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6年間noteを書き続けてわかったこと

6年経ちました。

なにが?
って話ですが、

このnoteです。

6年ですよ!

すごくないですか!

…ま、すごくないか。

6年前の2020年5月25日月曜日
初めてnoteを投稿しました!!

それから毎週月曜日、
6年間、1度も休まずに投稿してきました。
祝日も正月も関係なく月曜は必ず投稿。
一回も休むことなく6年、続きました!
いや、ほんとよく続いてます。

6年前、はじめたときのことを思い出すと、当たり前だけど6年も続くなんて思ってない。
あのときは1年続けることも無理だと思ってました。

大変だったですからね。
毎回書くのが。
死ぬほど大変で、本当にこんなこと続けたら死ぬと思ってました。
大げさでも何でもなく本当にそう思ってやってました。

最初のうちには書いてる量が尋常じゃなかったので、このクオリティで続けるのは無理と思ってて、そこは少しずつゆるくしていった。
でも、量を減らそうにも書き始めると「これ」を書いたら「これ」も書こう、「これ」説明しなきゃって、ようはまとめる要領が悪かったんで、つい毎週書く量が増えて大変になったりしてた。
そもそも何を書けばいいかのネタがまったく思いつかなかったのもある。
どちらかというと「書く量が多くて大変」なときの方がまだよくて、「書くことが決まらない」方がつらかった。
なにげない文章というか、気を抜いて書くことができなかったんです。
語彙が少ないうえに、どう書けば文章が成立するのかのコツがつかめてなかったり、あと自分の意見を書くというのに抵抗があったので(抵抗と言うより怖さか)、とにかく「思考」をボカして「やってること」だけをひたすら書いていた気がします。
だからネタ的には大変でも「がんばれば書ける」を選んでたんですよね。

いずれにしろ「noteを書くのが当たり前にできるようになる日」なんて、一生来ないよ、続ける限り地獄だよ、なんて思ってましたが、人間なんて変わるものですね。

いま、かなり当たり前に、平常運転でやってるんですよね。

別に今だって呼吸をするように文章が書けるとか、そんな域までは行けてないけど、それなりにするすると文章書いてます。
何ならいまはデザインしてる時間より文章書く時間の方が一日で長くなってるし、たくさんいろいろ書くようになってきている。

noteはそれなりにしっかりやるものとして考えてはいるし、別にいいかげんにやってるわけじゃないけど、「大変さ」のバロメーターで言えば、書いてるものの中でも、いまかなり下の方なんですよね。

言い過ぎかもしれないけど、いちばん楽に書いてるのがnoteかもしれない。

ようはもっと大変なものがほかに増えたから、相対的に大変じゃなくなったってだけなんですが、向き合い方はだいぶ変わった気はします。

以前いちばん苦手だった「考えている」ことを書く場になっているし、思考を掘り起こすためにnoteを使うようになってきた。

書いて思考を掘り下げるのに、noteを書く時間ってすごくいいんですよね。
毎日、原稿を書いていて、ここはちょっと掘り下げたいなと思ったことをnoteに書く。そのままそれを原稿で使うわけじゃないけど、こうやって書いて掘り起こしていくと意外なものがでてくるので、日曜と月曜とnoteに向きあうのはいい時間だなーと思えてる。

ね、ほら、なんというか、こんなこと言ってること自体が6年の変化なんですよね。

ちなみにこれが1年目やり切ったあと書いたnoteです。

1年目、続けたあとのこの息切れ感からは、信じられない変化があるなと思います。

でも、思えば、こうやって変わってきたことも、この大変で、辛くて、どうしようもなかった何年間があったからなんですよね。

この大変さを、飼い慣らしていくというか、自分で持続可能な何かに変えるべく、最適化をずっとしてきたわけです。

最初から、書くのが得意で、余裕しゃくしゃくでやってきたのと違って、きつい、つらい、やめたい、どうにかしたい、やばいって状態を繰り返しながら、なんとかやめないですむ道と、楽しく続けていくための最適化を見つけ続けてきたわけです。

そう、楽しみながら続けるための「最適化」なんですよやってきたことって。

思い出したのが、「アメリカッチ─コウノトリと幸せな食卓」という映画。
1948年、ソ連統治下のアルメニアを舞台にした映画。
アメリカから夢を抱いて祖国に帰ってきた男が突然収容所送りになる。
理由は権力者の妻に近づいたから。もちろん下心もないし何の罪もない。
でもなんか気に入らないから収容所に送られる。
狭くて暗い独房に閉じ込められ、絶望する主人公。
彼の唯一の救いは、窓の外に見える誰かの部屋をのぞくこと。
そこに暮らす普通の夫婦の何でもない普通の日常。
それを映画でも見るかのように眺めて、彼らが料理を食べるのを眺めて、自分も一緒に食べているような気になって、まずい食事をご馳走のように空想して食べる。想像力が希望になる。
小窓は部屋の高い場所にあって、最初はよじのぼってのぞいていたけど、それを毎回するのはキツイので、見るために道具を工夫する。
ベッドを立てかけて倒れないように固定する道具をつくり、小窓の鉄格子を利用して食器を置く仕組みを作ったり、そのままそこで寝落ちできるような仕組みまで発明し、看守に見つからないように瞬時に元に戻るような仕掛けまで作る。
何年も時間をかけて何もなかった絶望の独房を彼にとっての娯楽の劇場へと「最適化」させていく。
理不尽で最悪な状況をいかに自分に合わせて最適化していくか、どこにだってそういう希望はあるって映画だった。

最初から最適な環境を目指すわけじゃない。
けど、困難があったときに、それに対して色んなアプローチを試しながら、「これがいいかも」を選んで残していって、少しずつ自分に合わせて困難な状況を作り直して、自分にとっての「最適」な形を少しずつ見つけていく。

わたしも本当、色んなことを試しましたよ。
「投稿する月曜になるまでnoteのことは考えない」なんてことをしたこともあったし、「毎日下書きを書く」を試したこともあるし、「タイトルだけたくさん考えてストックを貯める」ことをしていた時期もあるし、そのうちポッドキャストをはじめて、しゃべってネタを探すというようなことを始めたり、原稿を書きながら「ここはnoteで書こう」って一部を掘り下げるために書くようにしたり、めちゃくちゃ色んなことを試して「持続可能」なやり方を定着させていった。

この6年、ずっとその試行錯誤の繰り返しだし、これから先だって似たようにしていくのだと思う。

つねに、「持続可能な形は何だ?」って問うこと。
「どうすれば楽しくマンネリになることなく続けられるのか?」それを思考し続けること。
そういう答えのないことに向き合い続けることが「続ける」ということなのです。

だから「続ける」と、つねに「変化」していくのです。


127週、続いてるラジオです

「続ける思考」もよろしくお願いいたします!


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