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【小説】寄り道のできない世界で

〜あらすじ〜
パンデミックを経験した近未来。  
感染症対策AI〈NEXT〉は、人々の健康、移動、進路、感情までも予測・最適化し、社会に“安全”と“正しさ”をもたらしていた。

検疫官としてNEXT運用に関わる水島優子は、女子高生の娘・真理亜と暮らしている。だが、通知や推奨に支配された日常の中で、人々は少しずつ他者との距離を失い、“自分で選ぶ感覚”を手放し始めていた。

誰も悪くない。すべては善意で、社会は確かに安定している。だからこそ息苦しい――。

母と娘のすれ違いを通して描く、静かで現実的な近未来ディストピアSF。

# THE NEXT

## 第1話「寄港」

 朝だった。

 テレビでは、
情報番組の明るい音楽が流れている。

『今週オープン予定!
話題の新アトラクションを体験してきましたー!』

 派手な映像。

 歓声。

 スタジオの笑い声。

「うわ、
行きたい」

 真理亜が、
食パンを咥えたまま言う。

「あなた今年、
受験でしょう」

 水島優子は、
トーストを皿へ乗せながら答えた。

「でも一日くらい」

「一日が、
どんどん増えるの」

 真理亜は、
少しだけ不満そうな顔をする。

「分かってるって」

 優子は、
ブラックコーヒーへ口をつけた。

 窓の外では、
通勤中の車が静かに流れている。

 テレビでは、
占いコーナーが始まっていた。

『今日のラッキーアイテムは、
キーホルダーです!』

 明るい声。

 軽快な音楽。

 真理亜が、
ぼんやり画面を見る。

「まだこういうの、
信じてる人いるのかな」

「AI予測よりは
当たらないんじゃない?」

 優子は、
コーヒーを置きながら言った。

 その時。

 画面下へ、
赤い速報テロップが流れる。

【横浜港へ寄港した大型客船にて、
未知のウイルス感染疑い】

 優子の視線が止まる。

 スタジオの空気が、
少しだけ変わった。

『現在、
複数の乗客に発熱症状が——』

 最後まで読む前に、
スマホが震えた。

 テーブルの上。

 LINE通知。

《緊急招集》

《横浜港第三区画へ直行願います》

《検疫レベル暫定4》

《AI予測モデル更新開始》

 優子は、
数秒だけ画面を見る。

 真理亜が顔を上げる。

「仕事?」

 優子は、
小さく息を吐く。

「……ごめん」

 真理亜は、
慣れた顔で笑った。

「別にいいよ」

 その言い方が。

 少しだけ、
優子の胸に刺さった。

 横浜港は、
静まり返っていた。

 灰色の海。

 曇った空。

 巨大な白い客船だけが、
異様な存在感で停泊している。

 防護服姿の職員達が、
無言で動き回っている。

 優子は、
規制ラインをくぐった。

「水島主任」

 男性職員が駆け寄る。

「状況は」

「発熱者二十三名。
うち三名が重症化しています」

「感染経路は」

「不明です」

 優子は、
船を見上げた。

 静かだった。

 静かすぎた。

 数年前。

 世界を止めたパンデミックの時も、
最初はこんな空気だった気がする。

「AI解析は?」

「既に開始されています」

 職員が、
タブレットを差し出す。

 画面中央。

【NEXT】

 優子の目が止まる。

「……NEXT?」

「仮称です」

 職員が答える。

「前回のパンデミック以降、
最初の大規模変異なので」

 “次”。

 そんな意味だった。

 優子は、
無言でタブレットを見る。

 症状一覧。

 感染速度。

 推定変異率。

 画面下では、
AI解析ログが高速で流れていた。

【予測モデル更新】

【変異パターン照合】

【ワクチン生成開始】

 優子は、
小さく眉を寄せる。

「早いわね……」

「はい。
過去最速です」

 職員は、
少しだけ安心したように笑った。

「今回は、
間に合うかもしれません」

 優子は、
船を見る。

 巨大な白い客船。

 閉ざされた窓。

 静かな海。

 遠くで、
カモメの鳴き声だけが聞こえていた。

 その時。

 船内の窓際に、
誰かが立っているのが見えた。

 マスク越しでも分かる。

 少女だった。

 真理亜と、
同じくらいの年齢に見える。

 少女は、
ぼんやりこちらを見下ろしていた。

 優子は、
数秒だけ動けなかった。

 やがて。

 船内放送が、
静かに響き始める。

『乗客の皆様へ——』

 その音を聞きながら。

 優子は、
なぜか無人の空港を思い出していた。


# THE NEXT

## 第2話「予測」

 誰もいない空港だった。

 広いロビー。

 静かな照明。

 足音だけが響いている。

 チェックインカウンターには、
人がいなかった。

 画面表示だけが、
静かに点灯している。

【顔認証を確認しました】

【搭乗ゲートを更新しました】

 優子は、
キャリーケースを引きながら歩く。

 マスク姿の人々。

 だが。

 誰も喋っていない。

 遠くで、
機械音声だけが流れていた。

『一定距離の確保に
ご協力ください』

 あの頃。

 世界は、
静かに止まり始めていた。

 優子は、
立ち止まる。

 窓の外。

 滑走路には、
ほとんど飛行機がなかった。

 灰色の空だけが広がっている。

 その時。

 後ろを、
家族連れが通り過ぎた。

 小さな子供。

 マスク。

 透明なフェイスシールド。

 父親は、
無言でスマホ画面を見ている。

【推奨移動ルートを更新しました】

 機械音声。

 誘導表示。

 誰も逆らわない。

 誰も文句を言わない。

 優子は、
ぼんやりその光景を見つめる。

 静かだった。

 異常なほど。

 だが。

 皆、
“正しく”行動していた。

 だから。

 誰も、
間違っていない気がした。

 優子は、
そこで目を覚ました。

 薄暗い仮眠室。

 空調音。

 小さな照明。

 時計は、
午前四時を回っていた。

 数秒。

