「骨太の方針」に組み込まれた「人文社会系」の追放/教養嫌いが国を傾ける
骨太の方針はどうしても経済が注目されがちだが、これも深刻な問題だ。21世紀に入ってグローバル化が喧伝されて以来、文科省は大学の文学部を潰してきた。
一方で経営学部がテコ入れされて「グローバル」が氾濫し、グローバルビジネスだのグローバルキャリアだのと、まるでビジネススクールのような学部や学科が噴出した。
文科省は選択と集中に邁進し、今すぐ役に立つ実学ばかりを優遇し、二言目には「グローバルエリートを育成」と繰り返し、AIの登場と発達で理系エリートを渇望している。
文学部を消滅させ、そして今、人文社会系全てを大学から追放しようとしている。グローバルエリートも理系エリートも必要だが、同じぐらい人文社会系の学問も大切だ。
これからますます文学や哲学、経済学(金融ではない)などが必要になるのに、そんなこともわからないのか。
要は教養が嫌いなのだろう。教養のある人間は騙されないし、権力に警戒感を抱く。軍拡にも反対する。
だから学術会議にも介入して改組してしまった。大学はもはや、取り返しがつかないほど新自由主義に侵されている。
国立大学は独立行政法人化から始まって、締め付けはひどくなるばかり。ついに学長の上に「運営会議」という上部機関を置いた。
メンバーはおよそ知見のなさそうな財界人ばかりだ。要は産業戦士を育成し、軍事研究に引っ張っていきたいのだ。スポンサーである財界の強い要請でもある。
最近では国際卓越研究大学を選定して、優先的に補助金を出す仕組みを作った。東北大学が第一号になり、昨年は合併で冴えない名前になった東京科学大学、今年は京都大学も認められた。東大も来年は認められるだろう。
選定されるには、政府が掲げる「改革」に取り組む必要がある。例えば第1号になった東北大学は、英語を日本語と並ぶ公用語にして、外部資金を10倍にするなどの条件を満たした。
大学に改革は必要だろうが(改革は常に必要)、これが果たして改革なのか。そして国立大学も含めて全ての大学に、今度は人文社会系の排除を求めるのだ。
ITで出遅れてAIでも出遅れた政府は焦っているのだろう。だが、教育は急がば回れだ。焦ってもろくなことはない。数年前、東北大学は非正規の大量雇い止めが問題になっていた。そし指定第1号になった。
日本の大学は誰のために、そして何のために存在しているのか。社会に出たから市場経済の中で生きていくしかない。絶えず自己研鑽と挑戦の日々を送ることになる。
大学の4年間はゆっくり小説を読み、生き方を考えることが許される大事な期間だ。もはや就職予備校となっているとはいえ、その気になれば、損得を超えた世界に触れることができる。
誰もが投資に追い立てられる中、経世済民について学ぶことができるし、名作や名画に触れることによって、いくら努力してもうまくいかない、不運な人生を擬似体験することできる。
家庭環境も文化的背景も時代も全く違う人生を知ることは、想像力と他者への共感を育む大切な手段だ。人間は教養を通して他者とつながることができる。
政治家はともかく、官僚は難関大学を出たはずだが。偏差値体制が完全に確立され、難関大学めざして中高一貫校に進学することが当たり前になって以降、同じ階層の中でしか生きてこなかったのではないか。
だから発想が単純なのだ。誰でも努力すれば成績は上がる。優秀な人間を優遇しておけば社会は回るといった具合だ。人間理解が極めて単純である。そうならないために教養が必要なのだ。
だが少子化で経営が厳しい中、大学は文科省に逆らえない。そもそも少子化がはっきりして以降も、新規開学を認可しつづけた文科省の責任を問いたい。さらに言えば戦前戦中、軍国主義教育の旗を振った責任を問いたい。
それがさらに悪化しそうなのだ。
