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「代読屋ははざまを繙く」第九話

三行半(三)

 ふみが手書きの文字から声を聞くことができる異能が自分にあることに気づいたのは、小学一年生の頃のことだ。
 小学校入学前にひらがなとカタカナは読み書きできるようになっていたが、小学生になって漢字を習い始めると身の回りの文字で読める物がかなり増えた。
 はざ家は商売をしていたので両親ともに忙しく、典也が小学校から帰ってくると家には誰もいないことが珍しくなかった。兄や姉は両親の店の手伝いをしているか、遊びに出かけているかのどちらかだった、
 家の茶の間にはたいてい母の書き置きがあり、おやつは茶箪笥の中にあるだの、小銭と一緒に駄菓子屋で好きな物を買いなさいなどと書かれていた。
 そんな母の書き置きからは囁くような声がかすかに聞こえて来ることが多かったが、長屋住まいだったため、家の外から聞こえてくる声だとばかり思っていた。
 中学生になって、自分は手書きの文書から声を聞くことができるのだと認識するようになった。ただ、すべての手書きの文字から声が聞こえたわけではないので、自分の異能を誰かに教えたことはなかった。便利に利用できるほど自在に文書から声を聞こえるわけではなかったし、文書から声を聞くコツもまだ習得していなかった。
 いまにして思えば、当時読んでいた文書はどれも書き手の声が宿るほど強烈な思いが込められた物ではなかった。
 姉が小学校時代の同級生から貰った恋文を間違って読んでしまったときでさえ、十代半ばの男子が「なにを書いたら良いんだ? なにも思いつかない! あつさん! あれ? 『あつこ』ってこの『温子』で合ってるよな? 間違ってたら絶対にはたかれる!」という可愛らしいものだった。
 だから、拾った三行半を読んだときに心臓を鷲掴みにするような声が響いてくるなど、想像もしなかったのだ。
 いまにして思えば、自身が経験したことがないもの、読んだことがない物は、書き手がどのような心情で書いたかなど典也が文書を読む前から察することができるはずがなかった。
(あのくだりはんは結局、姉さんが退院して家に帰った後で処分したんだっけな)
 蚊帳を吊らずに窓を開け放したまま寝てしまったため、典也は虫刺されのかゆみで早朝に目覚めた。腕と足に何カ所か蚊に噛まれた跡がある。
(確か、家でもう一度だけあの三行半を読んで、風呂の焚き付けの新聞紙と一緒に燃やしたはずだ)
 三行半から聞こえた声は、いまでも典也の頭の片隅に残っている。
 あんな魂を揺さぶるようなすさまじい感情を持って手紙を書く人がいるのか、と驚嘆した。
(あれ以降、手書きの文書を読む際には注意していたはずなのに、よりにもよって三行半をまた読むことになるとは……しかも、がんろうさん宛の物を)
 布団から起き上がり、始発の市電が走り始める音に耳を澄ます。
 上野広小路に面したこの店の二階は、常に外の音が部屋の中まで聞こえてくる。
 それは電車の音であったり、車の音であったり、人の話し声であったりする。そのどれもが人間の日常の音だ。毎日同じ音を耳にしていると耳が慣れてくるのか、市電が線路の上を走る音がうるさく感じられなくなる。
 手書きの文書から聞こえてくる声は日常の声であることもあれば、三行半のように書き手の荒ぶる感情を凝縮したような声の場合もある。
 それらの声を聞いたあとで電車の音を聞くと、ほっとする。
 騒々しい警笛の音さえ、人の営みを感じさせてくれる。
 頭の中によみがえった、三年前に読んだ三行半から聞こえてきた声を脳裏からかき消してくれるほどの賑やかな生活音が聞きたくて、窓を大きく開ける。
 日の出前から鳴き出していたであろう蝉たちの大音量の合唱を全身で浴びるように聞く。
 一階の勝手口に吊ってある風鈴がちりんちりんと鳴っている。
 空はよく晴れており、今日も暑い一日になりそうな気配がした。
「鴈治郎さん、今日は帰ってくるのかな」
 布団を畳みながら典也は家主のことを考えた。
「店を開ける前に、家の中の掃除をした方が良いだろうな」
 暑いからと手を抜いていた掃除だが、鴈治郎が帰ってくるのであればしっかりやらないわけにはいかない。