 自分がどこにいるのか、
分からなかった。

 やがて。

 横浜港だった事を思い出す。

 優子は、
小さく息を吐いた。

 仮眠室の外では、
慌ただしい足音が聞こえている。

 廊下へ出る。

 職員達が、
無言で行き交っていた。

「水島主任」

 若い女性職員が、
タブレットを抱えながら近づく。

「AI予測、
更新されました」

 優子は、
画面を見る。

【感染拡大予測区域 更新】

【首都圏接触率 低下傾向】

【推奨行動制限レベル2】

 優子は、
少しだけ眉を上げる。

「早いわね」

「はい。
昨夜の段階で、
かなり先まで予測できてます」

 女性職員は、
少し安心したように笑った。

「今回は、
前回ほど広がらないかもしれません」

 優子は、
黙ったまま画面を見る。

 予測マップ。

 移動制限。

 感染ルート。

 全部。

 AIが、
先回りしていた。

 港の大型モニターでは、
既に新しい行動指針が流れている。

【混雑区域への移動を控えてください】

【公共交通機関利用時は、
推奨車両をご利用ください】

 人々は、
それを当然のように見ていた。

 数年前なら。

 ここまで管理されれば、
反発もあったはずだった。

 だが今は。

 違う。

 便利。

 安全。

 最適。

 その言葉だけで、
多くの人は納得した。

 夜。

 優子は、
久しぶりに家へ戻っていた。

 リビングでは、
真理亜がソファへ寝転がっている。

 スマホ画面の光が、
暗い部屋を照らしていた。

「今日、
学校大丈夫だった?」

「うん」

 真理亜は、
画面を見たまま答える。

「接触通知アプリ入れてるし」

 優子は、
少しだけ安心したように頷く。

「そう」

「ママ達の時より、
今の方が全然楽だよ」

 真理亜は、
軽い調子で続けた。

「AIが先に警告してくれるし」

 優子は、
キッチンでコーヒーを淹れる。

 静かな音。

 湯気。

 真理亜が、
ふと顔を上げた。

「ねぇ」

「ん?」

「本当に、
また流行ると思う?」

 優子は、
少しだけ考えた。

 港。

 客船。

 NEXT。

 静かな海。

「……まだ、
分からない」

 コーヒーを注ぐ。

 黒い液体から、
静かに湯気が上がっていた。

 その時。

 真理亜のスマホが光る。

【AI健康予測通知】

【本日の感染リスク:低】

 真理亜は、
何気なく画面を閉じた。

「ほら」

 少し笑う。

「大丈夫だって」

 優子は、
返事をしなかった。

 窓の外では、
静かな雨が降り始めていた。


# THE NEXT

## 第3話「距離感」

 真理亜は、
洗面所の鏡を見つめていた。

 寝癖。

 少し眠そうな顔。

 スマホ画面には、
AI健康管理アプリが表示されている。

【体温:36.4】

【本日の健康状態:良好】

 真理亜は、
小さく欠伸をした。

「よし」

 リビングでは、
優子がコーヒーを淹れている。

「ちゃんと測った?」

「測ったよ」

 真理亜は、
制服の袖を通しながら答えた。

「今日は低リスクだって」

 優子は、
少しだけ安心したように頷く。

「そう」

 テレビでは、
朝のニュースが流れている。

『NEXTの感染者数は——』

『政府AIは、
来週中の収束傾向を予測——』

 真理亜は、
食パンを咥えたまま玄関へ向かった。

「行ってきます」

「寄り道しないのよ」

「分かってるって」

 ドアが閉まる。

 静かな朝だった。

 学校では、
昇降口前に細い列ができていた。

 生徒達が、
一人ずつ校内へ入っていく。

 入口横には、
小型センサーが設置されていた。

 白いランプ。

 小さなモニター。

 誰も、
それを気にしていない。

 もう日常だった。

 真理亜も、
列へ並ぶ。

 前の生徒が通過する。

【認証完了】

 静かな機械音声。

 次。

【認証完了】

 また次。

 真理亜の番だった。

 センサー前を通る。

 数秒。

「……あ」

 小さな電子音。

 ピコン。

 静かな音だった。

 だが。

 周囲の視線が、
一瞬だけ止まる。

 真理亜は、
モニターを見る。

【再測定してください】

「え?」

 後ろへ並んでいた女子生徒達が、
ほんの少しだけ距離を空けた。

 先生が、
困ったように笑う。

「ごめんね。
念のためだけだから」

 真理亜は、
小さく頷いた。

「……はい」

 再測定。

 額へ小型センサーが向けられる。

 数秒。

【体温:37.0】

 微妙だった。

 先生は、
少しだけ困った顔をする。

「保健室、
行こうか」

「え、
でも……」

「大丈夫。
確認だけだから」

 誰も、
責めていなかった。

 誰も、
怒っていない。

 だが。

 空気だけが、
少し変わっていた。

 保健室は静かだった。

 白いカーテン。

 消毒液の匂い。

 窓の外では、
授業開始のチャイムが鳴っている。

 真理亜は、
椅子へ座ったまま窓を見る。

 スマホが震えた。

【AI健康予測通知】

【感染リスク:中】

 真理亜は、
小さく眉を寄せる。

「……中?」

 保健教師が、
タブレットを見ながら言う。

「昨日、
高リスク区域通った?」

「いや……」

 真理亜は、
少し考える。

 帰り道。

 コンビニ。

 駅前。

 分からなかった。

「最近、
精度かなり高いからね」

 保健教師は、
安心させるように笑った。

「早めに分かる方が、
安全だし」

 真理亜は、
小さく頷く。

 正しい。

 言ってる事は、
正しかった。

 その時。

 保健室の外を、
数人の生徒が通り過ぎる。

「誰?」

「二年の水島じゃない?」

「マジ?」

 小さな声。

 笑い声ではない。

 悪口でもない。

 ただ。

 少しだけ、
距離のある声だった。

 真理亜は、
窓の外を見る。

 校庭では、
生徒達が普通に笑っていた。

 風が吹く。

 静かな昼前だった。

 夜。

 優子は、
リビングで通知画面を見ていた。

