Hurry up, Ring, Ring, Ring|掌編小説
冬馬の初めてのクリスマスプレゼントは、おしりにネジがついたウサギのヌイグルミだった。ほんのり色づいたピンクの毛並みはとてもフワフワで、あれから5年経った今でも、抱きしめるとフワリといちごの匂いが鼻の奥まで届いた。赤い目をしているその子のネジを回すと、寒くなってきたらよく耳にするメロディが小さくゆっくりと、流れてくる。
「この曲はなあに?」
答えは覚えている。それでも冬馬は、明里——ママに、何度もこの質問をした。
「『あわてんぼうのサンタクロース』だよ!」
そう言うと必ず、明里はオルゴールに合わせて歌を口ずさんでくれる。それをわかっていてのことだった。
「あわてんぼうの~サンタクロース
クリスマス前~にやってきた……」
明里の心地いい声は、寒くなってくるこの時期でさえも心の奥底までいち早く、じんわりしみ込んでくる。いっしょに「リンリンリン」を合唱したところで、冬馬は意を決して言ってみる。
「ママ。『リンリン』はほんとに、しゃべるんだよ。寒くなるとね、すっごくよくしゃべるんだよ。今年も、ほら……」
リンリンとは、このヌイグルミのことだ。歌の「リンリンリン」のところでママと声を合わせるのが好きだから、と、そこからとって冬馬が名付けた。
実際には、明里がそのように刷り込んだので、名付け親は明里だという裏話を彼は知らない。
「あはは、まあた言ってる。冬馬にしか聞こえないからなあ。リンリンは冬馬といっしょにいる時間がいっちばん、長いからね」
明里はいつものようにそう言ってから、時計をちらりと見やった。
ああ、練習しなきゃ。と、音もなくさっと立ち上がる。
背筋がぴいんとのびて、その瞬間から、彼女は「歌手」になる。
「ママ、ちょっと歌のお部屋で練習するね。2曲くらい音合わせるから、もし遅かったら、寝ちゃってていいからね」
防音室に籠って歌うその曲は、今年はどんなメロディなんだろう。ふと、冬馬は考えた。まだ、冬馬はそのタイトルも教えてもらってない。
ふわりと香るリンリンを抱えて、ふう、とため息をつき、冬馬はリビングにひとり座り込んだ。
「…………ま。しゃあねえな。俺は冬馬としか話せねえんだから、信じられるわきゃねえよ」
気イ落とすなって。
そう言って、リンリンは冬馬の腕の中から、力強く励ました。
いつものように、とても低くて、心臓の奥に響くような、大人な声で。
◆
「よりによってよお、なんでネジがケツについてんだよ。座るときちょっと傾くのがマジでダリい。毎回キレそうになるわ」
そう言って、リンリンはいちごの香りをただよわせながら、ぺたんと床に座った。ネジがしっぽの代わりになっているので、ぴょこ、とお尻が浮いた感じになっている。リンリンから「チッ」と短い音が聞こえた。「設計者マジで出てこいや」と続けて低い声も聞こえる。
どういう意味なのかはわからなかったが、冬馬は聞かないでおこうと決意した。
「ママ、今年はなにを歌うんだろう」
冬馬はリンリンに目線を合わせて、床にごろんとうつ伏せになりながらつぶやいた。
「さあな。最近の曲はわかんねえからなあ。なんせ冬にしかこっちに来ねえからよ」
リンリンは右の耳を少し傾けながら愚痴をこぼす。
リンリンは、普段はふつうのヌイグルミ。特別なことと言えば、おしりにネジがあってオルゴールの曲が鳴ることくらい。
けれど、すごく寒くなると……
それは、朝起きた時の窓が真っ白になって冷たいすき間風が入ってきたり。
外に出たときに手の指がキンと冷たくなって、心までもキュッとなったり。
保育園で「サンタさんに手紙を書きましょう」と先生が言ったりする頃。
——よお。今年も世話んなるぜ。
そう言って、リンリンは冬馬に向かって、しゃべりだす。
つい3日前くらいから、また今年もリンリンはしゃべりだしたのだ。
「ねえ。リンリンはママに何を歌ってほしい?」
ママである明里は、普段はこの自宅で音楽教室の先生をしている。そしてクリスマスイヴの夜には、真っ赤なドレスを着て、音楽教室の生徒たちといっしょにコンサートを開く。
このあたりでは一番大きなホールで開催されるコンサートの最後にはいつも、明里がステージでひとり、歌を歌う。
