言葉にならないもの ──「エピステミック不正義」という見取り図
ある年代のある地域でのことだ。ある女性が妊娠し、赤ちゃんを産んだ。その女性は、出産のあとに深い不調を訴えた。気分が沈み、自分が自分でなくなる感覚が続く。だが、それを言い表す言葉が、まだ社会の中に十分には用意されていない時代があった。
彼女は、自分の状態を「育児に向いていない母親の甘え」としか語ることができなかった。彼女の苦痛を代弁するものは用意されていなかった。出産後の体調不良や心理的な変化について、当時はまだ社会的に認知された専門的な用語も概念もなかった。
そして、ようやく不調を口にしても、医師や家族は「出産後は誰でもそんなものだよ」「気の持ちようじゃないの?」と取り合わなかった。「女性だから」「母親だから」という理由で、出産後の女性の訴えは次第にかき消されていった──。
ここに、二つの異なる「不正義」が重なっていると言える。一つは、語る言葉が存在しないために自分の経験を理解も伝達もできないこと。そして、もう一つは、語っても属性ゆえに信じてもらえないことだ。
この二つの不正義を正確に名指すにはどうすればいいのだろうか。
「経験が言葉を奪われること、言葉を持っても声を奪われること」
これが、本稿の主な主題である。そして、そのための「道具」について考察し、考えるヒントを提供する。
〔注〕産後うつの例は、フリッカーが解釈的不正義の説明で用いる例に基づく。IEP “Epistemic Injustice” では Fricker 2007, pp.149, 159–160 周辺として整理されている。
第一章: エピステミック不正義とは何か

「エピステミック不正義(epistemic injustice)」は、英国の哲学者ミランダ・フリッカー(Miranda Fricker, イギリスのフェミニスト哲学者、認識論の専門家)が2007年の著書で導入した概念だ。日本ではまだ広く知られていないが、近年の哲学・倫理学で急速に参照されるようになった。
日本語では「認識的不正義」と訳されることが多く、文脈によっては「認識をめぐる不正義」と説明されることもある。これは哲学文脈では十分に成立する訳語である。ただし本稿では、あえて「エピステミック」という言葉も併記しておきたい。理由は、この語が単なる「認知」や「理解」にとどまらず、「知ること」「知識として扱われること」「知る主体として認められること」に関わる語だからである。
epistēmē(ἐπιστήμη)は古代ギリシア語で、一般に「知識」と訳される。英語の epistemic はそこから派生し、「知識に関する」「認識論的な」という意味で用いられる。
したがって「エピステミック不正義」とは、単に何かを誤って認識することではない。フリッカーの定義では、ある人が「知る主体としての資格」において不当に貶められることである。つまり、ある人が、知り、語り、理解する主体として正当に扱われないことを指している。
これは普通の意味の「不正義」とは少し違う。財産を奪われる、暴力を受ける、という不正義ではない。「エピステミック不正義」とは、あなたは物事を知り、語り、理解する存在だという、人としての基本的な地位そのものが傷つけられることを意味する。
フリッカーはこの不正義を二つの形に分けた。「証言的不正義」と、「解釈的不正義」である。
エピステミック不正義は、「自分の話が信じられなかった」という不快感すべてを指すものではない。問題は、信じられなかったという結果そのものではなく、信頼性が不当に割り引かれた理由である。
なぜこの概念を知る価値があるのか。それは、私たちが日々感じながら名前を持てずにいた「あの感じ」──話を聞いてもらえない、自分の経験がうまく言葉にならない、その感覚に輪郭を与えてくれるからだ。名前のない経験は、検討の対象にすらならない。名前を得て初めて、それは語れるものになる。
日本でも2023年に主著の邦訳『認識的不正義──権力は知ることの倫理にどのようにかかわるのか』(勁草書房)が出版されているが、一般にはまだ馴染みが薄い分野だと言えよう。
〔注〕Fricker, Epistemic Injustice: Power and the Ethics of Knowing, Oxford University Press, 2007. 定義は同書 p.1「a wrong done to someone specifically in their capacity as a knower」。
第二章: 証言的不正義 ──属性ゆえに値引きされる