【接触予測モデル 更新】

【推奨行動制限:継続】

 コーヒーの湯気が、
静かに揺れている。

 その時。

 真理亜が、
ソファへ寝転がったまま言った。

「ねぇ」

「ん?」

「今日さ」

 少し間。

「なんか、
自分が悪い事したみたいだった」

 優子は、
画面から目を離した。

 真理亜は、
天井を見たまま続ける。

「別に誰も、
何も言ってないんだけどね」

 静かな声だった。

 優子は、
しばらく何も言わなかった。

 やがて。

「……仕方ないのよ」

 小さく言う。

「皆、
怖いから」

 真理亜は、
返事をしなかった。


# THE NEXT

## 第4話「最適」

 解析室には、
静かな機械音だけが流れていた。

 大型モニターには、
都市予測マップが表示されている。

 人流。

 接触率。

 感染予測。

 色分けされた光点が、
ゆっくり画面上を動いていた。

 水島優子は、
コーヒーを片手にそれを見つめる。

「かなり精度上がってるみたいね」

 隣で、
若い男性職員が頷いた。

「前回のパンデミックがありますし」

 タブレットを操作する。

「AIは、
今も学習してますからね」

 画面が切り替わる。

【NEXT 感染予測モデル Ver.48】

【接触誤差率:0.02%】

 優子は、
小さく息を吐いた。

「凄い時代になったな……」

「昔は、
感染してから対応でしたからね」

 男性職員は、
少し笑う。

「今は、
広がる前に動けます」

 モニターには、
推奨行動制限区域が表示されていた。

 混雑回避。

 推奨通勤時間。

 接触危険区域。

モニターの中では、
 今日も、
 人々の一日が静かに整理されていた。

 昼休み。

 真理亜は、
教室の窓際で弁当を広げていた。

 周囲では、
友人達がスマホを見ながら話している。

「今日、
駅前リスク高いらしいよ」

「マジ?」

「AI通知来た」

 別の女子生徒が、
苦笑する。

「最近、
精度高すぎない?」

「逆に助かるけどね」

 真理亜は、
黙ったまま卵焼きを口へ運ぶ。

 窓の外では、
運動部の声が響いていた。

 その時。

 教室後方で、
小さな咳が聞こえた。

 一瞬。

 空気が止まる。

 誰も、
何も言わない。

 だが。

 数人が、
ほんの少しだけ椅子を引いた。

 咳をした男子生徒が、
気まずそうに笑う。

「ごめん」

「別にいいって」

 友人が、
すぐ笑って返す。

 空気は、
すぐ元へ戻った。

 何事もなかったように、
会話が再開される。

 真理亜は、
その光景をぼんやり見ていた。

 夜。

 優子は、
駅のホームへ立っていた。

 以前より、
人は少ない。

 だが。

 皆、
静かに整列している。

 天井モニターでは、
AI誘導表示が流れていた。

【推奨乗車位置 更新】

【高接触率車両 回避済】

 人々は、
それを当然のように見ている。

 誰も、
文句を言わない。

 その時。

 優子のスマホが震えた。

《真理亜》

『今日、
クラスの男子が咳しただけで、
ちょっと空気止まった』

 少し間を空けて、
もう一件届く。

『なんか、
皆ピリピリしてる』

 優子は、
ホームの向こうを見る。

 整列した人々。

 静かな駅。

 規則正しく流れるアナウンス。

 全部。

 正しかった。

 だからこそ。

 どこか、
息苦しく見えた。

 電車が、
静かにホームへ滑り込んできた。


# THE NEXT

## 第5話「通知」

 朝の電車は、
以前より静かだった。

 吊革を掴んだ人々は、
ほとんど喋らない。

 皆、
同じ方向を向いている。

 スマホだった。

 ニュース。

 感染予測。

 AI通知。

 無言のまま、
画面を見つめている。

 真理亜も、
ドア横へ寄りかかりながら、
スマホを見ていた。

【本日の推奨移動ルート 更新】

【高接触区域を回避しました】

 画面を閉じる。

 窓の外では、
灰色の街並みが流れていた。

 学校へ着く。

 昇降口。

 センサー。

 認証音。

 全部、
もう慣れ始めていた。

 真理亜は、
自分でもそれが少し嫌だった。

 教室へ入る。

 友人達が、
机を寄せて話していた。

「昨日さー」

「マジで?」

 普通の会話。

 普通の朝。

 その時。

 数人のスマホが、
同時に震えた。

 空気が少し止まる。

「……え?」

 一人の女子生徒が、
画面を見る。

 真理亜も、
自分のスマホを見た。

【接触可能性通知】

【同時間帯に、
中リスク対象者との接触履歴を確認しました】

 数秒。

 誰も喋らない。

「誰?」

 小さな声。

「分かんない」

「昨日、
駅前いた?」

 空気が、
少しだけ変わる。

 先生が入ってきた。

 だが。

 いつもより、
教室が静かだった。

 昼休み。

 真理亜は、
窓際で一人弁当を開いていた。

 校庭では、
サッカー部が走っている。

 笑い声。

 笛の音。

 平和な昼だった。

 その時。

「隣、
いい?」

 顔を上げる。

 同じクラスの、
香奈だった。

「……うん」

 香奈は、
少し笑いながら座る。

「なんか今日、
皆ピリピリしてるよね」

 真理亜は、
卵焼きを見つめたまま頷く。

「まぁね」

 香奈は、
小さく息を吐く。

「でもさ」

 少し間。

「実際、
誰が悪いとかじゃないじゃん」

 真理亜は、
少しだけ顔を上げた。

 香奈は、
ストローを弄びながら続ける。

「なのに、
通知来るだけで、
空気変わるの嫌だなって」

 風が吹く。

 校庭の歓声が、
少しだけ遠く聞こえた。

 夜。

 優子は、
解析室でモニターを見つめていた。

【NEXT 接触予測モデル 更新】

【推奨制限区域 修正完了】

 隣では、
若い職員達が作業を続けている。

「今のところ、
かなり抑え込めてます」

 男性職員が、
少し安心したように言った。

「AI予測、
ほぼ当たってますし」

 優子は、
小さく頷く。