「朝飯の後に家の中の掃除をして、それから店の外の掃除をして、店を開けることにするか」
 開店までの予定を声に出して自分に言い聞かせる。
 実家にいた頃は掃除の類いを嫌々やっていたが、あれは自分がやらなくてもいいはずのことをやらされていると思っていたからだった。
 いまは、鴈治郎が「そんなにまめに掃除をしなくても良い」と言われても頻繁に掃除をしている。
 理由は単純で、とうがよく家に上がってくるからだ。
「さて、やるか」
 夢の残滓を払い落とすように威勢の良い声を上げると、典也は着替えをして部屋を出た。

 あきどうの開店時間は決まっていない。
 店の正面の戸板を開けて掃除をしていると客が入ってきて、そのまま開店状態になる。
 人通りが多い場所とあって一見の客もそこそこいるが、なじみ客が大半だ。典也と顔見知りの客も多く、典也が店先の掃除をしていると「爺さんは?」と聞かれた。鴈治郎は無愛想だがなじみ客たちからは慕われている。
 朝から三人ばかりの客がやってきて本を何冊か買ってくれた後、店から客の姿がなくなった。
 店が暇になると、典也は店の棚にある本を手に取って読む。店内の本はすべて売り物だが、客から「それが欲しい」と言われた際に客に渡しさえすれば、どの本を読んでも構わないと言われている。
 典也は乱読だ。
 大学で専門分野として勉強している和文学以外の本も読む。
 基本、活字であればなんでも読む。
 新聞、ちらし、商品の取扱説明書、壁の落書きも日本語であればついつい読んでしまう。
 いまはツルゲーネフの『あいびき』を読んでいる。二葉亭四迷が翻訳したものだ。
 先月、久我千代子が歌っていたゴンドラの唄を聞いてから、この歌が使われた劇の元となったツルゲーネフの『その前夜』の翻訳を探したが見つからなかった。大学の図書館にはツルゲーネフの原書が所蔵されていたが、すべてロシア語のため典也はまったく読むことができなかった。
 それでツルゲーネフの他の作品で翻訳されたものがないか探し、二葉亭四迷や生田春月が翻訳したものを読むことにした。
 湿度が高く一日中蝉が鳴き続けている日本では、ロシアの風景はいまいち想像がしづらい。
 手拭いで汗を拭きながら読む本ではないようだ。
「いらっしゃい」
 店に人が入ってくる気配がしたので、典也は本から視線を上げた。
 初めて見る顔の男がきょろきょろと店内を見回しながら奥へと進んでくる。
 年齢は三十歳くらいだろうか。洋装だが、あまり洒落たものではない。
「あの……お爺さんは?」
 典也の前までやってくると、男はおずおずと尋ねた。関西辺りの訛りがある喋り方だった。
「出かけています」
 本に栞を挟むと、典也はじっと相手を見つめた。
 どうやらこの客は春夏冬堂の店主が老人であることを知っているようだ。鴈治郎を訪ねてやってきたのだろうが、それにしてはどことなく人目を気にしているようでおどおどしている。
「いつ頃、帰ってきますか?」
「聞いてないのでわかりかねます」
 典也が答えると、相手はあからさまに落胆した表情になった。
「あの、じゃあ、お爺さんが帰ってきたら電話で知らせてくれますか? これ、僕が泊まっている宿の電話番号です」
 男は背広の内ポケットから手帳を取り出すと、鉛筆でさらさらと宿の名前と電話番号と、男自身の名前らしきものを記して破り取り、典也に差し出した。
「夜遅くでも構いません」
「わかりました。帰ってきたらあなたに電話をするように伝えておきます。あなたのお名前の読み方は――」
「お爺さんからは僕に電話してくれないでしょうから、君がかけてくれますか? これはほんのお礼です」
 男は札入れから百円札を出して帳場台の上に置いた。
「僕の名前はつつみりゅうろうです。宿の人には堤隆太郎に電話を繋いで欲しいと伝えてください。それで取り次いで貰えるはずです」
「堤さん、ですね。あと、礼金は不要です」
 百円札を男に返そうとしたが、相手は電話番号を記した紙片と一緒にそれを典也に握らせた。
「いえ、受け取ってください」
 引き攣った笑みを浮かべて堤隆太郎は強引に押しつける。
(鴈治郎さんには自分の存在を知らせずに、宿に電話をして来いということか?)