フリッカーが定式化した「エピステミック不正義」には、大きく二つの型がある。それは、「証言的不正義」と「解釈的不正義」だ。まずは「証言的不正義」について見ていきたい。
「証言的不正義」(testimonial injustice) は、聞き手が偏見のために、話し手の語ることに対して目減りした信頼性しか与えないときに生じる。
ここで決定的なのは、信頼性が下がる理由だ。話の中身に疑問があって信じないのは、正当な吟味である。しかし問題なのは、話し手が誰であるか──その人の性別、年齢、人種、見た目、話し方といった「話の内容とは無関係な社会的属性」を理由に、中身を聞く前から信頼性が割り引かれる場合だ。
少し具体的な例を挙げてみよう。
ある女性が、同僚の不審な行動について、具体的な物証(本来あるはずのない持ち物を持っていた、等)を根拠に疑問を呈した。だが周囲は「考えすぎじゃないのか?」「女は勘で物を言うから当てにならない」としてその指摘を退けた。
ある事件の犯罪現場を目撃した人物が、警察に対し、犯行時の様子について証言した。しかし、肌の色や人種的背景を理由に、その証言は「信頼性に欠ける」と判断され、有用な証拠として扱われなかった。
ある患者が医師に対して、症状や苦痛を訴えた。しかし医師は、その患者の性別、年齢、既往歴、話し方などに対する先入観から、「大げさだ」「気にしすぎだ」と判断し、訴えを軽視した。
これらには共通の構造がある。証言者のアイデンティティや社会的立場によって、聞き手の中に、本人が自覚しないまま偏見が誘発される。そして、その偏見によって信頼性の不当な割引が行われ、結果として、その証言が知識として流通しなくなる。
もしも、ある人の話が信じてもらえない場合、どうすればいいだろうか。
その発言の信頼性が下げられたのは、話の中身に問題があったからだろうか。それとも、話し手が誰であるか、どのような社会的立場に置かれているかによって、先に信頼性が割り引かれていたからだろうか。
この視座の転換は、相手のためにも、自分のためにも役立つ道具となる。まず、他者が不当に値引きされている場面を見抜くために役立つ。そして、自分が値引きされる側に立ったときに、「これは自分の落ち度ではなく、属性への偏見かもしれない」と気づく機会にもなる。
とくに後者は重要だ。属性ゆえに繰り返し軽んじられた経験のある人は、やがて自分の判断や言葉そのものを信じられなくなる。フリッカーは、この種の不正義を、単発の出来事を超えて「人の自己形成を損なう害」として論じている。
「証言的不正義」において重要なのは、信じないこと自体が不正義なのではないということだ。
中身を吟味する前に、属性によって信頼性を割り引くことが不正義になる。
〔注〕Fricker 2007, 第1章。話し手のアイデンティティに向けられた偏見が信頼性の不当な目減りを生む(Routledge Encyclopedia of Philosophy)。
第三章: 解釈的不正義 ──語る言葉が存在しない

もう一つのエピステミック不正義である「解釈的不正義」(hermeneutical injustice)は、もっと手前の段階で起きる。それは、集合的な解釈資源──社会が共有している概念や言葉──に欠落があるために、ある人が自分自身の経験を理解することすら不利になる場合だ。
本稿の冒頭に書いた「産後うつ」がこれにあたる。「産後うつ」という概念が社会の中で十分に共有されていなかった時代、その状態にある女性は、自分に何が起きているのかを掴む言葉を持てなかった。「セクシュアル・ハラスメント」という語が生まれる前、その被害に遭った人が「これは不快だが、何という種類の出来事なのか」を名指せなかったのも同じ構造だ。
フリッカーが強調した重要な点は、この不正義が、必ずしも特定の加害者の悪意に還元できないということだった。彼女はこれを 「純粋に構造的」 と呼んだ。それは、誰か一人が意地悪をしているのではなく、社会が共有する解釈資源の側に「言葉の空白」があり、その空白が特定の人々を不利に置いていることを指摘している。
もしも、自分の経験がうまく言葉にならない時があれば、次のように自分に問いを投げかけてみるとよいだろう。
「うまく語れないのは、自分の理解力が不足しているからだろうか。それとも、語るための言葉が、まだ社会に存在しないか、または、十分に浸透していないからだろうか」と。
「違和感」は結論ではなく、検討開始の信号である。
そしてここで、「違和感」について述べておかねばならない。
自分の中に違和感がありながら、それを言葉にできない。そういう状態は、解釈資源の欠落と隣り合わせになっている。