それを舞台の袖で、リンリンといっしょにこっそりと見つめるのが、冬馬のいつものクリスマスイヴの夜だ。
「…………そうだな…………」
リンリンは悩んでるように見えた。そしてふと、なにかを言おうとしたのを、冬馬は察した。右耳がぴょこ、としたから。
でも、そのままリンリンはゆっくりを顔を下に向けて、頭を横に振った。
ふたつの長い耳が、ゆら、ゆら、と小さくゆれている。
「さあなあ。アイツの歌を聴くとよ、また話せなくなっちまうからな。どうせ、いつも覚えてねえしなあ」
リンリンはそう言って、少し笑った。
聖なる夜。コンサートが終わって、明里が「待っててくれてありがとうね」と冬馬を抱きしめる頃。
またねとも言わずに、リンリンはまた、次の冬まで話さなくなる。
「そっか。今年もそうなんだ。やだなあ。ねえ、リンリン。ずっといっしょに話そうよ。ママといっしょに3人でずっと、暮らそうよ」
冬馬はワガママを言ってみた。怖そうなことを言ったりするけど、リンリンはすごく優しいと冬馬は知っていた。だから、今年こそはぼくのお願いも聞いてくれるかもしれない。そんな期待も込めて。
でも、リンリンの耳はまた、右に左に、ゆらゆらと静かにゆれるだけだった。
「お上がうるせえのよ。そればっかりはな。許せよ、冬馬。……ま、今年もよ、オレらで冬を楽しもうぜ」
そう言って、右の手を口元に持っていって、クスクスとリンリンは笑った。
リンリンは、冬馬が知らない世界をたくさん知っていた。もうすぐ6歳になる冬馬がこれまで生きてきて聞いたこともない言葉をたくさん知っているし、「ママに怒られそうでギリギリ怒られない遊び」を、今年もたくさん教えてくれると思うと、冬馬はすごくワクワクした。
「よおし、オレも楽しむぜい!」
冬馬はリンリンみたいな言い方をしてみた。少し気持ちよくなって、さっきのリンリンが言ってたみたいに「チッ」と短い音を出してみたりもした。
「こら。冬馬は舌打ちなんて、すんじゃねえよ。……まあ、オレが言っても説得力ねえけどよ。お前には、そのままでいてほしいんだよ」
リンリンはやわらかい腕で、寝転ぶ冬馬の頭をぺし、と叩いた。
全然、痛くなかった。
リンリンからはいつも、慈しみをこめたやさしい匂いがした。
◆
今年のコンサートのための真っ赤なドレスを買いに、明里は冬馬を連れてデパートに来ていた。冬馬の腕には当然のようにリンリンが、そのかわいらしさを前面に押し出すべく鎮座している。
「冬のデパートってのは、なんか、みんな浮き足立っちまってるよな。余計なモンもついでに買っちまいそうだ。今年もがんばった自分へのご褒美~とか言ってな。たいしてなんもやってねえだろってヤツこそ、そんなこと言いやがる。自分に甘えんだよな、どいつもこいつもよお」
リンリンの声が自分にしか聞こえないとはわかっていても、その言葉が誰かに聞こえやしないかと、こういうとき冬馬は少しドキドキした。
「冬馬はサンタさんになにをお願いするの?」
明里は4枚の赤い型違いのドレスを器用に両手に持ち、あれでもないこれでもないと鏡の前で合わせながら、そんなことを聞いた。
「リンリンみたいな人形がいい。でも、冬じゃなくなってもしゃべるやつ」
なるほどねえ。なんて明里は応えながら、ああやっぱり最初の店のやつがいいかも。とつぶやく。それは今話したプレゼントの話ではなく、ドレスの話であろうことを、リンリンだけは理解していた。
「おっけい。じゃ、ちょっと最初の店に戻るわ」
そう言って、少し笑顔がひきつった店員にドレス4着を戻しながら、明里は冬馬の右手をとった。冬馬とのおでかけであってもお構いなしに高いピンヒールでちゃきちゃきと移動する明里の足元を見ながら、冬馬は人ごみの中をリンリンと一生懸命ついていく。
「冬馬、おめえ。いい度胸じゃねえかよ。オレ以外のヤツをご所望かよ」
冬馬の左手に抱えられるリンリンは、時折すれちがうおじさんやお姉さんにむぎゅうとつぶされながら、負けないように声を張り上げ悪態をついた。
「だって。リンリンがあっという間に、しゃべらなくなるからだよお」
