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「代読屋ははざまを繙く」第四話

懸想文(四)

 月曜日は朝からしとしとと降っていた雨が、夕方になってひとまず止んだ。
 大学の図書館から出たふみは、北側にある法文経教室へ向かうため本と傘を抱えて空模様を気にしながら歩き出した。
 図書館の赤煉瓦の壁が雨に濡れて陰鬱に見える。
 建物の周辺に植えられている木々の枝葉からは、雨の滴がぽつぽつと音を立てて落ちていた。
 教室へ向かって典也が三歩ほど歩いたところで、建物の脇に植えられた木の陰から突然学生服姿の少年が現れて目の前に立ちはだかり、声をかけてきた。
「こんにちは」
 今日は雨模様だが一日中やけに蒸し暑いというのに、その少年は黒い詰め襟の学生服をしっかりと着込み、学生帽を目深にかぶっている。
 学内の学生は学生服姿の者、着物姿の者が半々くらいだが、衣替えを済ませた六月に詰め襟を着ている者はまずいない。
 しかもその少年は身体の線がやけに細く、典也には高校生に見えた。
「代読屋さん、ですよね」
 低い声で少年は典也に尋ねた。
「君、誰?」
 抱えていた本を落とさないように指で掴み直しながら、典也はじっと相手を見つめる。
 身長は五尺くらいだろうか。中学生に見えるくらい小柄だ。
 帽子のつばで陰になっているせいか、顔はよく見えない。
「名乗るほどの者ではありません」
 軽い口調で少年は答えた。
 もう一度相手の顔を凝視した典也は、どこかで見た顔、聞いた声だと記憶を辿る。
 少年の学生帽や詰め襟の学生服には徽章が付いていない。近くの一高生であれば徽章が付いたものを着用しているはずだ、とけいろうの制服姿を思い出しながら考える。となると、この少年は借り物の学生服を着ていることになる。
 よく見てみれば、上着の袖丈や肩の部分はまったく身体に合っていない。今後成長することを見込んで大きめの制服を買うことは珍しくはないが、それにしても肩がかなりずれている。
 まるで体格を隠すために大きめの上着を着ているようだ。
「もしかして……嬢、かな?」
 しばらく相手を観察してから、典也は思いつく名前を声に出してみた。
 途端に、少年はびくっと全身を揺らす。
「――正解だったようだね」
 相手は黙ったままだったが、典也は確信した。
 先日とうが見せてくれた久我千代子の写真の面影が、目の前の少年にはあった。声も、いいひろの手紙から聞こえてきた歌のものに似ている。
「僕が代読屋をしているってこと、なぜ君が知っているのかな」
 どうやら彼女は自分の名前を知らないようだ、と典也は判断した。
 さきほど声をかけてきた際は『代読屋さん』と呼びかけてきた。つまり、彼女ははざ典也という名前を聞いたことがないのだろう。しかし、目の前の男が帝大生で、代読屋をしていることは知っている。
 それはどういうことなのか、と典也はこの状況を考えてみた。
 董子から千代子が代読屋の話を聞いている可能性は低い。
 先日の董子の口ぶりからは、千代子とは腹を割って話せるほど親しい仲ではないようだった。
「あなたが、春夏冬あきない堂の前で董子さんと一緒に喋りながら貼り紙を貼っているところを見かけたんですよ」
 少年は自分が千代子であるとは認めないまま、告げた。
「その後、春夏冬堂を訪ねたときにあなたも董子さんもいなかったので、店主のお爺さんに代読屋とはなにをするものかを聞きました」
「あぁ、そういえばがんろうさんが代読屋について聞いてきたお客さんがいたって言っていたな。でも、女学生とは言っていなかったよ」
「わたしはこういう格好で出歩くことが多いんです」
「男装が趣味ってことかな」
「別に常に男装しているわけじゃありません。帝大内ここは学生服を着てる方が目立たないから、いまはこういう格好をしているだけです」
 東京帝国大学は女子の学生はいない。聴講生であれば女子も受け入れているが、数は少ない。なので当然、学内を女子が歩いていればかなり悪目立ちする。
「君は病気で女学校を休んでいて、近々退学するらしいという話を聞いたけれど――」
