入れながら、
 エリシア王女が、何でもないことのように言った。

「今日は、この屋敷に泊まっていくといいでしょう」
「客室を用意させます」

「は、はい。ありがとうございます」
「そうさせていただきます、エリシア王女」

 俺が素直に頭を下げた、その直後だった。

「ああ――それとも」

 王女は、ふっと視線を上げ、
 今度は真顔で続ける。

「セリスと、同じ部屋のほうが良いかしら?」

 ――一瞬、時が止まった。

「エ、エリシア様!」
 セリスが、慌てて声を上げる。

「い、いえっ!」
 俺も反射的に立ち上がりそうになった。

「そ、そのような……!」
「ぶ、ぶ、無粋な真似は……!」
「け、決して……っ!」

 完全に、言葉が崩壊している。

 エリシア王女は、そんな俺たちを眺め、
 にっこりと、実に楽しそうに微笑んだ。

「ふふ。冗談です」

(……この王女)

(本当に、食えない)

26 交わる道、重なる想い


 魔王と勇者の会食から、一夜明けた朝。

 商人ヴァルスの屋敷では、
 私とヴァルディスが、
 セリスの淹れてくれた紅茶を口にしながら、
 朝食後の、穏やかなひとときを過ごしていた。

 窓の外からは――

「えいーーっ!」

 威勢のいい掛け声が、風に乗って微かに届いてくる。

 どうやら、庭では
 カエデとグラド、そして勇者クラウスが、
 そろって稽古に励んでいるらしい。

 思い返せば、朝食が終わるや否やの出来事だった。

 食堂の扉を勢いよく開けて、
 グラドがなだれ込んできたのだ。

「勇者クラウス!
 ぜひ、手合わせ願いたい!」

 昨日から、いや――
 勇者の名を聞いた瞬間から、
 どうにも我慢できなかったらしい。

 それを聞いたカエデが、
 ぱっと手を挙げた。

「あ、わたしも!
 わたしも、お願いします!」

「……カエデ」
 クラウスが首を傾げる。
「そなた、メイドではなかったか?」

「はい。でも、本職は剣士です。
 見習いですけど。
 いつも、先生に稽古をつけてもらっています」

 そんなやり取りの末、

「よし。では、皆で稽古といこう」

 ――という流れになり、
 三人は仲良く庭へと出ていった。

 なんとも平和な光景だ。

 私は、ふと視線を戻す。

 久しぶりにメイド姿へ戻ったセリスが、
 静かにティーポットを置いている。

 その姿を見て、
 今朝の出来事を思い出し、思わず笑みがこぼれた。

「……今朝の、セリスのその姿を見たときの
 勇者の顔。見ものでしたね?」

 紅茶をひと口含みながら、私は言う。

「完全にフリーズしていました。
 よほどツボに入ったのでしょう」

 セリスは、ぱっと顔を赤らめた。

「ひ、姫!
 からかわないでください!」

 慌てた様子で続ける。

「あの人、ウブなんですから……」

 そして、ふと思い出したように、
 少し声を潜めて付け加えた。

「……聞いてください」
「クラウスって、旅の間、
 私の手も握らなかったんですよ」
「一度も、です」

 その言葉に、
 ヴァルディスが素直に首を傾げる。

「……なぜだ?」

 心底、理解できないという顔だ。

 私は、肩をすくめる。

「勇者クラウス。むっつりでちょろい、そのうえヘタレとは……」

「まさに王道テンプレの勇者ですね」

「姫、ヘタレとか言わないでください!」
 セリスが、むっとする。
「クラウスに失礼です!」

「これは失礼」
 私は素直に頭を下げた。
「たしかに、あなたのクラウスに向かって、
 少々言い過ぎました」

「……っ!」

 セリスは、さらに顔を赤らめる。

「べ、べつに……
 わたしの、では……ないですけど!」

 そう言い放ち、
 ぷいっとそっぽを向いた。

 ――見事なツンデレムーヴである。

 ヴァルディスは、その様子を眺めながら、
 実に楽しそうに笑っていた。

 窓の外では、
 剣が打ち合う音と、
 若い声が、軽やかに響いている。
 

 
「ヴァルディス。今日の予定は?」

 私がそう尋ねると、
 ヴァルディスは紅茶を一口含み、何でもないことのように答えた。

「ああ。今日は、クラウスにヴェルハイムの街を案内してやろうと思ってな」

 窓の外へ視線を向けながら、続ける。

「眠りの森の幹線道路」
「我が《アウレリア連合商業会社》」
「そして、《アウレリア共通取引市場》だ」

 指折り数え、軽く肩をすくめる。

「活気のあるところを実際に見せれば、
 少しは、私の考えにも賛同してくれるのではないかと思ってな」

 ――なるほど。
 魔王なりの、ずいぶんと穏健な“説得”方法だ。

「それは、良いですね」

 私は、すぐに頷いた。

「でしたら、私もご一緒しても?」

「もちろん、構わない」

 即答だった。

 そのやり取りを、少し離れたところで聞いていたセリスが、
 なぜか、そわそわと落ち着かない様子を見せる。

 ……分かりやすすぎる。

「セリスも、ご一緒しても?」

 私が声をかけると、
 セリスは一瞬、目を見開いた。

「……よいのですか?」

 ヴァルディスが、肩越しにちらりと彼女を見る。

「構わないが?」

 その言葉を聞いた瞬間――
 セリスの表情が、ぱっと花開いた。

 まるで、朝日に照らされたように。

「……ありがとうございます」

 声は控えめだったが、
 その頬は、はっきりと緩んでいた。
 

 ――俺は、勇者クラウス。
 祖国アウレリアの期待と重圧を、その身に背負った男だ。

 今、俺は〈眠りの森の幹線道路〉へ向かっている。
 目的は、ただ一つ。

 ――「魔族と人間の共存」
 魔王の言葉、その真意を、自分の目で確かめるためだ。

 行きの馬車の中。
 揺れる車内で、俺は昨日から引っかかっていた疑問を口にした。

 エリシア王女と、魔王ヴァルディス。
 誘拐という、いかにも物騒な出会い方をしたにしては――
 どう考えても、仲が良すぎる。

 エリシア王女は、何でもないことのように答えた。

「私と魔王ヴァルディスは、婚約しています」

 ……は?

 一瞬、思考が止まった。
 だが次の瞬間、妙に納得している自分がいた。

(この王女なら……やりかねない)

 むしろ、実に自然だ。

 だが――
 その直後、そんなことはどうでも良くなるほど、
 重大な事実に気づく。

 ここにいるのは、
 魔王ヴァルディスと、その婚約者エリシア王女。
 そして――俺と、セリス。

 つまり。

 ……つまり?

 これは――
 ダブルデート。

 ダブルデート、というやつではなかろうか!
 なかろうか!?

 〈眠りの森の幹線道路〉の入口が近づくにつれ、
 道の左右が、次第に、次第に騒がしくなっていく。

 露店。
 馬車。
 呼び込みの声。

 まるで、王都の市場のような活気だ。

「道ができれば、その周囲に店が生まれ、商いが生まれる」

 魔王ヴァルディスが、どこか誇らしげに語る。

「物流とは、ただ物を運ぶだけのものではない。
 人を動かし、街を育て、国を変える力を持つ」

 ……商売に精を出す魔王、か。

 少し滑稽で、
 だが、不思議と親しみが湧いた。

 道沿いの店に立ち寄り、昼食を取る。
 全国各地から集められた食材で作られた料理は、どれも見事だった。

 店員も、客も、皆、生き生きとしている。

 ふと隣を見ると、
 セリスがパスタ料理を、とても美味しそうに食べている。

 ……幸せだな、と思った。

 〈アウレリア共通取引市場〉では、
 数え切れないほどの店が、所狭しと並んでいた。

 人、人、人。
 まるで祭りの日のような賑わいだ。

「誰でも出店できる市場だ」
「ゼロから商売を始められる仕組みにしている」

 魔王の言葉に、
 俺は素直に感心する。

「……よくも、こんなことを思いついたものだ」

 北の海で採れたという美しい貝を使ったアクセサリーを見つけ、
 俺はそれを買って、セリスに手渡した。

 彼女は少し驚き、
 そして、はにかんだように微笑んだ。

 そして――
 〈眠りの森の幹線道路〉の入口。

 森を貫くその道を、
 無数の馬車と人と馬が行き交っている。

 圧巻だった。

 魔族と共に、アウレリア王国が繁栄する。
 その光景が――

 初めて、
 俺の中で、はっきりとした“現実”として形を結んだ瞬間だった。

27 静かに結ばれたもの


 ある午後のこと。

 ヴェルハイムにある商人ヴァルスの屋敷では、
 私と勇者クラウスが、
 セリスの淹れてくれた紅茶を口にしながら、
 これからのことを、静かに話し合っていた。

 窓の外からは――

「えいーーっ!」

 威勢のいい掛け声が、風に乗って微かに届いてくる。
 庭では、
 カエデがグラドに稽古をつけてもらっている。

 先ほどまで、この席にはヴァルディスもいた。

「エリシア。
 私が留守の間に、クラウスに、少し状況を説明しておいてもらえると助かる」

 そう言い残し、
 商人ヴァルスとしての顔に戻った彼は、
 慌ただしく仕事へと出ていった。

 ……本当に、よく働く魔王である。

 私は、カップを置き、
 改めてクラウスへ向き直った。

 これから話すのは、
 勇者としての戦い方ではない。
 剣でも、魔法でもない――
 もっと、厄介な話だ。

 魔族と魔獣の違い。
 その力関係と、生態。
 なぜ魔族が眠りの森を通行できるのか。
 眠りの森の幹線道路がもたらした、現実的な経済効果。
 そして――
 アウレリア王国が、魔族と手を組むことによって得られる未来。

 私は、順を追って説明していった。

 クラウスは、途中で口を挟むこともなく、
 ただ黙って、真剣に耳を傾けている。

 ……本当に、
 この青年は根がまじめだ。

「……しかし、だ」

 ひと通り聞き終えたあと、
 クラウスは慎重に言葉を選びながら口を開いた。

「王女」
「いくら理屈としてはメリットがあっても……」

「魔族と“同盟”となると、
 心理的に、国王は受け入れられないのではないか?」

 ずいぶんと、踏み込んだ問いだった。

 だが、
 この数日で、彼は私に対しても
 かなり気楽に話すようになっている。

 それだけ、
 本気で考えている証拠でもあった。

「ええ。クラウス」
 私は、うなずいた。

「だからこそ――
 最初から『魔族と同盟』とは言いません」

 クラウスが、少し目を見開く。

「時を待つ必要があります」

「それまでは、極秘裏に、経済基盤を強化していきます」

 私は、紅茶を一口含み、続けた。

「まずは、経済でつながる」

「いきなり正体を明かす必要はありません」

 言いながら、
 我ながら可笑しくなる。

 ――まるで、
 自分が魔族であるかのような口ぶりだ。

「そして、クラウス」

 私は、視線をまっすぐ彼に向けた。

「世論形成には――
 あなたの力が、必要になります」

「俺の……?」

「ええ」

 私は、迷わず言った。

「勇者は、“歩く正当性”です」
「剣ではなく、存在そのものが、国を動かす力になる」

「勇者クラウスが視察し、
 問題なしと判断した」

「それだけで――
 貴族の反発は激減し、
 領民の不安は、大きく下がるでしょう」

 クラウスは、ぽりぽりと頬をかいた。

「……そんなもんかね」

 だが、その声音には、
 冗談とも本気ともつかない、重みがあった。

「いずれにしても」

 私は、静かに締めくくる。

「一度、父――
 アウレリア王国とは、
 正式に話をしなければならないと思っています」

 クラウスは、ゆっくりとうなずいた。

 窓の外では、
 剣の音と、若い声が、
 相変わらず平和に響いている。

 だが――
 この静かな午後の会話こそが、
 やがて、国の形を変える第一歩になることを、
 私は、はっきりと感じていた。
 

 
 私は、十五歳の誕生日を迎えた。

 ヴァルスの屋敷では、
 ヴァルディスが、クラウスが、セリスが、グラドが、カエデが――
 皆で、ささやかながらも温かな誕生日の会を開いてくれた。

 笑い声と、料理の香り。
 それだけで、胸が満たされる。

「おめでとう、エリシア。
 出会ってから一年だ。早いものだな」

 ヴァルディスはそう言って、
 小さな箱を私の前に差し出した。

「……開けても?」

 うなずくのを見届けてから、
 私はそっと、蓋を開ける。

 中にあったのは、
 装飾のない、細いシルバーの指輪だった。

 ひどく、静かな光をたたえている。

「派手なものは、似合わないだろう」

 そう言って、
 彼はごく自然な仕草で私の左手を取り、
 薬指に、その指輪を通した。

「……あ」

 思わず、声が漏れる。

 胸の奥が、きゅっと締めつけられた。
 不思議と、言葉が出てこない。

「……ありがとう、ヴァルディス」

 やっと、それだけを口にする。

「すてき……」

 カエデは、素直な声でそう呟く。

「みせつけられたな」

 クラウスが、半ば呆れたように、半ば笑いながら言った。

 一年前。
 魔王城の寝室で、ひとり、声を殺して泣いていた私は――
 まさかその一年後、
 魔王と、勇者と、仲間たちに囲まれて、
 こうして誕生日を祝ってもらっているなんて、
 夢にも思わなかった。

