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現代分析哲学・可能世界入門 ──クリプキ、ルイス、アダムスの違い

はじめに ──「もし、あの時・・・」


「もし、あの時、別の道を選んでいたら・・・」
「もし、あの一言を、言わなかったならば・・・」

誰にでも、こんな思いがよぎる瞬間があるかもしれない。

過ぎ去った出来事を思い返し、それとは違う筋道を頭の中で描く。或いは未来に向かって、「もし試験に受かったら」「もし引っ越したら」と、まだ起きていない可能性を思い描くこともある。

こうした「もし〜だったら」という思考は、あまりにありふれていて、ふだん私たちはそれを特別なこととは思わない。だが、少し立ち止まって考えてみると、これは不思議な営みである。

現実には起こらなかったことや、まだ起きていないこと──つまり、現実には成り立っていない事柄について、私たちは平然と語り、しかもそれについて「あり得た」「ありそうにない」「正しい」「おかしい」と判断さえしている。

現実には成り立っていないことを、どうして私たちは考えることができるのだろうか。

20世紀の哲学と論理学は、この素朴な問いを正面から扱おうとした。その時、鍵となった思考の道具が、「可能世界(possible world)」という考え方である。

ただし、これから先を読むうえで最も大切なことを、先に述べておきたい。それは、「可能世界」という同じ言葉を使いながら、哲学者たちは実はそれぞれ別のことを考えていた、という事実があるという点である。

ある者は論理学の道具として、ある者は文字どおり実在するものとして、またある者は、その中間の穏やかな立場として、この言葉を用いた。同じ語をめぐって、まったく異なる問いが立てられていたのである。

本稿では、その違いを丁寧に読み解いていく。中心に置くのは、ソール・クリプキデイヴィッド・ルイスロバート・アダムスの三人だ。

しかしこれは、彼らを「正解はどれか」と競わせるためではない。それぞれが、何を問い、何を主張し、何を主張しなかったのかを見分けられるようになること──それが、本稿の目的である。




【第一部】 クリプキ ──意味論としての可能世界


「可能世界」という発想を現代に定着させた立役者の一人が、ソール・クリプキ(Saul Kripke, 1940–2022)である。ただし、彼の仕事はしばしば一括りに語られるが、実は性格の異なる二つの層から成り立っている。この二つの層を分けて見ることが、混乱を避ける最初の鍵になる。

第一の層──様相論理の意味論


一つ目の層は、論理学の仕事である。

私たちは、「必ずそうだ(必然的に)」「そうであり得る(可能だ)」という言い方を日常的にする。

「2 + 2 は必然的に 4 だ」
「明日は雨が降り得る」

こうした「必然」「可能」を扱う論理を、様相論理(modal logic)と呼ぶ。

「様相(modality)」とは、物事の「在り方」──必ずそうなのか、たまたまそうなのか、あり得たのか──を指す言葉だと考えればよい。

様相論理そのものは、20世紀前半から研究されていた。しかし、それが何を意味しているのか、つまり、「必然的に P である」とは厳密にはどういう状態を指すのかを、すっきりと整理する枠組みは長らく定まっていなかった。

クリプキがまだ10代だった1950年代末から1960年代にかけて、彼はこの問題に明快な答えを与えた。1959年の論文 「様相論理における完全性定理(A Completeness Theorem in Modal Logic)」、そして、1963年の 「様相論理についての意味論的考察(Semantical Considerations on Modal Logic)」 が、その核心である。

その答えの要点は、こう言い換えられる。「必然的に P である」とは、その世界から到達可能な全ての可能世界で P が真であることを意味し、「可能的に P である」とは、到達可能な少なくとも一つの可能世界で P が真であることを意味する、と。(注1)
「到達可能」が何を指すかは、すぐ後で説明する。

ここで「可能世界」は、謂わば「物事のあり得た在り方」を一つ一つ並べたものだと考えればよい。たとえば、「私は今、コーヒーを飲んでいるが、飲んでいなかったかもしれない」と言う時、「私がコーヒーを飲んでいる世界」と「飲んでいない世界」を思い描いている。「あり得た」とは、そうした世界のどれかでそれが成り立つ、ということだ。

この枠組みには、もう一つ重要な部品がある。「到達可能性関係(accessibility relation)」と呼ばれるものだ。これは「ある世界から見て、どの世界が『あり得る』と見なせるか」を定める関係である。

少し抽象的だが、たとえば、「物理法則を変えない範囲であり得ること」と「論理法則さえ変えなければあり得ること」とでは、見渡せる世界の範囲が違う。この「どこまでを可能と見なすか」の調整を担うのが「到達可能性関係」であり、これを変えることで「様相論理」には様々な種類、すなわち体系が生まれる。

