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【旅日記】犬山城、午前中の特等席 〜木曽川の風と城下町の誘惑〜

愛知県犬山市。そこに佇む犬山城を、貴方は御存じだろうか。

世に城は数あれど、その佇まいは実に個性的だ。平地にどっしりと構える城ではなく、小高い丘の上にぽつんと天守閣だけが立っているタイプ。その孤高のシルエットは滋賀の彦根城に似ている。
ちなみに、現在の日本で天守が国宝に指定されているのは、わずか五つ。犬山、彦根、姫路、松本、松江。世に言う「国宝五城」の一角を担う名城なのだ。

そんなうんちくは、さておき。

風薫る5月の土曜日。私は妻と共に名古屋駅から名鉄犬山線に乗り込み、一路、犬山へと向かった。
旅の目的は、もちろん犬山城の天守閣だ。しかし、昨今の全国的な天守閣人気には目を見張るものがある。なぜ誰も彼も、あんなにも天守閣が大好きなのだろうか。かく言う私も、その魅力に抗えず、のこのことやって来たうちの一人なのだが。

犬山城の天守閣は入場可能だが、とにかく混む。最盛期ともなれば、天守閣前の広場には某テーマパークさながらの、うねうねとしたQライン(待機列)が設置されるほどだ。

あの混雑に巻き込まれるのだけは避けたい。そう考えた私は、開城時間である朝9時ちょうどに現地へ到着できるよう、抜かりなく計画を立てていた。

手元には、名鉄が発行している「犬山城下町きっぷ」がある。名鉄電車の往復割引乗車券に、犬山城の入場券、さらには城下町クーポンや国宝茶室のある日本庭園「有楽苑」の割引券までなんやかんやとセットになって、名古屋駅からなら大人一人1,950円。普通に往復して入場券を買うより300円以上も安くなる上に、クーポンを使えばさらにお得感が増すという、旅人の財布に実に優しい優れものだ。

犬山城と言えば、今や賑やかな「犬山城下町」とセットで語られることが多い。土産物屋や食べ物屋が軒を連ね、食べ歩きを楽しむ観光客で溢れるレトロな街並み。名鉄犬山駅で下車し、その一本道をそぞろ歩きながら城へ向かうのが、世間一般の「王道ルート」とされている。

しかし、今回私が選択したのは、あえてその王道を外れるルートだった。犬山駅を通り過ぎ、もう一つ先の「犬山遊園駅」で下車して城を目指す。

理由は三つある。
一つ。朝9時という時間帯では、城下町の店はまだどこも閉まっている。開店は大体が10時か11時なのだ。
二つ。距離的にも、実は犬山遊園駅からのほうが少し城に近い。
そして三つ。これが最大の理由なのだが――犬山遊園駅から木曽川沿いを進み、かつての堀の横の小路を抜けて城へ向かう散策コースが、最高に気持ち良いからだ。

駅を出て歩き出すと、目の前に雄大な木曽川が広がる。5月の青天の下、輝く陽光を浴びて遠くに佇む犬山城を眺めながら、美しく整備された川沿いの歩道を歩く。やがて道は堀の横へと入り、今度は瑞々しい木陰の小路となった。葉の隙間からこぼれ落ちる日の光を浴びながら歩を進める。

城下町の賑やかな喧騒とは対照的な、静かで、どこか優雅な時間がそこには流れていた。この朝の静寂を味わうだけでも、このルートを選んだ価値があるというものだ。

そんな贅沢な朝の散歩を楽しみながら、犬山城の敷地へ到着したのは9時を少し回った頃だった。
ゆるやかな坂を上り、威厳ある城門をくぐると、目の前がぱっと開けて天守閣がそびえ立つ広場に出る。

視線を走らせると、すでに天守の入り口には列ができていた。しかし、並んでいるのは20人程度。ディズニーランドの悪夢に比べれば、ぜんぜん少ない。胸をなでおろし、私も列の後ろに付いた。

犬山城の内部は、コンクリートで近代化された名古屋城などとは違い、昔ながらの職人の息遣いが残る純木造だ。さすが国宝、本物の歴史がそこにある。
だが、本物の歴史遺産であるがゆえに、現代人の足には少々手強い。