 本当に、いろいろなことがあった。

 それは、私だけではない。
 ここにいる彼らにとっても――同じだろう。

 左手の薬指に感じる、
 わずかな重みを確かめながら、
 私は、そっと目を閉じた。

28 王女の帰還


 その日、
 アウレリア王国の王宮に、
 極秘裏に、勇者クラウスが帰還した。

 彼が伴っていたのは――
 アウレリア第三王女、
 エリシア・フォン・アウレリア。

 勇者クラウスは、国王の命に報い、
 エリシアを魔王城から救い出すことに成功したのだ。

 もっとも、
 その「誘拐」という出来事自体、
 世に公表されてはいなかった。

 王女誘拐という事実が知れ渡れば、
 王家への不信と、国全体への動揺は避けられない。
 それを防ぐため、
 エリシアの失踪は、王宮のごく一部だけで秘されていた。

 だからこそ、
 彼女の帰還もまた、静かに、密やかに行われた。

 勇者とエリシアは、
 人目を避けるように、内密に王のもとへ通された。

 扉が開いた瞬間――
 国王と王妃、そして二人の姉は、
 一斉にエリシアのもとへ駆け寄った。

「エリシア……!」

 王妃は声を震わせ、
 そのまま王女を強く抱きしめる。

 姉たちもまた、言葉にならないまま、
 涙を流しながら妹の無事を確かめた。

 再会の喜びは、疑いようもなかった。

 だが、同時に――
 彼らの胸には、言い知れぬ戸惑いが広がっていた。

 エリシアは、予想に反して、驚くほど健やかだった。

 顔色は良く、
 身のこなしにも衰えはない。
 幽閉され、心身ともに憔悴している姿を想像していた彼らにとって、
 それは予想外だった。

 もっと、疲れ切っていると思っていた。
 もっと、怯えているのではないかと覚悟していた。

 ――最悪の事態すら、想定していたのだ。

 だが、目の前のエリシアは違った。

 連れ去られた当時、
 まだ幼く、どこか頼りなさを残していた少女は、
 今や、背筋を伸ばし、静かな落ち着きをまとって立っている。

 その佇まいは、凛としていた。

 まるで――
 別人のようだと、
 誰もが、心の中でそう感じていた。

 それは成長という言葉だけでは、
 とても言い表せない変化だった。

 エリシア・フォン・アウレリアは、
 確かに帰ってきた。

 だが同時に、
 彼女はもう、
 かつての「守られるだけの王女」ではなかった。

 王宮に流れたその沈黙は、
 再会の余韻であると同時に――
 これから語られる“真実”を、
 無意識のうちに待ち構える空気でもあった。
 

 
 王宮。
 夜。

 私は、父と母――
 すなわち、国王と王妃の寝室を訪れた。

 扉の前に立つ警備兵は、
 この時間帯の来訪に一瞬だけ戸惑ったようだったが、
 相手が私だと分かると、すぐに姿勢を正し、
 室内へと取り次いでくれた。

「エリシア王女、いらっしゃいました」

 少しの間を置いて、
 扉の向こうから、聞き慣れた優しい声が返ってくる。

「どうぞ。中へ」

 母の声だった。

 私は、深く息を吸い、
 そして扉を開けた。

 灯りを落とした寝室には、
 父と母が並んで座っていた。
 二人は、私の姿を認めると、
 まるで確かめるように、静かに視線を向けてくる。

「どうしたの、エリシア。こんな夜に……珍しいわね」

 母はそう言ったけれど、
 その声色には、はっきりとした気遣いが滲んでいた。

 ――当然だ。

 私は、魔王城から戻ってきて、まだ間もない。
 誘拐され、敵地に連れ去られ、
 そこで何があったのか。

 父も母も、
 あえて多くを聞こうとはしなかった。
 それが、私を思ってのことだと、分かっている。

 けれど――
 気にならないはずがない。

 実の娘が、
 魔王の城で何を見て、何を感じ、
 どんな時間を過ごしたのか。

 私は、二人の前に進み、
 ゆっくりと膝を折った。

「お父様。お母様」

 自分でも驚くほど、
 声は落ち着いていた。

「今夜は……
 どうしても、お話ししなければならないことがあって、参りました」

 父は、わずかに目を細める。

「……大事な話、ということか」

 母は、そっと身を乗り出し、
 やわらかく微笑んだ。

「無理にとは言わないわ、エリシア」
「でも、あなたが話したいのなら……
 私たちは、きちんと聞く」

 私は、小さくうなずいた。

「ありがとうございます」

 そして、顔を上げる。

 ――これから先。
 私と魔王ヴァルディスは、
 魔族と人間の共存に向けて、次の段階へと進むことになる。

 その道程では、交渉や計略が必要となり、
 状況次第では、すべてを明かせない判断も求められるだろう。

 けれど。

 無条件に私を愛してくれているこの二人にだけは――
 嘘も取り繕いも排し、
 私が見た真実と、偽りのない想いを、そのまま伝えなければならない。
 
 それが、
 かつて“悪役令嬢”だった私が、
 今も手放さずにいる、
 ささやかな矜持だった。

 私は、静かに口を開く。
 
「私は……
 魔王城で、魔王ヴァルディスと、共に過ごしました」

 その名を口にした瞬間、
 部屋の空気が、ぴんと張り詰めるのを感じた。

 それでも、私は続ける。

「ですが、そこで私が見たのは――
 私たちが、これまで信じてきた
 “魔王”の姿ではありませんでした」

 父も、母も、
 何も言わず、ただ私を見つめている。

 私は、その視線をまっすぐ受け止め、
 一歩も引かずに言葉を重ねた。

「お父様。お母様」

「今からお話しすることは、
 この国の未来を、大きく左右する話です」

 それは、
 長い夜の始まりを告げる言葉であり、
 同時に――

 私自身が、
 “王女”として立つ覚悟を示す、
 最初の一歩でもあった。

29 父として、国王として


 真実をすべて聞き終えた夜。
 国王と王妃は、しばらく言葉を交わさなかった。

 灯りの落とされた寝室で、
 ただ、静かな沈黙だけが流れていた。

 やがて――
 国王が、低く、しかし揺るぎのない声で口を開いた。

「……今一度、
 ヴァルス――いや、魔王ヴァルディスに会う必要があるようだ」

 それは、感情に流された言葉ではなかった。
 王として、状況を受け止めた末の判断だった。

「魔王であれ、商人であれ」
「我が娘が、未来を託そうとしている相手だ」

 一拍、置いて。

「王としてではない」
「父として――確かめねばならぬことがある」

 王妃も、静かにうなずいた。

「ええ。政治の判断は、その後でも遅くはありません」
「まずは、“人となり”を知ることが先ですわ」

 翌日。

 私は、父と母――
 アウレリア国王と王妃と共に、
 眠りの森の幹線道路を抜け、ヴェルハイムへ向かっていた。

 今回は、あくまでお忍びだ。
 父も母も、簡素な平民の装いに身を包んでいる。
 勇者クラウスが、護衛として随行していた。

 眠りの森の幹線道路を通るのは、
 父と母にとって、これが初めてだった。

「……見事な道ですこと」

 母が、思わず感嘆の声を漏らす。

「物流が、国の形を変える――
 なるほど、噂に違わぬ」

 父も、静かに周囲を見渡していた。

 やがて、一行は屋敷に到着する。

 迎えに出たのは、セリスだった。

「ようこそお越しくださいました」

 その落ち着いた所作に、
 父は一瞬、視線を細めた。

 応接室へ通されると、
 そこには、すでに魔王ヴァルディスが待っていた。

 父は一歩前に出る。

「ヴァルス――いや、魔王ヴァルディス」
「只者ではないとは思っていたが、
 まさか魔王であったとはな」

 ヴァルディスは、穏やかに一礼した。

「陛下。
 その節は、正体を隠しており、失礼した」

 応接室のテーブルを挟み、
 ヴァルディスと私が並んで座る。
 その後ろに、セリスとグラド。

 向かいには、父と母。
 その後ろに、クラウスが控える。

 その間を、カエデが忙しなく行き来し、
 茶を用意していた。

 ――
 商人の屋敷で、
 平民の装いをした国王、王妃、王女、
 そして魔王が向かい合っている。

 あまりに奇妙で、
 あまりに前例のない光景だった。

 父が、静かに口を開く。

「娘から、すべて聞いた」

「娘は、王宮を離れ、
 そなたと共に歩みたいと言っている」

 私は、無意識に背筋を伸ばす。

「娘が選んだ相手であるなら、
 その意思を尊重したいと思っている」
 
 だが――
 父の視線は、まっすぐヴァルディスを射抜いた。

「しかし、その前に」
「親として、聞いておかねばならぬ」

 間を置かず、
 その問いは投げられた。

「この子を、
 道具として使う気はないな?」

 直球だった。

 ヴァルディスは、即座に答えた。

「ない」
「もし、彼女を犠牲にしなければならない局面が来るなら、
 その時点で、私は彼女を隣に置かない」

 父は、その瞳を見据える。

 数拍。
 沈黙。

 やがて、深くうなずいた。

「……よし」

 その一言には、
 王としての判断と、
 父としての納得が、はっきりと込められていた。

「エリシア」
「魔王ヴァルディスと、
 そなたたちの理想を追うがよい」

 胸が、熱くなる。

「そして――勇者クラウス」

「は! 国王陛下」

「魔王討伐の任を解く」
「これよりは、
 魔王ヴァルディスと共に、
 アウレリア王国の発展に尽力せよ」

「仰せつかりました」

 この瞬間――
 魔王と勇者が、正式に手を結んだ。

 歴史上、前例のない決断だった。

「陛下。
 ご理解に、感謝する」

 ヴァルディスが、静かに頭を下げる。

 私は、父を見つめる。

「お父様……
 ありがとうございます。
 何と、お礼を申し上げれば……」

 父は、静かに首を振った。

「今のままのアウレリア王国が、
 最良だとは、私も思っておらぬ」

「かつての栄光を取り戻したい」
「娘が、そのために歩もうとしているなら――
 親として、力にならぬ理由はない」

 そして、ふと視線を後ろへ向ける。

「ところで、勇者クラウス」

「は! 国王陛下」

「そなた、
 見事、娘を連れ帰ってくれた」

「だが、この事情だ」
「申し訳ないが――
 約束していた、
 エリシアとの婚姻は、なかったことにしてほしい」

 国王は、はっきりと頭を下げた。

「……申し訳ない」

「と、とんでもございません!」
「その件は、承知しております!」

 即答だった。

「そうか」
 国王は、少しだけ表情を和らげる。

「そなたが、
 たいそう娘を気に入っていたと聞いてな」

 その瞬間――
 控えていたセリスの視線が、鋭く光った。

 ――へえ。

 そんな声が聞こえた気がした。

「ち、違うんだ!」
 クラウスが、背後で必死に身振りをしているようだ。

「……さて」

 父は、わずかに背筋を正し、私を見た。

「エリシア」
「そなたが、ここに住むために――ひとつだけ、条件がある」

 その声音は、国王としてではなく、父としてのものだった。

 父が示した条件は、この屋敷と王宮とを結ぶ転移魔法陣の設置。
 私に万が一の危険が及んだとき、いつでも王宮へ退避できるように
 ――そのための、最後の逃げ道。

 ヴァルディスは、少しも迷うことなく、うなずいた。

「承知した」

 だが、それは無条件ではなかった。

 魔法陣は、王宮内でも国王の私室にのみ設置すること。
 存在は極秘とし、他言無用。
 そして――使用を許されるのは、私と、父、母のみ。

 当然の条件だ、と父は静かに受け入れた。
 それ以上の言葉は必要なかった。

 その日、ヴァルディスから託された転移魔法陣の巻物を大事そうに抱え、
 父と母は王宮へと戻っていった。

 会談は、驚くほど短い時間だった。
 だが――

 非公式ながら、
 アウレリア王国と魔王が、
 ひとりの王女を介して静かに手を結んだ。

 その歴史的瞬間を、
 私は確かに、この目で見届けていた。


 
 朝の光で、目が覚めた。

 この屋敷で迎える朝は、久しぶりだ。
 柔らかな日差しがカーテンの隙間から差し込み、
 ゆっくりと現実を引き戻してくる。

 昨日――
 両親と魔王ヴァルディスとの会談は、短い時間だった。
 だが、これまでの人生でも、指折りに神経をすり減らした時間だったと思う。

 張りつめていた気が一気にほどけたのだろう。
 昨夜は、久しぶりに深く、夢も見ずに眠れた。

 私は身支度を整え、食堂へ向かった。

 ――その途中。

 朝の食堂から、楽しげな談笑の声が聞こえてくる。

 ……え?

