第13回 AI時代に価値が上がるヒューマンログ
日本代表アナリストは、何を分析しているのか
サッカー日本代表の裏側には、膨大な分析がある。
対戦国の監督交代履歴。
選手の発言。
各国メディアのコメント。
過去大会での采配。
クラブでの起用傾向。
代表でのプレーシーン。
こうした情報を、学生アナリストたちも含めて大量に集めているという話を聞いた。
最初は、すごい情報量だと思った。
しかし、よく考えると、そこで集められているのは単なる「事実」ではない。
監督が交代した。
選手が発言した。
メディアが報じた。
過去にこういう采配をした。
クラブではこう起用されている。
それらは、表面に出ている情報である。
もちろん、外から見える範囲での推測でしかない。
ただ、集めている情報の種類を見ると、単に事実を並べているのではなく、その奥にあるものを読もうとしているように見える。
それは、判断条件である。
この監督は、どの状況になると守るのか。
どの状況になると攻めるのか。
どの時間帯で交代カードを切るのか。
リードしているときに何を優先するのか。
追い込まれたときに、誰を信じるのか。
集めているのは、映像や発言や記事かもしれない。
だが、分析しようとしているのは、人間の判断条件なのではないか。
企業にも、この視点が必要になる
企業活動も、判断の連続でできている。
進めるか、止めるか。
例外にするか、基準通りに処理するか。
リスクを取るか、安全側に倒すか。
その分岐のたびに、人間は何らかの条件を見ている。
しかし企業でよく記録されるのは、判断条件ではない。
売上。
生産性。
KPI。
処理件数。
ミス件数。
在庫金額。
クレーム件数。
もちろん、これらは重要である。
結果を確認するには必要な数字である。
ただ、それだけでは見えないものがある。
なぜ、その判断をしたのか。
何を見て危ないと感じたのか。
どの条件なら進めてよいと思ったのか。
何を恐れて、安全側に倒したのか。
こうした人間側の判断条件は、意外なほど記録されていない。
結果のログはある。
システムのログもある。
作業の履歴もある。
しかし、人間が何を見て、何に迷い、どう判断したのかというログは、まだ十分に扱われていない。
ここに、AI時代の大きな空白があるのではないか。
データ化の対象は、顧客から機械へ、そして人間の判断へ
大きく見ると、ネット化や業務システムの普及は、顧客情報をデジタルデータとして扱うコストを下げてきた。
かつて紙の伝票や申込書に書かれていた顧客情報は、データベースに蓄積され、検索され、集計され、分析されるようになった。
その結果、顧客データベースが発展し、CRMという考え方も広がっていった。
次に、IoT、センサー、スマホ、クラウドの発展は、機械の状態や人の行動履歴を取得し、分析するコストを下げてきた。
機械がどう動いたのか。
どこで異常が起きたのか。
人がどのように移動したのか。
何をクリックし、どこで離脱したのか。
こうした情報を扱いやすくなったことで、マシンログや行動履歴の分析が進み、AI活用の対象も広がっていった。
では、次にデータ化されるものは何だろうか。
私は、それが人間の判断の履歴なのではないかと思っている。
これまで組織の知識や判断は、記録や整理にかかる負荷の大きさもあり、かなり抽象化されて扱われてきた。
ノウハウ、経験、勘、暗黙知、属人性。
そう呼ばれてきたものの中には、本当はもっと具体的な判断条件が含まれていたはずである。
何を見て、危ないと感じたのか。
どの条件なら進めてよいと判断したのか。
どこで違和感を持ったのか。
なぜ確認しようと思ったのか。
どの前提が変わったから、以前の対応を変えるべきだと考えたのか。
これまでは、その具体を残すコストが高かった。
記録する手間が大きい。
整理する人がいない。
あとから読める形にするのが難しい。
そもそも何を残せばよいのか、名前がなかった。
だから、多くの判断は「経験」や「勘」という大きな言葉に圧縮されてきた。
しかし、生成AIやAIエージェントによって、この前提が変わる可能性がある。
人間の迷い、違和感、確認理由、判断材料を、最初から完全な文章にしなくても、あとから整理し直せる可能性が出てきた。
散らばったチャットやメールやメモから、判断条件を拾い上げることもできるかもしれない。
もちろん、生成AIがあれば自動的にヒューマンログが生まれるわけではない。
迷いや違和感を残してよいという運用設計と、責めない前提がなければ、記録そのものが上がってこない。
それでも、技術的な前提は変わり始めている。
ネット化や業務システムは、顧客情報を扱うコストを下げた。
IoTやセンサー、スマホ、クラウドは、機械の状態や人の行動履歴を扱うコストを下げた。
そして生成AIやAIエージェントは、人間の判断履歴を扱うコストを下げるかもしれない。
そのとき、ヒューマンログは新しい分析対象になる。
マシンログでもない。
購買履歴でもない。
行動履歴でもない。
人間が何を見て、何に迷い、どの条件で判断したのか。
その具体を残して扱えるようになったとき、組織の知識や暗黙知の扱い方は、大きく変わるのではないか。
マシンログは残る。ヒューマンログは残りにくい
システムの世界では、ログを残すのは当たり前になっている。
いつアクセスしたのか。
どの処理が実行されたのか。
どこでエラーが出たのか。
どのデータが更新されたのか。
機械やシステムの動きは、ログとして残る。
