和紙の歴史(紙の発祥〜)
造紙の原型は中国の僧、葵倫(さいりん)が105年に発明したと前回書きましたが、その点について補足をしようと思います。
それまでは、くず繭(蚕が繭の中で成虫になり、外へ出るために食い破ったもの)から真綿(繭をシート状に広げたもの)を作る過程で生まれる細かい塵を掬い集めて平たく固めたものに文字を書くことがあり、もとはこれを”紙”と呼んでいたようです。しかしそれは最高級品で、ごく僅かな人しか手にすることができず、役所の記録等には木簡や竹簡を使用していました。
ところが、葵倫が麻のボロ布などを素材にした”紙”を作ったことで、絹製の紙のコスト面や、木簡や竹簡の嵩張るという問題も解決され、その発明は中国国内で普及していきました。ただし、対外戦略において製法は秘匿され、製品のみが輸出される状況が長く続くことになります。
しかし、まずは朝鮮半島へ技法が流通し、日本へは610年に高麗王が派遣した僧のひとり、曇微(どんちょう)が墨の製造法や彩色技術と共に、造紙技術をもたらしたとされます。しかし、紙そのものは239年に魏の明帝が倭の卑弥呼に渡した詔書が初伝だと考えられています。

では、現存する日本製の紙のうち最古のものは、正倉院に保管される大宝2年(702)の美濃(岐阜県)、筑前(福岡県)、豊前(福岡県)の戸籍用紙です。また、天平9年(737)の書物によると美作(岡山県)、出雲(島根県)、播磨(兵庫県)、美濃(岐阜県)、越(富山県)でも造紙が行なわれていたことが分かり、造紙技術は伝来してから100年ほどで国内に広く伝播したようです。
その頃の日本では、大宝元年(701)の大宝律令制定によって天皇を中心とした中央集権型の国家運営が始まりました。これは法律によって国を治めるという本邦初の試みであり、内容の編纂にあたって中国の律令制度を参考にしました。この制度の施行によって、中国からの独立意識を示そうとしたとする見方もあります。
大宝律令では律(刑法)と令(行政組織、租税、労役など)が規定されました。それらを円滑に運営するためには中央政府と各省・地方政府間の情報伝達や、また民衆から税を徴収するための戸籍整理、徴税記録など、種々様々に記録をしなくてはなりません。すなわち、紙の需要が増大したということです。
大宝律令に付随して、国家の蔵書管理や国史編纂などの業務を担う”図書寮(ずしょりょう)”が設けられ、その内部に公用紙を作る造紙所が置かれました。つまり紙の自給自足の体制が整えられたということです。

紙の需要増大の要因はほかにもあります。
それは国内での仏教の広まりに伴い、経典を書き写して複製する”写経”が盛んになったことです。写経をする人員も、造紙と同じく図書寮に所属をしました。
図書寮が中心となって法華経千部写経などの大規模なプロジェクトが遂行されたことからも、写経や造紙の部門に大量の人員が導入されたことは明らかです。
なおこの頃、木版による印刷技術も伝来しましたが、細かな漢字経文を表現するほどの技術には達していなかったとされます。また、写経は単なる複製作業ではなく、経文一字一字を丁寧に書き写すことが功徳を積む行為とされました。それは、個人や国家の安寧を祈る仏教修行の一環でもあったのです。
このようにして、日本人は舶来の技を自分たちのものにしていきました。
とある紙漉き職人が「必要なのは補助金ではなく仕事」とお話をされていましたが、ある技術が進歩を遂げるためには仕事として真摯に向き合い、そして数をこなすことが重要…というより、それしかないのだと布の作り手としても思います。
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島根県石見地方、川本町という人口3500人の小さな町地域おこし協力隊として、染織をしています。協力隊の任期後に作家として独立し、「石見織」を創立するために、日々全力投球。神奈川県横浜市出身。