 こんな朝早くから、客人?
 訝しみながら、そっと食堂の扉を開けると――

「なるほど、ヴァルディス卿。それは実に興味深い」
「陛下の好奇心には、こちらこそ頭が下がる」
「あなた、あまり婿殿を困らせてはいけませんよ?」

 そこには。
 当たり前のようにヴァルディスと向かい合い、談笑している父と母の姿があった。

「……お父様? お母様?」
「どうして、ここに……?」

 思わず、素の声が出る。

 母が、くすっと笑った。

「お父様、もうあなたに会いたくなったみたいよ?」
「い、いや。魔法陣の試運転を兼ねてだな」

 そう言って、父はわずかに視線を逸らす。

 そんな両親のやり取りを目にした瞬間――
 胸の奥から、懐かしい感覚が一気によみがえった。

 そうだ。
 私―エリシアは、姉たちと年の離れた末っ子だった。
 内気で、引っ込み思案で、いつも姉の影に隠れていた私を――
 この二人は、溺愛した。

 欲しいものは、何でも与えられた。
 ……いや、正確には、それ以上だった。

 木馬がほしいと言えば、本物の白馬。
 ドールハウスがほしいと言えば、湖畔の別荘。

 目に入れても痛くない、とは、まさにこのこと。

 ――すっかり、忘れていた。

 この人たち、度し難い「親バカ」だった……!

 転移魔法陣も――
 娘の最後の逃げ道、などと、もっともらしい理由をつけて。
 本当は、自分たちが気軽に遊びに来るための手段だったのでは……?

 なにが、最後の逃げ道だ……!

「おっと、もうこんな時間か」
「朝食の時間に遅れてしまいますわね。そろそろ戻らないと」
「そうだな。エリシアの顔も確かに見届けた。
 では――また会おう、エリシア」
 
 ――毎日でも来そうな勢いだ。

 両親は、あわただしく立ち上がり、
 名残惜しそうにしながらも、転移魔法陣へと向かっていった。

 光が走り、二人の姿が消える。

 私は、その場に立ち尽くしたまま、
 ヴァルディスの顔を見ることができなかった。

「……思っていたより、気さくな父君だな」

 苦笑交じりの声。

「ヴァ、ヴァルディス……」
「ご、ごめんなさいーーーーー!!」

30_医療革命1


 私は、風邪を引いた。

 頭が重く、鈍い痛みが続いている。
 どうやら、熱も出ているらしい。

 両親とヴァルディスとの対面を終え、
 張りつめていた気が、ふっと緩んだせいだろうか。

「……ごほ、ごほ」

 食堂のソファに身を沈め、私はうなだれていた。

「ほう、これはかわいそうに」
「今すぐ、回復魔法をかけてやろう」

 クラウスが呪文を詠唱しようとした、そのとき。

「――ちょっと待て」

 ヴァルディスが、静かに制した。

「なぜ止める?」

「いや……これは、好機でもあると思ってな」

 ……人が苦しんでいるのに、好機とは何事だろう。

 私がむっとした顔をするより早く、
 ヴァルディスは穏やかに問いかけてきた。

「エリシアよ」
「そなたは、これまで風邪を引いたり、病気になったとき」
「いつも回復魔法で治してもらってきただろう?」

 私は、黙ってうなずく。

 その通りだ。

「だが、世の大半の民は、回復魔法を受けられない」
「僧侶も神官も、誰にでも手を差し伸べられるわけではないからな」

 一拍、置いて。

「そなたには一度」
「回復魔法なしで、風邪をどう治すのか」
「その過程を、体験してもらいたい」

 ……なんだか、
 婚約者にとんでもなくひどいことを言われている気がする。

 けれど――
 確かに、みんなはどうやって風邪を治しているのだろう。

「私は、いつも我慢してます」

 カエデが、胸を張って言った。

「それも不正解だ」

 ヴァルディスは即座に切り捨てる。

「正しい風邪の治し方がある」
「私が、看病しながら教えよう」

 彼のことだ。
 決して思いつきや意地悪で言っているわけではない。

 何か、考えがあるのだろう。

「……わかったわ」
「ヴァルディスの言うとおりにする」

 私は、寝室へ運ばれた。

 カエデとセリスが、交代で看病についてくれる。

 夜になるにつれ、熱はどんどん上がっていった。

「……さむい、さむい」

 歯が、かちかちと鳴る。

 カエデは毛布を重ね、
 暖炉に薪を惜しげもなくくべた。

 部屋の中は、むしろ暑いほどだ。

 一方、セリスは私の枕元に座り、
 少し温めた水を、何度も飲ませてくれた。

 夜中。

 ふいに、寒気がぴたりと止まった。

 その代わり――
 今度は、汗が噴き出すように出てくる。

 カエデが、こまめに汗を拭き、着替えを手伝ってくれる。

 クラウスは氷結魔法で氷を作り、
 氷枕にしてくれた。

 セリスが、冷たい水で絞った布を、
 私の額にそっと当てる。

 ひんやりとして、心地よかった。

 翌朝。

 汗はすっかり引き、
 体のだるさも、少し軽くなっている。

 熱も、下がってきたようだ。

 ヴァルディスが、パン粥の入った器を持ってきた。

「食欲がなくても、少しは食べねばならん」

 そう言って、
 彼はスプーンを差し出してくる。

「よし、あーん、だ」

「……あーん」

 ぱく。

「よし、いい子だ」

「……あーん」

 ぱく。

 ……魔王に、あーんをされている私。

 これ――
 意外と、悪くない。

 昼頃には、熱はかなり引いていた。

「もう少し安静は必要だが」
「峠は越えただろう」

 ヴァルディスが、そう告げる。

「ヴァルディス」
「風邪を引いたときは、こうするのがいいのね」

「治癒魔法に頼らなくても」
「ちゃんと、風邪は治せる」

「勉強になったわ」

 カエデが、眠そうに目をこすりながら言った。

「……私も、勉強になりました」

 すっかり回復した私は、改めて思う。

「風邪を治すには」
「水を飲んで、体を温めて、汗をかいて」
「それから、栄養を取る」

「……とても、単純なことなのね」

 ヴァルディスは、満足そうにうなずいた。

「さすが、我が姫」
「理解が早い」

「風邪や病気というものは」
「清潔な環境、水、食べ物を整えれば」
「本来、人の体は――自ら治るようにできている」

「人は、魔法に頼りすぎて」
「世界の単純な仕組みに、盲目になっている」

 私は、ふと顔を上げた。

「ねえ、ヴァルディス」
「私に、こんな体験をさせた理由は……もしかして?」

 彼は、静かに微笑んだ。

「そうだ」
「魔法で治癒を受けられない、大半の民を治療する場所」
「――医療院を、作ろうと思う」

 胸が、少し高鳴る。

「それは、とても良い考えだわ」
「ぜひ、私にも手伝わせて」

 こうして――
 アウレリア医療院の設立は、
 一人の王女の風邪をきっかけに、静かに決定したのだった。
 
 