「うるせえ。お前のことはオレが一番よおくわかってんのさ。ハン、他のヤツなんて屁でもねえ。迎えてみろよ。オレのコイツで、ドン、だぜ」
リンリンはその肌触りのいい生地の腕をふわりと動かした。誰のもとにも届かないその「ドン」は、冬のデパートの慌ただしい人ごみの中に雪のように溶けて、跡形もなく消えた。
「ねえママ」
今夜はいっしょに寝ようよ。そんな冬馬の誘いを断ることができず、明里はダブルのベッドに冬馬とリンリンと横になっていた。練習したいと焦る気持ちもありながらも、昼間に買い物に付き合ってもらった冬馬に寄り添うことは優先しなければならない。そう感じたから。
「ママは、プレゼントなにがいいの?」
冬馬は真っ暗な部屋の中で明里の温もりを手探りで求めながら、静かに聞いた。その小さな手を迎えにきたように、羽毛のやわらかな布団の中で、明里の手のひらがやさしく彼を包んだ。
「ママは、プレゼントはもういらない。イブの夜に、あの広いステージに立って歌を歌えること。それが、毎年与えてもらってるママのプレゼントだから」
そして。あなたもね。
明里は寝転ぶ冬馬の首の後ろからするりと手を伸ばし、そっとその頭を自分に引き寄せた。
「あなたのパパが、このステージで歌うことをママにプレゼントしてくれたから。あなたをママに、残してくれたから。だから、もう十分なの」
そう言いながら、少しだけ寂しそうな心の音が聞こえる。
リンリンは、隣で息をひそめて、とても静かにしていた。
「ママの歌。大好きだよ。みんなもきっと、楽しみにしてるね」
冬馬の声を耳元に寄せて、明里は頷いた。がんばるね、と、そうささやきながら。
「ねえ。……パパは…………」
そう口に出してから、冬馬は暗闇の中に光る明里の目を見つけて、黙り込んだ。静かに漆黒に沈むその水晶がじわりとにじんでいることを、冬馬はわかっていた。
パパって、どんな人だったの。
そう冬馬が尋ねれば、「さあねえ」「忘れちゃったの」と明里は笑って言葉を濁すばかりだった。そのうち、冬馬はこれらを尋ねることを諦めてしまった。
「リンリン」
明里の規則正しい寝息が聞こえてきても冬馬は寝つけずに、たまらずリンリンを呼んだ。リンリンはそれに答えなかったけれど、冬馬は構わず続けた。
「パパって。どんな感じなのかな」
街ゆく父親と子どもの風景を眺めては、パパとはいったいどんなものなのかと想像した。空想の中の「素敵」なパパは、冬馬を肩車したり、ときに温かくて見た目の悪いご飯を作ってくれたり、悲しいときには逞しい腕で抱きしめてくれる存在だった。でも、それを検証しようがなかった。
リンリンはぴくりともしなかった。
そのまま、質問はしなかったことにして、冬馬が夜のささやきに意識を傾け眠りに落ちていく頃。
「……は……ロクなモンじゃねえさ」
そんな冷たく嘲笑するような声が、遠くで聞こえた気がした。
◆
今年のコンサートの明里のコンディションは、最悪と言わざるをえなかった。前日まで冬馬の風邪の看病が続き、なんとか冬馬が元気になった頃には、自分の喉に違和感を覚えだしていた。
「ごめんね、ママ……」
それを知ってか知らずか、赤いドレスに身を包んだ明里を控室で目にしたとき、冬馬の口からもれた言葉はそれだった。
大丈夫よ。の答えの代わりに、明里は冬馬を、その腕にいたリンリンごと抱きしめた。リンリンは、そのまわされた明里の細く引き締まった腕に、そっと自然に触れた。それに明里が気がつくはずはなかったが。
「冬馬を遊ばせすぎたな。悪いな」
ボソッと。リンリンは誰とも言わずにそうこぼした。
3日前。冬馬のひざ丈ほどまでに降り積もった雪に「人型とウサギ型をつけよう」と、冬馬といっしょに飛び込んだのは、やっぱりよくなかったか。と、リンリンは今更ながらに冷静になって反省していた。関東の海側の雪なんて、ほとんど水のようなもの。結局、型なんてうまくできずに、べちゃべちゃになっていっしょに帰ったときには、絶望したような顔をした明里が出迎えてくれたことを思い出す。
そのうち、あまりにも濡れそぼったふたりの身体を見て、たまらず笑っていた明里の顔を。
「きっと大丈夫。大丈夫よ。ママ、がんばるね」
——本当に?