購買履歴も、行動履歴も、検索履歴も、クリック履歴も残る。
だが、現場で人間が判断した瞬間の情報は、驚くほど残っていない。
なぜ確認したのか。
なぜ止めたのか。
なぜ例外対応したのか。
なぜ不安になったのか。
なぜ今回は大丈夫だと判断したのか。
こうした情報は、チャットやメールや口頭のやり取りの中に散らばっている。
あるいは、誰かの頭の中にだけ残っている。
そして時間が経つと消えていく。
私は、この人間側の判断の痕跡を、仮にヒューマンログと呼んでみたい。
ヒューマンログとは、人間が何を見て、何に迷い、何を恐れ、どの条件で判断したのかを残す記録である。
感想文ではない。
反省文でもない。
単なる日報でもない。
人間の判断条件を、あとから読める形で残すためのログである。
迷いログは、ヒューマンログの最小単位だったのかもしれない
これまでこのマガジンでは、迷いログについて考えてきた。
最初は、現場の迷いを残すための器として見ていた。
誰が、何に迷ったのか。
なぜ迷ったのか。
何を判断材料にしたのか。
どう対応したのか。
その結果、どうなったのか。
しかし今回、もう一段抽象化すると、迷いログはヒューマンログを集めるための最小単位だったのかもしれない。
人は、何もないところでは迷わない。
迷うときには、何かを見ている。
条件が揃っていない。
前提が変わっている。
過去の失敗が引っかかっている。
ルール通りに進めることに不安がある。
誰かに確認すべきか、自分で判断すべきか迷っている。
その迷いの中に、人間の判断条件が含まれている。
だから迷いログは、単なる困りごとの記録ではない。
人間がどの条件で判断に詰まったのかを残す、ヒューマンログの入口である。
フィジカルAIほど、判断条件が必要になる
特に、フィジカルAIやロボットが例外の多い現場に入るほど、この問題は大きくなる。
決められた動作を繰り返すだけなら、作業ログや画像データでも進められるかもしれない。
だが、異常・例外・曖昧な状況に対応しようとすると、人間がどの条件で止まり、どの条件で進めていたのかが必要になる。
どの状態なら作業を続けてよいのか。
どの状態なら止まるべきなのか。
どの違和感は人間に確認すべきなのか。
どの条件が重なったら危険なのか。
現場には、こうした判断が無数にある。
しかも、それらは必ずしもマニュアルに書かれていない。
ベテランが何となく止める。
担当者が少し引っかかる。
現場が念のため確認する。
過去のトラブルを知っている人だけが、危険な組み合わせに気づく。
この「何となく」の中に、判断条件がある。
しかし、そのままではAIにもロボットにも渡せない。
今の現場から判断条件を蓄積し始めるのか。
それとも、AIやロボットが例外対応でつまずいてから慌てて集め始めるのか。
この差は、かなり大きくなるのではないか。
まだ職種名すらない領域
世の中には、データアナリストがいる。
マーケティングアナリストがいる。
システムログを分析する人もいる。
購買履歴や行動履歴を分析する人もいる。
だが、人間の判断条件を設計し、収集し、分析する職種は、まだあまり見当たらない。
ヒューマンログ設計者。
判断条件アナリスト。
現場判断データアナリスト。
暗黙知ログデザイナー。
名前はまだ決まっていない。
しかし、必要になる機能は見え始めている。
現場の迷いを拾う。
怯えの由来を読む。
判断条件を整理する。
暗黙知を共有できる形にする。
AIに渡せる判断材料に変換する。
これは、従来の業務改善とも少し違う。
単にムダを削るだけではない。
単にマニュアル化するだけでもない。
単にナレッジを共有するだけでもない。
人間の判断条件を、組織の学習資産に変える仕事である。
判断条件を持っている組織が、次の学習速度を上げる
日本代表のアナリストは、対戦国の判断条件を読もうとしているように見える。
監督の癖。
選手の反応。
チームの崩れ方。
メディア環境。
過去の采配。
クラブでの起用傾向。
それらを組み合わせて、相手がどの条件でどう動くかを予測しようとしている。
企業も、自分たちの組織に対して同じことをした方がいいのかもしれない。
この現場は、どの条件で止まるのか。
どの条件で迷うのか。
どの条件で怯えるのか。
どの条件で過剰確認が増えるのか。
どの条件で暗黙知が失われるのか。
これを読める組織と、読めない組織では、AI時代の差が開く。
マシンログは、機械の動きを残す。
購買履歴は、顧客の行動を残す。
作業ログは、処理の結果を残す。
では、人間の判断条件はどこに残るのか。
その問いに答えるための器が、ヒューマンログなのだと思う。
迷いログは、その入口である。
それは、今すぐ大きなシステムを作るという話ではない。
まずは、現場で人が迷った瞬間を、消える前に残すことから始まる。
AI時代に価値が上がるのは、きれいに整った結果データだけではない。
人間が、何を見て、何に迷い、どの条件で判断したのか。
そのヒューマンログを持っている組織が、次の時代の学習速度を上げていくのではないか。
このマガジンは、現実世界の構造や変化に気づくのが遅れがちな自分自身を戒めるために書いている、思考整理のログです。
記事内の内容は、筆者自身の経験や観察をもとにした個人的な考察であり、特定の企業・業界・職種・個人を批判・断定するものではありません。
ここで用いている言葉や構造化は、現場で起きている複雑な事象を捉え直すための仮説です。正解ではなく、読者自身の現場や経験を見直すための視点としてお読みください。