クリプキの仕事は、この関係を使って、「様相論理」を厳密に解釈し、それぞれの体系について論理が「過不足なく成り立つ」こと、すなわち完全性を証明した点にあった。

ここで強調しておきたいのは、この第一の層において、「可能世界」は、あくまでも論理を解釈するための「数学的・モデル論的な道具」であるということだ。

地図上に点を打って関係を線で結ぶように、論理の意味を与えるための構造として「可能世界」が導入されている。それが宇宙のどこかに物理的に実在するか、といった問いは、ここではまだ立てられていない。


(注1)もう少し形式的に言えば、クリプキ意味論では、モデルを M = 〈W, R, V〉 のように表す。W は可能世界の集合、R は世界同士の到達可能性関係、V は各原子命題がどの世界で真であるかを与える評価である。ある世界 w において □P が真であるとは、w から R によって到達可能な全ての世界で P が真であることを意味する。また、◇P が真であるとは、w から到達可能な少なくとも一つの世界で P が真であることを意味する。


第二の層──『名指しと必然性』


二つ目の層は、「論理学」というより、名前指示必然性をめぐる「哲学」である。

1970年、クリプキは、プリンストン大学で三回の講義を行った。それが後に一冊の本にまとめられ、1980年に『名指しと必然性(Naming and Necessity)』として刊行される。分析哲学の20世紀後半を代表する一冊であり、日本語訳も八木沢敬・野家啓一の訳で産業図書から出ている。

この本の中心的な主張の一つが、「固定指示子(rigid designator)」という考え方である。

「固定指示子(リジッド・デジグネーター)」とは、ごく簡単に言えば、「全ての可能世界で同じ対象を指し示す名前などの指示表現」のことである。ここでは、まず固有名を例に考えてみよう。

たとえば、「アリストテレス」という名前について考えてみよう。彼が哲学者にならなかった世界を考えても、或いは、王になっていた世界を考えても、その名前は、やはり同じアリストテレスという人物を指している。名前は、その人物がどんな性質を持っていたかとは独立に、同じ対象を指し続ける。クリプキはそう論じた。

これは当時の標準的な見方への異議だった。それまでは、「アリストテレス」という名前は「プラトンの弟子で、アレクサンドロスの師であった哲学者」といった性質の束を縮めたものだ、と考える立場(記述説)が有力だった。だが、クリプキは、名前はそうした性質を介さずに直接対象を指す、と論じたのである。

ここから、有名な「必然的同一性」の議論が出てくる。たとえば、「宵の明星」と「明けの明星」は、どちらも「金星」を指す。両者が同じものだと判明したのは、天文学的な発見によってである。しかし、ひとたびそれらが同じ金星を指しているとわかれば、「宵の明星」も「明けの明星」も、固定指示子として、全ての可能世界で同じ「金星」を指すことになる。

したがって、「宵の明星」と「明けの明星」が同一であるという事実は、全ての可能世界で成り立つ。つまり、それは必然的な同一性である。ここに、「経験によって初めてわかるのに、必然的に成り立つ」という、それまで両立しないと思われていた組み合わせがある。これは、クリプキが明確にした重要な論点の一つであり、しばしば「ア・ポステリオリな必然性」と呼ばれる。


可能世界は「発見」するものではなく「規定」するもの


では、本稿全体にとって最も重要な論点に入ることにする。

クリプキは、可能世界を「強力な望遠鏡で覗いて発見する遠い惑星」のようなものだと考えてはならない、とはっきり戒めている。

言い換えれば、クリプキにとって可能世界とは、私たちが「もしこうだったら」という状況を語る時に、自分たちで規定する(stipulate)ものなのである。

クリプキが挙げる例の一つが、政治家のニクソン大統領をめぐるものだ。

「ニクソンが選挙に勝ったのは、たまたまそうだったにすぎない。必然ではない」と私たちは言える。これは、「ニクソンが選挙に負けていた可能世界」を考えることに当たる。

だが、その時、私たちは、どこか別の場所にある世界を観測し、そこにいる誰かが本当にニクソンなのかを確かめているわけではない。そうではなく、「ほかでもないこのニクソンが、選挙に負けていたとしたら」と、こちらから状況を設定しているのである。

だからこそ、「その世界にいるのは本当にニクソンなのか」という問いは生じない。最初からニクソンについて語ると規定しているからである。

この 「発見ではなく規定」という見方は、クリプキとは別の仕方で可能世界を論じたルイスの立場と、際立った対比を成す。そしてこの点は、可能世界をめぐる誤解を避けるうえで重要である。