冬馬はそう言いたかったのを、ぐ、とこらえた。それを言ったとしても。きっと、ママはこれをやめない。この日のために、どれだけ練習して、成功させるためにたくさんの生徒とやりとりをしてきたのかを、リンリンと傍でずっと見ていた冬馬には、言うことはできなかった。
ごまかすようにもう一度、ふ、と笑顔を残して、明里は本番のステージに向かった。このコンサートを、招待客が毎年楽しみにしてくれている。生徒も集大成を発揮しようとがんばっている。自分がここで立ち止まっている暇などなかった。
◇
ステージは、誰かと立つよりも、ひとりで立つほうが好き。
自分に視線が集中していることを、じんと肌で感じることができる。スポットライトが私にだけ向かってくるサマがよく見えて、跳ね上がる心臓を、速度をあげてめぐる血流を、ドクドクと感じながら歌うことが至福だった。
この喜びを教えてくれた人の声が。大嫌いで大好きだった。
——お前はこんなところで歌うべきじゃねえよ。オレが違うステージに連れて行ってやる。
近所の小さなバーで誰にも聴かれない歌を口ずさんでいた頃。ただの客だったあいつは私を半ば強引に連れてきて。
新しい苗字。仕事。お金。家族。
なんでも与えるだけ与えて。……そのうえ、勝手にいなくなるなんて。どこまでも勝手なヤツ。勝手で意地っ張りで時代錯誤な価値観で遠慮もなくて。
それでも愛していたんだから、私もやっぱりどうかしてる。
ここに立つとついその姿を探していしまう私の気持ちを、今は喉に集中させた。うまく開かせることができれば。いつものようにできれば。堂々としていればいいのよ、明里。
でも、いつものようにって。
……どうしたらよかった……?
急に。
私に向かっているスポットライトの光から、目をそむけたくなった。
「いつでも綺麗でいてくれよ」というあの人の言葉を求めて毎日履いているピンヒールが、ガクガクと震えだす。
自分の赤いドレスがあまりに目立ちすぎていて、眩暈がした。
どうしよう。
どうしようどうしようどうしよう。
一旦舞台の袖にはけることもできないで、永遠とも思える時間が過ぎようとしていた。歌うどころじゃなくって、今にもその場に膝から崩れ落ちそうだった。
——歌え!
空耳が、聞こえた気がした。
そう、歌おう。歌いたい。でも、でもさ、どうしたら…………
そのときだった。急に、背後に大きな人物の気配を感じた。肩を、ぎゅう、と、強く強く揉まれる感覚があった。私の肩甲骨がぐう、と内側に入り込んで、とたんに私の肺に新鮮な空気がびゅうと吹き込んできた。
歌える!
