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しあわせの色を、ママにおしえてよ【第3話】

第2話
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黄色を赤で仕切り直して


坂神さんとの就職相談はこれで何回目になるだろうか。
わからなかったけれど、目の前で泣いている彼女を前にするのは、その日が初めてだった。

「坂神さん、どうしたの」

職員室に入るやいなや、止まらない涙を清潔そうなハンカチで拭う坂神さんを、私はそっと空き教室に連れて行った。

一番前の席に着席させて、私は隣に座る。

「だめ、でした」

肩を震わせながら、彼女はそう言葉を繋いだ。

「い、いちばん、いきたかったですけど…………だめでした、オ、オーブ社…………」

「そうか…………そっか…………」

私はただただ、彼女の背中をさすった。まずは彼女の悲しみが胸の中で少しでも消化できるよう、静かにその小さな鳴き声を受け止めていた。
就職活動は、本人と教員ができる限りを尽くしても。難しいこともある。こちらがどれだけ「行きたい」と望んでも、その想いがまっすぐに面接官に届くかなんて、正直、わからないのだ。
資格試験とは違う。人と人の、お互いの、その先の先までを見つめ合う話だから。

そんなこともあるよね。
私はささやきながら、彼女の涙が止まるのを待った。

「……………………失礼しました」

しばらくすると、坂神さんは白いハンカチをきちんと正方形に畳みなおして、そう言った。

「言いたいこと、言いきれなかった?」

「そうですね…………私としては言い切ったと思ったのですけれど、正直、緊張がぬぐい切れませんでした。また、オーブ社に入社したら十年後にどんな人間になっていたいか。そうした質問があったのですが、想定していなかったため、うまく答えられなかったように思いますハイ。あと、先生に言われていた笑顔は、うまく出し切れず…………。以上が、反省点ですハイ」

そうかそうか。私は彼女の背中を軽くぽん、と叩いて言った。

「やっぱりね、そういうことはあるよね。でも…………これで、ハッキリしたのだと思う。坂神さんは、オーブ社でなくって、もっと他の会社にご縁があるってことだよ。行きたかったのはここかもしれないけれど、オーブ社が惜しい人間を逃した、それだけだから。そして、私もサポートが足りなかったのかもしれないね。そこは、ごめんね」

坂神さんは「そんなことはないです自分のことなので」と一息につぶやいて、ハンカチで鼻を抑えた。それでは溢れ出るものをおさえきれなかったのか、「失礼します」とカバンからポケットティッシュを出して、っじーーーーんっ! と、しっかり鼻をかんだ。彼女の鼻は赤く、乾燥してかさついていた。

私は彼女に対して。ご縁がなかっただけだからね。そう言い切ったが。
心の内では悔しくてたまらなかった。
でも、この「悔しい」の当事者は彼女なのだ。
口の中の肉をぐっと噛んで、私の想いまで彼女に負わせないよう、じっとこらえていた。

坂神さん、ごめんね。

私の教員としての力がもう少しあれば。
彼女の面接対策や自己PR、将来を見据えた目標設定など、もっと念入りに対策できていたら。笑顔が自然に出せるように、何度も練習ができていたら。いろんな反省点を頭の中で陳列する。
私がこれから教員として、彼女のためにやるべきことは、なんだろう。

「坂神さん。いつものメモある?」

はい、ありまず。
鼻をティッシュでおさえつつ、坂神さんがメモを出す。

「少しだけ拝見しても?」
「…………先生ならいいです、どうぞ」

私は許可を得てから、そのくすんだ黄色いメモをひらいた。小さなそのメモの中に、彼女の努力がちりばめられている。その努力の塊たちを前にした私は、やはり確信する。

うん、きっと彼女は大丈夫。必ずつながる企業がある。見せ方が違った、それだけなんだ。私自身の指導不足を反省しつつ、彼女自身の力はやはり、ここにあると確信した。

私は、教員としての感覚から、彼女をこうして心から信頼できているのだと思う。
次こそ、彼女はいける。大丈夫。私がきっとそうしてみせる。

そして、彼女のメモの、全力で駆け抜けるような走り書きを眺めながら、ふと気づいてしまう。


「教員」としての私は、こんなにも誰かを信じることができるのに。「母」としての私は、自分が大切にしてきたはずの家族すら、信じてあげることができていない。
その事実に「どうしてなんだろう」だなんて自問する必要すらなかった。答えなんて本当は、わかりきっている。
私は。
「教員としての私」のことは信じているが、「母としての私」のことを、まったく信じられない。認められていないのだ。

