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#23 大学時代の思い出|農業工学科

今回は、私が専攻していた農業工学科について書いていこうと思う。

農業工学科の定員は30名で、女子は確か1人だけだったと記憶している。

入学して間もなく、専攻は「農業土木」「農業機械」の二つに分かれた。内訳は、農業土木が20名ほど、残り約10名が農業機械という構成だったと思う。私は農業土木を選択し、そちらを専攻することになった。



講義について

島根大学の中でも、農業工学科は理学部の物理学科と並んで、留年者の多い学科だったという印象が強い。

実際、同回生のうち4年で卒業できたのは20名ほどしかいなかった。
その主な原因は、「水理学」「構造力学」「土質(理)工学」という、いわゆる“3強”と呼ばれていた履修必須の専門科目である(もう一つ加わって「4強」だったかもしれない)。

これらの単位を落として留年する者が多く、ほかにもバイトやパチンコに明け暮れ、次第に授業へ来なくなった者もいた。

3強の科目はⅠとⅡ、つまり前期・後期に分かれており、合計6科目の単位を取得する必要があった。
物理学科でも留年の理由は似たようなもので、特定の専門科目を取得できなかったためだと聞いている。

農業工学科では2回生から3強の履修が始まるため、4年で卒業するには、それぞれに3回のチャンスがあった。
一方、物理学科では、4回生で研究室に配属されるための必須条件になっていたように記憶している。

後々登場する物理学科で2つ下のK井(大分)とF代は、この専門科目を取得できず、留年が決まったようだ。

農業工学科の授業で特に印象に残っているのは、二つの実習である。
一つ目は測量実習だ。大学の先生ではなく、民間の測量会社の人が講師として教えに来ていた。

最初に教室で簡単な講義を受け、その後、測量機器を持って構内に出て実習を行うという流れだった。
私はその時間を利用して、ほとんど授業を抜けていた。

測量実習もⅠとⅡに分かれており、Ⅱまで履修すると卒業時に測量士補の資格が取得できたはずだ。ただし必須科目ではなかったため、私は履修しなかった。

また、等級の高い三角点を見に大根島へ行ったことも覚えている。

余談だが、T柴は当時、大根島の名産である朝鮮人参を購入していた。
精力増強目的だろうか。20歳前後でそんなものが必要だったのかは謎である。

もう一つは農場実習である。午後の2講義分を使い、大学から東へバスで30分ほどの本庄農場で行われた。

作業が大変だと聞いていた田植えや稲刈りはサボってしまい、出席日数は単位取得ギリギリだった。

ただし、単位取得に必須の農場実習の合宿が、1回生の夏休みに入ってすぐ行われた。期間は3泊ほどだったと思う。
早朝、太鼓の音で起こされ、朝食前に草引きをしたこと、そして午後の休憩時間に収穫したスイカを食べたことが、今でも強く印象に残っている。

なお、農場で収穫された野菜や果物は、学館で定期的に安く販売されていたはずだ。学生や大学関係者だけでなく、一般の人も購入できたと思う。


同回生(同級生)

まず、学生寮で同じだったメンバーは、以前の記事でも少し触れたA路(兵庫)と、I藤(高知)、K本(鳥取)の3人でした。

A路は高校時代、野球部に所属していました。
報徳学園のエース左腕で、のちに大洋ホエールズ(現・DeNAベイスターズ)に入団する岡本投手から、両翼100メートルの明石球場でレフトスタンドへホームランを放った、という話をよく聞いていました。
大学ではハンドボール部に所属していました。

I藤は、たしか陸上部だったと思います。

K本はとてもおとなしく、真面目で成績優秀な学生でした。
レポート提出や試験前にはノートを借りてコピーさせてもらうなど、さまざまな面で助けてもらいました。
ただ、ある宗教に入った時期に一時的に明るくなり、よく話すようになったものの、それは長く続きませんでした。
反動だったのか、うつ病を患ってしまい、時期は3回生の終わり頃か、4回生になって間もない頃だったと思います。
その後、彼は退寮して実家に戻りました。
成績が非常に優秀だったため、卒業扱いになったのではなかったかと記憶しています。

次によく一緒に行動していたのが、Y田(岡山)、F井(滋賀)、O田(広島)、I田(広島)の4人です。
彼らとは研究室も同じで、おそらく事前に申し合わせて同じ研究室を選んだのだと思います。

F井については、私と少し似たところがありました。
彼もHR/HMが好きで、女性に対する言動もどこか共通点があったように思います。学内で可愛い子や綺麗な子を見かけると、すぐに話題にしていました。
その中でも、私とF井は、1つ上のM田さん(教育養護・島根)がお気に入りでした。
実際に彼女と親しくなることはなかったと思いますが、かなり早い段階で名前や所属などの情報だけは把握していました。