「父からしたら、わたしは不治の病にかかっているみたいなものなのであながち間違ってはいません」
 くすっと笑った千代子は、少し高めの声で返事をした。どうやらこれが彼女の素の声のようだ。
「学校はもともと辞めるつもりだったので、退学の理由を父が適当に病気療養としようが、家庭の事情としようが構いません」
「君の友人たちはとても心配しているようだよ。あと……文通相手も」
 典也は声を潜めて飯尾大志の存在を匂わせたが、千代子の表情は変わらなかった。
「友人たちには心配をかけて申し訳なく思っています。でも、そのうち皆わたしのことはそれほど気にしなくなるでしょうね。誰だって、いつまでも他人の心配ばかりしている場合ではなくなりますからね」
 人に心配されることを嫌がるように、千代子は告げた。
「元気そうなら、ひとまず安心した」
「代読屋さんも心配してくれていたんですか? へぇ……」
 千代子は目を細めて典也を見つめる。
「董子さんが心配していたからね」
「それは嬉しいですね」
 口の端を軽く上げて千代子が微笑む。
「君はいま、どこでなにをしているのか聞いてもいいかな?」
「別に、構いませんよ。犯罪に手を染めているわけではないので、隠すほどのことではないです。いまのわたしは劇団に所属していて、座長の家でお世話になっているんです」
「……劇団?」
 予想外の答えに、典也は首を傾げる。
「わたし、俳優になりたいんです。女役だけではなく、男役もできる俳優に。だからこうやって男の格好をすることもあれば、女の格好をすることもあります。老婆になったり、中年の男になったりもします」
「まるで変装だね」
「そうですね。ほぼ変装です。でも、案外こういう格好をしていると誰にも気づかれないものなんです。いまは、代読屋さんに気づいて欲しくて演じるのを止めていますけどね」
 千代子が演じていれば彼女であることに気づかないものだろうか、と典也は相手を凝視した。
 注意して見れば少女であることはわかるが、意識しなければ間違い探しのようになかなか性別の区別さえできなさそうだ。
「両親はわたしが俳優になることを反対しているんです。父はわたしがどうしても俳優になるって言うなら勘当だって言うので、勘当してもらって家を出てきたんです。でも、父はわたしが俳優になるために家を出たなんて世間体が悪いことを学校に言うわけにはいかないので、病気ってことにするんでしょうね」
 別段気にする様子はなく、千代子は朗らかに言った。
 それが彼女の本心なのかどうかは、典也には見抜けなかった。十代半ばの少女がなにを考えているかなど、女心に疎い自覚がある彼が読み解けるわけがない。しかも相手は『俳優』を目指しているのだ。いまの千代子が素なのか演じているのかどうかすら、わからないのだ。
「代読屋さんって、文章の意図が読めない人の代わりに読み解いてくれるんですよね?」
「実際はちょっと違うけれど、春夏冬堂ではそう聞いたのかな」
 鴈治郎には代読屋がどのようなものかをつまびらかにはしていないので、千代子には誤解されるような説明がされたようだ。だからといって、実際にどのような代読をするか正確に説明することはせず、典也は曖昧に答えた。
「違うんですか? じゃあ、なにを代わりに読んでくれるんですか?」
「君は、なにか僕に代読して欲しい物があるということかな」
 春夏冬堂で代読屋の貼り紙を董子と典也が貼っているところを見たのであれば、女学校で董子に会った際に尋ねれば良かったのだ。貼り紙を貼ったのは千代子が学校を休むようになる前だったから、訊く機会はいくらでもあったはずだ。
 なのに、わざわざ春夏冬堂を訪ねて鴈治郎に尋ねたということは、董子には知られたくなかったと推察できる。
 今日だって学生の変装をして帝大に潜入するという真似をして典也に声をかけてきたのだ。春夏冬堂の前で待っていれば典也がいずれ帰ってくることがわかりそうなものなのに、この広い帝大構内で典也を探していたということは、董子に自分の姿を見られたくなかったと考えることができる。
「代読して、があるんです」
「代読して?」
「そうです。それはそのうち、董子さんの手元に届きます。もしそれを董子さんがあなたに見せても、代読はしないでください」