 アウレリア医療院の候補地は、驚くほどあっさりと決まった。

 王都ルクシオンの一角。
 貴族街から、ほんの少し外れた静かな通りに建つ、一軒の屋敷。

 人通りは多すぎず、少なすぎず。
 水路も近く、日当たりもよい。

「ここならいい」

 ヴァルディスは、一目でそう判断した。

 医療院のスタッフは、
 ヴァルディスがアウレリア連合商業会社の社員たちに声をかけ、
 その妻や娘たちの中から志願者を募った。

 患者を看病する役目。
 ヴァルディスは、その役割を――

「看護師と呼ぼう」

 そう定めた。

 看護師たちには、
 私が、ヴァルディスから教わった「看病の基本」を伝えていく。

 とはいえ、やることは決して難しくない。

 部屋を清潔に保つこと。
 水をこまめに飲ませること。
 体を冷やしすぎず、温めすぎず。
 食べられるときに、無理のない食事を用意すること。

 ――ただ、それだけだ。

 皆、拍子抜けしたような顔をしたが、
 実際にやってみると、すぐに身についた。

「思ったより、できるものですね」
「これなら、私にも……」

 そう言ってくれる人が増えていく。

 準備は、山ほどあった。

 寝具、器具、水場、洗濯場。
 動線の整理、当番の割り振り。

 カエデも、セリスも、文句ひとつ言わず手伝ってくれた。

 治療費と入院費は、
 庶民でも無理なく払える額に設定する。

 ――いや、最初のうちは。

「無料でいい」

 ヴァルディスは、そう言った。

「まずは、治るという事実を見せることが先だ」

 それが、彼のやり方だった。

 寺院や修道院など、
 日頃から病人を預かっている場所に声をかけると――

 患者は、あっという間に集まった。

 咳が止まらない者。
 熱にうなされる子ども。
 衰弱した老人。

 用意していたベッドは、
 開院からほどなくして、すべて埋まった。

 最初は、当然、試行錯誤の連続だった。

 私も、カエデも、セリスも、
 白衣に身を包み、看護師として現場に立つ。

 夜通し、様子を見ることもあった。
 うまくいかず、落ち込むこともあった。

 それでも――

 数日後。
 ひとり、またひとりと、
 自分の足で立ち上がる患者が現れ始めた。

「……楽になりました」
「息が、ちゃんと吸える」

 その声が、
 何よりの報酬だった。

 回復した患者たちは、
 家へ戻ると、こう語った。

「治癒魔法じゃないのに、治った」
「水と、食事と、休む場所があっただけだ」

 その噂は、
 露のように静かに、だが確実に、
 街中へと広がっていった。

 こうして――

 アウレリア医療院は、
 誰にも気づかれぬうちに、
 王都ルクシオンの片隅で、
 確かな一歩を踏み出していた。

31_医療革命2


 ある日、
 アウレリア国王は、密かに四人の腹心を呼び出した。

 理由は、ただ一言。

「見せたいものがある」
 それは、命令ではなく、要請だった。

 呼ばれたのは――

 宰相
 アルベルト・フォン=ライゼン

 財務卿
 マルクス・ヴェルナー

 王国軍総司令官
 ローデリヒ・シュタインハルト

 宮廷医長/王立学府総監
 エドガー・ルーメン

 いずれも、国王が絶対の信頼を置く人物たちである。

 一行は、平服に身を包み、
 人目を避けるようにして王都ルクシオンの一角へ向かった。

 案内されたのは、
 貴族街からわずかに外れた、静かな通りに建つ一軒の屋敷。

 外見は、いたって普通。
 だが――

 門をくぐった瞬間、
 空気が、わずかに違うことに誰もが気づいた。

 整然としている。
 それは、貴族の屋敷とも、軍の施設とも違う静けさだった。

「……ここは?」

 王国軍総司令官ローデリヒが、眉をひそめる。

「聞かぬ名だな」

 それに応えたのは、
 宮廷医長エドガーだった。

「ここは、最近設立された施設ですな」
「名を――『アウレリア医療院』と申します」

「医療院?」

「ええ。なんでも、治癒魔法に頼らず、病を治す場所だとか」

 一同の視線が、国王に集まる。

 国王は、静かにうなずいた。

「そのとおりだ」

「ここからは――」
「我が娘、エリシアに案内させよう」

 屋敷の中庭に進むと、
 そこに、白衣に身を包んだ一人の少女が立っていた。

「アルベルト卿、マルクス卿、ローデリヒ卿、エドガー卿」

 澄んだ声で名を呼ぶ。

「……おお、姫君」

 エリシア・フォン・アウレリア。

 魔王のもとから“救い出された”王女。
 その記憶は、四人の脳裏にも新しい。

 その彼女が、
 このような場所で彼らを迎えている――

 それ自体が、すでに異例だった。

「この施設について、ぜひ知っていただきたいのです」
「案内しながら、説明しますね」

 一行は、エリシアの先導で施設内を歩く。

 まず、目に入ったのは――
 整然と並ぶベッド。

 そこには、貴族ではない民間人が横たわっていた。
 農民、職人、行商人――

 その間を、
 白い衣を着た女性たちが、忙しなく行き来している。

「病気や怪我をしたとき、通常は治癒魔法で治療しますよね」

 歩きながら、エリシアが語る。

「でも、それを受けられるのは、ごく一部の人だけです」
「治癒魔法を使えるのは、長い修行を積んだ僧侶や神官、魔法使いだけですから」

 四人は黙って聞いている。

「それでは、多くの人を救えません」
「だから、ここは――治癒魔法を使わずに、病気を治す場所なのです」

 施設は、驚くほど清潔だった。

 床には埃一つなく、
 空気も澱んでいない。

「病気を治すために大切なのは」
「清潔な場所、きれいな水、そして十分な食事です」

 エリシアは、はっきりと言い切った。

「それだけを整えるだけで」
「この医療院では、すでに多くの命が救われています」

「……なるほど」
 エドガー・ルーメンが、低く唸る。

「経験的に、そうではないかとは思っていましたが」
「ここまで徹底し、体系として実行しているとは……」

 財務卿マルクスが、すぐに別の角度から口を開く。

「もしそれが事実なら」
「病気治療にかかる多額の費用が、大きく削減できるな」

 一行は、水場の前で足を止めた。

 女性スタッフ――
 エリシアが「看護師」と呼ぶ者たちが、
 手を洗っている。

 白い塊を手に取り、
 こすり合わせると、白い泡が立つ。

「石鹸です」
「洗濯に使われるものなので、ご存じの方も多いでしょう」

「これで、手や体の汚れを落とします」
「それだけで、多くの病気を防げるのです」

 誰も、すぐには言葉を発せなかった。

 巡回を終え、
 一同は応接室へ通された。

「……実に、珍しいものを見せていただきました」

 エドガーが、率直に言う。

「これが本当であれば」
「確かに、病で命を落とす民は、減るでしょう」

「すなわち」

 宰相アルベルトが、短く結論を出す。

「国力の増強につながる」

 そして、鋭く問いを投げた。

「だが――」
「この医療院に、我々を案内した理由は?」

 その瞬間、
 エリシアの瞳が、強く光った。

「はい」

「この施設を作ったのは」
「商人のヴァルスという人物です」

「……あの男か」

 ローデリヒが低く呟く。

「ゼオグリフの英雄とも呼ばれていたな」

「眠りの森に道を通した男だ」
 マルクスも続ける。

「学校も作っていたはずだ」
 エドガーが頷く。

「その通りです」

 エリシアは、まっすぐ四人を見据えた。

「彼は、アウレリアのために力を尽くしています」
「それが、自身と王国が共に発展する道だと、信じているのです」

「エリシア王女」

 宰相が、慎重に言葉を選ぶ。

「功績は理解している」
「だが……その言い方」
「少々、含みがあるように聞こえる」

「つまり?」

 その先は――
 国王が引き取った。

「実は、私は商人ヴァルスと」
「内密に、何度か会っている」

 四人の視線が、鋭くなる。

「そこで確認した」
「彼は、敵ではない」
「共に歩める存在だと、私は判断している」

「……すなわち?」

 宰相が、低く促す。

 国王は、ゆっくりと四人を見渡した。

「ここに集まった者は」
「私の腹心だ」
「私利私欲なく、この国の行く末を案じている者たちだ」

 だからこそ――

「皆にだけ、打ち明ける」
「冷静に、聞いてほしい」

 そして。

「商人ヴァルスの正体は――」

 一瞬の静寂。

「魔王ヴァルディス・レグナールだ」

「――!」

 空気が、凍りついた。
 
 ――沈黙。

 国王の言葉が、応接室の空気を完全に凍りつかせていた。

 最初に動いたのは、
 王国軍総司令官ローデリヒ・シュタインハルトだった。

 彼は、椅子の肘掛けに置いていた手に、わずかに力を込める。

「……なるほど」

 声は低く、抑えられている。

「それで、あの道、この物流、この施設か」
「魔王が裏にいるなら、説明はつく」

 一拍。

「だが――」
「最悪の場合、我々は、王都の心臓部に“敵”を招き入れていることになる」

 軍人らしい、即座のリスク評価。
 だが、剣に手を伸ばすことはなかった。

「確認したいのは一つだけだ、陛下」
「――彼は、今この瞬間、我々に牙を剥くつもりはないのか?」

 国王は、即答した。

「ない」

 ローデリヒは、短く息を吐く。

「……了解した」
「ならば、今は“敵”ではない」
「少なくとも、刃を向ける理由はない」

 それが、彼なりの受容だった。

 次に、ゆっくりと眼鏡を外したのは、
 財務卿マルクス・ヴェルナーだった。

 彼は、しばし机の上を見つめてから、ぽつりと呟く。

「……魔王、か」

 そして、顔を上げる。

「正直に言おう」
「驚きはしたが……恐怖はない」

 三人の視線が集まる。

「むしろ、腑に落ちた」
「これほど巨大な事業を、短期間で、しかも破綻なく回す」
「人間の商人一人にできる芸当ではない」

 淡々と、しかし確信を込めて。

「もし彼が魔王であるなら」
「我が国は、“史上最大の投資先”を得たことになる」

 一瞬の沈黙。

「もちろん、管理と監視は必要だ」
「だが、拒絶する理由は――数字の上では、存在しない」

 それが、財務卿の結論だった。

 宮廷医長/王立学府総監エドガー・ルーメンは、
 しばらく言葉を失っていた。

 だが、次の瞬間。

 彼の目が、研究者特有の光を帯びる。

「……魔王が」
「“医療”という概念を持ち込んだ、と?」

 誰にともなく問いかけるように。

「治癒魔法に頼らず」
「清潔と水と食事で病を防ぐ」
「しかも、それを制度として……?」

 小さく、震える息。

「これは……」
「戦争よりも、革命です」

 はっきりと、断言した。

「もしこれが事実であれば」
「人の寿命が延び、人口が増え、学問が進み」
「世界の在り方そのものが変わる」

 エドガーは、国王を見据える。

「陛下」
「この事実は、軽々しく扱ってはなりません」
「――これは、“人類史”の話です」

 最後まで沈黙を守っていたのは、
 宰相アルベルト・フォン=ライゼンだった。

 彼は、全員の反応を見届けてから、ようやく口を開く。

「……魔王、か」

 感情の揺れは、ほとんどない。

「陛下が、この事実を」
「この四人にのみ明かした理由は、理解しました」

 そして、静かに言う。

「恐怖で剣を抜く者」
「利で飛びつく者」
「理念に酔う者」
 ――そのいずれでも、国は滅びる。

 彼は、深く一礼した。

「私は、賛成でも反対でもありません」
「ただ一つ、提言を」

 国王が頷く。

「この事実は」
「この場限りのものとすべきです」

 はっきりと。

「墓まで持っていく覚悟がなければ」
「この事実を、扱う資格はない」

 重い沈黙。

 国王は、静かに言った。

「――その覚悟がある者だけを、ここに呼んだ」

 四人は、同時にうなずいた。

「この件を、これ以上、公にするつもりはない」

 それは、迷いのない断言だった。

 だが、国王は一拍置き、続ける。

「ただし――」

 空気が、張りつめる。

「もしも」
「どうしても、魔王の名を世に出さねばならぬ時が訪れたなら」

 四人を、順に見渡して。

「その時は、王ではなく、この国のために――」
「その決断を、共に背負ってほしい」

 誰も、すぐには口を開かなかった。

 だが、次の瞬間。

 四人は、静かに、しかし確かにうなずいた。

 言葉はない。
 それで、十分だった。

 この日、
 王と四人の腹心は、
 剣でも、金でも、命令でもない――
 覚悟による盟約を、交わしたのだった。

32_医療革命3


 アウレリア医療院が開院して、しばらくが経った。

 最初の慌ただしさは落ち着き、
 患者の受け入れも、看護の流れも、
 ようやく「日常」と呼べるものになりつつあった。

 ……もっとも。

 成り行きで、とは言いつつ、
 私とセリス、そしてカエデは、
 相変わらず医療院に通い、働き続けていた。

 やめる理由が、なかったのだ。

 忙しい。
 体力も使う。
 決して楽ではない。

 けれど――
 回復して帰っていく患者の背中を見るたび、
 胸の奥が、静かに満たされていくのも事実だった。

(……これは、やりがい、というものね)

 特に、セリスの適応力は目を見張るものがあった。

 看護の手際。
 スタッフへの指示。
 当番の調整や、物資の管理。

 気がつけば、
 看護師たちの間で、こんな呼び名が定着していた。

「セリス看護師長」

 ――誰が言い出したのかは分からない。

 だが、
 誰も異を唱えなかった。

 本当に、
 器用というか、参謀根性がたくましいというか、
 魔王の側近は伊達ではない、と改めて思わされた。
 
  ……それにしても。

 ふと、別のことが気になった。

(セリスって、
 クラウスのこと、完全に放置してない?)

 最近、医療院に顔を出すのは、
 ほとんど私とカエデとセリスばかりだ。
 肝心の勇者様の姿は、あまり見かけない。

 一人、さみしがってはいないのだろうか。

 そう思って、素直に尋ねてみた。

「ねえ、セリス。
 クラウスのことだけど……」

 すると、彼女は何でもないことのように答えた。

「クラウスですか?」
「ええ。最近は、グラドと馬が合うみたいで」
「二人で稽古しているか」
「森に狩りに出かけるか」
「どちらかですね」

 にこり、と涼しい笑顔。

「とても、楽しそうですよ?」

 ……まあ。

 本人が楽しそうなら、いいのだが。

 ある日。

 アウレリア商業学院の生徒たちが、
 団体で医療院を訪れた。

 引率は――
 もちろん、レオンである。

「社会見学も、重要な学習ですから」

 もっともらしい理由を述べてはいたが。

(……本当に、それだけかしら?)

 ちらり、と横を見る。

 白衣姿のカエデに気づいた瞬間の、
 あの――

 でれっ、とした顔。

(説得力、ゼロなんですけど)

「そ、そんなことはありません!」

 本人は即座に否定していたが、
 視線は正直だった。

 公私混同。
 職権乱用。
 疑惑は、深まるばかりである。

 そんな日常の中で。

 アウレリア医療院は、
 思いがけない訪問者を迎えることになった。

 宮廷医長/王立学府総監。
 エドガー・ルーメン。

 数名の部下を伴い、
 正式な訪問として、医療院を訪れたのだ。

 応対に出たのは、私だった。

「エドガー卿。
 本日は、どういったご用件で?」

 彼は、軽く一礼すると、
 真剣な表情で口を開いた。

「エリシア王女。
 実は――この医療院に感銘を受けましてな」

 そこから語られたのは、
 あの見学以降、彼が考え続けていた構想だった。

「基本は、この医療院の理念のまま」
「清潔、水、食事、静養」

「そこに――」
「最低限の治癒魔法を、必要な場面でだけ加える」
「あるいは、薬草学を組み合わせ、症状に応じた処置を行う」

 彼の声には、
 抑えきれない知的興奮がにじんでいた。

「そうすれば」
「より効率的に、より安全に」
「患者の回復を早められる可能性がある」

 一呼吸置いて。

「そこで本日は」
「治癒魔法を扱える神官」
「薬学に精通した魔法使いを連れてまいりました」

 そして、真っ直ぐこちらを見る。

「彼らを、この医療院に迎え入れ」
「検証と研究を、共に進めることはできませんか?」
「――よりよい医療の発展のために」

 ……なるほど。

 あの一度の見学で、
 ここまで考えを進めてきたとは。

 医学への探究心。
 そして、国を憂う責任感。

 父が彼を重用する理由が、よく分かる。

 私は、迷わず答えた。

「エドガー卿」
「そのご見識に、心から感服いたします」

「ぜひ」
「一緒に、やりましょう」

 こうして。

 アウレリア医療院は、
 単なる静養の場から一歩進み――

 治癒魔法、薬学、看護を組み合わせた、
 総合的な医療施設へと、
 静かに、生まれ変わり始めた。

 それは、
 誰かが声高に宣言した革命ではない。

 けれど確かに、
 この国の「医療」という概念が、
 次の段階へ進んだ瞬間だった。

 私は、その始まりの場に、
 立ち会っているのだと――
 胸の奥で、静かに実感していた。

33 信用創造


 商人ヴァルスの屋敷では、
 私とヴァルディスが、
 セリスの淹れてくれた紅茶を口にしながら、
 穏やかなひとときを過ごしていた。

 最近は、アウレリア医療院に出ずっぱりだったが、
 本日は久しぶりの休暇だ。

 柔らかな陽射し。
 静かな室内。
 このまま何事も起こらなければ、理想的な午後だったのだが――

 窓の外から、

「えいーーっ!」

 カエデの威勢のいい掛け声が、
 風に乗って微かに届いてくる。

 庭では、
 カエデとグラド、そして勇者クラウスが、
 そろって稽古に励んでいた。

 カエデにとっては、数日ぶりの稽古だ。
 きっと、力が有り余っているのだろう。

 ふと気づくと、
 ヴァルディスが、じっとこちらを見ていた。

 別に、私に見惚れているわけではない。
 ――この表情は知っている。

 頭の中で、
 何かろくでもない規模の企てが、
 静かに形を取り始めているときの顔だ。

「エリシア、実はだな」

「……ほらきた」

 私は、半ば諦めたように肩をすくめる。

「銀行を作ろうと思う」

「……銀行?」

 一瞬、言葉の意味を測りかねた。

 物流。
 市場。
 学院。
 医療院。
 次は……銀行。

「ええと、それは……
 お金を預かったり、貸したりする、あの?」

「その通りだ」

 あっさり肯定されてしまった。

「……ヴァルディス。
 それ、思いつきじゃありませんよね?」

「無論だ」

 彼は、当然だと言わんばかりに紅茶を一口飲む。

「むしろ、
 今まで作っていなかったのが不自然なくらいだ」

「不自然……?」

 私は眉をひそめる。

 すると、ヴァルディスは静かに語り始めた。

「物流を通した
 教育を整えた。
 医療院を作った。」

「だがな、エリシア」
「それらを、長く維持するための血液が、まだ足りていない」

「血液……?」

「金だ」

 あまりにも率直な答え。

「金が流れなければ、
 産業も、教育も、医療も、やがて干上がる」

 彼は、窓の外――
 稽古に励む三人の姿を一瞬だけ見やり、続けた。

「今のアウレリア王国では、
 金は貴族の蔵に眠り、
 商人は常に首を絞められ、
 民は、稼いでも貯める場所がない」

「それは……たしかに」

「銀行はな」
 ヴァルディスは、ゆっくりと私を見る。

「金を増やす場所ではない」
「金を、正しい場所へ流すための装置だ」

「銀行があれば、
 医療院は、寄付や善意に頼らずに回る」
「学校を出た者が、
 自分の店を持つこともできる」
「地方の村が、
 道や水路を整えるために、借り入れもできる」