つまり、「可能世界が実在するなら、そこへ行ける/近づける」という発想が、いかにクリプキの枠組みとは異質なものか、ということだ。

クリプキにとって可能世界は、移動したり接近したりする物理的・具体的な場所ではない。それは、私たちが言葉で状況を語るために設定する、謂わば「思考の舞台装置」なのである。


クリプキは可能世界の「実在」を主張したのか


クリプキを語るうえで、もう一つ、慎重に確認しておきたいことがある。

それは、クリプキが可能世界を巡り、何を主張し、何を主張しなかったか、である。

彼が与えたのは、第一に、様相論理を解釈するための意味論である。そして、第二に、名前と必然性をめぐる哲学だった。

そのいずれにおいても、クリプキにおける可能世界は、様相的な言明を評価するための意味論的・モデル論的な装置であって、物理的に存在する別の宇宙でも、移動できる行き先でもない。

では、クリプキは「可能世界は、何らかの仕方で実在する」と主張したのだろうか。

ここは正確を期す必要がある。実際には、クリプキ自身は、可能世界の存在身分、すなわちそれがどんな種類の存在なのかについて、重い形而上学的な立場を引き受けることを避けていた。

クリプキの意味論を受け入れることが、可能世界という存在物への存在論的なコミットメントを伴うかどうかは、専門家の間でも論争があり、自明ではない。

したがって、「クリプキは可能世界が抽象的な存在として実在すると考えた」と断定するのは、正確ではない。彼が確立したのは、あくまで「様相を厳密に語るための枠組み」であり、その枠組みが前提とする可能世界の正体については、慎重に語りを控えていた。

この点は、次に見るルイスとの最大の違いの一つである。


【第二部】 ルイス ──形而上学としての可能世界


デイヴィッド・ルイス
(David Lewis, 1941–2001)は、可能世界について、クリプキとはまったく別の問いを立てた。

クリプキの問いが「様相を表す言明を、どう厳密に解釈するか」という意味論・論理学の問いだったとすれば、ルイスの問いはもっと根の深いところにあった。

「そもそも『可能だ』『必然だ』ということは、何によって成り立っているのか」。様相という不思議な事柄を、より基礎的な何かによって説明し尽くせないか──これがルイスの動機だった。


なぜ、ルイスは可能世界が「実在する」と考えたのか


ルイスの答えは、多くの人を驚かせるものだった。

彼は、可能世界は、私たちのこの世界と同じだけ、具体的に実在すると考えたからである。

この立場は、「様相実在論(modal realism)」と呼ばれる。その集大成が、1986年の著作『世界の複数性について(On the Plurality of Worlds)』である。

ルイスによれば、私たちの世界は、無数にある世界のうちのただ一つにすぎない。他にも無数の世界が存在し、そこには別の在り方をした事物が、私たちの世界の事物と同じように具体的に存在している。ただし、それらの世界は、私たちの世界のどこか遠くにあるわけではない。私たちの世界とは時空的につながっていない、まったく独立した存在だとされる。

では、なぜルイスは、これほど常識に反する主張をあえて引き受けたのか。

ここで、哲学における一つの考え方を確認しておきたい。一般に、同じことを説明できるなら、余計な存在者を増やさない方がよい、と考えられることがある。これはしばしば「オッカムの剃刀」と呼ばれる。

この意味で見るなら、ルイスの立場は決して節約的ではない。むしろ、無数の可能世界が具体的に実在すると認めるのだから、存在論的には非常に高くつく立場である。

それにもかかわらず、ルイスがこの立場を採ったのは、存在者の数を節約するためではなかった。彼にとって重要だったのは、様相を統一的に説明できるという理論上の利点だった。

もし可能世界が文字どおり実在するなら、「可能だ」とは「ある世界でそうなっている」こと、「必然だ」とは「全ての世界でそうなっている」ことだ、と説明できる。つまり、「可能」「必然」という捉えどころのない概念を、「どの世界で何が成り立っているか」という形で説明できるのである。

言い換えれば、様相という概念を、「世界が存在し、そこで何が成り立っているか」という、様相を含まない事実によって説明できることになる。哲学的に言えば、様相を、より基礎的な非様相的事実へと還元できる、ということである。

ルイスは、無数の世界を認めるという大きな代償を払ってでも、様相をこのように統一的に説明できる点に、理論上の利点を見たのである。


対応者理論 ──別の世界の「私」は私ではない


ルイスの体系には、もう一つ特徴的な部品がある。それが、「対応者理論(counterpart theory)」である。

「私は弁護士になっていたかもしれない」と言う時、素朴には「別の可能世界に、弁護士になった私がいる」と考えたくなる。だが、ルイスの世界観では、それぞれの世界は完全に独立しており、一人の同じ個人が複数の世界にまたがって存在することはない。