「董子さん宛ての物だけ? 申し訳ないが、僕は君が飯尾君に送った手紙を読ませて貰っているんだが――」
「あぁ。あれは別に誰に読まれても構わない内容ですから、代読屋さんが読んだって別に恥ずかしくもなんともありません」
 千代子は本当に気にしていない様子で答える、
 その態度から、彼女は自分が書いた手紙から典也が『ゴンドラの唄』を歌う千代子の声を聞き取る可能性など微塵も考えていないことがわかった。
 それどころか、多分彼女は自分が手紙を書きながら歌を口ずさんでいたことすら忘れているのだろう。意識せずに歌っていたのであれば、そもそも自分の歌声が手紙に記されていることなど本人が覚えているわけがないし、手紙から文字として書かれていない声を典也が聞き取っているなど知るはずもないのだ。
「飯尾さんは、わたしが書いた手紙を代読屋さんに見せたんですね」
「行方知れずになった君のことをとても心配していたよ。それで、君が最後に送った手紙からなにか手がかりが得られればと考えたようだね。手紙を僕に見せるように助言したのは、董子さんのようだけれど」
「ふうん。それで、代読屋さんはあの手紙を読んでなにか手がかりが得られましたか? わたしがいま、こうやってあなたの目の前に現れることを、予想できましたか?」
「いや、まったく」
 降参するように典也が答えた。
「ただ、君はあの手紙を飯尾君に宛てて書いていたわけではないという風に読んだよ」
「……え?」
 一瞬、千代子の顔が強張った。
 それはまるで、舞台上で台詞を忘れて演技が止まったような表情だった。
「さきほど君は、あの手紙は誰に読まれても構わない内容だと言ったね。それはつまり、飯尾君以外の誰かが読む可能性があることを想定していたということだよね。君の手紙は、董子さんの手に渡り、そこから董子さんの兄に渡り、最後は飯尾君へ届けられる。董子さんとその兄は、飯尾君宛ての手紙を勝手に読むような人ではないけれど、もしかしたら手紙の内容を見られることもあると考えていたんじゃないかな。飯尾君の手紙は最初の頃は安芸兄妹による検閲があったようで、内容に問題が有りと判断されると君に渡す前に破棄することも止むなしと安芸兄妹の間で暗黙の了解があったようだしね」
「……なにが言いたいんですか」
「君は、本当はあの手紙を董子さんに読んで欲しかったんじゃないかな? 内容は極々普通の日常について記しただけのものだったけれど、君がどこでどんな催し物を見たとか、どんな本を読んだとか、どんなことに興味があるかとか、そういったことを相手に伝えようとしていることが文面からは読み取れる。僕はあの手紙を読んで、まるで交換日記のような内容だと思った」
「わたしと彼との文通が交換日記のようなものだったとは考えないんですか?」
「君が、飯尾君と恋人の真似事をするために文通をするなら、あんな差し障りのない日常の記録で終わらせなかったんじゃないかなって思ったんだ。董子さんの兄は、君が飯尾君をもてあそんだって言ってたけど、それにしては手紙の内容がおとなしいと感じたよ」
「おとなしい?」
 千代子は眉をひそめて首を傾げた。
「君が飯尾君と恋人ごっこを楽しむなら、手紙にはもっと恋文らしい内容を書いても良かったんじゃないかな。例えば、彼のどんなところが好きだとか、会いたいとか、そういう飯尾君を惑わすような言葉を連ねても良かったと思うんだ。でも、君はそんな言葉は一切書かなかった。なぜかな?」
「そんな心にもないことは書きませんよ」
「心にもないこと、か」
「董子さんのお兄さんがおっしゃったんですよね? わたしが飯尾さんを弄んでるって。それはある意味、合っています。わたしは別に、飯尾さんのことをなんとも思っていません。好きとか嫌いとかではなく、彼にまったく興味がないんです」
「興味がない、か。それはなかなか残酷だね」
「ちょっと殿方とお付き合いをしてみたかっただけなんです。俳優になって舞台で様々な役を演じる際に殿方と恋をする役を演じることもあるでしょうから、経験しておきたかっただけです。それ以上でもそれ以下でもありません。それが飯尾さんを弄んだことになるのであれば、そう言われても仕方ないことだと思います」