それは確信だった。
もう一度、ゆっくりと大きく深呼吸をした。新鮮なその空気の中に、いちごの甘い香りを感じる。
「冬馬。……リンリンも、ありがとう」
たまらず駆け寄ってくれたのだろう。リンリンを抱えた冬馬がそこにはいた。元気をだして、とでもいうように、私の背中をリンリンの腕をつかってポンポン、とやさしくなでつけている。
力強く背中をおしてくれたのは、誰だろう。私の肩は、冬馬は届かない距離。
でも。私にはわかった。
いつも本番前に「大切なのは肩甲骨だ」といって、念入りにマッサージをしてくれた。あの武骨な手のひらの感覚は、今の記憶にも残っている。
いい子で袖に戻ろうとした冬馬の右手をとって、私はそのまま歌いだす。
喉の不調自体はなくなったわけではなかった。でも、大きな声はしっかりと腹から出てくる。声は頭を突き抜けるように、とめどなく。冬馬が私を見上げているのを、私はたまに見やりながら歌った。今夜は特別バージョンで英訳にしたけれど、きっと彼にはわかるだろう、この曲が。
小さく、膝でリズムをとりだす息子とのステージに、会場がじんわりと温かくなっていく。手拍子は次第に音を増していく。
ここに立つとき、私は母である自分は袖に置いて来ようとしていた。いつまでもあの人が見初めてくれた、あの日の私であろうとした。
でも、そんな必要はなかった。私は今、この子に生かされている。だから、母のままありのまま、歌えばよかったんだ。
あの人の最初で最後の冬馬へのプレゼントが、小刻みに揺れながら、私を見つめている。
育ちといっしょで口は悪いのに。視線だけはいつもあったかい。
慈しむようなこの視線を、私はまだ、覚えている。
Hurry up, Ring, Ring, Ring
Hurry up, Ring, Ring, Ring
Ring a bell, Santa Claus, Ring a bell……
——そんなに、急がないでよ。
きっとまた。どこかに行っちゃうんでしょ。
■
まぶしすぎるステージの上から、アイツを間近に眺めている。それは初めての感覚だった。その青白い血管の浮かび上がる美しい左手。ライトを浴びて輝くダイヤの指輪は、かつてオレが押し付けるように与えたものだ。変わらずそれが輝いているのは、きっと毎晩のように丁寧に磨いているからであろうことは、容易に予想できた。
「…………綺麗だ」
思わず、声がこぼれていた。
英語の表現がとてもなめらかになった。体の線を沿うように流れるドレスの波がゆれる。自信をもってここに立つその姿を、ずっとずっと、与えたかった。
アイツを自分だけのものにしたい。けれど、この歌をもっと多くの人に聴いてほしい。そんな矛盾した思いがどれほどカッコ悪いことなのかは気づいていた。
ダセえな。ダセえよ。
それで強引に連れてきて、今は冬馬とふたり、ここに置き去りにしてしまったんだから。
まったくもって、ダセえよな。
「冬馬。ありがとう。ママ、すごく楽しかった。うれしかったよ」
ステージを終えて、参加生徒全員とのアンコールとともに、コンサートは今夜も盛況で閉幕した。誰もいなくなったコンサート会場に戻ってきた明里は、ぎゅう、と冬馬を……そして「リンリン」をしっかり抱きしめた。
明里がコンサートを無事に終える頃には。いつも、オレの意識は遥か彼方。そして音もなく、お上の元にもどっていく。このクリスマスの大仕事に明里が集中するための子守期間が終われば、あっという間に「オレが冬馬と話をできる特権」は終了してしまうのだ。
「ママ。ぼくもすごく楽しかったよ」
2月の寒い雪の日に生まれた冬馬は、もうすぐ6歳になる。
来年。6歳の冬にはもう、冬馬はヌイグルミを持つことはなくなるかもしれない。
——歌え!
