No.30 講演と質問を巡るあれこれ
togetterを元に書いたNo.29のnote
を書いている間に, togetterのランキングに
講演等で「質問がある人はいますか?」だと出ないけどこう言い換えると質問が鳴り止まなくなる、という話
https://togetter.com/li/1844703
が上がってきていた. 何かこういうテのtopicsもまぁ定期的には上がってくる気がするが, 個人的にこういうものは信用していない.
が, 今回はそれ以前に, このtogetterで取り上げられていた人のやっていること(コメントの意味)を理解することが, 私は非常に困難だった. だって
『学校での講演テクニックだけど「質問がある人はいますか?」ではなく「隣の人と30秒質問があるか相談ターイム」っていうと質問が鳴り止まなくなる。これが日本の教育です。』
って色々おかしい日本語じゃない? 正直全文の意味を未だに完全に理解できていないのだが(「これが日本の教育です」って何だ?), 恐らくこの人が説いている方法論は
「どんな質問をすべきかを周りと相談させる」
ということなのだと思う. 仮にそうだとした理解した上で, この方法がそんなによいものであるかと言われれば, 私は必ずしもそうとは思わない. ハマらないこともないのかもしれないけれども, 恐らく実際には殆ど役に立たないだろうと思う. 何故か?
そもそも大前提として, これを見落としている人が関係者を含めて圧倒的に多いのでビックリするのだが, 「質問する」という行為自体がかなり高度な技法であるということに注意しておこう. つまり「質問する」ということは
1)誰かの話を正確に聞いて,
2)その中で自分が何をわかっていて, 何をわかっていないのかを把握し、
3)更に聞きたい項目を取捨選択して、
4)それを「質問」という形に言語化する
という, 少なくともこれだけの行程を要する行為なのだ. はっきり言って経験を積んだプロでもこれはかなり難しい. 個人的な経験を踏まえて言えば, 質問の大体半分くらいの答えを聞く前に予め想定できるくらいでないと, 質問をすること自体が難しいと思う. 少なくとも, 話を聞いて何もわからない場合には何をどう質問すればいいのかさえもわからない. これは無駄に教育論を振りかざす輩が大好きな, 日本がどうの, 教育システムがどうのという事象とは全く関係なく存在する, かなり普遍的で, 根源的な困難なのである. だから, この点を全く無視して「質問」について論じている言説は基本的に無視してよい.
このように難しい行程なので, それをいわゆる「アクティブラーニング」というか, 教育課程の中に組み込もうとする試みは, わからなくはないのだが, それははっきり言って無理である. もしやろうとするならば, 少人数であるとか, 学力, 理解度がなるべく近い者同士を集めるとか, しかるべき条件を整える必要があって, それは非常に高度な専門教育の領域になるだろう. つまりそれぐらい難しいのであって, 初等的, 大衆的な講演, 講義でそれを片手間にやろうとしても殆ど不可能だと思われる.
つまり「質問」という行為は, 講演の聴講の中では非常に高度な技法なので, それができる人はその講演が対象としている聴衆の中でも相当な力量を持った人に限られる. だから, その中で質問ができる人, したい人は適宜すればいいし, できない人に無理にさせることもない. これを
「無理やりdiscussionさせてみんなに一緒に」
なんてやっても, 上述の1)- 4)の行程をそんな大人数で一斉にできるわけがないので, 何かdiscussionをしたつもりになって殆ど実りなく終わるのが関の山であろう.
仮にそれで有意義な質問が得られたとすると, 申し訳ないがそれは, 元の講演の中身が薄いこと, お粗末なことを疑った方がよい. ``究静極技''の講演というのは, それ自身が落語の名人芸のようなもので, 余りに見事すぎて質問を挟む余地自体が存在しない(名人が噺しているときに話しかけるバカはいない)ことさえあるのだから.
本来であれば適切な「質問」とか「discussion」ができることを一つの目標にして, そのための基礎トレーニングをするのが「教育」なのだが, この手の論を振りかざしたがる輩は, これが色々と転倒してしまっている感じがある. 別にまるきり悪いこととは言わないが, あくまでsuboptionの一つとして割り切るべきであって, それをmainに据えようとしてはいけない. そんなことに頭を回すのならば, 自分が少しでもマシな講演をすることに尽力する方が先であろう. まして自分の不出来さを聴衆に押し付けて, 補ってもらおうなどという卑しさがスケてみえるようではお話になるまい.