 実際。

 感染拡大は、
予測範囲内だった。

 都市制御。

 接触回避。

 行動予測。

 全部、
機能している。

 その時。

 優子のスマホが震えた。

《真理亜》

『今日、
接触通知きた』

 優子の指が止まる。

 続けて、
メッセージが届く。

『なんか、
通知ってだけで疲れるね』

 優子は、
しばらく画面を見つめる。

 解析室では、
静かな機械音が流れていた。

 モニターの光。

 更新され続ける予測モデル。

 全部。

 人を守るためのものだった。

 なのに。

 優子は、
小さく息を吐く。

 画面の向こうで。

 真理亜が、
少しずつ疲れていく気がした。


# THE NEXT

## 第6話「最適化」

 教室は静かだった。

 窓際では、
春の風がカーテンを揺らしている。

 だが。

 生徒達の視線は、
黒板ではなくモニターへ向いていた。

【進路最適化支援システム
 本日より運用開始】

 担任教師が、
少し嬉しそうに言う。

「もう使ってる学校も多いけど、
うちは今年から導入ね」

 画面が切り替わる。

【学力】

【適性】

【性格傾向】

【社会需要予測】

【感染リスク耐性】

 真理亜は、
少しだけ眉を寄せた。

「……感染リスク耐性?」

 周囲では、
既に盛り上がっていた。

「うわ、
すご」

「AIが大学決めてくれるって事?」

「逆に楽じゃん」

 教師が苦笑する。

「決めるわけじゃないわよ」

 タブレットを操作する。

「“最適な選択肢を提案する”
だけ」

 その言い方に。

 真理亜は、
少しだけ引っかかった。

 昼休み。

 香奈が、
スマホを見ながら笑っていた。

「見てこれ」

 画面を向ける。

【推奨進路:
 地域医療支援分野】

「めっちゃ医療系
勧められるんだけど」

「へぇ」

「真理亜は?」

 真理亜は、
少しだけ迷ってから画面を開く。

【推奨進路:
 感染予測解析分野】

 数秒。

「……うわ」

 香奈が、
少し引いた顔で笑う。

「なんかもう、
将来決められてる感あるね」

 真理亜は、
画面を閉じる。

「別に、
やりたいわけじゃないんだけど」

「でも向いてるって事でしょ?」

 香奈は、
軽い調子で言った。

「AIってその辺、
結構当たるらしいし」

 窓の外では、
運動部の声が響いている。

 校庭。

 春の陽射し。

 平和な昼休みだった。

 その時。

 教室後方で、
男子生徒達の声が聞こえた。

「俺、
物流最適化分野だって」

「何それ」

「知らねぇけど、
需要高いらしい」

 笑い声。

 誰も、
深く気にしていない。

 だが。

 皆、
少しずつAIの言葉を受け入れ始めていた。

 夜。

 優子は、
リビングでコーヒーを飲んでいた。

 真理亜は、
ソファへ寝転がったまま、
スマホを見ている。

「学校どうだった?」

「進路AI入った」

 優子が顔を上げる。

「もう導入されたの?」

「うん」

 真理亜は、
少し不満そうに言う。

「なんか、
勝手に向いてる仕事とか出てくる」

 優子は、
少し考える。

「でも、
参考にはなるんじゃない?」

「まぁ……」

 真理亜は、
スマホを見つめたまま言う。

「でもさ」

 少し間。

「“自分で決めた”
感じしなくなりそう」

 優子は、
返事をしなかった。

 キッチン時計の音だけが、
静かに響いている。

 その時。

 優子の業務端末へ、
通知が届いた。

【NEXT ワクチン最適化
 更新完了】

【成功確率:99.2%】

 優子の視線が止まる。

 成功率。

 最適解。

 推奨行動。

 最近、
そんな言葉ばかり見ている気がした。

 真理亜が、
ぼんやり天井を見ながら言う。

「ねぇ」

「ん?」

「失敗しない人生って、
本当に良いのかな」

 優子は、
すぐに答えられなかった。

 窓の外では、
静かな夜風が吹いていた。


# THE NEXT

## 第7話「偶然」

 教室に、
授業の終わりを知らせるチャイムが鳴り響く。

 教室には、
春の陽射しが差し込んでいる。

 窓際では、
女子生徒達が笑いながら話していた。

 真理亜は、
自分のスマホ画面を見る。

【本日の学習効率グループを更新しました】

【推奨メンバー:
 高木・藤森・早川】

「……また?」

 小さく呟く。

 その時。

「やっぱ来た?」

 香奈が、
後ろから画面を覗き込んだ。

「真理亜も同じだ」

「香奈も?」

「うん」

 香奈は、
少し笑いながら席へ座る。

「最近、
班分け全部AIだよね」

 真理亜は、
スマホを伏せた。

「なんか、
ずっと同じメンバーじゃない?」

「相性良いんじゃない?」

 香奈は、
軽い調子で言う。

「価値観とか、
学力傾向とか」

「……それ、
そんな分かるの?」

「知らないけど」

 香奈は、
ストローを弄びながら笑った。

「でも実際、
話しやすいし」

 真理亜は、
返事をしなかった。

 確かに。

 香奈とは、
気を使わなくて済む。

 会話も楽だった。

 だから余計に、
少し気持ち悪かった。

 その時。

 教室前方のモニターが点灯する。

【推奨座席配置 更新】

 生徒達が、
慣れた様子で席を移動し始めた。

「また変わるのかー」

「めんど」

 文句を言いながらも、
誰も逆らわない。

 教師が入ってくる。

「感染対策と、
学習効率向上のためだからね」

 穏やかな声だった。

「前より、
集中力データも上がってるし」

 真理亜は、
ぼんやり窓の外を見る。

 校庭。

 運動部。

 笑い声。

 平和だった。

 だが。

 最近、
“偶然”が減っている気がした。

 放課後。

 駅前は、
以前より人が少なかった。

 真理亜と香奈は、
並んで歩いている。

 その時。

 香奈のスマホが震えた。

【推奨帰宅ルート 更新】

「うわ、
まただ」

 香奈が苦笑する。

「最近、
通知多すぎ」

 真理亜も、
自分の画面を見る。

【混雑回避のため、