 一気に千代子はまくし立てた。
 それはまるで、典也に話をさせないためのような勢いだった。
「君が自分の経験を増やすためだけに飯尾君と交際してみたという話を、僕は非難するつもりはないよ。男女交際をする際の理由なんて、人それぞれだ。純粋な恋愛感情だけで交際する人なんて一握りだろう。打算で交際相手を選ぶ人なんてたくさんいるはずだし、別にそれが悪いことだなんて僕は思っていない」
 飯尾大志に『愛している』だの『結婚して欲しい』だのと嘘をつかなかった千代子はそれなりに誠実だ、と典也は思った。
 桂太郎は、恋愛感情がないのであれば交際するべきではないと考えていたようだが、一目惚れでない限りは出会って交際を決めた瞬間に恋愛感情が生まれるものではない。
 それに、千代子は自分がひのえうまの生まれであることを最初から飯尾に明かしている。それはつまり、もし交際が順調に進んだとしても、結婚に至ることは困難であることを伝えているのと同様だ。当人たちは丙午生まれの女が夫を殺すという迷信をただの世迷い言として一蹴できたとしても、両親や祖父母の世代は違う。千代子の実家が裕福だから持参金が多く望めるとしても、ふたりの結婚を周囲は簡単には許さないだろう。
 ふたりが「結婚を許してくれないのであれば駆け落ちする」とでも言わなければ、なかなか結婚の許しは出ないだろう。それどころか、駆け落ちをすると親を脅してみても許して貰える可能性は低い。
 なにしろ千代子と結婚した場合、飯尾大志は千代子に殺されてしまうかもしれないのだ。
「君の座右の銘は『ゴンドラの唄』だそうだね?」
「それも、董子さんから聞いたんですか? 彼女、いろいろと話してしまっているんですね」
 苦笑いを浮かべながら千代子はため息をついた。
「わたしは『ゴンドラの唄』の『恋せよ乙女』って歌詞が気に入っているんです。それで、座右の銘を『恋はすれども結婚はせず』にしているんですよ」
「『恋はすれども結婚はせず』かい?」
 意味深な表情で告げた千代子を、典也は凝視する。
「わたしは丙午の生まれですから、結婚向きじゃないんです。でも、丙午の女が恋愛をしたって誰かに迷惑を掛けるわけじゃないですよね? 誰かを好きになって、話をしたいって思ったり、交際したいって思ったり、文通をしたいって思ったりすることを咎める人なんていませんよね?」
「いないだろうね」
 典也は軽く頷いた。
 迷信は、若者の心を縛り付けることまではできない。
「君が飯尾君と文通をすることにしたのは、本当に俳優として君自身の経験を広げるためだけに恋という経験をしてみようとしたからなのかい?」
 典也が指摘すると、千代子はわざと男子学生のようにふんっと鼻を鳴らした。
「君と飯尾君の文通は、なぜか安芸兄妹が仲介している。人の手を介すると面倒だし、日数もかかる。君も飯尾君も小遣いはそれなりに貰っているだろうから、切手代なんていくらでも出せるだろう? それに、君が使っている封筒や便箋はそこそこ値が張る物だった。君の実家に差出人が男の名前の郵便物が届いた場合に、君の父親が娘の男女交際に激昂するほど厳格な家なのかとも考えたが、手紙の中で君が家族と出かけた話を読む限りではそうでもなさそうに思える」
「……なにが言いたいんですか?」
「たいして親しくもなかった董子さんに声を掛けて、安芸家に遊びに行ったそうだね。そこで飯尾君と出会って交際を始めたそうだけれど、飯尾君とは安芸家で一度会ったきりで、それ以降君と飯尾君は顔を合わせていない。冬休みや春休みや日曜日を利用すれば、もしくは土曜日の午後の放課後に逢い引きすることだってできないわけではないのに、君たちは再度会おうとはしていない。どちらかと言うと、董子さんの方が飯尾君とじかに合っている回数は多いくらいだ」
「そうですか」
 淡々と千代子は呟いた。
「君は、実は董子さんと仲良くなりたかっただけなのでは?」
 そうであれば千代子の行動に説明が付く、と典也は考えた。