「教員」の肩書を失ったら私は、前を向いて生きていけない。教員だなんて言えるのかわからない業務しか回ってこなくなっても。私は、ここに食らいつき続けている。

だって。
こうして「誰かを助けられる自分」でいないと、私は私を支えていけないのだ。
だからたったひとり、この土地で、幸ともがき苦しんでいるのだ。

「坂神さん、…………ちょっと失礼」

私は自分の名札にぶら下げている赤ペンを手にする。
そして、オーブ社の企業情報をびっしり調べ上げているそのメモ欄に、私は大きく✖を書き込んでいく。
驚き私を見つめている坂神さんにはおかまいなしに、私はどんどん、彼女が調べていた「オーブ社のいいところ」にデカデカと✖していく。

「わかっていないよね。オーブ社はさ。坂神さん、もっとあなたらしく、あなたがそのままで輝ける場所をまた、探そうね。ぜったいあるよ。大丈夫。自信をもってね」

誰が言っているんだよ。そんなセリフ。
私の中で誰かが叫ぶ。それは紛れもなく、この自分の声だった。
私はその叫びもおかまいなしに、坂神さんにその✖だらけになったメモを返す。

「気持ちを……切り替えるってことですね。先生。わかりました、ハイ」

素直で真面目な坂神さんが、もっと輝ける場所を探す。
母としては私、ろくでもないかもしれない。
けれど、教員としての私は、まだ。
今この目の前の生徒を助けられる存在でありたい。


職員室に戻ると、上司はインスタントコーヒーを自分で淹れながら
「木下先生。坂神さん、大丈夫そう?」
と聞いてきた。
「はい、オーブ社に落ちてしまったショックで…………。でも、彼女は次回、いけると思います」

私は答えた。

「彼女はねえ、ちょっと癖が強いからね。そこを気にされちゃったのかもなあ」

上司はコーヒーを持っていない右手で自分の顎をさわりながら、ほら、なんていうか…………彼女の話し方はだいぶ速すぎたりもするしなあ、なんてことをつらつら述べる。

「いえ。彼女はあのままで大丈夫ですよ。少し練習すれば、きっと次はいけると思います」

私は、上司の言葉をさえぎってそう言った。それは私自身の本心からの言葉だったことに、どこか自分の中で安堵しながら。

「そうか。じゃあ、木下先生、お願いしますね」

上司が去っていくのを見届ける間もなく、私は自席に着席して次の行動に移った。
彼女の素直でとても真面目なところ。人のことをよく見つめていて、話過ぎる部分もありつつも丁寧な所作が活きる場所。
とことん調べてやる。
けしてプライベートをごっちゃにして、躍起になっているわけでは、ない。…………そう、思いたい。

まだ私が。ここで、「木下先生」と呼んでもらえるなら。私はできることをやるしかない。ただの「木下 愛」が役立たずだって、誰にも知られたくない。
私は「木下先生」を失うことを、こんなにも恐れている。

「あ………」

焦った私の右手が、コンビニで買ったコーヒーカップに当たった。床に染みこんでいくコーヒーを追いかけて、私は周りに謝りながらティッシュでおさえた。
私。一体、なにをしているんだろう。
この仕事を、自信を、信頼を。もうこれ以上、失いたくないのに。


空色が遠くかすんで


啓太さんがいてくれる週末の時間はいつも、信じられないスピードで過ぎ去る。
気づけばまた、幸とふたりきりの朝が始まっていく。この繰り返しだ。

それでも私は、自分の仕事ができるうちは頑張ることができた。
「教員」としての私がいる限り、「母」としての私がどんなに出来損ないだとしても、チャラになるような、そんな気がしていた。

でも、そもそもそんな考え方をしていることが間違いだったのだ。


「木下さん、すいません、お迎えの前に…………いったんこちらにお願いします」

その日、保育園に入った瞬間にアヤ先生に名を呼ばれた。
返事をする間もなく、以前に通された事務室へと案内される。私は心臓が嫌な音を立てているのに気づきながらも、なんでもありませんよいつもお世話になっております。という顔をして、事務室に足を踏み入れた。

