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【保存版】韓国の住宅はなぜ外の空気を入れないのか?——危険な空気が変えた住宅設計

窓・バルコニー・換気、そして見えない空気の設計へ


※本記事は約13,000字超の長文記事です。

■ 第1章

韓国で初めて知った「空気の問題」


15年前に韓国へ来たとき、私はひとつの「見えないもの」を知らなかった。

それは風でもなく、匂いでもなく、しかし確実にそこにあるもの
——미세먼지 ( ミセモンジ ) である。

日本語で言えば、微小粒子状物質、または PM2.5と呼ばれる。

けれど、その言葉はあまりにも説明的で、当時の私には実感を伴わなかった。少なくとも、日々の暮らしの中で、それを意識する必要はなかったからだ。

仙台で過ごしていた頃、空気はただそこにあるものだった。天気予報を見るときに確認するのは、気温や降水確率であって、空気の状態ではない。窓を開けるかどうかを迷うことも、洗濯物を外に干すことにためらいを感じることもなかった。

韓国に来て、最初に感じた違和感は、
その当たり前が通用しないことだった。

天気予報には、もう一つの指標がある。

晴れ、曇り、雨の隣に並ぶ、ミセモンジの指数。空気が「良い」か「悪い」かが、日常的に言葉として示される。

空気は見えない。

それでも、そこに「良し悪し」があると知らされることで、逆に意識せざるを得なくなる。今日は外に出ていいのか。窓を開けてもいいのか。そんな判断が、知らぬ間に生活の一部になっていった。

ソウルや仁川を含む首都圏で暮らし始めると、その違和感は次第に視覚的な感覚へと変わっていく。

晴れているはずの空が、どこか白い。遠くの建物の輪郭が、わずかに滲んで見える。光はあるのに、透明ではない。

はじめは気のせいかと思った。

しかし、それが何度も繰り返されるうちに、
「これがこの場所の空なのだ」と理解するようになる。

ミセモンジは、
さらに細かい粒子であるチョミセモンジ
すなわちPM2.5へと分けられる。

その違いは数字の上ではわずかに見えるが、
身体にとっては決して小さな差ではない。

むしろ見えないほどに小さいからこそ、
知らないうちに深く入り込んでくる。

韓国で住宅設計の仕事を始めた頃、私はようやく、
この空気の問題が建築と無関係ではないことに気づいた。

たとえば、バルコニーが室内化されていること。日本では外部とつながるはずのその場所が、ここでは内側へと取り込まれている。

もちろん理由は一つではない。

しかし、空気をそのまま受け入れることができないという前提があると考えると、その選択は自然なものに思えてくる。

外に洗濯物を干すという行為も、ここではどこか慎重になる。空気は目に見えない。それでも、確実にそこに何かが含まれているという感覚がある。だから人は、それを避けようとする。

思い返せば、コロナ以前から街中でマスクをしている人の姿も、すでに日常の風景だった。

それは感染症への対策というよりも、
空気そのものに対する応答だったのだと思う。

見えないものに対して、人はどこまで距離を取ることができるのか。
その問いが、すでに生活の中にあった。

一方で、日本がこの問題と無関係だったわけではない。

韓国で最初に勤めた会社は日系企業で、九州の会社だったのだが、彼らはすでにミセモンジの影響について一定の認識を持っていた。

九州でも影響がある——その言葉を聞いたとき、私は初めて、この現象が一つの国の問題ではなく、より広い範囲でつながっていることを実感した。

ただ、その現れ方は同じではない。
韓国では、それは毎日の生活の中で繰り返し現れる「現在の問題」である。

日本では、それは季節や地域によって現れたり消えたりする、どこか距離をもった現象として捉えられることが多い。

空気は、これまで「そこにあるもの」として扱われてきた。しかし、ここでは違う。空気は、選ばなければならないものになっている。

ミセモンジとは何なのか。
なぜこの違いが生まれるのか。

そして、この見えない存在は、建築のあり方をどのように変えているのか。

そのことを、もう少し具体的に見ていきたい。


晴れているはずなのに、どこか遠くが見えない。

■ 第2章

미세먼지(ミセモンジ)とは何か——見えない粒子の正体


ここで一度、ミセモンジという言葉を整理しておきたい。

韓国で日常的に使われる「미세먼지(ミセモンジ)」は、日本語では一般にPM2.5又は微小粒子状物質と呼ばれる。さらにその中でも、粒子の大きさによって大きく二つに分けられる。