 鴈治郎に会いに来たことは間違いないようだが、前もって自分の来訪を知られたくはないのかもしれない。
 鴈治郎とどのような関係かはわからないが、春夏冬堂の客というわけではないようだ。
「このようなものは受け取れません。困ります」
 典也が低い声で告げたときだった。
「おはようございます」
「……どうも」
 涼やかな声で挨拶をする董子と、不機嫌なけいろうが店に入ってきた。
 桂太郎の手にはすいかが一玉あった。
 どうやら、店番をしている典也のために持ってきてくれたようだ。
「あら、お客さんでしたか」
 董子は帳場台の前に立つ堤隆太郎の背中を見て、支払いをしている客だと思ったらしい。
「あぁ、おはよう。董子さ……」
 典也がふたりに挨拶をしようとするのと同時に堤が振り返った。
 堤の顔を見た途端、董子と桂太郎の顔が強張る。
 特に桂太郎は目を吊り上げて堤を睨み付けた。
「あんた、なんでこんなところにいるんだ!?」
 桂太郎が声を荒らげる。
「この人は鴈治郎さんに会いに来たようで……」
 典也が答えるより先に、堤は慌てた様子で走り出す。
「いまさらうちになんの用だよ!」
 桂太郎は堤を睨み付けたが、桂太郎を突き飛ばすようにして堤は脱兎のごとく店から出ていってしまった。
「あの人、迫間さんになにか聞いてきましたか?」
 堤を追って桂太郎が走っていってしまったため、董子は渡されたすいかを帳場台の上に置きながら尋ねた。
「いや……鴈治郎さんはいつ帰ってくるのかとか、帰ってきたら電話をして欲しいとか言って、宿の電話番号を書いた紙切れを渡されたよ」
 典也は自分の手元に視線を落とすと、紙片と一緒に握らされた百円札が目に入った。
 百円で買収されたようで気持ちが良いものではない。
「鴈治郎さんの知り合いのようだけど、董子さんや桂太郎君も知っている人だったんだね」
「――――知っている人です」
 淡々と董子は答えたが、目が据わっている。
「えっと……」
 急に話題を変えるわけにはいかないが、堤の話をするわけにもいかなさそうだと思いながら典也は言葉を詰まらせる。
「あら、落とし物ですね」
 董子は足元に視線を向けると、屈んでなにかを拾い上げた。
「……手紙ですね」
 それは封筒だった。
 切手が貼ってあり、宛先には『堤隆太郎様』と書いてある。住所は岡山県蔵敷町と記されていた。
 どうやら、さきほどの男は本名を名乗ったらしい。
 封筒を手にした董子は、差出人名を確認してわずかに眉をひそめた。
 典也が覗き込むと、封筒の裏には『安芸茅子』と書いてある。
「董子さん、その手紙は……」
かやはわたしの上の姉です」
 董子には姉がふたりいるが、一番目の姉ということらしい。
「堤隆太郎は、姉の元夫です」
 封筒を睨み付けながら董子は説明する。
 切手に押された消印を見ると、大正八年十月九日と記されている。
「いまになって、なんの用なのやら」
 董子はいつになくとげとげしい声で呟きながら、封が開いているのをいいことに中から便箋を取り出す。
 便箋を広げると、『堤隆太郎様』という文字と、『茅子』という文字の間は線だけが書かれていた。
「…………三行半」
 典也が呟くと、董子はちらりと典也に視線を向けてからすぐに便箋を畳んだ。どうやらこの手紙は典也に代読させる気はないらしい。
「姉の茅子は三年前に堤隆太郎と離縁しました」
「あ、あぁ……昨日話していた病気を理由に離縁されたというお姉さんの夫は、さっきの人だったんだ」
「はい」