「幸ちゃんのことなんですが……」

いつも笑顔を携えているアヤ先生の雰囲気の違いから、私は事の重大さをすでにひしひしと肌で感じていた。

「お友達のサトちゃんに、ケガをさせてしまったんです。腕を強く引っ張ってしまい、肘の関節が外れてしまって。これは私たちの注意不足です。大変、申し訳ありません」

アヤ先生は深々と頭を下げた。
一つに縛った長い髪の毛が、さらりと肩にかかる。いつもお迎えの頃には、彼女の髪はすっかりゴムがゆるくなり乱れていた。
子どもたちと毎日、格闘している証拠だった。

「い、いえ…………こちらこそ、娘が、申し訳ありません…………」

「いえ。私たち保育士は、なにかが保育園で起こってしまわないように注意しなくてはなりません。子どもが危害を他人に加えてしまうことはありますので、それを防ぐことができなかった、我々の責任です」

うまい返しが浮かばずに、口ごもりながらこたえる私に向かって、先生は強いまなざしを向けて言った。
それは、「命を預かっている仕事」をしている人の目だった。

「…………ここにお呼びしたのは、そうなってしまった経緯をお伝えしたかったからなんです」

少し座り直して、アヤ先生が続ける。

「まず、今日の合同保育の自由時間に、部屋の隅っこでじゃんけん列車が始まったんですね。幸ちゃんもお友達と、最初は楽しく参加していました。
じゃんけんに負けたら、勝った人の後ろにつかなくてはいけません。でも、幸ちゃんって、負けることを許せないタチですよね。
それまでいい調子で勝っていた幸ちゃんが、サトちゃんとじゃんけんして。まあ、負けちゃったんですよね。幸ちゃんは。
『幸ちゃん、私の後ろに行って』とサトちゃんに言われました。幸ちゃんは納得できない様子でした。『もう一回! だって、サトちゃんがずるかった、後出しだったよ!』と言いだして。ただ、誰が見てもずるはしていなかったことは明らかでした。そこから、自分の後ろにくっついていた子たちにも、幸ちゃんが責められる形になってしまって。
幸ちゃんが少しパニック気味になってしまったんですよね。大きな声を出して。いやーーーー! と泣き叫んで。そこまでの過程を、乳児さんを見ながら私も見守っていたのですが、慌てて間に入ろうとしました。その時、サトちゃんが耳をふさいだんですよね。大きい声だったから。でもそれも気に障ったのか…………
『まだ負けてない、もう一回!』と、幸ちゃんがサトちゃんの腕を引いて…………その拍子に、サトちゃんの肘が抜けてしまったようです」

事の顛末を順を追って説明してもらっているその最中。
私はアヤ先生の方を見つめて深刻そうな顔をして聞いているフリをしながら、どこか遠く遠くを見つめていた。

ああ。私もサトちゃんのように。耳をふさぎたかった。

――――幸は。
やさしい子だった。
穏やかな子だった。
感情のあまりに私に手が出てしまうこともあったけれど、だめだと言って聞かせたら落ち着くことだってできた。
お友達も大好きで、口が出ても手は出さない子だった。
だから私は、これまで幸を1人でも見守ってこれた。

でもこれじゃあ。
無理だよ。啓太さん。

「サトちゃんは、その後無事に病院で肘を戻してもらって、経過も順調です。もともと、外れやすいみたいなんです。これは我々が気をつけていなかったためです。申し訳ありません」

ああ…………よかったです。サトちゃん、無事で。

私は心にもない言葉が口から出た。でも、本当に言ったのか、自信はない。
正直、今の私の頭の中は、人様の子どもを心配する余裕のかけらもなかった。

被害者の側だったなら、まだこんな気持ちにならなくて、よかったのに。
最愛の娘に対して、そんなことを考えている。

醜い。醜い親。

「ただ、やはり…………負けを認めていくことだったり。ルールに沿って遊ぶだったり。友人とゲームをしたりすることも、この先あると思うんですよね。そのたび、こうして感情が抑えられなかったりしたら、お友達に心ないことを言われた拍子に、手を出してしまうことも心配です。