では、「別の世界の私」とは何か。

ルイスは、これを「対応者(counterpart)」という概念で説明する。別の世界には、私ではないが、私によく似た誰か──私の対応者──がいる。「私は弁護士になっていたかもしれない」とは、「別の世界に、弁護士になった私の対応者がいる」ことだ、というわけである。私自身がその世界に存在するのではない。あくまで、私に対応する別の誰かがいるにすぎない。


様相実在論に対する批判


ルイスの様相実在論に対しては、当然ながら強い反応があった。

最もよく知られているのが、その主張の信じがたさそのものに向けられた反応である。無数の世界が私たちのこの世界とまったく同じ意味で実在し、そこに具体的な事物や人々がいる──この主張は、多くの哲学者にとって、にわかには受け入れがたいものだった。

これはしばしば「信じがたさへの眼差し(incredulous stare)」と呼ばれる。ルイス自身、これが理論への真剣な反論であることを認めつつ、それでも理論全体がもたらす説明上の利得のほうが上回る、と応じている。

ここで一つ、立場を保留して述べておきたい。ルイスへのこうした批判が「正しい」とか、ルイスが「間違っている」と結論づけるのは、本稿の役割ではない。重要なのは、こうした批判が存在するという事実を知り、そのうえで、読者自身が考える材料を持つことだ。

哲学の議論は、どちらが勝ったかを決める競技ではなく、それぞれの立場が何を引き受け、何を代償として払っているのかを見定める営みである。

そして、ここまで読めば見えてくるものがある。

クリプキとルイスは、「可能世界」という同じ言葉を使いながら、まったく違うことを語っていた。

クリプキにとって、可能世界は、様相を語るための意味論的な道具であり、私たちが状況を規定するための舞台だった。

ルイスにとって、可能世界は、私たちの世界と同じだけ具体的に実在する、独立した具体的世界だった。

この違いを見落とすと、たとえば「可能世界は実在するのだから、別の世界へ移っていける」といった発想が、いつのまにか忍び込んでくる。

しかし、ルイスの立場においても、可能世界は私たちの世界のどこか遠くにある場所ではない。私たちの世界とは時空的につながっておらず、移動したり接近したりできる場所ではない。

だが、それがどの立場に由来する考えなのかを問い直すことが、混乱を防ぐ第一歩になる。


【第三部】 アダムス、プランティンガ、スタルネイカー ──ルイス型の具体的実在論を取らない可能世界


ここまで、可能世界を意味論の道具と見るクリプキと、具体的に実在するものと見るルイスを見てきた。

だが、立場はこの二つに尽きるわけではない。両者の間には、より穏健な選択肢が広がっている。

その共通の発想は、こう要約できる。可能世界を、ルイスのように具体的に実在する別世界と考える必要はない。かといって、可能世界という考え方が全く無意味になるわけでもない。可能世界は、抽象的な何か──たとえば命題の集合や、物事の在り方の記述──として理解すればよい、というものである。

こうした立場は、広く「現実主義(actualism)」と呼ばれることがある。

ここで一つ、言葉について注意しておきたい。分析哲学で言う「現実主義」は、政治や日常で使われる「リアリズム」とは別物であり、英語の actualism の訳語である。

また、これは可能世界の実在性を一般に否定する立場でもない。否定するのは、あくまでルイス型の「現実とは別の、具体的な世界」である。そのうえで、現実に存在する抽象的なもの──命題や事態など──によって可能性を説明しようとするのが、この立場の基本的な発想である。


アダムス ──命題の集まりとしての可能世界


ロバート・アダムス(Robert M. Adams)は、1974年の論文「現実性の諸理論(Theories of Actuality)」などで、この問題に取り組んだ論者の一人である。

アダムスの議論は、可能世界を具体的な別世界としてではなく、現実に存在する抽象的なものによって理解しようとする路線の、代表的な一例として読むことができる。この路線では、可能世界を、たとえば「互いに矛盾せず、これ以上付け加えようのないところまで完結した、命題の集まり」として考えることがある。

少し堅い言い方をすれば、「極大無矛盾な命題集合」である。要するに、「ある世界について言えることを全て、矛盾なく書き尽くしたリスト」だと考えればよい。そのリストが、一つの可能世界に対応する。ここには、どこかに浮かぶ具体的な別世界は登場しない。あるのは、現実に存在する命題や記述の組み合わせである。

なお、こうした「命題の集まりとして可能世界を捉える」という発想は、アダムス一人の固有の説というより、可能世界を抽象的なものとして構成しようとする立場に広く見られる考え方である。アダムスは、その流れを代表する論者の一人として位置づけられる。


