「死にたい」と笑う人たち
※個人が特定されないよう、一部内容を変更して掲載しています。
訪問看護師として働き始めて2か月が経ちました。
訪問看護というと、高齢者への訪問をイメージする人も多いと思います。
実際、私が関わる利用者さんの多くは高齢の方です。
そして訪問を始めてから、驚いたことがあります。
それは、
「死にたい」
という言葉を耳にする機会が想像以上に多いことでした。
一般的に「死にたい」という言葉には、とても重い印象があります。
人生を終わらせたい。
楽になりたい。
救われたい。
そんな意味を連想する人も多いと思います。
もちろん、その言葉を軽く受け止めて良いわけではありません。
具体的な方法を考えていたり、切迫した危険があったりする場合には、一人で抱え込まず、チームや主治医と共有して対応する必要があります。
ただ、私が訪問の現場で耳にする「死にたい」は、少し違って聞こえることがありました。
多くの方は笑いながら言います。
冗談交じりに言います。
「こんな身体じゃ何もできんけんね」
「家族から邪険にされるしね」
「友達もみんな先に逝ってしまった」
そんな話の流れの中で、
「もう死にたいよ」
と口にするのです。
もちろん本当に苦しい思いもあると思います。
でもそれだけではないようにも感じます。
長い人生を生きてきた人たちだからこそ出てくる言葉。
そんなふうにも聞こえるのです。
病院で聞く「死にたい」と訪問で聞く「死にたい」
私は手術室、救急外来を経て訪問看護師になりました。
病院で聞く「死にたい」と、訪問で聞く「死にたい」は少し違って聞こえます。
病院では、病気や痛み、急な環境変化の中で出てくる言葉として聞くことが多かったように思います。
しかし訪問看護では、それだけではありません。
身体機能の低下。
家族との関係。
友人との別れ。
社会の変化。
孤独。
そういったものが少しずつ積み重なった結果として出てくる言葉のように感じることがあります。
訪問をしていると、
「昔は良かった」
という言葉もよく聞きます。
確かにこの数年だけでも、世の中は大きく変わりました。
スマートフォン
キャッシュレス
AI
物価上昇
気候変動
私自身、福岡から東京へ出てきた時に、大きなカルチャーショックを受けました。
高齢の方々は、その何倍もの変化を経験してきたのだと思います。
だからこそ、
「もうついていけない」
そう感じる人もいるのかもしれません。
何と返せばいいのだろう
そんな時、私はいつも悩みます。
何と返せばいいのだろう。
何を求めているのだろう。
「そんなこと言わないでください」
「長生きしましょう」
そう励ますことが正しいのだろうか。
私は、少し違うような気がしています。
もちろん命を大切にしてほしいという思いはあります。
でも、その言葉だけでは、その人の本音を閉じ込めてしまうこともあるのではないかと思うのです。
大切なのは、正しい言葉を返すことではなく、なぜそう思うのかを聞くことなのかもしれません。
死にたいほど辛いことがあるのか。
寂しいのか。
不安なのか。
悔しいのか。
話を聞いていると、その奥にある本当の思いが少しだけ見えてくることがあります。
「死にたい」という言葉の奥には、本当に死にたいという思いだけでなく、
もう頑張れない。
誰かに分かってほしい。
寂しい。
そういった言葉にならない感情が隠れていることもあるのだと思います。
私自身も、そう思ったことがある
私自身も、過去に「死にたい」と思ったことがあります。
仕事や学校、人間関係で悩んでいた時期でした。
正直、自分の存在なんてちっぽけで、何の意味もない。
そんなふうに感じていました。
消えてしまえば楽になれるのではないか。
そう思ったこともあります。
今振り返ると、その根底にあったのは「寂しさ」だったのだと思います。
友人と呼べる人が少ない。
職場でも本音を話せる関係がない。
誰も信用できない。
自分の気持ちを安心して出せる場所がない。
それらを全部まとめると、結局は寂しかったのだと思います。
だからこそ、利用者さんが笑いながら「死にたい」と話す時、その言葉を簡単に否定することができません。
もちろん、すべてを自分の経験だけで分かった気になるのは違います。
その人には、その人の人生があります。
苦しみも、孤独も、抱えてきた時間も違います。
それでも、
「死にたい」
という言葉の奥に、寂しさや孤独が隠れていることがある。
その感覚だけは、私にも少し分かる気がするのです。
それでも誰かとつながっていたい
以前、私が初めて看取らせていただいた利用者さんも、亡くなる少し前まで、
「早く死にたい」
と話していました。
しかし最期が近づいた時、その方は大切な人と話す時間を求めていました。
誰かの手を握り続けていました。
その姿を見た時、私は考えました。
人は「死にたい」と言いながらも、どこかで誰かとつながっていたい気持ちを持っているのかもしれない。
生きたい。
死にたい。
寂しい。
苦しい。
誰かにそばにいてほしい。
きっと人の気持ちは、そんなに簡単に一つの言葉で整理できるものではないのだと思います。
だから私は、
「死にたい」
という言葉を、簡単に肯定もしないし、否定もしないようにしています。
ただ話を聞く。
思いを言葉にする手伝いをする。
解決できることがあれば一緒に考える。
一人で抱えなくて良いように、チームで共有する。
それでいいのではないかと思っています。
人生の終わりに向けた整理
訪問看護では、人生の終わりに向けて関わることもあります。
その中で、
やり残したことはないか。
会いたい人はいないか。
伝えたいことはないか。
不安なことはないか。
そんなことを一緒に整理していくことも、大切な看護の一つなのかもしれません。
高齢の方々と関わっていると、その心の奥には「寂しさ」があるように感じることがあります。
身体が思うように動かなくなる。
できていたことができなくなる。
親しかった人が少しずついなくなる。
家族との距離が変わる。
社会から取り残されたように感じる。
その寂しさは、簡単に消せるものではありません。
私が訪問したからといって、その人の人生の寂しさをすべて解決できるわけではありません。
それでも、訪問したその時間だけでも、
「一人ではない」
と感じてもらえる関わりができたらと思います。
私は笑いながら語られる「死にたい」の奥にあるものを、これからも見落とさない看護師でいたいです。