一つは、粒径10マイクロメートル以下の粒子、いわゆるPM10。
そしてもう一つが、粒径2.5マイクロメートル以下の粒子であるPM2.5、韓国でいう「チョミセモンジ」である。

この違いは単なる分類ではない。粒子が小さくなるほど、人体への影響は深刻になる。PM10は主に鼻や喉である程度捕捉されるが、PM2.5は肺の奥深くまで到達し、さらに血流に入り込む可能性があるとされている。

つまり問題の本質は、「どれだけ汚れているか」ではなく、「どこまで入り込むか」にある。

では、その粒子はどこから来るのか。

ミセモンジの発生源は一つではない。大きく分けると、三つの要因が重なっている。

第一に、越境汚染である。
中国大陸を中心とした工業活動や発電、輸送などから排出された物質が、偏西風によって韓国や日本へと運ばれてくる。研究によって幅はあるが、韓国では全体の約30〜40%程度が国外由来とされている。

第二に、国内での排出である。
自動車の排気ガス、火力発電、工業活動などによって発生する物質は、都市部において無視できない割合を占める。特に首都圏では、人口密度と交通量の集中によって、この影響が顕著に現れる。

そして第三に、二次生成である。
これが最も見えにくく、同時に重要な要素でもある。大気中に排出された窒素酸化物(NOx)や硫黄酸化物(SOx)、揮発性有機化合物(VOC)などが、太陽光や湿度などの条件によって化学反応を起こし、新たに微粒子として生成される。つまりミセモンジは、「その場で生まれる」こともある。

この三つの要因が重なり合うことで、ミセモンジの濃度は決まる。

さらに重要なのは、その分布が一様ではないという点である。
空気は均一ではない。風向き、地形、都市の構造によって流れは変わり、ある場所では滞留し、ある場所では拡散する。同じ都市の中であっても、場所によって濃度が異なることは珍しくない。

この性質は、先に触れた放射線の問題ともどこか共通している。
距離だけでは説明できず、風や地形によって局所的な偏りが生まれる。つまり、「近いから危険、遠いから安全」という単純な図式では捉えられない

では、日本と韓国でなぜこの問題の受け止め方が異なるのか。

一つは、平均濃度の違いである。
日本のPM2.5の年平均値はおおむね8〜10μg/m³程度で推移しているのに対し、韓国では近年改善傾向にあるとはいえ、15μg/m³前後の水準にある。絶対値としては大きな差ではないように見えるが、日常的な体感としては無視できない差となる。

もう一つは、ピークの頻度である。
韓国では高濃度の日が年間を通して繰り返し発生し、その都度、注意報や行動制限が発令される。一方、日本では高濃度になるケースは主に春先に集中し、頻度としては限定的である。

この違いが、結果として「日常的に意識するかどうか」という差を生んでいる。

韓国では、空気は毎日確認する対象である。
日本では、空気は問題が起きたときに意識される対象である。

同じ現象でありながら、その位置づけは大きく異なる。

そしてこの差は、そのまま建築の考え方へとつながっていく。

空気を取り込むのか、遮断するのか。
外部とどのような関係を持つのか。

ミセモンジの問題は、単なる環境問題ではなく、空間の設計そのものに関わる問題でもある。


都市はそこにあるはずなのに、空気がそれを隠してしまう。

■ 第3章

空気をどう扱うか——日韓で異なる日常の感覚


ミセモンジという現象そのものは、日本と韓国で大きく異なるものではない。
同じ東アジアの大気の中で起きている現象であり、発生の構造も基本的には共通している。

それにもかかわらず、この問題の受け止められ方には明確な違いがある。

韓国では、ミセモンジは日常の中で繰り返し意識される存在である。
天気予報では毎日のようにその指数が示され、「良い」「普通」「悪い」といった区分が生活の判断基準として共有されている。今日は外に出てよいのか、窓を開けてもよいのか。そうした判断が、ごく自然に日常の中に組み込まれている。

一方で日本では、ミセモンジは常に意識される対象ではない。
報道されるのは主に濃度が一時的に上昇する場合や、黄砂と重なる時期などに限られる。とりわけ九州や西日本では影響が出やすいものの、それでも年間を通して日常的に意識されるほどではない。