重要なのは、違和感は必ずしも正しいとは限らないということだ。違和感が誤解や事実誤認に基づくこともある。それは結論でも、証拠でもない。しかし、違和感は、検討を始めるための信号である。それを吟味する前に、未熟さ・誤り・抵抗として即座に処理して消してしまうことは、あってはならない。
なぜなら、その 「即時の無効化」 こそが、「不正義への入口」 だからだ。違和感を「あなたの理解不足」「あなたの抵抗」として片付ける時、人は自分自身に、あるいは他者に対して、「知る主体」としての地位を否定する振る舞いをとっている。違和感を消すのではなく、検討の俎上(そじょう)に載せること。これが「解釈的不正義」に抗する最初の一歩になる。
もちろん、違和感に名前を与えることも万能ではない。言葉は経験を開くこともあれば、逆に狭めることもある。概念は経験を裁く武器ではなく、経験を検討するための仮の道具である。だからこそ、結論としてではなく、検討の入口として使う必要がある。
違和感は、真理の証明ではない。
しかし、検討前に消してはならない。
〔注〕解釈的不正義の説明は Fricker 2007, 第7章に基づく。「違和感は検討開始の信号である」という整理は、フリッカーの直接の定式ではなく、本稿における応用的立論である。
第四章: なぜ起きるのか ──「真理の体制」と権力

エピステミック不正義は、個人の悪意だけから生まれるのではない。それが繰り返し起きる背景には、社会の側の構造がある。この構造を考えるとき、フランスの哲学者ミシェル・フーコーの「権力論」が手がかりになる。
フーコーは、「権力/知」 と訳される pouvoir-savoir という概念を用いた。スラッシュは意図的だ。「権力」と「知」は、別々のものが時々影響し合うのではなく、不可分に結びついている、という主張である。「知」は、中立的な観察者が真空の中で発見するものではない。「知」は権力関係の中で生産され、同時に、その権力関係を支えるものにもなる。
フーコーは、各社会が 「真理の体制(regime of truth)」 のもとで動くと論じた。どの言明が真とされるか、どの探究方法が妥当とされるか、そして誰が語る権威を持つか。これらは、権力関係から完全に独立して決まるわけではない。
ここで「エピステミック不正義」と接続する。「誰が知る主体として認められるか」それ自体が、すでに権力の問題でもある。フーコーは、医療・精神医学・臨床制度を重要な分析対象とした。誰かを「正常」か「異常」か、「正気」か「狂気」かと分類する力は大きい。その分類は、科学的判断として提示されながら、制度的な処遇や排除と結びつくことがある。
これは、医学や科学を否定するための議論ではない。問題は、科学的・制度的な判断が、どのような権力配置の中で人の訴えを聞いたり、聞かなかったりするのか、という点にある。
導入の産後うつの女性が直面したのも、この「何が正当な訴えとして認められるか」を決める力の配置だった。彼女の苦痛が存在しなかったのではない。苦痛を正当な訴えとして受け取るための言葉、制度、聞き手の姿勢が、社会の側に十分には整っていなかったのである。
なお、ここでフーコーを参照するのは、エピステミック不正義の構造的背景を示すためであって、フリッカーをフーコーに回収するためではない。
エピステミック不正義は、個々人の偏見であると同時に、何が「知」として通用するかを決める構造の産物でもある。だからこそ、個人が気をつければ消える、という話では終わらないのである。
〔注〕フーコー「権力/知」「真理の体制」は Britannica, SEP “Michel Foucault” 等で確認。医療を例とする分類権力の議論も同様。フーコーの「権力論」は広大であり、本稿では「真理の体制」と「権力/知の不可分性」の一点に限定して接続している(範囲の明示)。
第五章 現代的な形 ──最適化と抽象度の高度化

ここから先は、フリッカー自身の議論そのものではなく、「エピステミック不正義」 という見取り図を、現代の技術環境に応用して考えてみよう。
この不正義は、過去のものではない。むしろ、現代の情報技術のもとで、新しい形をとりつつある。AIやアルゴリズムの研究だけでなく、組織運営、医療、教育、自己啓発、政治運動など、さまざまな領域で起こりうる。
AIやアルゴリズムによる最適化、人間を集計可能なデータとして扱う設計は、効率と規模において強力だ。しかし、そこには注意すべき構造がある。
