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妹想いすぎる吉田松陰(千代との手紙から)

今回の三極志の会では、吉田松陰の書簡(手紙)について取り上げたいと思います。
というのも、先日、久々に『日本の名著 吉田松陰』(中央公論社、1973年)を手にとって読んでみました。
この『日本の名著』シリーズは、古代から近代の日本人が残した著作や書簡を全50巻にわたって収録したもので、その第31巻が吉田松陰です。

この松陰の巻には、松陰が残した著作や書簡が多く収録されていて、松陰が日々何を考えながら過ごしていたのかを知る上で有益なものです。

ただし、吉田松陰の著作や手紙は、『日本の名著』に収録しきれないほど膨大で、ここにもれたものを見るには戦前に岩波書店から出された『吉田松陰全集』にあたるとよいでしょう。
幸い、これは「国立国会図書館デジタルコレクション」で誰でも無料で閲覧できます。

ただし、この『日本の名著』シリーズのほうが書簡以外は現代語訳されているので読みやすいと思います。しかしながら、発行されていたのが1969~82年であり、今普通の書店に行っても並んでいるところを見ることはできないでしょう。なので、これを入手しようと思えば古本屋やネットで探すしかないのが難点です。
僕も、日本の名著シリーズはいつも大学近くの古本屋で購入しています。

さて、本題に入ります。


松陰には、兄の梅太郎弟の敏三郎のほか、四人の妹がいました。年上から順に、千代・寿・艶・文、という名前でした。このうち、不幸なことに艶は早世してしまいました。また、文は2015年の大河ドラマの「花燃ゆ」で主人公(井上真央さんが演じていました)だったので覚えている方もいるでしょう。

松陰の書簡を読んでいると、彼は大変家族想いな人で、この妹たちのことも死の直前まで気遣っていたことがわかります。

松陰には学問や政治、国防について論じた書が多いのは当然ですが、そうではない、家族同士の愛情を伝える書簡も意外と伝わっていて、こうしたものを読むのも私は好きです。
現代でたとえたら、家族同士の「ライン」や個人的なメールの中身を後世の人間に見られているようなものなので、松陰としては不本意かもしれませんが、彼の人間性を伝える格好の史料として大事だと思います。

今回は、松陰が一番上の妹の千代(松陰の二つ年下)にあてた手紙(おそらく千代からの手紙に返信したもの)を紹介します。
日付は安政元年(1854)12月3日です。

この年の3月、松陰は金子重之助とはかって二度目の来航をした黒船に乗り込んでアメリカ密航を企てたが失敗。これにより、長州へ送還されて野山獄の中にいる、という状況でした。

そんな厳しい状況下の松陰ですが、家族との間接的な交流は続いていたようです。そのことがわかる手紙です。以下、現代語訳して記します。


松陰が千代にあてた手紙の内容

「11月27日の日付がある千代の手紙、くねんぼ(みかんに似た柑橘類)、みかん、かつおぶしが昨晩私のもとにとどきました。獄中の中は灯火も暗いですが、大概手紙の内容はわかりました。

手紙からそなた(千代)の心中が察せられ、涙が出てきて止まらず、夜着をかぶって寝ようとしても手紙の内容を忘れることができず、また起きて手紙を読んでいよいよ涙にむせび、その後すこし寝たかと思えばまた目が覚め、一晩中ろくに寝ることもなく色々なことを思い出していました。

私は、父母様や兄様の(仕送りの)おかげで獄中にあっても着物も暖かく、食べ物も豊かに、さらに筆・紙・書物に至るまで何一つ不自由することなく寒い冬でも大丈夫ですので、安心なさってください。そなたの姑(千代は児玉初之進という人物に嫁いだので、その母)も亡くなってしまったので、今は児玉家のことは万事千代が心配りをして取りまとめていかなければいけませんよ。特に、舅(太兵衛。親戚の中で一番気難しい人物だったらしい)はもうご高齢であるので、特別に孝養をつくしてあげなさい。
また、万吉(当時4・5歳だった千代の長男)も日々大きくなっていくだろうから、よく心を用いて育てなさい。
(中略)
私はそなたのことを、幼いころから心が立派な人だな、と思ってきました。だから、親族の中でも特にそなたのことを親しく思ってきました。それで、今回手紙を受け取り、その返信につい余計なこと(おそらく嫁ぎ先での心構えのことでしょう)を書いてしまいました」


いかがでしょうか。まず、獄中の松陰のもとには家族から手紙や食べ物も送られ、松陰が獄中にあってもなお、家族は松陰のことをとても気遣っていたことがわかるでしょう。

一方、松陰もそうした家族に感謝しつつ、特にこの妹・千代のことを気にかけ、千代からみれば余計な「おせっかい」とも思えることまで松陰は手紙のなかで触れていることがわかります。

幼いころから千代を立派な心がけを持った人だと思っていた、また、千代の手紙を読んで涙がとまらなくなった、という表現から、獄中生活をしていた彼にとって千代がどれだけ松陰のこころの支えとなっていたか、察するに余り有ります。
千代のほうも、獄中の松陰にいろいろ贈り物をしていたようで、兄をしたっていたことがわかります。

そんな千代にとって松陰がのちに刑死したことは大変ショックだったでしょう。しかしながら、千代はそんな時代の荒波をのりこえ、なんと大正13年(1924)まで生きて93歳で天寿を全うしました。

吉田松陰と同世代の家族が大正の終わりごろまで生きていたことには私も驚きました。

千代にあてた、恋歌のような和歌


さて、この手紙はこのあと別紙が続き、そこでもなお松陰は千代に対して、子育ての心構えや、自分の家だけでなく嫁ぎ先の家の先祖も大事にしなさい、とか、心を清めて日本の神々を拝みなさい、とか、それこそ「おせっかい」ともいえることを長々書き連ねています(笑)。
それだけ、千代に期待するところがおおきかったのでしょう。

さて、そんな別紙のなかから私が一番好きな部分を紹介して結びとします。


「さて、私(松陰)は歌を詠んだので、それをここに書きます。

頼もしや 誠の心 かよふらん 
文みぬ先きに 君を思ひて

右のような歌を詠んだのは、そなた(千代)のことを思って手紙をしたためようとしたが、その夜、まだその手紙をおくらないうちに千代からの手紙が届いたので、私の手紙よりも、私の誠の心が先に千代のもとに届いたのだろう、とても頼もしいことだなあ、と思ったからです」

いかにも「誠」を重んじた松陰らしい、情熱的な歌ですね。
それにしても、まるで恋人同士のような兄妹ですね。


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