入り口は狭く、まずは靴を脱いで入場する。すると、いきなり目の前に現れるのが、垂直に近い角度でそびえる狭い木製の階段だ。
誰もが慎重に足をかけ、手すりを掴む。訪れているご年配の方々も多いため、当然スイスイと上れるわけがない。それゆえに、列の進みは遅々として牛歩のようだった。

犬山城は4階建てである。
各階の内部も、太い梁と柱が剥き出しになった往時のままの佇まいだ。窓から差し込む光、展示されている年季の入った鎧兜や歴史の足跡を眺めながら、一歩一歩上へと巡っていく。しかし、階を移動するたびに、例の急峻で狭い木製階段が立ちはだかる。やはりここでも、階段待ちの渋滞が起きていた。

しかも、最上階へと至る最後の階段は、あまりの狭さに完全な一方通行だ。上る人と降りる人が、係員の指示のもと交互に通行するため、さらに時間がかかる。現代の効率主義とは無縁の、このもどかしさすら、どこか愛おしい。

そうして渋滞を抜け、ようやく辿り着いた最上階。
そこには、この城の最大の白眉とも言える、外の回廊ベランダへと繋がる扉が開いていた。

一歩、外へ足を踏み出す。

「おお……!」
周囲の客たちから、次々と歓声が上がった。やはり人間、誰もが高いところは大好きなのだ。

回廊は天守の周りをぐるりと一周できるようになっている。
眼下に見下ろす広場、遠くに霞む名古屋の近代的な街並み。そして何より、城の真後ろを滔々とうとうと流れる、エメラルドグリーンの雄大な木曽川。遮るもののない360度のパノラマは、まさに絶景というほかなかった。5月の風が、火照った身体を心地よく吹き抜けていく。

ただし――。

足元にあるのは、古びた木製の手すりのみ。しかもその高さは、大人の腰回りほどしかないのだ。うっかり身を乗り出せば、そのまま木曽川へダイブできてしまいそうな、なかなかのスリルである。

絶景に目を輝かせる人々の横で、高所恐怖症らしき人が、完全に足をすくませて壁にへばりついていた。
歴史のロマンと、五感を揺さぶるスリル。それらが渾然一体となった不思議な高揚感の中で、私はしばらく、木曽川を渡る風に身を任せていた。

スリルと絶景が入り混じった犬山城の天守閣を心ゆくまで堪能し、再び地へと降り立つ。坂を下り、今度は来た時とは違うルート――かつての武家屋敷の面影を残す、賑やかな「犬山城下町」へと向かった。

時計に目をやると、長針と短針がちょうど良い角度を刻んでいる。狙い通り、時刻は10時半を回ったところ。街のあちこちで暖簾がパタパタと掲げられ、シャッターが上がる音が響く。まさに店々が次々と開店しだす、絶好のタイミングだった。朝、あえてこちらを外して犬山遊園駅から歩いた選択が、ここで完璧な伏線として回収されたわけだ。

この城下町の醍醐味は、なんと言っても「食べ歩き」に尽きる。

通りに一歩足を踏み入れば、香ばしい醤油と味噌の香りが鼻腔をくすぐり、一気に胃袋が目を覚ます。犬山名物の五平餅は外せない。焼き目のついたお餅に甘辛いタレが絡む、昔ながらの素朴な味わいだ。
その一方で、現代風にアレンジされたお洒落なクレープや、写真に収めたくなるような華やかなアイスクリームを商う店も軒を連ねている。伝統とモダンが、一本の通りに心地よく同居しているのだ。

買い食いしたものを片手にそぞろ歩くのも楽しいが、多くの店ではイートインも可能となっている。少し歩いては店内の椅子に腰掛け、熱いコーヒーと共に甘味をいただく。そんな贅沢な寄り道を繰り返しているうちに、気づけばお腹はすっかり満ち足りていた。城下町の一本通りをちょうど抜けきる頃には、心地よい満腹感が私を包み込んでいた。

時計を振り返る。まだお昼前だ。
新緑の木陰を歩いた清々しい朝の散歩に始まり、国宝の天守閣でのスリル満点の絶景、そして城下町での美味しい誘惑。これほど濃密な体験をしたというのに、まだ午前中しか経っていない。

犬山は、歴史のロマンもお腹の満足も、午前中だけでサクッと手軽に味わい尽くすことができる、実にスマートで魅力的な観光スポットであった。

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