 裕福な家の娘である千代子であれば、わざわざ董子の家を訪ねて董子の兄の友人である高校生を紹介して貰わなくても、異性と知り合う社交場に顔を出すことはできたはずだ。父親は家族で様々な場所に出かけていたようだし、千代子が手紙に記していた場所以外の華やかな集まりにも参加していたと考えるのが妥当だろう。
 手紙の中で千代子が書いていた日常は、手紙の読み手に合わせたものだ。
 上野の博覧会であれば手紙の読み手が行くかもしれないし行ったかもしれない。読んだ本の話は、読書好きの読み手から薦められた本か、もしくは自分が薦めたいと思った本かもしれない。
「君の手紙には、君が読んだ本の話が書かれていた。でも、飯尾君は文学が苦手だと言っていた。これまでのところほとんど読書もしていないようだった。そのことは彼と最初に話をしたときに聞いた、もしくは文通をする中で彼が書いたんじゃないかな?」
「最初に会った日に聞きましたよ。得意な教科は数学で、苦手な教科は国語だって。特に、小説を読むのが苦手なんだそうです。論文はまだなんとか読めるけれど、物語だと様々な解釈ができるような記述になっているから、どう読んだら良いかわからないって言っていました。でも、相手が読書が苦手でも、わたしが読んだ本の感想を手紙に書いたって良いじゃないですか。もしかしたら、手紙をきっかけにして、わたしが読んだ本を彼が読んでみようって思うかもしれないじゃないですか」
「そうだね。でも君が最初に本の話をしたいと思った相手は、飯尾君ではないんじゃないかな?」
 典也が確信を持って尋ねると、千代子は帽子の陰で顔を歪めた。その表情が、明確な答えになっていた。
 ぽつり、と鉛色の雲から雨粒が落ちてきた。
「あぁ、また降ってきてしまいましたね」
 ぱっと顔を上げた千代子の表情は、最初に声を掛けてきた男子学生のものに戻っていた。
「飯尾さんにはわたしから手紙を送っておきます。今回は、直接彼宛てに郵便で送ります。お別れの手紙を董子さんにお願いするのは忍びないですからね」
 くるりと典也に背中を向けた千代子は、一歩進みかけて立ち止まった。
「わたしは今後、座付きの俳優として生きていきます。まもなく劇団は地方公演に出発するので、わたしも東京を離れます。だから今後飯尾さんと関わることはないはずです。わたしが俳優になったことは、黙っていてください。いずれどこからかわたしのことは学校の皆が知ることになるでしょうが……」
「わかった。言わない」
 典也は約束した。
「あと、董子さん宛ての手紙を読まないという約束も必ず守ってください。あなたは代読屋を名乗るだけあって随分と……独自の解釈に長けた方のようだから」
 それだけ告げると、学生服姿の少年は走り出した。
「あ……傘を……」
 自分が持っていた傘を典也が差し出したときには、少年は雨に煙る木立の間に消えてしまっていた。
 仕方なく典也は傘を開くと教室がある建物へと向かう。
 千代子は明確な返事は避けて、自分が言いたいことだけ言って姿を消してしまった。
「困ったな」
 教室の建物の軒先に入ると、傘を畳みながら典也はぼやいた。
 恋はすれども結婚はせず、と千代子は言っていた。
 それは、自分が丙午生まれの女で結婚が困難だから結婚はしない、という意味ではないと典也は解釈した。
 はなから結婚できない相手と恋をしているのだ。
 結婚できない相手、と言って真っ先に思い浮かぶのは既婚者、もしくはすでに鬼籍の者だが――。
「彼女の恋する相手が飯尾君ではないというだけで、恋をしていないわけではないということなんだろうね」
 まさか千代子が自ら姿を見せるとは予想外だったこともあり、ここ数日の間に自分で考えていたことを上手く相手に尋ねることができなかったと反省する。
 そもそも、文章を読み書きすることは得意だが、自分で喋るとなると途端に言葉選びに苦慮するようになり口下手になるのだ。
「これはもう僕の頭の中で整理できなくて董子さんに説明のしようがなさそうだから、言わないよ」
 すでに雨の帳の向こう側に姿を消した千代子に向かって、典也はそっと呟く。
 激しく降り出した雨音が、彼の声をかき消した。

【次話に続く…】


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