 董子は手紙の扱いに困る様子を見せたが、そのまま自分の懐にしまった。
 それというのも、桂太郎が汗だくになって戻ってきたからだ。
「ちっ。逃げ足だけは速い奴め」
 舌打ちをしながら悔しげに呟く。
 どうやら堤を追いかけたものの、逃げられたらしい。
「桂太郎さん。迫間さんがあの男の居場所をご存じだそうですよ」
 丁寧な口調の董子だが、その声音は穏やかではない。
「え? そうなのか?」
 普段はほとんど典也に話しかけてこない桂太郎だが、すぐに奥へとやってきた。
「あ、あぁ。鴈治郎さんが戻ってきたら電話をして欲しいと言って泊まっている宿の電話番号を僕に知らせて……」
 百円札の下の紙片を見せようとすると、桂太郎が勢いよく奪い取った。
「ここか。あの様子だと俺たちに居場所を知られたと思ってすぐに別の宿に移るだろうから、ちょっと行ってとっ捕まえてくる」
「捕まえてどうするんですの?」
「決まってるだろ。なんでいまさらつら下げてのこのことやってきたんだって問い詰めるんだよ」
「放っておけば良いじゃないですか。春夏冬堂こっちに来たってことは、うちに顔を出すとお父さんに殴られて、お母さんに斬り殺されるってわかっていて、お祖父さんからならちょっとは姉さんの居場所を聞き出せるかもって思ったんでしょうけど」
「今なら母さん、婆さんの遺品になったなぎなたを振り回してあいつを刺し殺しそうだな」
「するでしょうね。多分、お父さんも今度は止めないでしょうね」
 物騒なきょうだいの会話に、典也は口を挟むことができなかった。
「ま、ちょっと行ってくる」
 紙片に書かれた宿の名前を確認し「ここから近いな」と独りごちながら走って出て行く。
(あの紙の切れ端からほんのすこしだけ声が聞こえたんだが)
 目を凝らして読むことができなかったため、一瞬しか聞こえなかった。
 それでも、堤の走り書きのような宿の名前や電話番号の字間と行間から声が聞こえた。
 あの男がどうにかして鴈治郎と会いたいと本心から願っていることは間違いないようだ。
(どういう事情があるかはわからないし、他人である僕が首を突っ込むことではないことはわかっているけれど、気になるな)
 桂太郎と董子は、堤を姉のかたきのように思っているらしい。
 それは、安芸家が茅子の側に立っているからだ。
 一方的に婚家から離縁を言われたという状況であれば、桂太郎のように姉の元夫を蛇蝎のごとく嫌うのはわからないでもない。
 典也だって、姉が同じような目に遭えば、相手の男を非難したはずだ。
(三年近く前に元妻から送られた三行半を持って、元妻の祖父に会いに来るってのはそれなりに事情があるようではあるけれど)
 離縁を言い出したのは夫側のはずだが、三行半は安芸茅子が堤隆太郎に宛てたものになっていた。
 その存在を董子は知っていた様子だ。
 だから、さきほど封筒から出てきた便箋の文面が三行半でも驚かなかったのだろう。
「このすいか、台所で水に浸けて冷やしておきましょうか」
 堤を見たことなど忘れたような顔で董子はすいかを持ち上げた。
「大叔父が仏前のお供えにすいかを三玉も持って来てくれたので、一玉は店番をしてくれている迫間さんにって父が申しましたの」
「ありがとう。董子さんから先生に、僕がお礼を言っていたと伝えてくれるかな」
 この夏はまだすいかを食べていなかった、と思いながら、典也はひとまず百円札を読んでいた本の間に挟んだ。

【次話に続く…】


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