わたしを可哀想にさせない。そのために脳内検閲官を呆れさす
今日は、自分の可哀想だった場面が浮かんでくる1日だった。保育園のとき、小学生のとき、意地悪されたこと、嫌だったこと、悲しかったこと。親に言われたこと。
昨日、発達性トラウマの本を読んだ。蓋をしていた過去の記憶が開いたみたいだ。迂闊に読んではいけない本だった。読んだことを少し後悔したが、この記事が書けた。良いも悪いも自分次第だ。
発達性トラウマというのは、子ども時代に受けたストレスだ。自分でコントロールできない、予測できないストレスが、心や脳に影響を与える。
例えば、発達性トラウマがある人は、大人になっても、自分で自分のことが決められない、わからない。外の正解に自分を合わせにいく。
発達性トラウマを持つ人の特徴に自分を重ね合わせ、「ああ、だからわたしはこんな感じなのだ」と思った。
そして過去を思い出しては「可哀想なわたし」と思う。「あんな子ども時代だったから、今のわたしはこんな感じなのだ」と現実に紐付ける。過去のわたしを「可哀想」だと思い、今のわたしも「可哀想」にしている。気付いてハッとした。
わたしをいつまでも「可哀想なわたし」に繋いでおくのは辞めよう。
「可哀想なわたし」に繋ぎ止めようとしてくる頭の声がある。それが脳内検閲官だ。きっと、みんなの頭の中にもいる。「こんなことは間違ってる」「恥ずかしい」「大したことない」と騒ぐのだ。
今まで、脳内検閲官に従って生きてきた。検閲官は、子ども時代に聞いた他人(親も含む)の声だ。子ども時代は、生き延びるために必要だった。しかし、わたしが大人になっても検閲官は居座り続けて、どんどん声が大きくなった。
だから、大人になった今も、どこか自信がない。何かに怯えている。身体が、世界はまだ危険な場所だと思っている。
わたしは、自分の考えを発信することで「自分のままでも安全なのだ」と身体にわかってもらおうとしている。検閲官に従わなくても、生きていけるし、安全だよ、やりたいように生きていいんだよ、と。
自信が持てないからこそ、発信するのだ。そして発信したことを「今のわたし」と認める。
例えば、このnote。書いた文章を眺めると検閲官が騒ぎ始める。「何が言いたいかわからない」「こんなことは誰でも思っている」「これでは変な伝わり方をする」
以前は、この声に従った。「もっと良い文章にしてから投稿しよう…」とInstagramの投稿を遅らせた。もっと良い文章にしようと投稿を遅らせた文章は、結局投稿されない。いつまで見返しても、脳内検閲官は満足しない。
それでは、可哀想なわたしのままになってしまう。
だからわたしはわたしの書いた文章を認める。このとき、わたしが書けるのは、これが精一杯だった。わたしの精一杯を、わたしが認めてあげる。
「自分を認める」というのは優しい言葉に聞こえるが、「認める」の中には、いつも「絶望」が混じっている。
こんなことしか言えないわたし
矛盾しているわたし
承認欲求が漏れ出しているわたし
知識も語彙力もないわたし
これを認めるのは絶望だ。でも、絶望するから、光が見える。このままでも大丈夫だった、とわかる小さな出来事が起き始める。
毎朝のインスタライブも、自分が話しているところを見返すと「わー、ひどいね」と検閲官が現れる。「顔出してこんなことして、知ってる人に見られたらどうするの?」「やる意味ある?」などと言い始める。
今のわたしができることは、この声を無視して続けること。可哀想なわたしを辞めるには、今のところ、これしか方法が浮かばない。
だから、矛盾していても、誰かに誤解をされても、笑われても「これが今のわたしです」と続ける。続けることが、自分を認めることになる。
わたしは、もう可哀想じゃない。自分のしたいことを応援してくれるパートナーがいる。安全で快適な家に住んでいる。自分の発言を咎める人は誰もいない。いるのは自分の脳内だけ。
まだ発信を始めたばかりだ。今は、何がどう変わるのかわからない。だけど、進んでいくと「ああそうか」とわかるタイミングがある。この短い期間でも、何度もあった。
小さな「ああそうか」は、進まないとわからない。スタート地点で眺めていても、気付けない。だから、わたしは今わかることをやる。
続けるための環境を作ってくれた仲間もいる。この輪の中にいられて幸せだな、ありがたいな、と思う。何も、問題じゃない。書き続けると問題じゃなくなる。止まるから問題に見えるだけ。
書くから、検閲官の声に気付ける。不完全な文章を「わたしの精一杯だった」と認めて出すから、世界は危険じゃない、とわかる。それを続けるから、自信になる。
恥をさらして検閲官を呆れさせていきましょう〜!
ということで今日はここまで。またね。