 私は、静かに息を吸った。

「……それって」

「そうだ」

「銀行は――
 国を強くするためのものだ」

 それは断言だった。
 利益のためでも、商売のためでもない。
 国家そのものを、長く生かすための器。

「だが、難しいのは――
 誰が、それを担うかだ」

 彼は紅茶の湯気を見つめながら、淡々と続ける。

「王国が直接運営するのは、悪手だ。
 いずれ必ず、政治に汚染される」

「では、完全な民間かと言えば――それも違う」

 ヴァルディスは、小さく肩をすくめた。

「既得権益を持つ貴族に潰されるのが、関の山だ。
 資金の流れを変える存在は、必ず嫌われる」

 だから――

「半公的・半民間。
 その中間に置くしかない」

 ここで、彼は初めて私を見た。

「重要なのは、ここだ」

 ヴァルディスは、指を一本立てる。

「私が作る銀行は――
 王国が信用を保証し、
 運営はアウレリア連合商業会社が行う」

 そして、間を置く。

「最終的な監査権は、私が持つ」

 権力の集中。
 だが、それは支配ではない。

「この三層構造でなければ、
 銀行は必ず歪む」

 その言葉を受けて――

「なるほど」

 ごく自然に、
 私たちの隣で紅茶を飲んでいた父――
 アウレリア国王が、満足そうに口を開いた。

「それで、私が呼ばれたわけか」

「適任者がいる。
 ヴァルディス卿に、引き合わせよう」

 ヴァルディスは、わずかに目を細める。

「陛下。
 それほど頼もしい言葉はない。
 ぜひ、お願いしたい」

 翌日。

 商人ヴァルスとして、
 ヴァルディスは王宮に呼ばれた。

 一室に案内され、扉が閉じられる。

 そこにいたのは――

 アウレリア国王。
 エリシア王女。
 そして、財務卿マルクス・ヴェルナー。

(……商人ヴァルス)

 マルクスは、静かに観察する。

(直接会うのは、これが初めてだな)
(この男が――魔王ヴァルディスか)

 外見は、あくまで商人。
 だが、漂う気配は、数字だけでは測れない。

 国王が、先に口を開いた。

「マルクスには、
 そなたの正体は、すでに明かしてある」

 ヴァルディスは、驚いた様子もなく頷いた。

「それは話が早い」

 マルクスが一歩進み、丁寧に一礼する。

「お初にお目にかかる。
 ヴァルディス卿。
 財務卿を務める、マルクス・ヴェルナーです」

 ヴァルディスは、軽く頭を下げた。

「こちらこそ。
 今日は時間をいただき、感謝する」

 形式ばった挨拶は、そこまでだった。

 マルクスは、すぐに本題へ入る。

「では、ヴァルディス卿」
「国王陛下から概要は伺っておりますが――」

 眼鏡の奥の目が、鋭く光る。

「改めて、卿の考える
 “銀行”とは、何なのか」

「――説明していただけますか?」

 その瞬間、
 部屋の空気が、わずかに張り詰めた。

 数字の男と、世界を見ている魔王。
 ここから先は、
 理念ではなく、設計の話になる。


 
 ヴァルディスとマルクスの議論は、予想以上に白熱した。

 感情論は一切ない。
 あるのは、数字、前提、想定リスク、そして代替案。
 言葉の応酬は速く、鋭い。
 だが、不思議と険悪さはなかった。

 ――似ているのだ。

 世界を感情ではなく、構造で見る者同士。
 問題を「善悪」ではなく「成立するか否か」で判断する者同士。

 ふと気づくと、二人ともどこか楽しそうですらあった。

 アウレリア国王は、腕を組み、黙ってそれを見守っていた。

 やがて――
 議論は、ひとつの形に収束していった。

 最終的に、彼らが合意した銀行の骨子は、こうだ。

 第一に。

 王国保証付き銀行であること。

 第二に。

 運営は、完全に民間。
 具体的には、アウレリア連合商業会社。

 第三に。

 融資対象は、貴族ではなく実体経済。
 商人、職人、農村、都市インフラ。
 「金を持つ者」ではなく、「金を回す者」に貸す。

 第四に。

 金利は低く、用途は限定。
 投機目的の借り入れは禁止。
 貸付金は、必ず事業・生産・公共整備に使われる。

 そして――

 第五にして、最重要事項。

 最終監査権は、商人ヴァルスこと、魔王ヴァルディスが持つ。

 不正があれば、即座に止める。
 圧力があれば、正面から潰す。
 歪みが生じれば、容赦なく切る。

 その力を、
 王国も、財務卿も、あらかじめ承認する。

「……正直に申し上げます」

 マルクスが、ゆっくりと息を吐いた。

「この銀行は、危険です」
「既存の貴族社会にとっては、劇薬でしょう」

 だが、と続ける。

「同時に――」
「これほど、王国経済を健全に変える仕組みも、他に思いつかない」

 眼鏡の奥の目が、はっきりと光った。

「私は、この設計に賛成します」
「責任は、財務卿として、私が引き受けましょう」

 その言葉に、父は静かにうなずいた。

「よろしい」
「では――始めよう」

 その場にいた誰もが理解していた。

 これは、
 新しい建物を作る話ではない。

 これは――
 王国の血の流れを、根本から作り替える決断なのだと。

34 剣なき支配


 商人ヴァルスの屋敷。

 私とヴァルディスは、王宮から戻ったところだった。

 銀行設立について、王国側との調整は滞りなく終わった。
 制度としては、ほぼ理想形に近い。

 ――だが。

 やはり問題は残る。

 既得権益を持つ貴族たち。
 金の流れが変わるとなれば、必ず反発が起きる。

 事が表に出る前に、
 彼らを“敵にしない”準備が必要だった。

 ヴァルディスが、静かに切り出す。

「やはりな……エリシア」
「こういう役回りは、そなた以外に適任はいない」
「やってくれるか?」

 ――ええ、でしょうね。

 私をこの計画に巻き込んだ時点で、
 いずれそうなることは分かっていた。

 私は、迷わず答える。

「いいでしょう。やりましょう」

 彼らを納得させる論点は、実は一つしかない。

 この銀行は、
 既存の貴族金融と“奪い合い”をしない。

 むしろ、
 最初から明確な住み分けを行う。

 この銀行が相手にするのは――

 農村。
 職人。
 新興商人。
 小規模事業。

 つまり、
 貴族たちが見向きもしなかった層。

 少額で、手間がかかり、
 利幅も薄い。

 「格に合わない」と切り捨ててきた分野だ。

 彼らの取り分には、触れない。
 それが、最大の説得材料だった。


 
 翌日から、私は動いた。

 主だった貴族の屋敷を、
 一軒一軒、訪ねて回る。

 今回は、金が絡む話だ。
 学院設立の時でさえ妨害があったのだから、
 何が起きてもおかしくはない。

 そのため、護衛はグラド。

 ……心強さの塊みたいな男だ。

 ちなみに、勇者クラウスは不在だった。
 ヴァルディスの依頼で、
 隣国――ヴァルガリア大帝国へと旅立った。

 アウレリアを属国と見なす大国。
 ヴァルディスは、
 そこに“きな臭さ”を感じ取っているのだろう。

「グラド、ごめんなさいね」
「こんな役目、押し付けちゃって」

 私がそう言うと、
 彼はいつもの無表情のまま、

「かまわない」

 それだけ答えた。

 少しの沈黙。

 そして、ふいに。

「……お前には、感謝している」

 意外な言葉に、私は足を止める。

「おかげで、友人が増えた」

 ――カエデと、クラウス。

 きっと、その二人のことだ。
 
 もしかしたら、
 私も、その中に含めてくれているのかもしれない。
 
 胸の奥が、少しだけ温かくなる。

 だが―

 もし私が魔王と出会っていなければ、
 皆、敵として刃を交えていたかもしれない。

 想像するだけで、胸が詰まりそうになる。

 訪問先の貴族たちは、例外なく驚いた。

 ――王女自らが、説明に来たのだから。

 しかも、
 少女と、その背後に控える屈強な大男。
 あまりに不釣り合いなその並びに、
 誰もが言葉を失った。

 最初は、
 「小娘が何を」と侮る視線もあった。

 だが――

 説明が進むにつれ、
 その空気は変わっていく。

 論点は明確。
 言葉は簡潔。
 感情ではなく、利益で語る。

 気づけば、
 彼らは誰一人、反論できなくなっていた。

 屋敷を辞する頃には、
 どの顔にも、同じ表情が浮かんでいる。

 ――納得。

 あるいは、
 “受け入れるしかない”という諦観。

 結果は、上々だった。

 こうして私は、
 貴族社会の“地雷原”を、
 ほぼ無傷で踏破してみせたのだった。
 
 