たとえば、組織や行政の現場で、現場の職員が「利用者の声に何か違和感がある」「制度に合わない苦情が続いている」と報告しても、ダッシュボード上の数値が「問題なし」を示していれば、その声は「サンプルサイズが小さい」「定量化できない」「全体傾向ではない」として後景に退けられることがある。平均値、確率分布、重要業績評価指標(KPI:Key Performance Indicator)といった指標は有用だが、現実がそれらの指標によって高い抽象度で把握されるほど、具体的な一人の声は見えにくくなる。
最適化の設計は、ときに、個別の人間を「機能の束」や「集計可能な単位」へと還元する傾向を持つ。一人ひとりが 「知る主体」 として持っている固有の証言、たとえば「私はこう感じている」「これはおかしい」という声は、システム全体の最適化の前で、「ノイズ」 として処理されたり、「平均値」 に吸収されたりしうる。
ここで一つ、慎重に区別しておきたいことがある。「抽象度」を上げること、「最適化」を行うこと、それ自体は悪ではない。高い抽象度で物事を考える力は、より多くの存在を視野に収め、より大きな善を構想するために不可欠だ。問題は抽象度の高さそのものではない。
問題は二つある。
第一に、抽象度の高度化や最適化が、それだけで倫理的な善を保証するわけではない、ということだ。「より抽象的だから、より正しい」「より最適化されているから、より善い」とは言えない。抽象度は 「道具」 であって、善を判定するものではない。善悪を決めるのは、何のために、何を踏まえて、それを使うかによる。
第二に──これが核心だが──抽象度の高度化が、具体的な個人の声を聞こえなくする方向に使われる場合である。それは現代的なエピステミック不正義になりうる。全体の最適化、より高い目標設定、壮大なゴール。それらの名のもとに、目の前の一人の「おかしい」「何か違うのでは」という証言が踏み越えられるなら、どれほど高尚な抽象度であっても、その人を 「知る主体」 として貶めることになりかねない。
全体のため、効率のため、より大きな目的のため。そうした言葉は、ときに、目の前の一人の声を小さく見せる。
抽象度の高度化は、具体的人間を踏み越える免罪符にはならない。
むしろ、抽象度が高ければ高いほど、その下にいる具体的な一人ひとりの声を聞き取れているかを、より注意深く問わねばならない。
〔注〕この章は、フリッカーおよびフーコーの直接の議論ではなく、両者の枠組みを現代の技術環境へ応用した本稿独自の立論である。
結語: エピステミック正義への道 ──見抜く力から、加害しない実践へ

ここまで、エピステミック不正義について考察してきた。これを知ることの価値は、他者や社会を告発するためだけではない。最も大きな価値は、不正義に立ち向かうための二つの力を手にすることだと言えよう。
自分の経験を名指す力
一つは、自分の経験を名指す力である。
言葉にならなかった「違和感」、繰り返し軽んじられてきた感覚に対し、「これは証言的不正義かもしれない」「これは解釈的不正義かもしれない」という輪郭を与えられるようになること。曖昧だったものを名指す経験を経ることで、それはもはや単なる「自分の気のせい」ではなく、検討し、語り、共有するための道具として扱えるようになる。
違和感を言語化できるようになるとき、人は孤立から出て、同じ経験を持つ他者とつながり、社会の解釈資源そのものを少しずつ書き換えていくことができる。「産後うつ」も「ハラスメント」も、かつて誰かが言葉を与えたから、いま私たちが使えるようになった。
自分が加害の側に回らないための力
もう一つは、自分が加害の側に回らないための力である。
フリッカーは、二つの不正義に対応する二つの徳を挙げた。証言的正義の徳と、解釈的正義の徳である。
前者は、聞き手が自分の中の偏見を補正し、話し手の信頼性を属性によってではなく、公正に判定しようとする態度である。後者は、相手がうまく言葉にできずにいるとき、その沈黙を「中身がない」と決めつけず、まだ言葉になっていない何かに耳を澄ます態度である。
もしかしたら、こう思う人もいるかもしれない。「相手の言葉にならないものに耳を澄ませと言われても、聞き手には限界がある。何でも受け止めろという道徳的圧力になるのではないか」と。
しかし、ここで言いたいのは、相手の言葉を無条件に信じろということではない。また、すべてを受け止める義務を個人に課すことでもない。
ただ、判断する前に、属性による値引きや、言葉にならない経験の可能性を、もう一度点検する姿勢を持つことが重要なのである。