消えていくオレの叫びを、冬馬はしっかり届けてくれた。自分の足で。あの大きな舞台に歩み寄って。
次のコンサートにはステージにいっしょに立つようになって、オレの子守も必要とされなくなるだろう。
あいつはもう、ただのガキじゃない。明里を守るひとりの男なんだ。
意識が、空に少しずつ吸い込まれていくのを感じた。お上のやつはいつでもオレを見張ってやがるんだよな。ったくよ、情緒ってヤツを感じねえのかよ。これからのコイツが面白いってのによ。きっと。いい男になるぜ。
ああ、景色が霞んで見えてきて、明里のドレスですら、色がわからなくなってくる。
冬馬に、ありがとなって。じゃあな、って。頼んだぞって。
ああ。言いてえな。
でも、もう、無理かな。
オレが誰なのかだって、アイツには言ってなかったもんな。説明してる暇もねえよ。ああ、最後までダセえよな。
「冬馬。……リンリン、なんて言ってる?」
明里がその時、ふと、言った。気がした。
「……リンリン。ねえ、リンリン。……ああ、もう、ダメかも。ママのコンサートが終わっちゃったら、リンリンは……」
冬馬が、やわらかいこの腕を強く握っている気がする。もう、これを動かすこともないんだろう。コイツの身体はひどく動かしにくかった。芯がなくてフニャフニャで。しっかりしろよ!って、何度キレそうになったか。ケツのネジも最悪だったよ。でもまあ、オルゴールは嫌いじゃなかったな……。
「ねえ、リン……………いや、聖弥!!!!」
お上のもとに大人しくいこうとしていたオレの意識を、明里が力強い声で引き戻した。
「もう、………もうもうもう。ほんとにあんたは最っ悪!いっつも自分勝手で。冬馬になんでもかんでも吹き込んでたんでしょ?なによ。勝手に男同士でよろしくしちゃって。そしてまた、私を置いていくんでしょ?なによ、なんなのよ。…………ほんとに、もう、なんなのよ!!!もう……どう………どうして。どうしてなのよお~…………」
明里は、泣きじゃくっていた。コンサートをやり遂げた数時間前のアイツからは想像もできないくらい、子どもみたいに、涙をぼろぼろとこぼしながら。おいおいと、泣きじゃくった。
「リンリンがしゃべるだなんて。う、うそだって思ってた。思ってたけど。冬馬がこんなこと言うはずないってこと、冬になると言い出すから。もう、信じるしかないじゃん、こんなの。アホみたいな言葉ばっかり言う癖に、私にだけは紳士で大人で。そんなの。あんたしかいないに決まってるじゃない。なにを教えてんのよ。そんなの生きて、生きて、やってほしかった。冬馬が1歳を過ぎてからももっともっと。……雪だってのに、バイクでリンリンを買いに行ったりするからじゃん。ばかじゃないの。ばかでしょ。ばか!!!ばか野郎!!!」
勝ち気で、小生意気で、その癖に自己評価が低くて、暗い女だった。そんなアイツとの間に、冬馬がやってきた。幸せな日々の中で、オレは初めてのクリスマスプレゼントを急いで届けたいあまりに。やらかしちまった。アイツは絶望に浸る暇もなく、ひとり、母親として強く、立ち続けた。生き続けた。
なあ。強くなるしかなかったよな。
いや、違う。強くなったなんて、勝手な評価だよな。いつだってお前は、お前のままだったんだ。
「…………」
声がでない。お上のやることは残酷だ。なんて。文句も言えねえよ。
残してきた明里。明里にまだまだ歌を歌わせてやりたい。冬馬を通じて「明里なら大丈夫だ」と言ってやりたい。
そんな無茶な願い、叶えてもらったんだからな。何度も何度も。
でももう、これも最後だ。
「なんか言ってよ……もう……なんでよお……」
明里は、冬馬とリンリンをぐう、と力任せに抱きしめた。冬馬は状況を飲み込めていないかもしれない。……いや、きっとわかったろう。明里がひとりの母であり、歌手であり、静かに毎晩涙しているただひとりの女性だってこと。
明里。オレだってもっと、言いてえよ。
会えるうちには、憎まれ口たたいて。喧嘩ばっかりで。でも、抱きしめればこの気持ちは十分伝わるって思ってた。オレがアホだったんだよ。
なあ。わかるだろ? オレがいかにダメなやつかってことくらい。
「…………? え、リンリン、なに?」
冬馬には、届いたろうか。最後のオレの言葉。ケツの忌々しいコイツを指したつもりだったけど。わかったろうか。
冬馬が明里の手をやさしくほどき、リンリンを抱えなおす。小さなネジを、いつの間にか大きくなったその手で、何度も何度もまわした。冬馬はネジをまわしながら、おそらく、泣いていた。オレはケツを向けていて、見えないけれど。