 
 ほどなくして――
 王都ルクシオンの中心部に、アウレリア信用銀行が誕生した。

 石造りの重厚な建物。
 だが、貴族の屋敷のような威圧感はない。
 扉は広く、窓は明るく、
 「入っていい場所だ」と、誰にでも分かる造りだった。

 真っ先に足を運んだのは、
 これまで、金を借りたくても借りられなかった者たちだ。

 作付け前の種代に困っていた農民。
 道具を新調できず、仕事を諦めかけていた職人。
 志はあっても、後ろ盾のない新興商人。

 彼らは皆、
 初めて“条件を聞いてもらえる”という経験に、
 戸惑いながらも目を輝かせていた。

 担保ではなく、
 家柄でもなく、
 過去の実績と、これからの計画を見られる。

 ――それだけで、
 救われた気持ちになる者も多かった。

 金は、ただの数字ではない。
 人の可能性を、未来へと運ぶものだ。

 その流れが、
 この街で、静かに――しかし確実に動き始めていた。
 

 
 アウレリア信用銀行の誕生により、
 ヴァルディスが進めてきた一連の事業は、
 ようやく揺るぎない基盤を得た。

 物流、市場、教育、医療、そして金融。
 すべてが結びつき、
 アウレリア連合商業会社は、
 これから飛躍的な発展を遂げていく――
 
 そのように思われた。
 
 その矢先、
 
 商人ヴァルスの屋敷に、勇者クラウスが戻ってきた。

 長旅の疲れを感じさせぬ足取りだったが、
 その表情は、明らかに平時のものではなかった。

 屋敷に入るなり、
 彼は無駄な前置きを一切省いた。

「ヴァルディス」

 名を呼ぶ声が低い。

「ヴァルガリア大帝国が、動いた」

 室内の空気が、ぴたりと張りつめる。

「帝国軍だ」
「兵が、出撃の準備を整え始めた」

最終章1


 アウレリア王国の北。
 その地平の向こうに広がる大国――
 ヴァルガリア大帝国。

 その玉座に座す
 皇帝カシウス・ヴァルガリアス三世は、
 明らかに機嫌を損ねていた。

「……アウレリアが、調子に乗っているようだ」

 低く、冷えた声。

「属国の分際で」

「少しばかり――
 身の程というものを、思い出させてやる必要がありそうだ」

 皇帝は、指先で玉座の肘掛けを叩いた。

「マクシミリアンを呼べ」

 間もなく、
 帝国軍の象徴とも言うべき男が現れた。

 将軍――
 マクシミリアン・フォン=ヴァルガリア。

 その日。
 ヴァルガリア大帝国は、ついに一線を越えた。

 国境を守る山脈を越え、
 帝国軍が、アウレリア王国の領内へと進軍を開始したのである。

 ――十万。

 数ではない。
 圧力そのものと言っていい規模だった。

 目的地は明確だった。

 アウレリア王国北部、
 〈フェルディナ平原〉。

 山脈から続く豊富な鉱脈を背景に、
 採掘、精錬、加工――
 すべてを内包した工業都市群が築かれた、
 王国随一の生産拠点。

 ここを失うということは、
 単なる領土の喪失ではない。

 貨幣。
 武器。
 物流。
 雇用。

 ――王国の“血流”を断たれるに等しかった。

 アウレリア王国軍は、必死に抗っていた。
 だが、それも時間の問題だ。

 数の差は、あまりにも大きい。

 なぜ、今なのか。

 理由は一つではない。

 魔王ヴァルディス。
 彼がもたらした、異常とも言える経済効果。

 眠りの森を起点とした物流改革。
 停滞していた産業の再生。
 王都と地方の急速な均衡。

 それらすべてが、
 ヴァルガリア大帝国の目に
 “看過できぬ変化”として映ったのだろう。

 あるいは――
 単なる示威。

 「属国は、調子に乗るな」
 そう告げるための、力の誇示。

 王都。
 アウレリア王国王宮。

 重苦しい空気の中、軍議が続いていた。

 王国軍総司令官
 ローデリヒ・シュタインハルトが拳を強く握りしめた。
「南部の軍を動かせば、
 フェルディナ平原までの展開は可能だ」

「だが、最大でも二万……」

 沈黙。

 誰の目にも、結果は見えていた。
 兵力差は、歴然。

 決定打は――ない。

 議論は紛糾し、
 誰もが言葉を失いかけた、そのとき。

 国王が、静かに立ち上がった。

「……一案、ある」

 一言を残し、
 国王は踵を返す。

 その背に、誰も呼び止めることができなかった。

 王宮の奥。
 人目を避けるようにして、国王は自室へ戻る。

 重い扉を閉ざし、
 さらに、その奥――
 王家の血筋にのみ伝えられた、隠し部屋へと足を踏み入れた。

 灯りのない室内。
 床に刻まれた、
 新しく、しかし異様なまでに精緻な魔法陣。

 王国の魔導師ですら、その全貌を知らぬ術式。

 国王は、ためらわず、その中央へと進む。

 魔法陣が、淡く光を放った。

 空間が、歪む。

 魔法陣は、国王をいざなう。

 娘婿
 ――魔王ヴァルディスのもとへ。

 父の訪問により、
 商人ヴァルスの屋敷は、にわかに慌ただしさを帯びた。

 理由は、誰もが分かっている。
 ――ヴァルガリア大帝国の侵略。

 その対処方法を求めて、
 父はここを訪れたのだ。

 これ以上、適任の相談相手はいない。
 少なくとも――私には、そう思えた。

 相談の相手である、
 私の婚約者――魔王ヴァルディスは、
 騒然とする屋敷の空気をよそに、いつもと変わらぬ様子だった。

 冷静。
 いや、見方によっては――
 ほんの少し、楽しげですらある。

「帝国の動き、どう見る?」

 ヴァルディスは、傍らに控える参謀――
 セリスに視線を向けた。

 メイド服姿。
 おおよそ、参謀とは思えぬいで立ちの彼女が、
 静かに口を開く。

「十万。
 アウレリアと全面戦争をする数ではありません」

 淡々とした声。

「目的は、示威。
 あるいは、一部領土の切り取りでしょう」

 ヴァルディスは、ふむ、と小さく頷いた。

「なら――
 全滅させる必要はない」

 その言葉に、わずかに場の空気が引き締まる。

「追い返せれば、こちらの勝利ということだな」

「はい。魔王様」

 セリスは即答した。

「帝国は、こちらが短時間で動かせる兵力は、
 ごく一部に限られると見ているはずです」

「魔王領と接する我が国が、
 魔王との対峙と、帝国の進軍――
 その板挟みになると、踏んでいるのでしょう」

 なるほど、とヴァルディスは小さく笑う。

「……つまり、
 その“前提”を崩せばいい」

「その通りです」

 セリスは、僅かに口元を緩めた。

「帝国の想定外――
 魔王軍の援軍が現れれば、
 勝機は、十分に見えてきます」

「だな」

 軽く、しかし確信に満ちた一言。

 私は、そのやり取りを聞きながら、
 思わず内心で息をのんだ。

(……セリス、参謀っぽい……)

 これほど“参謀”らしい彼女を見るのは、
 もしかすると、初めてだったかもしれない。

 そして同時に――
 父が、なぜここを訪れたのか。
 その理由を、改めて実感する。

 帝国に対抗できる者。

 それは――
 人族でも、国家でもない。

 魔王ヴァルディス。
 ただ一人なのだ。
 

 
 ヴァルディスは、静かに父へと向き直った。

「陛下。
 魔王軍がアウレリア王国を援護しよう。」

 短い沈黙の後、淡々と命じる。

「セリス、グラド。
 出陣の準備を整えよ」

 その言葉に、父は深く息を吐いた。

「……恩に着る。
 やはり、ヴァルディス卿。
 そなただけが、頼りなのだ」

 率直な言葉だった。
 王としてではなく、追い詰められた統治者としての本音。

 だが、ヴァルディスはすぐには頷かない。

「しかし――
 現状、アウレリア王国民は、
 いまだ魔族を“敵”と認識している」

 静かな声。
 だが、突きつける現実は重い。

「そのまま魔王軍が前面に出れば、
 帝国を退けたとしても、
 王国内に混乱と反発を残すだろう」

 父は、押し黙った。

「まず必要なのは、世論だ」
「この認識を覆さねばならない」

 一拍置いて、ヴァルディスは続ける。

「そのうえでの、魔王軍支援。
 ――どうやって民意をこちらに引き寄せるか。
 それが、今回の肝となる」

 そして。

「世論を味方につけ、
 勝利を勝ち取った暁には……」

 その視線が、父と、そして私へと向けられる。

「いよいよ、
 アウレリア王国と魔族との同盟締結を
 実現する好機が訪れるだろう」

 場の空気が、わずかに変わった。
 “戦を凌ぐ”話から、“未来を変える”話へ。

 私は、思わず微笑んでいた。

「さすが、ヴァルディス」

 軽く肩をすくめる。

「禍を転じて福と為す、とは、
 まさにこのことだわ」

 ヴァルディスは、こちらを見て、
 わずかに目を細めた。

「こういう局面は、エリシア。
 そなたの得意分野であろう」

「いつものように、
 名案を期待している」

 任せた、という視線。

 私は少しだけ考え――
 すぐに答えを出した。

「そうね。
 世論を動かすには、
 “正論”より、“象徴”が必要よ」

 視線を、横へ。

「適材適所に人を当てはめればいい」

 そして、迷いなく告げる。

「――勇者クラウス。
 あなたしか、いないでしょう?」

「……おれか?」

 横で完全に油断し、
 のんびりとお茶をすすっていたクラウスが、
 目を丸くする。

 意表を突かれた様子だったが、
 すぐに苦笑し、肩をすくめた。

「まったく……」
「だが、いいだろう」

 湯のみを置き、
 勇者は、真剣な目になる。

「で?
 どうすればいい?」

 その瞬間、私は確信した。

 ――世論は、動く。

最終章2


 アウレリア王国は、混乱の極みにあった。

 ヴァルガリア大帝国軍は、
 フェルディナ平原の都市を、
 ひとつ、またひとつと占拠していく。

 工業都市は沈黙し、
 鉱山は帝国の旗に覆われた。

 王都ルクシオンには、
 北から逃れてきた避難民があふれかえっていた。

 着の身着のまま。
 家も、仕事も、未来も失った人々。

 戦線は、じりじりと後退している。
 それは、誰の目にも明らかだった。

 やがて、囁かれる声が、大きな流れとなる。

 ――これ以上の抵抗は無理だ。
 ――領土の一部を譲り、和平を結ぶしかない。
 ――多額の賠償金を払ってでも、生き延びるべきだ。

 それが、唯一の選択肢なのだと。

 国民の大半が、
 苦渋の覚悟を決めかけた、そのときだった。

 王都の広場。

 ひとりの男が、
 人々の前に姿を現した。

 勇者クラウス。

 剣を掲げ、
 群衆を見渡す。

 ざわめきが、一瞬で静まった。

 勇者クラウスは、
 魔王討伐のため、
 すでに魔族領の奥深くへ向かった――
 人々は、そう聞かされていた。

 その勇者が、
 今、王都にいる。

 青天の霹靂とは、まさにこのことだった。

「――聞け!」

 クラウスの声が、広場に響く。

「俺は、魔王軍の援軍を得ようと思う」

 どよめき。

「魔王は、俺の敵だ」
「だが――」

 剣を握る手に、力がこもる。

「帝国は、俺たち全員の敵だ」

 一拍。

「きっと、俺の願いを聞き入れてくれる」

 困惑。
 疑念。
 だが、同時に――期待。

「魔王と話をつけて、戻ってくる」

「それまで、踏ん張れ」
「生きていろ」

 そして、はっきりと告げた。

「俺が――
 勝ち筋を、持って帰る」
 
 正直に言えば、
 何を言っているのか、よく分からない。

 平たく言えば、
 魔族に援軍を頼む、ということなのだろう。

 平時の冷静な頭で考えれば、
 そんな馬鹿げた話があるものかと、
 一蹴されていただろう。

 だが――
 今は、平時ではない。

 抜き差しならぬ危機の中で、
 ひとりの英雄の言葉は、
 理屈を超えて、人々の心をつかんだ。

『本当に、魔王が味方になってくれるのなら……』
『それは、とても、すごいことではないか』
『よく分からないが……』
『あの勇者が言うのなら、信じてみてもいいのではないか』

 不安と希望が、入り混じる。

 だが、確かに――
 流れは、変わった。

 勇者クラウスは、
 民衆の声援に背を押されながら、
 再び、魔族領へと旅立った。

 その背に、人々は託す。

 最後の希望を。

 ――わずか、一週間後。

 それは、あまりにも早すぎる帰還だった。

 勇者が、戻ってきた。
 魔王軍を、率いて。

 眠りの森を貫く幹線道路。
 その先、王都ルクシオン郊外に――
 黒い波が現れた。

 数、三万。

 魔王軍。

 その姿を目にした瞬間、
 人々は息を呑んだ。

 もっと――
 身の毛もよだつ異形の集団を、
 想像していたからだ。

 だが、現実は違った。

 そこにいたのは、
 黒い鎧に統一された、
 規律の取れた軍隊。

 隊列は正確で、
 一糸乱れぬ行進。

 魔族の兵士たちは角を生やしてはいるが、
 その姿は、人間と大きく変わらない。
 無言のまま、静かに待機している。

 ざわめきが、戸惑いへと変わる。

 さらに、その後方。

 巨人。
 ドラゴン。
 ゴーレム。
 ベヒーモス。

 圧倒的な存在感を放つ、
 大型の魔獣たちが、
 従順に控えていた。

 恐怖と畏敬が、同時に胸を打つ。

 そして――
 その先頭。

 勇者クラウスの隣に、
 ひときわ強い“気配”を纏う存在が立っていた。

 黒衣。
 揺るぎない威圧感。
 ただ、そこに立っているだけで、
 空気が変わる。

 ――魔王。

 魔王ヴァルディス。

 本当に、勇者は魔王軍を連れて戻ってきたのだ。

 その事実が、
 ゆっくりと人々の胸に浸透していく。

(……勝てるかもしれない)

 誰かが、そう思った。

 次の瞬間、
 それは、周囲にも伝播していく。

 魔王軍は、そのまま、
 王都ルクシオンを通り過ぎていった。

 城門の内には、入らない。
 市場にも、広場にも、立ち寄らない。

 ただ、
 〈フェルディナ平原〉へと向かい、
 進路を北へ取る。

 黒き軍勢が、
 王都を背に進んでいく光景を、
 ルクシオンの人々は、
 遠巻きに、そして息を潜めて見守っていた。

 角を持つ兵士。
 重厚な鎧。
 そして、後方に控える巨大な魔獣たち。

 身構えたままの者もいた。
 祈るように手を組む者もいた。

 恐怖は、消えていない。

 だが――

 誰一人として、
 刃を向けられることはなかった。

 誰一人として、
 家を壊されることも、
 命を奪われることもなかった。

 それだけで、
 人々の胸に、
 小さな変化が生まれる。

 希望が、
 確かに芽生えていた。

 人々は、固唾をのんで見つめる。

 この黒き軍勢が、
 アウレリア王国の敵となるのか。

 それとも――
 救いとなるのか。

 答えは、まだ分からない。

 だが、
 その背が向かう先が、
 王都ではなく、
 戦場であることだけは、
 誰の目にも明らかだった。

 そして、
 その事実が、
 静かに――
 民の心を、前へと押し出していた。

最終章3


 アウレリア王国
 フェルディナ平原の最大都市、
 グラン=フェルディナ。

 城壁の外は、
 すでに黒く埋め尽くされていた。

 ヴァルガリア大帝国軍、十万。
 四方を完全に包囲し、
 逃げ場はない。

 城内に残された兵力は限られている。
 補給も、時間も、味方しない。

 ――ここが陥ちれば。

 アウレリア王国は、
 遅かれ早かれ、降伏を選ぶだろう。

 そう判断するのに、
 迷いはなかった。

 帝国軍総司令部。
 天幕の中で、
 ひとりの男が地図を見下ろしている。

 マクシミリアン・フォン=ヴァルガリア。

 冷静沈着。
 数多の属国を屈服させてきた、
 帝国随一の将軍。

(時間は、かからん)

 グラン=フェルディナは、
 確かに堅城だ。
 だが、十万の圧力の前では、
 いずれ瓦解する。

(……総仕上げといくか)

 そう思った、そのとき。

「将軍。伝令です」

 幕が開かれ、
 若い伝令兵が駆け込んできた。

「申せ」

「アウレリア王国の援軍が、
 フェルディナ平原へ接近中とのことです」

 マクシミリアンは、眉一つ動かさない。

「規模は」

「……三万」

 ペンが、止まった。

(あり得ん)

 アウレリアに、
 それほどの兵力を動かす余力はない。

 南部の防衛。
 王都の守備。
 各地の治安。

 どれを切っても、
 三万という数字は、重すぎる。

 他国の援軍か?
 いや、それも考えづらい。

(帝国に歯向かい、
 アウレリアに肩入れする国など……)

「続けよ」

 将軍の声は、
 なおも冷静だった。

 伝令は、一瞬、言い淀み――
 それでも、報告を続ける。

「偵察の情報によれば……」

「勇者が――
 魔王ヴァルディスの軍勢と、
 行動を共にしているとのことです」

 一瞬。

 天幕の空気が、
 凍りついた。

 マクシミリアンは、
 ゆっくりと顔を上げる。

「……何だと?」

 勇者。

 人族最強の切り札。
 その存在だけで、
 一個師団に匹敵する戦力。

 だが――

(勇者は、
 魔王との戦いに、
 釘付けになっているはずだ)

 帝国の想定では、
 勇者と魔王は、
 互いに消耗し合う存在だった。

 それが――

(共に、参戦、だと?)