西口ルートを推奨します】

 数秒。

 二人とも、
黙ったまま画面を見る。

 やがて。

「……行く?」

 香奈が聞く。

 真理亜は、
駅前の人混みを見る。

 西口の矢印。

 AI推奨ルート。

 安全。

 効率。

 最適。

「……まぁ、
そっちの方が早いし」

 二人は、
静かに西口へ向かった。

 夜。

 優子は、
解析室でモニターを見ていた。

【都市行動最適化
 同期完了】

【接触率 18%低下】

 若い職員が、
少し興奮した声で言う。

「かなり成果出てます」

 別モニターには、
都市人流データが表示されていた。

 駅。

 学校。

 商業施設。

 人々の流れが、
綺麗に整理されている。

「これなら、
感染拡大かなり抑えられますよ」

 優子は、
小さく頷いた。

 実際。

 数字だけ見れば、
成功していた。

 その時。

 ふと、
真理亜の言葉を思い出す。

『“自分で決めた”
感じしなくなりそう』

 優子は、
モニターを見る。

 最適化された人流。

 最適化された行動。

 最適化された社会。

 静かな機械音が、
解析室へ流れていた。


# THE NEXT

## 第8話「依存」

 朝の情報番組では、
軽快な音楽が流れていた。

『現在、
政府感染対策システムへの
負荷集中により——』

 画面下へ、
速報テロップが流れる。

『一部生活支援AIサービスに、
遅延が発生しています』

 真理亜は、
食パンを咥えたまま画面を見る。

「珍しいね」

 優子は、
コーヒーを片手に言った。

「まぁ、
感染対策優先だから」

 テレビ画面では、
女性キャスターが笑顔で話している。

『現在、
通学・交通系AIサービスの一部に
遅延が確認されています』

『ご利用の皆さまは、
時間に余裕を持った行動を——』

 その直後。

 明るい音楽へ切り替わる。

『それでは今日の
ラッキーランキングです♪』

 スタジオが、
ぱっと明るくなる。

『今日のラッキーアイテムは〜』

 一拍。

『AIスケジューラー!』

 真理亜が吹き出した。

「止まってるのに?」

 優子も、
少しだけ笑う。

「確かに」

 だが。

 数秒後には、
優子はもうスマホを見ていた。

【NEXT感染予測モデル
 同期中】

 処理負荷率。

 サーバー優先順位。

 ワクチン最適化。

 全部、
感染対策へ集中していた。

 学校へ向かう電車は、
いつもより少しざわついていた。

「通知来ないんだけど」

「今日、
ルート更新まだ?」

 皆、
スマホを見ている。

 真理亜も、
画面を開いた。

【データ同期中】

 読み込みマークだけが、
静かに回っている。

 学校。

 昇降口前。

 生徒達が、
少し困った顔で立ち止まっていた。

「今日、
座席更新なくない?」

「班どうするの?」

 教師も、
タブレットを見ながら困惑している。

「えーっと……」

 数秒。

「とりあえず、
前と同じでいいかな」

 教室へ、
小さな笑いが広がる。

「なんか久々だね」

「自分で決めるの」

 誰かが、
冗談っぽく言った。

 真理亜は、
少しだけ周囲を見る。

 皆、
困っている。

 だが。

 それ以上に。

 “待っている”
ように見えた。

 昼休み。

 香奈が、
スマホを振りながら言う。

「まだ直んない」

「重いね」

「最近、
AI止まるとか珍しくない?」

 真理亜は、
窓の外を見る。

 校庭。

 春の風。

 笑い声。

 平和だった。

 その時。

「ねぇ、
今日どこから帰る?」

 香奈が聞く。

 真理亜は、
少し止まる。

 東口。

 西口。

 頭の中に、
いつもの通知画面が浮かんだ。

【混雑回避のため——】

 だが今日は、
表示されない。

 数秒。

「……どうしよっか」

 自分で言っておきながら。

 真理亜は、
少しだけ違和感を覚えた。

 前なら。

 こんな事、
悩まなかった気がした。

 夜。

 優子は、
解析室のモニターを見つめていた。

【負荷分散完了】

【生活支援AI 復旧】

 若い職員が、
安心したように息を吐く。

「これで大丈夫です」

 別モニターでは、
都市人流データが正常化していく。

 駅。

 学校。

 商業施設。

 乱れていた流れが、
少しずつ整っていく。

「やっぱり、
もう社会インフラですね」

 職員が笑う。

「止まると、
皆困る」

 優子は、
小さく頷いた。

 その時。

 真理亜の言葉を思い出す。

『自分で決めた感じしなくなりそう』

 静かな機械音が流れる。

 モニターの中では、
最適化された人の流れが、
綺麗に整理されていた。

 優子は、
しばらくそれを見つめていた。


# THE NEXT

## 第9話「寄り道」

 朝の情報番組の明るい音楽が聞こえる。

 真理亜は、
洗面所でスマホ画面を見つめていた。

【本日の生活安定指数:91】

【推奨睡眠達成】

【感情変動:安定】

 数秒。

 真理亜は、
小さく息を吐く。

「……高い」

 どこか、
少し安心している自分に気づく。

 その時。

 リビングから、
コーヒーの香りが漂ってきた。

「真理亜ー、
遅刻するわよ」

「はーい」

 学校。

 教室では、
既にその話題で持ちきりだった。

「見た?
今日の指数」

「私ちょっと下がった」

「寝不足じゃない?」

 笑いながら、
皆スマホを見せ合っている。

 教師が教室へ入ってきた。

「最近、
生活安定指数かなり参考になるらしいわよ」

 タブレットを見ながら続ける。

「集中力とか、
体調予測とも相関高いんだって」

 誰も驚かなかった。

 もう、
そういう時代だった。

 昼休み。

 香奈が、
弁当を開きながら言う。

「真理亜、
高そうだよね」

「普通だよ」

「絶対高いって」

 香奈が笑う。

「真面目だし」

 真理亜は、
曖昧に笑った。

 本当は。

 朝、
91を見て少し安心した事を、
誰にも言えなかった。