プランティンガ ──あり得る事態としての可能世界


アルヴィン・プランティンガ
(Alvin Plantinga)は、1974年の著作 『必然性の本性(The Nature of Necessity)』で、また別の道を示した。

プランティンガは、可能世界を、「あり得る事態(state of affairs)」のうち、これ以上詳しく定めようのないところまで完結したものとして捉える。

「事態」とは、たとえば「猫がマットの上にいる」というような、物事の在り方を指す。そうした事態には、現実に成り立っているものもあれば、成り立っていないものもある。

プランティンガは、そうした事態を最大限に組み合わせたものを、一つの可能世界とみなした。


スタルネイカー ──穏健な可能世界の擁護


ロバート・スタルネイカー
(Robert Stalnaker)もまた、ルイスとは異なる、より穏健な可能世界の理解を擁護した。

スタルネイカーは、可能世界という概念の有用性を高く評価しつつ、それをルイスのような具体的実在として引き受けることには与しなかった。可能世界は、物事のあり得た在り方を表すものとして役に立つ。だが、だからといって、それが私たちの世界と同じ意味で具体的に実在する必要はない、という立場である。


立場は一つではない


この第三部から読み取ってほしいのは、特定の正解ではない。むしろ、可能世界論の立場は一つではない、ということだ。

可能世界について、ルイスのような具体的実在論を取らなくても、可能世界を語ることは十分にできる。「意味論の道具」として扱うこともできれば、「抽象的な命題」「事態の集まり」として理解することもできる。立場は二者択一ではなく、いくつものグラデーションがある。

そして、どの立場を取るかは、それぞれに代償と利点がある選択であって、誰かに与えられて鵜呑みにするものではない。

読者には、選択の余地がある。この「選べる」という事実を知っておくことが、特定の語り口を無批判に受け入れてしまわないための、ささやかだが確かな足場になる。


【補論】 反事実条件法と非単調論理 ──似て非なる二つの系統


ここで、可能世界論の周辺でしばしば混同される二つの話題を、はっきりと切り分けておきたい。

それは、「もし〜だったら」をめぐる議論と、人工知能の研究で生まれた「常識的な推論」をめぐる議論である。両者は近いところにあるように見えて、実は別の研究の系統に属している。


反事実条件法 ──「もし〜だったら」の評価


一つ目は、反事実条件法(counterfactual conditional)と呼ばれるものだ。「もしあの時、試験に合格していたら、別の仕事に就いていただろう」というような、現実には成り立たなかった前提から、あり得た結果を考える言い方である。

こうした言明をどう評価すればよいだろうか。

デイヴィッド・ルイスは、1973年の著作  『反事実条件法(Counterfactuals)』で、可能世界を使った分析を与えた。

大まかに言えば、「もし A だったら C だっただろう」が真であるのは、A が成り立つ可能世界のうち、現実の世界に最も近い世界、或いは最も近い世界の群において、C もまた成り立っている場合だ、という考え方である。

ここでは「現実に近い世界」という発想、つまり、世界同士の近さ・遠さが鍵になる。これは可能世界の枠組みの中での議論である。


非単調論理 ──新しい情報で結論を取り下げる推論


二つ目は、非単調論理(non-monotonic logic)と呼ばれるものだ。これは可能世界論の本流ではなく、人工知能・知識表現の研究の中から、別系統として生まれたものである。

普通の論理、すなわち演繹では、前提を増やしても、一旦、導いた結論が取り消されることはない。前提が増えれば、導ける結論は減らない。この性質を「単調性」と呼ぶ。

ところが、人間の常識的な推論はそうではない。たとえば、「鳥は、普通、飛ぶ。これは鳥だ。だから飛ぶだろう」と推論した後に、「ただし、これはペンギンだった」という新しい情報が加わると、私たちは「飛ぶ」という結論をあっさり取り下げる。前提、すなわち情報が増えたことで、結論が減ったのである。これは通常の演繹の単調性を破っている。

こうした「新しい情報によって以前の結論を撤回できる推論」形式的に扱おうとしたのが、「非単調論理」である。

この分野は1980年前後に確立した。特に1980年、人工知能の専門誌『Artificial Intelligence』が非単調推論の特集号を組み、ジョン・マッカーシーの「サーカムスクリプション(circumscription)」、レイ・ライターの「デフォルト論理(default logic)」、ドリュー・マクダーモットとジョン・ドイルの研究などが一挙に世に出た。