 思考が、一瞬、止まる。

 これは、
 単なる想定外ではない。

 前提そのものが、
 崩れている。

「……あり得ん」

 そう口にしながらも、
 マクシミリアンは理解していた。

 ――これは、
 帝国が一度も想定しなかった事態だ。

 勇者と魔王。
 敵同士であるはずの二つが、
 同じ戦場に立つ。

 それは、
 力の問題ではない。

 秩序そのものの崩壊だ。

 マクシミリアンは、
 地図上のフェルディナ平原を、
 静かに見つめた。

(……面白い)

 初めて、
 胸の奥に、
 得体の知れぬ感情が芽生える。

 不安か。
 いや――

(これは、
 帝国の覇権を賭けた戦いになる)

 将軍は、
 ゆっくりと命じた。

「全軍、警戒態勢に移行せよ」

「想定を改める」

 まず、現れたのは――
 ドラゴンだった。

 轟音とともに、空を裂いて飛来する影。
 十体あまり。

 雲を押し分ける巨体に、
 帝国軍の陣がざわめく。

 本物のドラゴンを、
 この目で見たことのある者は少ない。

 それは瞬く間に、
 ざわめきから――恐怖へと変わった。

 次の瞬間。

 ドラゴンが、
 一斉に口を開く。

 灼熱の炎。

 平原の一帯が、
 爆ぜるように燃え上がった。

 悲鳴。
 混乱。
 隊列が、わずかに揺らぐ。

 だが――

「慌てるな!」

 帝国軍将軍、
 マクシミリアン・フォン=ヴァルガリアの声が響く。

「弓を射て!
 魔導部隊、詠唱開始!」

 的確。
 冷静。

 将軍の号令により、
 帝国軍は即座に体勢を立て直す。

 無数の矢が、空を覆い、
 対空魔法が次々と放たれた。

 ドラゴンたちは、
 それを察知すると――
 深追いせず、
 さっと高度を上げ、上空へ退く。

 その動きは、
 無謀な獣ではないことを、
 はっきりと示していた。

 そして――

 刹那。

 帝国軍の中央。

 まるで、空間そのものが、
 内側から引き裂かれたかのように――
 大爆発が炸裂した。

 《極大爆発魔法》。

 帝国の魔術師の中でも、
 使いこなせる者は、
 数名しかいないとされる――
 伝説級の魔法。

 それを放ったのは。

 ――魔王。

 光と衝撃が、
 陣形のど真ん中を飲み込み、
 兵士たちが、吹き飛ばされる。

 叫び声。
 粉塵。
 一瞬で生じた、致命的な“隙”。

 それが、合図だった。

 黒き軍勢が、
 雪崩を打って、前進する。

 魔王軍。

 重装の魔族兵が、
 一糸乱れぬ隊列のまま、突撃する。

 ゴーレムが、
 地を揺らしながら前進し、
 ベヒーモスが咆哮を上げる。

 帝国軍は、
 崩れてはいない。

 だが――
 主導権は、完全に奪われた。

 フェルディナ平原に、
 本当の戦いの幕が、
 今、切って落とされた。
 

 数では、なおも帝国軍が圧倒的に有利だった。

 だが――
 魔族兵の並外れた膂力。
 巨大魔獣の、常識を無視した破壊力。

 戦線は、次第に押し返されつつあった。

 それでも、帝国軍は崩れていない。

 帝国軍将軍、
 マクシミリアン・フォン=ヴァルガリア。

 彼の的確な指示により、
 部隊は持ち直し、
 損害を抑えながら陣形を再構築していた。

(……まだだ)

 勝敗は、決していない。

 そのとき。

 司令部――
 マクシミリアンの天幕の外で、
 不穏なざわめきが起きた。

 敵襲か?

 いや、あり得ない。

 ここは、帝国軍の中枢。
 何重にも張り巡らされた守備の内側だ。

 帝国軍を全滅させでもしない限り、
 たどり着ける場所ではない。

 マクシミリアンは、
 即座に外へ出た。

 そして――
 その場で、立ち尽くす。

 そこにいたのは。

 勇者クラウス。

 剣を手に、
 ただ一人。

 その足元には、
 折り重なるように倒れた、
 帝国軍兵士の山。

 血の匂い。
 まだ、温かい。

(……そうか)

 思い出す。

 ――勇者。

 単独で魔族の領域を踏破し、
 魔王のもとへたどり着く男。

 正義の名を掲げる存在。
 だが、その実態は――
 暗殺者。

(この程度の軍勢の中を、
 すり抜けてくるなど……)

 造作もないことなのだろう。

 背筋を、
 冷たいものが走る。

(……化け物め)

 マクシミリアンは、
 剣を抜く。

 将として、
 逃げるという選択肢はない。

 勇者クラウスは、
 ゆっくりと視線を上げ、
 マクシミリアンを見据えた。

「――大将は、お前だな?」

 前触れもなく、
 帝国軍司令部からの指示が、途絶えた。

 それは、合図だった。

 統制を失った陣形は崩れ、
 兵は各々に退路を求め、
 やがて――
 帝国軍は、総崩れとなった。

 気がつけば、
 マクシミリアン・フォン=ヴァルガリアは、
 両手を縛られ、地面に伏せさせられていた。

「将軍。お目覚めかな?」

 低く、落ち着いた声。

 その声の主を見上げた瞬間、
 理解する。

 黒衣。
 異様な存在感。

 ――魔王。

 一目で、そうと分かった。

 その隣には、
 剣を肩に担いだ男。

 勇者クラウス。

(……そうか)

 マクシミリアンは悟る。

 自分は勇者に生け捕られ、
 魔王軍の陣地まで連れてこられたのだ。

 魔王ヴァルディスが、静かに口を開いた。

「将軍よ。
 勝負は、ついた」

 その声には、
 勝者の驕りも、
 敗者への侮りもなかった。

「皆殺しには、しない」

 周囲が、しんと静まり返る。

「軍をまとめよ」
「そして、国へ帰るがよい」

 それは、
 慈悲であり、
 同時に――
 絶対的な宣告だった。

 魔王は、
 視線を落とし、
 マクシミリアンを見据える。

「そして、そなたの王に伝えよ」

 一拍。

「――アウレリア王国には、
 魔王が付いている、と」

 その一言で、
 すべてを理解した。

(……負けたのだ)

 戦術でも、
 兵力でもない。

 構図そのものに、負けた。

 自分は、
 生き証人として返される。

 二度と、
 アウレリアに手を出すな――
 そう釘を刺すために。

(完敗だ)

 マクシミリアンは、
 ゆっくりと、首を縦に振った。

「……わかった」
「言われたとおりにしよう」

 拘束は解かれ、
 マクシミリアンは、
 護送のもと、陣地へと送り返された。

 去り際。
 ふと、足を止める。

「……ひとつだけ、
 教えてくれまいか」

 振り返らずに、問いかけた。

「なぜ、
 魔王と勇者が、
 手を組むなどということが……」

 一瞬の沈黙。

 次の瞬間――
 くつくつと、
 笑い声が重なった。

 魔王ヴァルディスと、
 勇者クラウスが、
 顔を見合わせている。

「そうだな」

 魔王が、肩をすくめる。

「ひとりの――」

 勇者が、言葉を継いだ。

「少女の、悪知恵だ」

 呆気に取られたまま、
 マクシミリアンは、その場を後にする。

 その背に、
 戦争の終わりを告げる風が、
 静かに吹いていた。

最終章4


 勇者と魔王軍が、
 帝国軍を追い返した。

 その報せは、
 瞬く間に、アウレリア王国中を駆け巡った。

 人々は、沸き立った。

 歓喜。
 安堵。
 そして――
 生き延びたという実感。

 街では、人々が抱き合い、
 兵士たちは兜を脱いで空を仰いだ。

 戦は、終わったのだ。

 だが――
 人々をさらに驚かせたのは、
 その“後”だった。

 魔王軍は、
 追撃を終えると、
 速やかに進路を変えた。

 フェルディナ平原を、占拠しない。
 王国に、何かを要求しない。
 勝利の余韻に、居座らない。

 本来なら、
 そのまま平原を押さえることも、
 王国を脅すことも、
 容易だったはずだ。

 だが、
 魔王軍は、
 一切、アウレリアの足元を見ることなく――
 恩を売ることもなく、
 ただ、帰っていった。

 王都ルクシオンも、素通り。

 眠りの森を貫く幹線道路を通り、
 静かに、
 魔王領へと戻っていく。

 その背に、
 誰も、恐怖の言葉を投げなかった。

 ただ、一度だけ。

 魔王軍は、
 王都ルクシオンの外れで、
 足を止めた。

 多くの国民が集まり、
 魔王軍の兵士たちも、静かに見守る中――

 魔王ヴァルディスと、
 勇者クラウスが、
 人々の前に並び立つ。

 言葉は、なかった。

 ただ――
 二人は、高く手を取り、
 固く、握手を交わした。

 それが、
 別れの合図だった。

 夕日が、
 二人の姿を、
 深い朱に染め上げる。

 勇者と、魔王。

 かつて敵として語られた二人が、
 同じ戦場を越え、
 それぞれの帰るべき場所へ向かう。

 その光景は、
 多くの人々の目に、
 焼き付いた。

 剣よりも、
 言葉よりも、
 強く。

 それは――
 アウレリア王国が、
 初めて“恐怖ではない形”で
 魔王を見た、
 その瞬間だった。
 

 
 商人ヴァルスの屋敷。

 戦の熱が、まだ完全には引ききらないその場所で、
 私は、手を叩いて宣言した。

「――では。
 次の手と参りましょうか?」

「ちょっと待て!!」

 即座に悲鳴を上げたのは、勇者クラウスだった。

「王女よ!
 俺たちは、帰ってきたばかりだぞ!?
 少しくらい、休ませてくれ!」

「うふふ」

 私は、にこやかに微笑む。

「クラウス。ご苦労さまでした」
「でも――この好機を逃すのは、もったいないわよ?」

「我が姫の人使いの荒さは、
 見習うべきところがあるな」

 そう言って、ヴァルディスが小さく笑う。

 その声音には、呆れと――
 どこか、楽しげな響きが混じっていた。

 私は、姿勢を正し、
 父へと向き直る。

「では、お父様」

 場の空気が、
 わずかに引き締まる。

「いよいよ、
 アウレリア王国と、
 魔王ヴァルディスとの同盟を結ぶ頃合いかと存じます」

 言葉を選び、
 しかし、迷いなく告げる。

「――
 『アウレリア王国と魔王領は、
 相互不可侵・防衛同盟を締結する』
 この文言が、最もよいでしょう」

 今日は、
 私の父――
 アウレリア王国国王にも来てもらっていた。

 父は、顎に手を当て、
 静かに考え込む。

「……エリシアよ」

 やがて、口を開く。

「提案としては、
 こちらとしても、申し分ない」

「だが――
 少々、早急ではないかな?」

 私は、少しだけ首を傾けた。

「ええ。
 おっしゃる通りです」

 その返答に、
 父は、わずかに目を細める。

「ですから」

 私は、ヴァルディスをじっと見つめながら、にっこりと笑った。

「少しだけ――
 小細工を施してからのほうが、
 ずっと、スムーズになります」

 
 その瞬間。

 背後で、
 カップを置く音が、
 かすかに止まった。

 セリスが、
 お茶を淹れながら、
 ちらりと私を見る。

 渋い顔。

 ――ああ、これは。

(また、
 悪い顔になっている、
 そう言いたいのね)