 その時。

 教室後方で、
男子生徒達の声が聞こえる。

「お前、
今日低くね?」

「昨日ゲームしすぎた」

「それじゃん」

 笑い声。

 軽い空気。

 だが。

 皆、
少しずつ数字を気にし始めていた。

 夜。

 優子は、
政府解析室で会議資料を見ていた。

【社会安定モデル
 試験運用開始】

【感情変動予測】

【行動最適化】

【不安定化リスク低減】

 若い職員が、
モニターを操作しながら言う。

「NEXT対策で収集したデータ、
かなり応用効くんですよ」

 別の職員も頷く。

「不安定行動って、
感染拡大とも相関高いですし」

「生活安定指数、
支持率かなり高いですね」

 モニターには、
都市全体の安定指数グラフが表示されていた。

 数字。

 予測。

 安定化。

 全部、
綺麗に整理されている。

「このモデル使えば、
社会全体かなり安定します」

 誰かが言う。

 優子は、
黙ったままモニターを見る。

 そこには。

 人々の生活が、
数値として並んでいた。

 睡眠。

 移動。

 感情変動。

 会話量。

 全部。

 “正常値”として整理されている。

 その瞬間。

 優子は、
小さく息を止めた。

 人を守っているはずだった。

 だが。

 いつの間にか。

 人間そのものを、
AI基準へ整えようとしているように見えた。

 静かな機械音が、
解析室へ響いている。

 誰も、
その違和感に気づいていない。

 夕方の駅前。

 真理亜は、
一軒の花屋の前で立ち止まった。

 赤いカーネーション。

 母の日のポスター。

 数秒。

 真理亜は、
小さく店内へ入る。

 夕日が、
通りをオレンジ色に染めていた。


# THE NEXT

## 第10話「聖母」

 解析室には、
静かな空調音が流れていた。

 大型モニターには、
都市全体の安定指数が表示されている。

【社会安定モデル
 同期中】

【生活安定指数:
 全国平均 89.4】

 数字は、
ゆっくり上昇していた。

 若い職員が、
モニターを見ながら笑う。

「すごいですよね」

 優子は、
資料から目を上げた。

 職員は、
安定指数グラフを指差す。

「NEXT対策って、
最初は感染症対応だったじゃないですか」

 軽い口調だった。

「でも今って、
教育も、
交通も、
生活も、
全部繋がり始めてる」

 モニターの中では、
無数のデータが同期していた。

 移動履歴。

 感情変動。

 生活安定指数。

 都市人流。

「なんか」

 職員は、
少し笑う。

「世の中そのものが、
生まれ変わっていく感じしますよね」

 静かな解析室。

 空調音。

 モニターの光。

 優子は、
何も答えなかった。

 ただ。

 背中に、
冷たいものが落ちた気がした。

 生まれ変わる。

 その言葉が。

 なぜか、
“人間ではない何か”
へ変わっていくように聞こえた。

 モニターの中では、
今日も綺麗に、
人の流れが整理されていた。

 帰宅した頃には、
夜になっていた。

 リビングには、
テレビの音だけが流れている。

『NEXT対策AIの導入以降——』

『都市混雑率は
前年比42%減少——』

 優子は、
小さく息を吐いた。

「ただいま」

「おかえり」

 真理亜は、
ソファへ座ったまま答える。

 その横には、
学校鞄が置かれていた。

 優子は、
冷蔵庫から水を取り出す。

 その時。

 業務端末が震えた。

【推奨外行動を検知】

 優子の視線が止まる。

【対象:
 水島 真理亜】

【推奨外ルート滞在:
 17分】

 優子は、
小さく眉を寄せた。

「真理亜」

「ん?」

「最近、
推奨外行動多くない?」

 数秒。

 真理亜の指が、
小さく止まる。

「……別に」

「今、
どれだけ大変か分かってる?」

 優子は、
疲れた声で続けた。

「感染対策、
ギリギリで回してるのよ」

 真理亜は、
黙ったまま俯く。

「少しは、
考えて——」

「考えてるよ!」

 優子が止まる。

 真理亜の目には、
涙が浮かんでいた。

「ママ、
そればっかじゃん!」

 立ち上がる。

「通知とか、
推奨とか、
指数とか!」

「真理亜——」

「私の事、
見てない!」

 その瞬間。

 真理亜は、
鞄から小さな袋を取り出した。

 勢いのまま、
床へ投げる。

 カーネーション柄の包装紙。

 優子の動きが止まる。

「……え」

 真理亜は、
涙を拭いながら叫んだ。

「大嫌い!」

 玄関のドアが、
強く閉まる。

 静寂。

 テレビのニュース音だけが、
リビングへ流れていた。

 優子は、
床へ転がった小さな包みを見る。

 包装紙の隙間から、
ピンクのハンカチが覗いていた。

 赤い花の刺繍。

 母の日用だった。

 優子は、
しばらく動けなかった。

 業務端末が、
静かに通知音を鳴らす。

【生活安定指数 低下を検知】

 優子は、
ゆっくり目を閉じた。

 その通知が。

 今だけは、
ひどく冷たいものに見えた。


# THE NEXT

## 第11話「記憶」

 雨だった。

 電話ボックスの中で、
セーラー服姿の優子が
小さくうずくまっている。

 肩が、
震えていた。

 手には、
少し潰れたカーネーション。

 外では。

 倒れた自転車が、
雨に打たれている。

 街灯の光が、
濡れたアスファルトへ滲んでいた。

『何時だと思ってるの!』

 数十分前の声が、
まだ耳に残っている。

『あなた来年、
受験生なのよ!?』

 優子は、
俯いたまま立っていた。

『隣の加奈ちゃん、
もう塾決めたって聞いたわよ』

『……知ってる』

『だったら——』

『うるさいな!』

 沈黙。

 母の顔が、
少しだけ傷ついたように見えた。

 だが。

 その時の優子には、
もう余裕がなかった。

『お母さん、
そればっかじゃん!』

 玄関を飛び出す。

 雨。

 自転車。

 夜の街。

 優子は、
何も考えず走っていた。

 そして。

 気づけば、