Y田I田は、寮の近くの同じ下宿先に住んでおり、よく遊びに行っていました。
F井O田を加えた5人で麻雀をしたり、焼き肉パーティーを開いたりもしていました。

そのほか、印象に残っている同級生としては、E角(島根)、I(徳島)、K山(島根)、M山(島根)、M原(島根)、I岡(島根)あたりでしょうか。

E角は、たしかアメリカンフットボール部に所属していたと思います。
農工に1人いた女子と付き合っていた、という記憶があります。

M山は、1回生・2回生の頃はほとんど大学に来ておらず、5年かけて卒業したのではなかったかと思います。

M原A路と同じく高校球児で、甲子園にも出場していました。
最後に代打で出場し、彼の三振でゲームセットになった、という話を聞いていました。


研究室

研究室の正式な名称は思い出せないが、構造力学分野には鳥山教授と野中助教授の二人がいた。

構造力学の授業を担当していたのは野中先生で、当時はまだ30代だったと思う。
身なりが洗練されていて、どこかおしゃれな雰囲気のある先生だった。

一方で、鳥山先生には目をつけられていた。
3回生になって間もない頃のことだと思う。
取得単位数が少ないという理由で呼び出され、説教を受けたうえに「実家に成績不振を知らせる手紙を書く」と告げられた。
実際にその手紙は送られ、後日、両親から叱られたことを今でも覚えている。

1回生の頃は一般教養科目が中心で、代返を頼んだり、レポート提出のみで単位が取れたりして、40単位ほどはそれなりに取得していた。
ところが2回生になると状況は一変し、通年で10単位ほどしか取れていなかったのが実情だった。

3回生終了時点で、研究室配属の条件のひとつである一般教養の単位が2単位足りなかったが、「一般教養だから」という理由で、特別に研究室への配属を認めてもらえた。

鳥山先生は、3回生の時点では私が4年で卒業できるとは思っていなかったのではないだろうか。
卒業論文の発表の際、先生から質問を受けた記憶がある。
それが意地悪だったのか、それとも先生なりのはなむけだったのか──今となっては分からない。

なお、その卒論発表には、弓道部で一つ下の後輩であるS村(農工・岡山)が見に来てくれていた。

卒業後、2〜3年ほど経った頃に、鳥山先生とは再会している。
就職先から「新入社員をぜひ入れてほしいとお願いしてきてほしい」と言われ、松江まで出向いて先生に会いに行ったのだった。

土質(理)工学関連の研究室にいた二人の先生の名前は、残念ながらまったく思い出せない。

私が所属した水利(理)研究室は、上で書いた仲の良かった4人にI岡を加えた、計6人の研究室だった。
田中礼次郎教授と福島晟助教授が指導教官で、
卒論のテーマは「タンクモデルによる洪水流出解析」。
斐伊川のデータを使ったように思う。
長期と短期の流出解析があった記憶はあるが、自分がどちらを担当していたのかまでは覚えていない。

田中先生の授業はとにかく楽で、寝ていても注意されることはなく、30分ほどで終わることもあった。
学生の間では「礼ちゃん」と呼ばれていた。
私の就職先は、田中先生の友人が専務か常務を務めていた会社だった。
卒業後2〜3年経った頃、松江で定年退官の記念行事があり、その際に再びお会いしている。

洪水流出解析のプログラムは福島先生が作成したもので、使用言語は授業で習ったFortran77だったかもしれない。
IBMのコンピューターが並ぶ教室で、データを打ち込んでいた光景を思い出す。
また、卒業後にため池の改修設計に携わった際に知ったのだが、
「角屋・福島の式」の“福島”とは、まさにこの福島先生のことだった。

4回生になると、大学生活の中心は研究室となり、弓道場に足を運ぶことは少なくなった。
まだ多くの単位が残っていた私とO田は、研究室から直接授業へ向かうことも多く、卒論の進み具合は正直あまり良くなかったと思う。

最終講義が終わったあとも、夜遅くまで研究室に残ることが多かった。
卒論を進めていたこともあったが、大半は先輩たちが残していった漫画を読んだり、賭け事をしたりしていた。

漫画では『嗚呼!! 花の応援団』を全巻読んだ記憶がある。

賭けはトランプが中心で、プロ野球6試合の結果や高校野球、さらにはサッカーのヨーロッパ選手権の優勝国まで対象にしていた。
印象に残っているのは、優勝候補だったユーゴスラビアが内戦への制裁で直前に参加停止となり、代替出場したデンマークが優勝した大会である。

ほかに覚えている出来事として、バレンタインデーに弓道部の二つ下の後輩が三人ほどで研究室にチョコレートを持って来てくれたことがある。
その瞬間、研究室の面々が大きな歓声を上げ、彼女たちは少し戸惑った表情をしていたように思う。三人の中にT丸(大分)がいたような記憶もある。

最後に、農工担当の女性事務員が二人おり、事務室は水利(理)研究室の前にあった。
そのうちの一人は当時30代前半だっただろうか。
非常に色気のある女性で、学生の間でも話題になっていた。未亡人だという噂もあった。

卒業式の日、弓道部の後輩からもらった花束を、その女性職員にプレゼントしたことを覚えている。
卒業式の2日後には松江を離れる予定で、引っ越しの準備もほぼ終わっており、花瓶に生けることもできなかったからだ。
少しばかり下心もあったのだろう。

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