この違いは単に情報量の差ではなく、問題の位置づけの違いによるものだと考えられる。

韓国では、ミセモンジは「日常の問題」として扱われている。
濃度の変動が頻繁に起こり、そのたびに注意報や対策が発表される。学校や公共施設でも、それに応じた行動が求められることがある。つまり空気の状態が、生活や行動に直接的な影響を与える前提がある。

対して日本では、ミセモンジはどちらかといえば「例外的な現象」として扱われる。
通常は意識されることは少なく、濃度が上昇したときにのみ注意喚起が行われる。日常の判断に組み込まれるほどの頻度ではないため、生活の中での優先度も相対的に低くなる。

この差は、空気に対する基本的な認識の違いとして現れる。

韓国では、空気は「確認するもの」である。
日本では、空気は「前提として存在するもの」である。

同じ空気であっても、その扱い方は大きく異なる。

さらに重要なのは、この違いが個人の行動だけでなく、社会の仕組みにも反映されている点である。

韓国では、ミセモンジの濃度に応じて行政が具体的な対応を取る。
公共交通機関の利用促進、車両規制、屋外活動の制限など、空気の状態に応じた措置が制度として組み込まれている。空気は単なる自然現象ではなく、管理すべき対象として扱われている。

一方で日本では、対応は比較的緩やかである。
注意喚起は行われるものの、生活や行動に対する強い制約は少ない。個人の判断に委ねられる部分が大きく、社会全体として空気を管理するという意識は相対的に弱い。

このように見ていくと、ミセモンジの問題は単なる環境問題ではなく、社会の構造や価値観の違いを映し出しているとも言える。

そしてこの違いは、やがて建築のあり方へと現れてくる。

空気を前提として取り込むのか。
あるいは、制御しながら受け入れるのか。

窓のあり方、バルコニーの扱い、換気の考え方——それらはすべて、空気との関係性の中で決まっていく。

ミセモンジの問題は、目に見えない粒子の話であると同時に、空間の境界をどう定義するかという問題でもある。

次の章では、その境界が具体的にどのように変化しているのか、建築の視点から見ていきたい。


■ 第4章

見えないものと暮らすということ


ミセモンジのことを現実の問題として捉えるようになったとき、私はある記憶を思い出した。
それは、15年前の東日本大震災のときのことである。

私は当時、仙台にいた。地震と津波の被害については、多くの人が知っている通りだと思う。しかし、福島県出身でもある自分にとって、どうしても無視できなかったのは、原発事故による放射線の問題だった。

多くの知人や家族、そしてこれまで住宅を設計してきた建築主の方々が福島にいる。彼らはある日突然、「見えないもの」と向き合わざるを得なくなった。
それは匂いもなく、色もなく、触れることもできない。しかし確実に存在し、人の身体に影響を与えるものだった。

あの頃、テレビやニュースでは、毎日のように放射線の数値が報道されていた。
数値が上がった、下がった。安全か、危険か。その情報に一喜一憂しながら、生活の判断をしていく。外に出ていいのか、子どもを遊ばせていいのか。そうした判断が、日常の一部になっていった。

そしてそれは、決して一つの地域だけの問題ではなかった。
距離が近ければ危険で、遠ければ安全、という単純な話ではない。風によって運ばれ、地形によって滞留し、局所的に濃度が高くなる場所が生まれる。
同じ県内であっても、場所によって状況は大きく異なっていた。

特に私が多くの設計を行っていた県中地域では、学校や日常生活にもその影響が強く現れていた。子どもたちは日常的にマスクを着用し、校庭の土は放射線が蓄積しやすいという理由から撤去され、コンクリートなどに置き換えられていった。
本来、土があるべき場所から土が消えていく。その光景は、今でも強く記憶に残っている。

以前、瓦を敷地に敷き詰めるという記事を書いたことがあるが、その場所も後にコンクリートで固められたと聞いた。
素材や風景の問題ではなく、「何を避けるか」が優先される状況だったのだと思う。

ミセモンジと放射線。
この二つはもちろん同じものではない。性質も、発生の仕組みも異なる。しかし、それでも共通しているものがある。

それは、「見えないもの」であるということ。
そして、その見えないものが、確実に人の身体に影響を与えるということ。

空気は、これまで最も疑われることの少ない存在だった。
しかし一度、それが危険かもしれないと認識されたとき、人は空気との関係を根本から見直さざるを得なくなる。

ミセモンジの問題を韓国で日常的に体験したとき、私はあのときの放射線の記憶と、どこかで重なっていることに気づいた。
見えないものとどう向き合うのか。どこまで受け入れ、どこから遮断するのか。その判断は、単なる環境問題ではなく、生活そのものの問題になる。