電話ボックスへ座り込んでいた。

 透明なガラスを、
雨粒が流れていく。

 優子は、
何度も受話器を握り直す。

 だが。

 誰にも、
電話はかけなかった。

 ただ。

 一人になりたかった。

 カーネーションが、
制服の胸元で濡れていた。

 その時。

 遠くで、
踏切の音が鳴る。

 優子は、
ぼんやり外を見る。

 雨の街。

 車のライト。

 滲んだ景色。

 全部、
少しだけ遠かった。

 現在。

 リビングは、
静まり返っていた。

 優子は、
床へ落ちたプレゼントを見つめている。

 赤いカーネーション柄の包装紙。

 隙間から、
ピンクのハンカチが覗いている。

 母の日。

 その文字が、
胸の奥へゆっくり沈んでいく。

 優子は、
小さく息を止めた。

「……同じだ」

 誰もいない部屋で、
小さく呟く。

 通知音が鳴る。

【生活安定指数 低下】

 優子は、
ゆっくり端末を伏せた。

 そして。

 震える指で、
真理亜へ電話をかける。

 だが。

 呼び出し音だけが、
静かな部屋へ流れ続けていた。


# THE NEXT

## 第12話「誤解」

 夜風が、
静かに吹いていた。

 真理亜は、
歩道橋の上で立ち止まる。

 眼下では、
整理された車列が流れていた。

 信号。

 誘導表示。

 AI交通制御。

 どの車も、
綺麗に流れていく。

 無駄がない。

 静かな街だった。

 真理亜は、
スマホ画面を見る。

【ママ】

 着信。

 数秒。

 やがて、
静かに切れた。

 真理亜は、
小さく息を吐く。

 帰りたくない。

 でも。

 本当に、
帰りたくないわけじゃなかった。

 その時。

 再び、
スマホが震える。

【ごめんなさい。
 謝りたいから帰ってきてください】

 短い文章。

 真理亜は、
しばらく画面を見つめる。

 街の光が、
涙で少し滲んでいた。

 リビングでは、
テレビの音だけが流れていた。

 テーブルの上には、
拾い上げたピンクのハンカチ。

 その横に、
小さなメッセージカードが置かれている。

『お仕事頑張ってね』

『いつもありがとう』

 優子は、
その短い文字を、
何度も読み返していた。

 その時。

 業務端末の画面が、
静かに点灯する。

【位置情報取得可能】

 優子の指が、
止まる。

 数秒。

 やがて。

 優子は、
ゆっくり端末を伏せた。

 静かな部屋だった。

 昔なら。

 こんな風に、
すぐ居場所なんて分からなかった。

 待つしかなかった。

 信じるしかなかった。

 優子は、
小さく目を閉じる。

 その時。

 玄関のドアが、
小さく開く音がした。

 優子の手が止まる。

 数秒。

「……ただいま」

 小さな声だった。

 真理亜は、
俯いたまま立っている。

 制服の袖が、
少し濡れていた。

 優子は、
ゆっくり立ち上がる。

 だが。

 何を言えばいいのか、
分からなかった。

「……ハンカチ、
ありがとう」

 小さく言う。

 真理亜は、
俯いたまま靴を脱ぐ。

「……母の日、
少し先だけど」

 少し震えた声だった。

 優子は、
何も言えなかった。

 その一言だけで。

 真理亜が、
どんな気持ちで
あれを選んだのか、
全部分かってしまった。

「ごめんね」

 優子は、
小さく言った。

「……」

「真理亜、
ごめんね」

 声が、
少し震えていた。

 真理亜は、
唇を噛む。

 優子は、
もう一度言った。

「ごめんね」

 その時。

 真理亜の肩が、
小さく震えた。

 優子は、
ゆっくり真理亜を抱きしめる。

 真理亜は、
最初だけ少し抵抗した。

 だが。

 やがて、
小さく優子の服を掴む。

 リビングでは、
ニュースキャスターの声が流れていた。

『NEXT対策AIによる
 社会安定モデルは——』

 その声を背に。

 二人は、
しばらく動かなかった。


# THE NEXT

## 第13話「写真」

 リビングには、
カレーの匂いが漂っていた。

 窓の外では、
月明かりがベランダを照らしていた。

 真理亜は、
スプーンを持ったまま、
少しだけ俯いていた。

 優子も、
何度か口を開きかけては閉じる。

 気まずさが、
少しだけ残っていた。

 やがて。

「……ママもさ」

 優子が、
小さく言った。

「昔、
お母さんと喧嘩して、
家飛び出した事ある」

 真理亜が顔を上げる。

「え、
マジ?」

 優子は、
少しだけ笑った。

「電話ボックスで、
ずっと泣いてた」

「ママが?」

「失礼ね」

 真理亜が、
少し吹き出す。

 優子は、
カレーを混ぜながら続けた。

「門限とか、
受験とか」

「うわ、
昭和っぽ」

「平成よ」

「ほぼ昭和じゃん」

 真理亜が笑う。

 優子も、
少しだけ笑った。

 その空気に、
ようやく少しだけ、
温度が戻る。

「ママの子供の頃って、
どんな感じだったの?」

 真理亜が聞く。

 優子は、
少し考える。

「……今より、
うるさかったかな」

「うるさい?」

「人も多かったし」

 数秒。

「あ、
アルバムあるよ」

 真理亜の目が少し光る。

「え、
見たい見たい」

 優子は、
棚の奥から古いアルバムを取り出した。

 少し色褪せた表紙。

 ページを開く。

 そこには。

 古い空港の写真が映っていた。

 人。

 人。

 人。

 肩がぶつかりそうな距離。

 子供が走っている。

 誰かが笑っている。

 同じようなサングラス。

 首にはレイ。

 派手なシャツ。

 皆、
浮かれていた。

「うわ……」

 真理亜が、
思わず呟く。

「人多っ」

 優子が笑う。

「海外旅行って、
一大イベントだったからね」

 写真の中では、
若い優子が笑っていた。

 今より少し短い髪。

 派手な服。

 隣では、
母親も笑っている。

 真理亜は、
しばらくその写真を見る。

「なんか」

 小さく言う。

「昔って、
近いね」

 優子は、
少しだけ目を細めた。