これらはいずれも、「人工知能に人間のような常識的推論をさせるにはどうすればよいか」という計算機科学の問題意識から生まれたものである。


二つは関係し得るが、同じ理論ではない


ここで強調したいのは、次の点である。

反事実条件法は、「もし〜だったら」という言明をどう評価するかという問題である。

非単調論理は、新しい情報によって以前の結論をどう撤回するかという問題である。

両者は推論や知識をめぐって関係し得ることはあっても、同じ理論ではないし、同じ研究の系統に属してもいない。

更に言えば、反事実条件法に対するルイスの可能世界分析(哲学・論理学の系統)と、常識推論を扱う非単調論理(人工知能・知識表現の系統)も、また別の系統である。

これらが一つの物語の中で地続きに語られることがある。しかし、聞き手の側では、どこからどこまでがどの分野の成果なのかを切り分けて受け取ることが大切になる。一つの滑らかな説明として差し出されたものを、そのまま一枚岩の知識として呑み込まないこと──それが、誤解を避けるうえでの要になる。


【第四部】 可能世界論は完成しているのか


ここまで読んできて、こう思った人もいるかもしれない。

「では、結局、可能世界とは何なのか。決着はついているのか」と。

正直に答えれば、こうなる。道具としては成熟しているが、その正体をめぐる問いは、今も閉じていない。

論理学・意味論の道具としての可能世界は、既に十分に成熟している。様相論理の意味論は確立し、哲学だけでなく、計算機科学や言語学など多くの分野で標準的に用いられている。この水準では、可能世界は、信頼できる理論的道具として広く使われている。

だが、「可能世界とは何であるのか」という形而上学的な問いになると、話は別だ。この問いは、今も活発に論じられている。ここでは、現在も続いている論点をいくつか、深入りせずに挙げておこう。

一つは、可能世界を「役に立つ虚構」として扱う立場。これは、様相虚構主義(modal fictionalism)と呼ばれ、可能世界が本当に存在するとは認めないまま、あたかも存在するかのように語ることの有用性を説明しようとする。ギデオン・ローゼンらの議論が知られている。

もう一つは、ティモシー・ウィリアムソン(Timothy Williamson)が2013年の著作 『形而上学としての様相論理(Modal Logic as Metaphysics)』で展開した、何が必然的に存在するのかをめぐる論争である。

ここでは、「全てのものは必然的に存在するのか」、それとも「存在しなかったかもしれないものがあるのか」が問題になる。前者の立場は必然主義、後者の立場は偶然主義と呼ばれる。

ただし、ここでいう「存在する」は、日常語でいう「物理的にそこにある」という意味とは少し異なる。量化論理では、「全てのもの」「あるもの」といった言い方を、どの範囲の対象について語っているのかという形で扱う。そのため、ここでの「存在」は、物理的にそこにあるかどうかではなく、論理の中で対象として数えられるかどうか、という技術的な意味を含んでいる。

さらに、「不可能世界(impossible worlds)」を理論に導入すべきか、という問いもある。フランチェスコ・ベルトマーク・ジェイゴの2019年の著作 『不可能世界(Impossible Worlds)』などで論じられ、矛盾を含むような「あり得ない状況」まで扱えるよう枠組みを拡張する試みである。

これらの詳細に立ち入る必要はない。ここで確認しておきたいのは、ただ一つである。可能世界論は、どこかの権威が完成させて封をした理論ではない、ということだ。問いは今も開かれていて、世界中の哲学者がそれぞれの立場から論じ続けている。

「これが可能世界論の全てだ」と一枚岩で差し出されるものがあれば、それは、この現在進行形の探究のごく一部を、固めて見せているにすぎない。


結語 ──鵜呑みにしないという知性


本稿で見てきたことを、簡単に整理すると次のようになる。

可能世界論の三つの立場


同じ「可能世界」という言葉のもとで、三者はまったく違う問いを立て、違う答えを出していた。

クリプキは可能世界を実在物として強く主張したわけではなく、ルイスとアダムスらは、可能世界を具体的な別世界として認めるか、それとも抽象的な構成物として理解するかをめぐって、大きく異なる立場に立つ。

この見取り図を持っているだけで、可能世界をめぐる議論はかなり見通しがよくなる。

そして、本稿を通じて筆者が最も伝えたかったのは、個々の理論の中身そのものよりも、知に向き合う姿勢についてである。

可能世界論のように、抽象的で、しかも複数の哲学的な立場が交錯する話題では、誰か一人の説明だけを聞いて「わかった」と思ってしまうのは、とても危ういものがある。

語り手が、クリプキの意味論と、ルイスの形而上学と、人工知能の非単調論理とを、一つの滑らかな物語に編み上げて差し出すというのは、実際に起こり得る話である。その物語は魅力的で、つい、わかった気にさせてくれる。