そしてその延長線上に、建築の問題がある。
空気をどう扱うのか。外部とどのように距離を取るのか。その問いは、すでに私たちの足元にある。


見えていないだけで、そこにあるものがある。

■ 第5章

窓は風のためにあるのか——変わり始めた開口部の意味


建築において、窓とは何か。

この問いに対して、これまでの答えは比較的明確だった。
窓は光を取り入れ、風を通し、内部と外部をつなぐための装置である。
とりわけ住宅においては、自然換気という考え方が前提として存在してきた。

空気は外から取り入れるものだった。

しかし、ミセモンジという問題は、この前提を静かに揺るがしている。

韓国で住宅設計に関わる中で感じたのは、窓の役割が少しずつ変わり始めているということである。
窓は依然として存在している。だが、その意味は以前とは同じではない。

まず、窓を開けるという行為そのものが、以前ほど自明ではなくなっている。
外の空気が必ずしも安全ではないという前提がある以上、風を取り入れることは慎重に判断されるべき行為になる。天気が良いから窓を開ける、という単純な関係は成立しない。

その結果として、窓は「風を通すための装置」から、「光を取り入れるための装置」へと重心を移しつつある。

実際、開閉を前提としないFIX窓の採用が増えていることも、その変化の一つと言える。
開けることを前提としない窓は、気密性や断熱性を確保しやすく、外気の影響を最小限に抑えることができる。
それは性能としては合理的である一方で、建築の性質を大きく変える選択でもある。

さらに言えば、この変化は住宅の中に置かれる機器のあり方にも表れている。

韓国では、空気清浄機がほぼ必須の設備として扱われている。
リビングだけでなく、寝室や子ども部屋にも複数台設置されているケースも珍しくない。空気を浄化するという行為が、日常的な前提として組み込まれているのである。

本来、建築は外部環境を調整し、内部の快適性を確保する役割を担ってきた。
しかし外気そのものの質が不安定になると、その役割の一部は建築の外へと押し出される。

空気清浄機は、その象徴的な存在である。

つまり現在の住宅では、空気の質を建築だけで完結させることが難しくなり、機械による補完が前提となっている。

空気は、空間の中で自然に整うものではなく、積極的に制御し続けなければならない対象へと変わっているのである。

もう一つの変化は、換気の方法である。

従来の住宅では、窓を開けることで空気を入れ替えるという考え方が基本にあった。
しかし現在では、機械換気によって空気を制御するという方向へと移行している。
フィルターを通して外気を取り込み、必要に応じて空気を清浄化する。
つまり空気は、「そのまま受け入れるもの」ではなく、「選別して取り込むもの」へと変わっている。

この変化は、単に設備の問題にとどまらない。

窓という要素が、外部と内部の関係をどのように定義するかという、建築の根本に関わる問題だからである。

これまで窓は、外部との連続性をつくる装置だった。
風が通り、音が入り、匂いが届く。そうした多様な要素を含めて、内部と外部は緩やかにつながっていた。

しかし外気をそのまま受け入れることが難しくなったとき、その関係は変わる。
外部は、単純に取り込むべき対象ではなくなる。
むしろ一度遮断し、必要な要素だけを選び取る対象へと変わっていく。

そのとき窓は、境界を曖昧にする装置ではなく、境界を明確にする装置として機能し始める。

外を見ることはできる。
光を取り入れることもできる。
しかし風は、そのままでは入ってこない。

この変化は小さなもののように見えるが、建築のあり方にとっては決定的である。

なぜなら、それは「自然と共にある建築」から「環境を制御する建築」への移行を意味しているからである。

空気をどう扱うのか。
その問いは、窓のあり方を通して、すでに空間の設計に現れている。


窓は、外を取り込むためのものではなく、選び取るための装置である。

■ 第6章

バルコニーはなぜ閉じられたのか——外部が内部になるとき


韓国の住宅を見たとき、多くの人が最初に違和感を覚えるのが、バルコニーの扱いである。

本来バルコニーとは、内部と外部のあいだに位置する中間領域である。
外に開かれながらも、完全な外部ではない。風や光を受け取りながら、生活の一部を外ににじませるような場所である。

