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MBTIという名の地図

岸谷蘭丸ら若者インフルエンサーが、ABEMAやPIVOT系のネット番組でMBTIを笑いながら語る光景に、僕は単なる流行以上のしっくりこない感じを覚えました。
最初は「若者文化の軽い遊び」程度にしか見えなかったのだけれど。

しかし、いろいろ調べてみると、その違和感の正体は、MBTIという診断そのものよりも、それが現代社会の中で果たしている機能にあると感じ始めました。

現在、日本の若者の間で広く流通している「MBTI」は、実際には16PersonalitiesのようなSNS最適化型診断である場合が多い。恋愛、就活、友人関係、自己紹介――あらゆる場面で、人間を4文字のラベルに圧縮し、「私はINFPだから」「ENTJっぽい」などと説明する流行りが形成されています。それは一見すると、単なる会話の潤滑油に見えます。
しかし僕は、その背後に、深い社会的安心感を求める存在を感じたんです。

現代社会では、従来の共同体や所属の力が弱まり、「自分が何者なのか」を短時間で説明し続けなければならない圧力が強まっています。SNSでは常に自己紹介が求められ、恋愛市場でも就活市場でも、「分かりやすい人格」が好まれます。その中でMBTIは、複雑な自己を簡単なコードへ変換し、不安を一時的に処理する“軽量な自己認証システム”として機能しているように見えるのです。

この構造を見た時、僕は民間資格商法との類似性を強く感じました。
例えば、「個人情報保護士」や「ハラスメントアドバイザー認定試験」のような民間資格は、本来は法的権限を持たないにもかかわらず、人々に「これを取得すれば安心できる」「自分に価値が付く」という感覚を与える。

これはnoteでも、「こんな私でもTOEIC900点、英検一級、外資系に就職!最短の勝てる英語学習法!」などなどの商法で溢れかえっています。
そんなもんは、絶対に嘘八百であるのですが。

そこでは、不安と安心が市場化され、資格や認定というラベルが自己価値の代替物になるのです。MBTI流行も、構造的には極めて近い。4文字タイプは資格証のようにプロフィール欄へ貼り付けられ、自己説明・自己防衛・他者選別の道具として流通しています。

もちろん、日本MBTI協会は16Personalitiesを正式MBTIとは「別物」だと説明していますが。確かに、実施手順や理論体系、認定制度などに違いはあります。
しかし僕は、その「別物」という切り分け自体にも疑義を持っています。
なぜなら、16Personalities批判が正しかったとしても、それによってMBTI本体の問題が免責されるわけではないからです。

MBTI本体もまた、国家資格や公的科学制度ではなく、民間団体によって管理・運営される心理ブランドです。そしてその普及力の多くは、「人間をタイプ分類できる」という単純化の魅力に依存しています。
公式側は「タイプ固定化は誤用だ」と語る一方で、その分類の快感こそが市場価値の中心にある。この点に、僕は構造的な矛盾を感じるのです。

つまり、MBTIと16Personalitiesの関係は、「本物と偽物」という単純な対立ではありません。むしろ、「権威化された民間心理ブランド」と、「SNS時代に最適化された派生ミーム」の関係として理解した方が実態に近い。16PersonalitiesはMBTIを歪めた偽物というより、MBTIが元々持っていた類型化欲求や自己ラベル化欲求を、SNS時代向けに極限まで軽量化・娯楽化した存在に見えます。

だからこそ、僕が感じた違和感は、単に「MBTIは科学的ではない」という話では終わりません。本質的な現象は、人間が自分自身をラベルとして消費し始めていることにあります。社会が不安定化するほど、人は「私は何者か」を即座に説明できるコードを求めます。そして、そのコードはやがて、自己理解の道具ではなく、自己そのものへと変質していく。

MBTIが完全に無価値だとは思いません。人は複雑すぎる現実を生きるために、地図を必要とするからです。しかし、本当に危険なのは、地図を持つことではなく、地図そのものを現実だと思い始めることなのです。
特にAIがこれほど簡単に誰でも使えるようになった現在ゆえ、その加速度は驚くほどです。

4文字のラベルは、あくまで移動を助ける記号に過ぎません。
問題は、その記号の中に、自分自身を閉じ込めてしまう時です。

だから僕は、誰かがEと呼ぼうが、Iの典型といわれようが、いっこうに構いません。「血液型で性格なんか決まることなど、ありえないのと同じだ」と思っているだけなので。(笑)

そして英語でいえば、辞書無しでTIME誌やWSJを読んで理解でき、アメリカ人と議論交渉して目的の結果を出せて、語彙が1万語以上あれば、英検もTOEICなども気にする必要も全くないでしょう。

その為には日本語での知識、教養、思考方法をしっかりと確立させ磨いた上で、本気で英語を1万時間「読む、書く、話す、聞く」すれば、誰でも身につけられます。
間違いありません。