エピステミック不正義の概念は、誰かを裁くための武器ではない。それは、自分の聞き方、判断の仕方、そして内的対話を点検するための道具である。自分自身も含めて、いま目の前にいる人が、「知る主体」として正当に扱われているか。その人の「違和感」を、吟味する前に消していないか。この問いを持ち続けることが、エピステミック正義への道となる。
「知」に関わる概念を手にすることで、それまで語る言葉が存在しないために理解も伝達もできなかった経験に、輪郭を与えることができる。そして、語っても属性ゆえに信じてもらえなかった経験を、個人の弱さや気のせいとしてではなく、検討可能な問題として捉え直す手がかりを得ることができる。
本稿が、そのための一つの道具となれば幸いである。
〔注〕証言的正義の徳・解釈的正義の徳は Fricker 2007(それぞれ第4章、第7章)を参照。いずれも、聞き手の側に求められる倫理的かつ知的な徳として論じられている。
【付録】
ミニ年表(概念史)
1980〜90年代:フェミニスト認識論、立場理論、批判的人種理論、ブラック・フェミニズムなどが、「知ること」をめぐる不均衡を批判していた。Sandra Harding、Nancy Hartsock、Lorraine Code、Linda Martín Alcoff、Patricia Hill Collins、Kimberlé Crenshaw、Charles W. Mills らの議論は、後に「エピステミック不正義」として定式化される問題圏の重要な前史に位置づけられる。
2007年:ミランダ・フリッカー『Epistemic Injustice: Power and the Ethics of Knowing』刊行。「エピステミック不正義」「証言的不正義」「解釈的不正義」を体系的に定式化。なお、フリッカーの問題意識や関連概念は、2007年の主著以前の論文にも遡る。ここでは一般に参照される体系的定式化として、2007年の著作を基準に置く。
2010年代以降:概念が急速に拡張される。信頼性の「過剰付与」も証言的不正義となりうるという議論(Davis 2016)、沈黙化(silencing)の実践とエピステミック・ヴァイオレンスの分析(Dotson 2011)、エピステミック正義を社会制度の徳として考える展開(Anderson 2012)など、後続研究が多数現れる。
〔注〕前史のフェミニスト認識論・批判的人種理論・立場理論の系譜については、Routledge Encyclopedia of Philosophy “Epistemic Injustice” などを参照。後続研究のうち、Davis 2016 は信頼性の過剰付与による証言的不正義、Dotson 2011 は沈黙化の実践の分析、Anderson 2012 は制度的次元への展開として位置づけられる。
参考文献・参照資料
Miranda Fricker, Epistemic Injustice: Power and the Ethics of Knowing, Oxford University Press, 2007.(邦訳:ミランダ・フリッカー『認識的不正義——権力は知ることの倫理にどのようにかかわるのか』飯塚理恵訳・佐藤邦政監訳、勁草書房、2023年)
“Epistemic Injustice,” Internet Encyclopedia of Philosophy. https://iep.utm.edu/epistemic-injustice/
“Epistemic Injustice,” Routledge Encyclopedia of Philosophy.
Emmalon Davis, “Typecasts, Tokens, and Spokespersons: A Case for Credibility Excess as Testimonial Injustice,” Hypatia, 31(3), 2016.
Kristie Dotson, “Tracking Epistemic Violence, Tracking Practices of Silencing,” Hypatia, 26(2), 2011.
Elizabeth Anderson, “Epistemic Justice as a Virtue of Social Institutions,” Social Epistemology, 26(2), 2012.
Michel Foucault 関連:Stanford Encyclopedia of Philosophy “Michel Foucault”、Encyclopaedia Britannica “power-knowledge.”