だが、どこからどこまでが、誰の、どの分野の主張なのか、違いは何なのかを切り分けないまま受け取れば、私たちは「わかったつもり」になってしまい、出どころの曖昧な像を抱え込むことになる。これは研究者たちが警戒する事態であり、放置すれば、哲学的・科学的な検証から離れてしまいかねない。

これを未然に防ぐ方法は、原典に当たることだ。一人の語り手だけでなく、複数の立場を見比べること。そして、「これは、誰の、どの系統の主張なのか」と問い直すこと。地味だが、これに勝る方法はない。

自分で確かめるという営みは、面倒で、時間が掛かる。だが、その手間こそが、借り物の確信と、自分で確かめた理解とを分ける手立てになる。

一つの権威的な説明を鵜呑みにせず、自分の足で原典まで歩いていくこと──それ自体が、一つの知性の在り方である。

そしてそれは、敬意をもって学び続けるための、最良の道でもある。




【付録A】 主な参考文献


(書誌は一次資料および信頼できる学術資料に基づき確認した。邦訳の有無は、本稿で確認した範囲で付記する。)

クリプキ

  • Saul Kripke, "A Completeness Theorem in Modal Logic," Journal of Symbolic Logic, vol. 24, no. 1 (1959), pp. 1–14.

  • Saul Kripke, "Semantical Considerations on Modal Logic," Acta Philosophica Fennica, 16 (1963), pp. 83–94.

  • Saul Kripke, Naming and Necessity, Harvard University Press, 1980(原型は1970年プリンストン講義). 邦訳:ソール・A・クリプキ『名指しと必然性──様相の形而上学と心身問題』八木沢敬・野家啓一訳、産業図書、1985年。

ルイス

  • David Lewis, Counterfactuals, Blackwell, 1973.

  • David Lewis, "Counterpart Theory and Quantified Modal Logic," Journal of Philosophy, vol. 65, no. 5 (1968), pp. 113–126.

  • David Lewis, On the Plurality of Worlds, Blackwell, 1986.

現実主義の系統

  • Robert M. Adams, "Theories of Actuality," Noûs, vol. 8, no. 3 (1974), pp. 211–231.

  • Alvin Plantinga, The Nature of Necessity, Oxford University Press, 1974.

  • Robert Stalnaker, Inquiry, MIT Press(Bradford Books), 1984.

非単調論理(別系統・参考)

  • John McCarthy, "Circumscription—A Form of Non-Monotonic Reasoning," Artificial Intelligence, 13 (1980), pp. 27–39.

  • Ray Reiter, "A Logic for Default Reasoning," Artificial Intelligence, 13 (1980), pp. 81–132.

  • Drew McDermott & Jon Doyle, "Non-Monotonic Logic I," Artificial Intelligence, 13 (1980), pp. 41–72.

現在も続く問い(参考)

  • Gideon Rosen, "Modal Fictionalism," Mind, vol. 99, no. 395 (1990), pp. 327–354.

  • Timothy Williamson, Modal Logic as Metaphysics, Oxford University Press, 2013.

  • Francesco Berto & Mark Jago, Impossible Worlds, Oxford University Press, 2019.



【付録B】 用語解説


可能世界(possible world)
 
物事の「あり得た在り方」を一つのまとまりとして捉えたもの。その正体(実在物か、抽象物か、道具か)については立場が分かれる。

様相(modality) 
物事が「必ずそうなのか」「たまたまそうなのか」「あり得たのか」という、在り方の種類。

様相論理(modal logic) 
「必然」「可能」といった様相を扱う論理。

必然/可能 
「必然的に P」は、その世界から到達可能な全ての可能世界で P が真であること、「可能的に P」は、到達可能な少なくとも一つの可能世界で P が真であることとして解釈される。

到達可能性関係(accessibility relation) 
ある世界から見て、どの世界を「あり得る」と見なせるかを定める関係。これを変えると、様相論理の体系が変わる。

固定指示子(rigid designator) 
全ての可能世界で同じ対象を指す名前などの指示表現。クリプキの『名指しと必然性』の中心概念。(※「剛体」という訳語は物理学の別概念であり、ここでは用いない。)

ア・ポステリオリな必然性 
経験によって初めて知られるが、一度知られれば必然的に成り立つとされる事柄。クリプキは、「宵の明星=明けの明星」のような同一性命題を例に、この組み合わせを明確にした。