「うるさかったけどね」

 ページをめくる。

 ピンボケした写真。

 指が映り込んだ写真。

 知らない人が後ろで笑っている写真。

 今のAIアルバムなら、
自動で消されそうな写真ばかりだった。

 だが。

 真理亜は、
少し楽しそうに笑っていた。

 その時。

 リビングのテレビから、
ニュース音声が流れる。

『NEXT対策AIによる
 社会安定モデルは——』

 優子は、
テレビを見る。

 静かな街。

 整えられた社会。

 正しい数字。

 それでも。

 隣でアルバムを覗き込む真理亜の体温の方が、
今は少しだけ、
大事な気がした。


# THE NEXT

## 最終話「NEXT」

 解析室には、
静かな機械音だけが流れていた。

 大型モニターには、
都市安定指数が表示されている。

【社会安定率:
 93.2%】

【NEXT対策モデル:
 正常稼働中】

 数字は、
今日も安定していた。

 残っているのは、
優子一人だった。

 他の職員は、
既に帰宅している。

 優子は、
小さく肩を回しながら、
最後に報告データを確認する。

 その時。

 指が止まった。

「……え?」

 画面を見直す。

【NEXT-2045
 更新計画書】

 優子は、
小さく眉を寄せた。

「え、
今日送ったのって
No.2032じゃなかった?」

 NEXT対策ワクチンは、
既に全国運用段階へ入っている。

 なのに。

 モニターには、
さらに先の管理番号が表示されていた。

 優子は、
研究室へ電話をかける。

 数秒後。

『本日の業務は終了しました』

 無機質な自動音声。

 優子は、
小さく息を吐く。

「……だよね」

 窓の外を見る。

 街は、
静かだった。

 信号。

 交通誘導。

 人流制御。

 全部、
綺麗に整理されている。

 優子は、
しばらくその景色を見つめる。

 やがて。

 端末を閉じた。

「……ちょっと遠回りだけど」

 小さく呟く。

 夜風が、
駅前を静かに抜けていく。

 帰宅途中。

 優子は、
ふと花屋の前で立ち止まった。

 ショーウィンドウには、
少し枯れ始めたカーネーションが並んでいる。

 母の日のポスターは、
もう外されていた。

 優子は、
少しだけ笑う。

 その時。

 スマホが震えた。

【推奨帰宅ルートを更新しました】

 数秒。

 優子は、
画面を見る。

 だが。

 通知を閉じる。

 そして。

 少し遠回りをするように、
静かな夜道を歩き始めた。

 夜空には、
薄い月が浮かんでいる。

 遠くでは、
電車の音が聞こえた。

 その頃。

 研究所のサーバールームでは、
無数のランプが静かに点滅していた。

 冷たい機械音。

 同期処理。

 更新準備。

 誰もいない部屋のモニターへ、
小さく文字が表示される。

【NEXT】

Virus - RE:NEXT  
Vaccine - RE:NEXT

 その表示だけが。

 静かな暗闇の中で、
いつまでも光り続けていた。


# THE NEXT

## エピローグ

 朝の情報番組では、
明るい音楽が流れていた。

『今日のラッキーワードは、
“寄り道”です!』

 スタジオでは、
司会者達が笑っている。

 優子は、
コーヒーを飲みながら、
小さく息を吐いた。

「寄り道、ね」

 真理亜は、
ソファへ寝転がったまま言う。

「ママ、
今日ほんとに行くの?」

「行くわよ」

「受験まだ終わってないけど」

 優子は、
少しだけ笑った。

「今なら空いてるし」

 片目を閉じながら言う。

 真理亜は、
少し吹き出した。

 遊園地には、
柔らかな春の日差しが降り注いでいた。

 新しいアトラクションの前には、
長い列ができている。

「やっぱり並んでるね」

 真理亜が言う。

 周囲では、
マスク姿の家族連れや、
若いカップル達が順番を待っていた。

 子供の笑い声。

 アナウンス。

 甘いポップコーンの匂い。

 オープンして間もない人気アトラクション。

 それでも。

 普段なら、
列はもっと長かっただろう。

 二人は、
並びながら、
他愛もない話を続けていた。

 学校の事。

 昔の事。

 くだらない話。

 その後。

 二人は、
ジェットコースターへ乗り。

 古いメリーゴーランドで笑い。

 ゲームコーナーでは、
景品を取れずに盛り上がった。

 気づけば。

 空は、
少しオレンジ色へ変わり始めていた。

 夕方。

 アトラクションの灯りが、
少しずつ夜空へ浮かび始める。

「帰り、
どこかで食べて行こっか」

 優子が言う。

「え、
いいの?」

「何がいい?」

 真理亜は、
少し考える。

「……お寿司!」

 優子が笑った。

「いいわね」

 二人は、
少し盛り上がりながら、
出口近くのお土産ショップへ入る。

 店内には、
色とりどりのキーホルダーが並んでいた。

 真理亜は、
その中の一つを手に取る。

 小さな蟹座のキーホルダー。

「それにするの?」

「うん」

 真理亜は、
少し笑った。

「なんとなく可愛いから」

 優子は、
数秒それを見る。

 やがて。

「……じゃあ、
私もそれ買おうかな」

「え、
お揃い?」

「嫌?」

「別に嫌じゃないけど」

 真理亜は、
少し照れくさそうに笑った。

 レジへ向かう途中。

 優子のスマホが、
小さく震える。

【推奨帰宅ルートを更新しました】

 優子は、
その画面を見たまま、
少しだけ立ち止まる。

 だが。

 静かにスマホを閉じた。

「ママ?」

「ん?」

「早く行こ」

 真理亜が、
少し先で笑っている。

 優子は、
その姿を見る。

 店内には、
人の声が溢れていた。

 笑い声。

 足音。

 小さなざわめき。

 少し騒がしくて。

 少し不揃いで。

 でも。

 優子は、
その音の中へ、
静かに歩き出した。








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