しかし韓国の集合住宅では、そのバルコニーの多くが室内化されている。
窓で閉じられ、断熱され、床も室内と同様に仕上げられる。結果として、それはもはや外部ではなく、室内の一部として扱われる。

この現象は制度や面積の問題として語られることが多い。
実際、バルコニーの室内化は、住宅の有効面積を拡張する手段としても機能してきた。

しかし、それだけでは説明しきれない側面がある。

ミセモンジの存在である。

外気をそのまま取り入れることが難しい環境において、半外部空間という概念は成立しにくくなる。
バルコニーは本来、外と内を緩やかにつなぐ場所であったはずだが、その前提となる外気の質が変わることで、その役割自体が揺らぐ。

外に開くことがリスクになるとき、人はその境界を閉じる方向へと向かう。

その結果として、バルコニーは外部から切り離され、内部へと取り込まれていく。

この変化は、生活の細部にも現れている。

日本では、洗濯物を外に干すという行為はごく自然なものである。
日光と風を利用して乾かすことは、特別なことではない。

しかし韓国では、この行為が必ずしも前提とはならない。
空気の状態によっては、外に干すこと自体がためらわれる。目に見えない粒子が付着する可能性を考えれば、それは合理的な判断でもある。

そのため、室内干しや乾燥機の利用が一般化し、バルコニーもまた外部としてではなく、内部の延長として使われることになる。

ここで重要なのは、この変化が単なる生活習慣の違いではないという点である。

それは、「外部をどう扱うか」という建築の基本的な姿勢の違いとして現れている。

日本の住宅は、外部との関係を前提として構成されている。
風を通し、光を取り入れ、季節の変化を受け入れる。
バルコニーはその媒介として機能する。

一方で韓国の住宅は、外部からの影響をいかに制御するかという方向へと重心を移している。
外気はそのまま受け入れるものではなく、一度遮断し、必要なものだけを取り込む対象となる。

そのときバルコニーは、もはや外部との接点ではなく、内部空間を拡張するための装置として再定義される。

外部が内部へと変わる。

この変化は静かでありながら、建築の構成そのものを大きく変えている。

ミセモンジの問題は、窓のあり方を変え、そしてバルコニーという中間領域の意味をも変えた。
それは単に空気の問題にとどまらず、「内と外をどう分けるか」という建築の根本に関わる問いでもある。


バルコニーは、都市と個人がわずかに接触する、最も小さな境界である。

バルコニーは、外部と内部の境界でありながら、
同時にその関係を最も敏感に映し出す場所でもある。

では、この境界が消えるとき、
住宅はどのように変わるのだろうか。



※本記事は約13000字超の長文記事です。

ここまで読んでいただいた内容は、
韓国住宅における「外部の消失」という現象の読み解きである。

なぜ窓は閉じられるのか。
なぜ外部は内部化されるのか。
なぜ「外の空気を入れない住宅」が成立したのか。

それは単なる文化の違いではなく、
環境・制度・設計が複雑に絡み合った結果である。

では、それは特殊な事例なのか。
それとも、設計として応用可能な構造なのか。

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ここからは、この問いに対して明確に答えます。
これまで「現象」として見てきた内容を、
設計として扱えるレベルまで具体化します。

・PM2.5という外部環境が、どのように空間構成を変えたのか
・バルコニー制度や法規が、どのように内部化を促したのか
・換気・断面・ゾーニングはどのように設計されているのか

これらを、単なる解説ではなく、
実務に転用できるフレームとして整理します。

多くの設計では、「外部との関係」が曖昧なまま扱われます。
しかし、この構造を理解すると、

・外部を取り込むのか、遮断するのか
・どこで空気を制御するのか
・内部と外部の境界をどう設計するのか

といった判断が、明確な意図を持って行えるようになります。

実際にこの視点を持つことで、
・環境に応答した住宅設計ができる
・説得力のあるプランが組める
・クライアントへの説明力が上がる
といった変化が生まれます。

これは単なる知識ではなく、
設計の精度そのものを引き上げる内容です。

本来、こうした内容は
制度理解と実務経験の蓄積の中でしか得られません。
それを一つの体系として整理しているのが、この先の内容です。

もし今、
・環境と住宅の関係を深く理解したい
・外部の扱いに明確な根拠を持ちたい
・設計に一段上の説得力を持たせたい

そう考えているなら、この先は確実に価値があります。

読むかどうかで、住宅における「外」の扱いは大きく変わります。

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