規定(stipulation) 
可能世界を「発見」するのではなく、「もしこうだったら」と状況をこちらから設定すること。クリプキの重要な論点。

様相実在論(modal realism) 
可能世界が私たちの世界と同じだけ具体的に実在するとする、ルイスの立場。

オッカムの剃刀(Occam’s razor) 
同じことを説明できるなら、必要以上に存在者や仮定を増やさない方がよい、という考え方。ルイスの様相実在論は、無数の具体的な可能世界を認めるため、この意味では存在論的に高くつく。しかしその一方で、「可能」「必然」といった様相を統一的に説明できるという理論上の利点を持つ。

対応者理論(counterpart theory) 
別の可能世界には、同一の私ではなく、私によく似た「対応者」がいるとする、ルイスの考え方。

現実主義(actualism) 
英語の actualism の訳語であり、政治・日常でいう「リアリズム」とは別物。可能世界の実在性を一般に否定するのではなく、ルイス型の「現実とは別の具体的な世界」を認めず、現実に存在する抽象的なもの(命題や事態など)によって可能性を理解しようとする立場の総称。

極大無矛盾な命題集合 
互いに矛盾せず、これ以上付け加えようのないところまで完結した命題の集まり。可能世界を抽象的に構成する一つの方法。

反事実条件法(counterfactual conditional) 
「もし〜だったら…だっただろう」という、現実には成り立たなかった前提からの条件文。ルイスは可能世界の近さによって分析した。

非単調論理(non-monotonic logic) 
新しい情報が加わると以前の結論を撤回できる推論を形式化する論理。人工知能・知識表現の研究から生まれた、可能世界論本流とは別系統の分野。

様相虚構主義(modal fictionalism) 
可能世界が本当に存在すると認めるのではなく、あたかも存在するかのように語ることの有用性を説明しようとする立場。

必然主義/偶然主義 
何が必然的に存在するのかをめぐる立場の違い。必然主義は、全てのものが必然的に存在すると考える立場であり、偶然主義は、存在しなかったかもしれないものがあると考える立場である。ただし、ここでいう「存在」は、日常語の物理的存在ではなく、量化論理上の技術的な意味を含む。

量化論理 
「全てのもの」「あるもの」「何かが存在する」といった言い方を、記号を用いて厳密に扱う論理。たとえば「全ての x について」「ある x が存在する」といった形で、どの範囲の対象について語っているのかを明確にする。様相論理と結びつくと、「何が必然的に存在するのか」「存在しなかったかもしれないものはあるのか」といった問いを扱うために用いられる。

不可能世界(impossible worlds) 
通常の可能世界では扱いにくい、矛盾を含むような「あり得ない状況」を理論的に扱うために導入される概念。



【付録C】 ミニ年表

(年代は一次資料および学術資料に基づき確認した。)

1918年
C. I. ルイス『記号論理学概観(A Survey of Symbolic Logic)』。現代様相論理の端緒の一つ。

1932年
C. I. ルイス&C. H. ラングフォード『記号論理学(Symbolic Logic)』。様相論理の諸体系(S1〜S5)の整理に関わる。

1947年
カルナップ『意味と必然性(Meaning and Necessity)』。「状態記述」による内包の意味論。

1959年
クリプキ「様相論理における完全性定理」。様相論理の意味論の重要な出発点。

1963年
クリプキ「様相論理についての意味論的考察」。

1968年
デイヴィッド・ルイス「対応者理論と量化様相論理」。

1970年/1980年
クリプキ『名指しと必然性』(プリンストン講義/単行本刊行)。

1973年
デイヴィッド・ルイス『反事実条件法』。

1974年
プランティンガ『必然性の本性』、アダムス「現実性の諸理論」。

1980年
マッカーシー、ライター、マクダーモット&ドイルら、非単調推論の研究(『Artificial Intelligence』誌特集号)。※可能世界論本流とは別系統。

1986年
デイヴィッド・ルイス『世界の複数性について』。様相実在論の集大成。

1990年
ローゼン「様相虚構主義」。

2013年
ウィリアムソン『形而上学としての様相論理』。

2019年
ベルト&ジェイゴ『不可能世界』。



免責事項


本稿は、可能世界論をめぐる主要な立場を、専門外の読者にも親しみやすい形で紹介することを目的とした、入門的な解説である。

各哲学者の理論の紹介にあたっては、一次文献および信頼できる学術資料に基づき、できる限り正確を期した。しかし、限られた紙幅で全体像を示すという性質上、本稿には単純化・省略・図式化が含まれる。個々の理論には、本稿で触れられなかった論点や、専門家の間での解釈の相違が数多く存在する。

したがって本稿は、それぞれの立場の厳密な理解に代わるものではない。関心を持たれた読者には、付録に挙げた原典および専門文献に直接当たることを勧めたい。本稿はあくまで、その出発点となる地図にすぎない。

なお、記述に誤りや不正確な点があれば、その責はすべて筆者にある。








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