「……歌ってって。リンリンが………………パパ、が、歌ってって。ママ。歌おう。最後に、もういちど。歌ってよ」
冬馬は、ネジをもうこれ以上動かないくらいまわし切ってから、明里の手をとって立ち上がった。誰もいない観客席に向き直す冬馬の顔に、もう消えたはずのスポットライトが見えてくる。一筋の涙が、ピンクの毛並みに沁みこんできた。
明里。
冬馬は本当に。いい男だな。お前のおかげだよ。
意外とこいつは、オレにも似ているよ。そう感じるんだ。
コイツがいるならもう、大丈夫だよな。
その小さくもたくましい指先を愛おしそうにひと撫でしてから。明里は、背筋をピンと伸ばした。
肩甲骨を意識して。頭の先にピンを立てたようにまっすぐに。堂々と姿勢よく。何度も明里に送った言葉。
ああ、もっと、言うべきこと。…………あったよな。
ごめんな。愛してる。
Hurry up, Ring, Ring, Ring
Hurry up, Ring, Ring, Ring
Ring a bell, Santa Claus, Ring a bell……
遠く遠くから、ベルの音がオレを迎えに来る音がする。
▢
パパの写真を初めて見せてもらったけど、うん、やっぱりイメージ通り。部屋の中の写真なのにサングラスしているし、髪は金色でツンツンしているし、お肌も黒くって。保育園のお友達をお迎えにくるパパたちの中に、こんな人ひとりもいない。
でも。リンリンの声を頭の中で再生してみたら、すごくしっくりきた。だから、ぼくはなんだかとっても安心した。
「やっと、写真を置く気になれたんだよ。だってさ、これがあなたのパパよって……いや、すっごい、なんか……恥ずいじゃん」
ママは小さな写真立てに入ったパパを見て、そう言って笑った。それから、パパがどれだけ勝手なヤツなのかってこと。口が悪くって起こしたトラブル。喧嘩しては仲直りを繰り返したいくつもの夜の話を聞いた。
「どうしてそれでも好きだったの?」
ぼくは素直に聞いたつもりだった。でも「そういうことを聞いちゃうところとかが、さあ……」と、ママは呆れたように笑っている。
そして、ぼくをぎゅう、と抱きしめてくれた。
「ママが怖いとき。自信がないとき。さみしいとき。つらいとき。いつも、強く強く、抱きしめてくれたから。誰よりもママのことを好きなんだって、いつだってわかっていたから」
そうか。そうなんだね。
ぼくにはわかった。ママがさみしいとき。つらいとき。泣いちゃうとき。どんな風にパパが抱きしめたのか。
照れ隠しでアレコレ文句を言いながら。やさしい目で見つめて抱きしめてくれるんでしょう。ほら、ママのように。
ぼくたちを、写真の中のパパと、リンリンが静かに見つめていた。
その隣には、リンリンに寄りかかる真っ白なウサギのヌイグルミ。ぼくの新しいクリスマスプレゼント。
きっとこの子はしゃべったりしない。ぼくに「怒られそうでぎりぎり怒られない遊び」も教えてくれないし、おしりのネジにも舌打ちはしない。それでもぼくは大丈夫。大切にするよ。この子も、リンリンも、ママも、パパとすごしたあの寒い冬の日々も。
「この子の名前はどうするの?」
ママが新しいその子の耳を撫でつけながら言った。
「どうしようかな。ネジをまわして、曲を聴いていたら、なんか、浮かぶかもしんない。ママ、ネジをまわしてみてよ」
ママが、ゆっくりとネジをまわす。
どこかで聴いたことがあるようなメロディに耳を傾けながら、遠い空できっとぼくらを見つめているだろう人のことを想った。
——コイツが新入りかよ。生意気じゃねえの。ハン。たいしたこと、ねえな。
口が悪すぎる空耳がどこからともなく響いてくるような気がして、やめてよお、と、思わずぼくは笑った。
そんなぼくをお見通しかのように、ママがくすっと、ほほ笑んだ。
外では雪が降っている。今夜もしそれが降り積もっても。
もうぼくは、雪に人型とウサギ型をつけようなんて思わないよ。
安心してね。ママ。パパ。リンリン。
(11,177文字)
参加させていただきました。
ここまで長きにわたりお読みいただき、ありがとうございました。
感謝します。
いいなと思ったら応援しよう!
もしこのような記事をサポートしたいという稀有な方がいらっしゃいましたら、ぜひともよろしくお願いいたします。5児の食費・学費にさせていただきます!