何より、幸ちゃん自身のことも、懸念しています。この先も、ルールを理解したり、その範囲内で楽しむことができなくなっていくと、保育園や、小学校も行きたくなくなっていくのではないかと思うんです」

アヤ先生が、言葉を選びながら、手を握ったり広げたりしているのが視界の隅に見える。

――――ああ、保育士って大変ですよね本当に。
こんな母親にも、言いにくいこと言わなきゃいけないんですね。

「以前にもお伝えしましたけれど…………例えば。かかりつけ医などに相談して、苦手がちゃんと見えてくれば、幸ちゃんも自分をうまくコントロールできるようになっていきます。感情が大きくなって爆発してしまうって、この頃の子どもたちにはよくあることですが、それが正しいかどうかを、自分たちで理解していく必要があるのです。
だからこそ、ここからの期間はとても大事だと思うんです。決めつけたいわけではなく、彼女がこの先、笑って過ごせる時間を増やすための、これは、相談なんです」

「…………そう、ですよね。やっぱり、相談、必要ですよ、ね…………」

私はうまく答えることができない。アヤ先生は、こんなに近くにいてまっすぐに言葉を届けてくれようとしているのに、私の五感はそれを拒否してくる。

その後、発達相談をしてくれる医療機関や、役所での相談窓口、療育につながるまでの流れを先生は、非常に丁寧に話してくれた。

――――そうそう。あの駅前の市役所の、六階八番窓口で。
担当者のカウンセラー方にまずは相談して、そのあと必要に応じて、療育に案内されるんですよね。療育は早くて、半年待ちですよね。
幸のかかりつけ医でも、発達相談もしていますよね。

…………そう。そう。
先生。全部、調べてあるんですよ。
本当は私、わかっているんです。
すでに調べつくしてあるんですよ。
最初に言われたその日の晩に。
その時点で気づけよって話ですよね。
さっさとハッキリさせてこいって、ことですよね。

――――でも先生。
彼女のこの個性に名称がついたとき。
母としての私は、大丈夫だと思いますか?


私は、そのあと、なんて言って返事をしたんだろう。
なんとか、「承知しました」と、仕事モードの自分を連れてくることで乗り切ったのか。

気づいたら、目の前に幸がいて、いっしょに帰るところだった。
「今日は疲れちゃったよね。さっちゃん、よく休んでね。またね」
膝を折って目線を合わせてくれるアヤ先生の言葉に、小さく幸が頷く。

サトちゃんの肘を外してしまったとき。痛がる彼女を見て、幸もショックを受けて泣いていたと聞いた。そして、帰り際に先生から声をかけられたときの幸は、確かにしゅんとした様子を見せていた。
けれど、私とふたりきりの帰り道になった途端に、幸はそんなこと忘れてしまったように見えた。

「ママ、今日はまだ、明るいね。お空がほら、青いもんねえ。明るくってよかったねえ、早く帰ろうよ」

そうだね…………。
いつものようにそう笑って答えながら、私は、今日の彼女を責めたくて仕方がない。

――――どうして? 幸。
どうしてあんなことしたの。
じゃんけんだなんて。どうでもいいじゃない。
ケガをさせるだなんて、ひどいことしたってこと、あなたはちゃんとわかっているの?

でもきっと、彼女をどれだけ責めたところで。
すぐに違う話に持っていかれてしまうこともわかっている。
その未来が見えてしまう今、私は幸に膝を突き合わせて大切な話をすることすら放棄した。

かろうじて娘を責め立てる言葉を飲み込んだら、涙が出てきた。
ああ。どうしてこういう日に、雨が降らないのだろう。まだ梅雨だったはずなのに、あれは嘘だったの?
涙をごまかすように見上げた空は、雲一つないのに、今の私には真冬の曇り空のようにかすんで見える。

今夜の私が幸に優しくいられる自信が、ない。
とにかく今日は早く眠りにつこう。
眠りについて明日を乗り越えたら、週末にまた啓太さんが帰ってくる。
お土産にだいすきな食パンをお願いしておこう。
私も幸も好きな食パンを一斤。

それでもないと私。どうにかなってしまいそうだ。





第4話へ続く






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