ぼくは死んだ魚の目をしている
ぼくは死んだ魚の目をしている。部室で後輩に向かって「橋本環奈は物件マニアなんだって。いい物件を見つけたらすぐそこに引っ越しちゃうから1年以上同じ家に住んだことがないらしい」と熱弁しているぼくに向かってそう言ったのは、その場にたまたま居合わせていた同期の矢藤加奈枝だった。「死んだ魚のような目(eyes like a dead fish)」ではない。「死んだ魚の目(eyes of a dead fish)」である。矢藤がどれほど魚眼に詳しいのか知らないが(矢藤が漁業関係者の家庭で生まれ育ったという話は寡聞にして聞いたことがない)、ぼくがせっかく芸能雑学の話題に興じている最中にそれを遮って「お前は死んだ魚の目をしている」と言ってくるとはただごとではない。
正直言って、ぼくは矢藤加奈枝のことが苦手だ。同学年でサークルも学部も同じなので本来なら仲がよくてもいいはずだが、これまで打ち解けた会話を交わしたことは一度もない。しかし、軋轢のようなものはある。部室でぼくが数名を相手に「福士蒼汰は中学に上がるまで母親に髪の毛を切ってもらってたんだって」と話していた時にいきなりパンッ!と両手を叩いて「……空気が悪い」と話題を強制終了させてきたし、やはり部室でぼくが最近手のひらにほくろができたという話をしていた時には「それは手相学的には凶事が起きる前触れ」と真顔で言ってきた。ぼくに何か恨みでもあるのか。矢藤との過去を思い出してみる。ああ、もしかしてあれか。一年の時に矢藤が「サークルのみんなで映画を観に行こう」という企画を立てた際、4人しかエントリーしていないのをかわいそうに思ったぼくが参加の意向を伝えるも、当日の朝に「やっぱりめんどいな」と思ってドタキャンしたっていうあれか。チケットは当日購入予定だったから経済的損失はなかったはずだが、まあ、そういうことじゃないんだろうな。約束事のキャンセルは尾を引く。実際、矢藤はぼくのことを嫌っているということで間違いなさそうだった。
部室棟のトイレで用を足したあと、手を洗いながら、目の前の鏡を覗き込んで自分の目を見てみる。別にいつものぼくの目だ。瞳孔の周り(虹彩)も黒いことでおなじみのいつものぼくの目だ。全然「死んだ魚の目」なんてしてないじゃないか。むしろぼくの目はクリクリしていてかわいいぞ!
とはいえ、目の下のクマのひどさは明らかだった。もしかしたら矢藤はこのことを言っているのかもしれなかった。ぼくはコンビニで夜勤(曜日によってはプラス早朝勤務)のアルバイトをしているのだが、そのせいで慢性的な睡眠不足に陥っている。その代わり大学の授業中に寝ているから問題ないのだが(不適切発言)、一回あたりの連続睡眠時間が短めなので目の下のクマはなかなか落ちない。ぼくはこれまでクマのひどさをサークルの連中や友人や彼女に指摘されることがあったが、正直そこまで気にしてこなかった。しかし、こうやって改めて確かめてみると気になってくる。ぼくは目の下のクマがひどい。なんだか少し恥ずかしくなってきた。ぼくはルッキズムに批判的な立場だが、それでもこの目の下のクマはもうちょっと何とかしたほうがいいかもしれない。何とかできるのならば。
学校からの帰り道、近所のマツモトキヨシでメンズビオレ ONE BB&UVクリームを買う。1,298円(税込)。ぜんぜん安くない。帰宅して夕食を食べて仮眠をとったあと、バイトの出勤前におそるおそる目の下にクリームを塗ってみる。鏡を見る。うん、たしかにクマがまあまあ隠れている。少なくとも他人から「目の下のクマがひどいな」と心配されるレベルではないだろう。彼女から届いていた夜勤がんばってこいメッセージに返信(というかスタンプで反応)したのち、改めて鏡を見る。うん、いい感じだぞ。うふふ。ぼくもついにおしゃれに気を遣うようになったか。メイク男子デビューしちゃおうかな。しかもこのメンズビオレ ONE BB&UVクリームはクマだけでなくニキビ跡も自然に隠せるすぐれものなのだ!(ステマか?)
というわけで、数か月以上前から、ぼくは目の下のクマを隠すためにクリームをたまに使用している。「たまに」というのは、クマは隠そうと思えばまあまあ隠せるんだということを知ったら、逆にクマをそこまで気にしないようになって、日常的に塗る必要を感じなくなったからである。もしかしたらぼくは電車の中で周囲のサラリーマンや女子高生から「こいつクマがひどいな」と思われている可能性があるが、見ず知らずのひとからの目の下の評価を気にするほど、ぼくは美の強迫観念に駆られちゃいない。
ぼくの大学の近くのスパゲッティ屋さんで一緒に晩ご飯を食べながら、クリームを使い始めたことを由梨(というのが彼女の名前です)に伝えたら、由梨は最初ぼくがメイク的なことをし始めたのを知って少しだけ驚いたようすだったが、1〜2秒後には「いいと思う。うん、いいよ、いいよ」と積極的に肯定してくれた。ただ、クリーム塗布はクマに対する根本的な対策ではないので、あくまでも睡眠時間を増やすべきだということを指摘(というか説教)された。夜勤以外の勤務体系を検討するようにも提案(というか説教)された。まったく由梨の言う通りなんだけど、いまの夜勤のバイト自体に不満はないし、ぼくには「環境の変化が怖い」という不安性(または不安症)っぽいところがあるので、転職や契約変更をするつもりはないんだよなあ(ということを由梨に伝えたらもちろん理解してくれたが、同時にぼくは今後の身の処し方についていくつかアドバイスを受けた)。
由梨からはクリームを使うようになった理由も聞かれたので、ぼくは素直に矢藤の「死んだ魚の目をしている」発言がきっかけだと答えた。矢藤はぼくのことを明らかに嫌っているという話も伝えた。それに対する由梨の反応はぼくには意外だった。「ううん、その子は(ぼくの下の名前)くんのこと嫌ってるんじゃないと思うよ。心配してくれているんだと思う。警告っていうか」。こういう時の由梨の物の見方は立派だ(訂正:こういう時の→こういう時も)。ぼくと晩ご飯を食べながら「ああ、(ぼくの下の名前)さんは完全に加奈枝さんから嫌われてますね。そもそも(ぼくの下の名前)さんはサークル全員から嫌われてますから(笑)」などと言ってくる後輩の藤沢とはまったく角度が違う。ぼくは由梨の見方は性善説すぎるというか深読みすぎると思うし、矢藤はあくまでぼくを嫌っているだけにすぎないと思うが、それでも由梨の話を聞いて、「矢藤の『死んだ魚の目』発言のおかげでぼくはメンズビオレ ONE BB&UVクリームと出会えたんだよな。その点に関しては矢藤GJ」ぐらいのことは思えるようになった。それ以来、ぼくは部会がある日(つまりは確実に矢藤と顔を合わせる日)はクリームを目の下に塗るようにしている。それは矢藤からまた「死んだ魚の目をしている」と言われたくないからでもあるし、矢藤に対して「きみのおかげでぼくは新しい世界に飛び込むことができたんだぜ」と暗に伝えたいからでもある。新しい世界っていったって、1,298円の薄茶色のクリームがこの世に存在することを知ったってだけの話なんだけどさ。