 私は、何も言わず、
 ただ、微笑みを深くした。

 ――さあ。
 盤面は、整った。
 
 次は、
 勝ちを“固定する”番だ。
 

 その日――
 アウレリア王都ルクシオンは、朝からざわめいていた。

 理由は、ただひとつ。

 アウレリア国王と、魔王との初めての公式会談が、
 この王都で行われることになったのだ。

 魔王が、
 王都ルクシオンに、やってくる。

 その事実だけで、
 街は否応なく沸き立った。

 今回の戦いを通して、
 アウレリア国民の中で、
 魔王に対する警戒感は、確実に薄まっていた。

 先の戦いでは、
 遠巻きに、息を潜め、
 恐れおののきながらその姿を見ていた人々。

 だが今や――
 恐怖よりも、
 好奇心のほうが、勝り始めている。

「……魔王って、どんな姿なんだろうな」
「本当に、怪物みたいなんだろうか?」

 そんな声が、
 あちこちで聞こえた。

 しかも今回は、
 ただ会談を行うだけではない。

 魔王の凱旋を祝う行進が、王都において執り行われることとなった。

 魔王を乗せた馬車が、
 王都をぐるりと巡り、
 その後、王宮へと入る手はずだという。

 ――近くで、一目見たい。

 その思いが、
 国民の胸を掻き立てる。

 好奇心は、
 最高潮に達していた。

 会談当日。

 凱旋ルートには、
 あふれんばかりの人だかりができていた。

 そして――
 遠くから、
 一台の馬車が姿を現す。

 屋根は、ない。

 乗っている人影は、三つ。

 それは、
 事前に知らされていた通りだった。

 中央に――
 魔王ヴァルディス。

 堂々と、
 観衆の視線を受け止めている。

 その両隣には、
 魔王軍参謀、セリス・ノクティア。

 柔らかな微笑を絶やさず、
 時折、観衆に向かって手を振る。

 そして――
 近衛、グラド・バルムガル。

 正面を見据え、
 微動だにせず、
 表情は、読み取れない。

 人々は、息をのんだ。

 近くで見ても――
 その様相は、
 やはり、想定外だった。

 確かに、角は生えている。
 だが、それ以外は――
 人間と、ほとんど変わらない。

 いや。

 変わらないどころではない。

「……魔王、ちょっと……かっこよくない?」
「参謀の子……すごく、かわいいんだけど」
「近衛の人、でかっ……すげえ……」

 そんな囁きが、
 あちこちから、
 遠慮なく漏れ始める。

 ヴァルディスは、
 昨晩、エリシアに言われた言葉を思い出していた。

『人間は、
 見たことのないものを恐れ、
 身近なものに、親近感を抱きます』

『とくに――
 あなたたち、自覚がないみたいですけど』

『見た目、
 結構、良いですからね?』

『人間って、
 本当に、げんきんなものです。
 見た目で、人を判断します』

 なるほど。

 ヴァルディスは、
 内心で、くすりと笑った。

(……こういうことか)

 瞬く間に、
 三人は、
 国民の間で、話題の中心となった。

 とりわけ、
 セリスに至っては――
 ほどなくして、
 非公式ながらファンクラブが設立されたほどだ。

 一方で、
 別の種類の囁きも、
 ゆっくりと広がり始めていた。

「あの魔王……
 商人のヴァルスに、似てないか?」
「眠りの森を開拓した、あのヴァルス?」
「ゼオグリフ救済の英雄の……?」

 視線が、
 過去の記憶と、
 現在の姿を、
 重ね合わせる。

 ――商人ヴァルス。

 実は、
 あの人物こそが、
 魔王ヴァルディスだったのではないか。

 以前から、
 アウレリアのために、
 尽くしてくれていたのではないか。

 そんな“匂わせ”の効果も、
 じりじりと、
 現れ始めていた。

 魔王ヴァルディスが、
 王宮へと到着する頃。

 国民の胸から、
 かつての恐怖は、
 すっかり影を潜めていた。

 その代わりに、
 芽生えていたのは――

 興味。
 期待。
 そして、
 ほんのわずかな――
 親しみ。

 アウレリア王国と魔王の関係は、
 この日、
 確かに、
 新しい段階へと踏み出したのだった。
 

 王宮における国王と魔王の会談は、
 定められた儀礼と手順に従い、
 厳粛かつ静粛な空気の中で、
 滞りなく執り行われた。

 形式的な挨拶と確認が重ねられ、
 両者の意思に相違がないことが確かめられたのち、
 合意は文書として整えられた。

 この日、
 アウレリア王国と魔王領は、
 相互不可侵、ならびに防衛に関する同盟を、
 正式に締結した。

最終話


 戦の終結、
 そして、
 アウレリア王国と魔王領の同盟締結から、
 数日が過ぎた。

 王都ルクシオンは、
 ようやく、日常を取り戻しつつあった。

 その日、
 王宮より、静かな布告がなされた。

 大仰な式典はない。
 凱旋の喧騒もない。

 集められたのは、
 重臣と諸侯、
 そして、必要最小限の立会人のみ。

 国王が、簡潔に告げる。

「――すでに周知の通り、
 アウレリア王国は、
 魔王領と相互不可侵・防衛同盟を締結した」

 一拍。

「本日は、
 それとは別に、
 私事として、
 一つの報せを伝える」

 その言葉に、
 場の空気が、わずかに変わる。

「第三王女エリシアと、
 魔王ヴァルディスは、
 婚約の運びとなった」

 ざわめきは、起きなかった。

 すでに、
 多くの者が、
 薄々、察していたからだ。

 エリシアは、
 一歩前へ出て、
 静かに頭を下げる。

「この婚約は、
 戦の結果として与えられたものではありません」

 落ち着いた声。

「同盟とは切り離された、
 私個人の意思によるものです」

 ヴァルディスも、
 短く、しかし明確に続けた。

「我が名において誓おう」

「この婚約は、
 取引でも、
 義務でもない」

「エリシアを、
 一人の伴侶として迎える」

 誰も、異を唱えなかった。

 それは、
 戦を終わらせ、
 国を守り抜いた者たちが、
 選び取った未来だったからだ。

 拍手は、
 控えめだった。

 だが――
 その静けさこそが、
 この婚約が、
 国に受け入れられた証だった。

 こうして、
 アウレリア王国の歴史に、
 新たな一行が、
 そっと、書き加えられた。

 ――
 それは、
 戦の続きではなく、
 平和の始まりとして。
 

 
 ヴァルスの屋敷。

 私たちは、これからのことについて、円卓を囲んで話していた。

「……商人ヴァルスの正体も、
 すっかり世間に知られてしまいましたね」

 私がそう言うと、
 ヴァルディスは苦笑する。

「ここに住んでいたのが、
 魔王とその幹部、
 そして王女だったとなればな。
 驚かれない方が無理だろう」

「ランドロスも、ディートリヒも、
 私の扱いに相当困っていたぞ。
 引き続き“ヴァルス”で頼むと言っておいたが……」

 少し間を置いて、

「最近は、
 “ヴァルス陛下”と呼ばれている。
 どうにも、ちぐはぐでな」

 そう言って、
 おかしそうに笑った。

 その間も――
 ヴァルディスは、
 私の手を握ったままだ。

 公に婚約したのだから、
 問題ないだろう、とは言うけれど。

(……やっぱり、少し、恥ずかしい)

 話題は、屋敷の今後に移る。

「正体を明かした今、
 この屋敷も、役目は終えた」

 ヴァルディスは静かに言った。

「私は、ヴァルスとして商いは続けるが、
 拠点は魔王城に戻るつもりだ」

「もちろん――」

 私は、即答する。

「私も、ついていきます」

 それを聞いていた父――
 アウレリア国王が、
 さも当然のように口を挟んだ。

「では、
 魔王城と、
 我が寝室に、
 転移魔法陣の設置を頼む」

 ……どうやら、
 頻繁に遊びに来るつもりらしい。

「おれは、魔王についていく」

 グラドが、短く言う。

 その隣で、
 カエデが少し緊張した様子で立ち上がった。

「わたしは、
 今後もアウレリア医療院で、看護に携わるつもりです。
 剣術以外にも、人を守る道があることを知りました。
 父も、その選択を許してくれました」

 それから、
 少しだけ声を落とす。

「でも……
 みなさんと、
 ここで暮らせなくなるのは、
 ちょっと、さみしいです」

「いつでも会える」

 グラドが即答する。

「また、
 一緒に剣を振ろう」

「……はい!
 先生!」

 カエデの目が、
 うるりと潤んだ。

 そのときだった。

 勇者クラウスが、
 おもむろに立ち上がる。

「俺は――
 旅に出るつもりだ」

 意外なほど、
 まっすぐな声だった。

「まだ、
 見ていない景色が、
 たくさんある」

 そう言って、
 彼は、セリスの前に歩み寄る。

 片膝をつき、
 その手を取った。

「……!?」

 一瞬の沈黙。

 次の瞬間。

「クラウスが、
 セリスの手を握った!」
「握った!?」
「……握った!?」

 屋敷中が、
 ざわめきに包まれる。

 ――あの、ヘタレ勇者が。

「長い旅になる」

 クラウスは、
 視線を逸らさずに続けた。

「俺と一緒に来てくれないか」
「俺の――
 妻として」

「えっ、プロポーズ!?」
「プロポーズ!?」
 ざわめきが加速する。
 
 混乱の中、
 セリスは一瞬、
 はっとした表情で――
 魔王を見る。

 ヴァルディスは、
 何も言わず、
 ただ、うなずいた。

 セリスは、
 小さく、
 しかし確かに、うなずく。

「……はい」

 頬が赤く染まり、
 瞳が、潤む。

「おめでとう」

 私は、心から言った。

「おめでとうございます。
 勇者様、セリスメイド長」

 カエデも続く。

「やれやれ……」

 ヴァルディスが、肩をすくめる。

「新しい参謀を、
 探さねばならんな」

 笑い声と祝福が、
 屋敷を満たす。

 別れと、旅立ちと、
 新しい未来。

 ヴァルスの屋敷は、
 そのすべてを見届けながら、
 静かに、役目を終えようとしていた。
 

 魔王城。
 謁見の間。

 私とヴァルディスは、
 並んで立っていた。

 天窓の向こうには、
 満天の星空が広がっている。

「……ここから、
 本当に、すべてが始まったのね。
 ヴァルディス」

「そうだな、エリシア」

 ヴァルディスは、
 私の手を握りしめたまま、言った。

「だが――
 終わりではない」

 静かな声。
 けれど、その奥に、確かな野心がある。

「アウレリア王国では、
 我々が築いた流れは、
 もはや誰にも止められぬ」

「しかし、
 世界は、まだまだ広い」

 夜空を見上げる。

「これからは、
 さらに外へ打って出る」

「人間の国を支配するには、
 まだ、先は長い」

「はい」

 その答えに、
 迷いはなかった。

 ヴァルディスは、
 私の肩を抱き寄せ、
 そっと引き寄せる。

「さて……」

 少しだけ、
 楽しげな声になる。

「次は、
 隣国の有力者に、
 そっと手を伸ばしてみるか」

「エリシア。
 何か、良い案はあるか?」

 私は、
 思わず、微笑んだ。

「それでしたら――」

 目が、自然と輝く。

「私に、策があります」

エピローグ


 ある日の午後。

 王立アウレリア初等学舎の教室で、
 先生がぱん、と手を叩いた。

「みなさん、今日は転校生を紹介します」

 ざわ、と教室が揺れる。

 その瞬間――
 私は、颯爽と教室に足を踏み入れた。

 黒板の前。
 壇上に立ち、胸を張る。

 教室中の視線が、
 一斉に、こちらに集まるのがわかる。

 ……ううん。
 正確には、私の頭のてっぺんだ。

「では、自己紹介できるかな?」

 先生にそう振られ、
 私はにっこり笑った。

(初手が肝心)

 父さんに、前に言われた言葉を思い出す。

(まかせて、父さん)
(この自己紹介で、みんなのハートをつかむわ!)

 私は、はっきりと言った。

「リリア・ローディアです。六歳です。よろしくね。」

 ――ざわっ。

 視線が、さらに集まる。

「みんな、
 私の頭の角が気になるみたいね」

 くすっと、笑いが起きた。

「いいわ。教えてあげる」

 私は、ちょっとだけ顎を上げる。
 

 私は、人間と魔族のハーフなの。
 ほら、角が生えてるでしょ?
 ちっちゃいけど。

 私ね、世界で最初のハーフなの。
 すごいでしょう?

 最近は、ハーフも少しずつ増えてきてるみたいだけどね。

 ちなみに、二番目のハーフは、
 父さんのお友達のところの、アルヴィス。

 アルヴィスは、私より二つも年下で、
 角も私よりちっちゃいのに、
 すっごく生意気なの。

 ……でも、まあ。
 ちょっとだけ、かわいいの。

 父さんは、お仕事中に、母さんと出会ったんだって。
 それでね、
 父さんが母さんに一目ぼれして、プロポーズして。

 それから、
 ふたりで旅に出たんだって。

 その旅の途中で、
 私が生まれた。
 
 それからも、ずっと親子三人で旅してたわ

 すごい経験、いっぱいしたし、
 すごいものも、いっぱい見た

 それはね、
 また今度、ゆっくり聞かせてあげる

 それで―― 
 
 私も、だいぶ大きくなってきたから
 旅は、ちょっとお休み

 この街に、帰ってきたの

 父さんはね、
 この街でしばらく、
 アルヴィスのお父さんの会社のお手伝いをするんだって。

 母さんも、
 パートを始めるんだって。
 “さんぼー”っていうお仕事。

 わたしね。
 おおきくなったら、また旅に出たいの。

 森も、山も、海も。
 まだ見ていない場所が、
 この世界には、たくさんあるでしょう?

 だからそれまでに、
 いっぱい勉強するの。

 父さんみたいに、強くなって。
 母さんみたいに、賢くなって。

 それでね。

 もし、
 クラスのみんなの中で、
 「私も一緒に旅したい」って思った子がいたら、
 ちゃんと言ってね。

 わたし、
 すごいところに連れていってあげる。

 だって――

 この世界は、
 まだ、知らないもので、あふれているんだから。

 ね?

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