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僕の書いた本は、母と一緒に灰になった

母の棺に、僕は一冊の本を入れた。
僕が書いた、母の人生の本だ。
作ってすぐに、母と一緒に燃やした。

なぜそんなことになったのか。少し、遡って話したい。

***

「あなたの作文を読めるなんて、小学校以来やねぇ。」

にやりと笑いながら、母は言った。インスタグラムの投稿のことである。

コロナ禍。時間に余裕があったので、僕は日記代わりにインスタグラムへの投稿を始めた。
当時、SNSというと、映えるポートレートにポエミーな短文を添えるもの、そんなイメージを持っていた。僕も趣味といえるくらいには写真が好きだったし、これに倣ってエモい家族写真を載せたりしていたのだが、やがて、文章を書く方に夢中になった。しかも、かなり長文で。

妻のおかしな生態とか、大失敗した七五三の記録とか、結婚や子育てについての日記である。ほかにも、学生時代の思い出話、今読み返すと目を背けたくなるような空想や創作話に近いものもある。かわいい子どもの写真だと思って迂闊にスクロールしていくと、関連性のない長文・奇文が鎮座しているという、バグのようなアカウントだ。

なぜ、母にバレてしまったのか、今となっては思い出せない。おそらく、妻が僕の知らないうちに

「お母さん。あの人インスタグラムで私のこと好き放題書いてるんですよ…」

「え?なにそれ!面白そうね!」

こんな会話を母としたんじゃないかと思う。

それからである。
吹けば消し飛ぶような僕のインスタグラムに熱いファンがいたとすれば、それは間違いなく母だ。場末の掃溜めのような醜文であっても、光の速さで「いいね」が飛んできた。富山へ帰省して会うたびに

「昨日の日記、めっちゃ笑ったわー!ようあんなん書くなあ。」

と、無邪気に褒めてくる。
30代にもなって親に作文を読まれることは恥ずかしかったが、故郷に住んでいる母が必ず反応してくれることは、投稿を続けるモチベーションになっていた。

いつしか母は、僕の影響を受けて、自分でも写真を撮り、SNSに投稿するようになっていた。上手に撮りたいから新しいカメラが欲しい、といって僕と同じ富士フイルムのカメラを買っていた。
花や空、父を撮るのが得意だった。母の撮る写真には、その美しい心根が匂い立つような素朴さがあった。

 

母は、かつて大阪城の近くにあった酒屋の長女として育った。早くに父親を亡くしたものの、母親(僕にとっての祖母)がひとりで切り盛りする酒屋は随分儲かっていたらしく、お嬢様学校に通わされていたらしい。
祖母と母はよく似ていて、関西の商売人らしい熱い気骨が、品のある包み紙で上手にパッキングされている、そんな空気感を纏っていた。

僕が3歳のとき、父は、富山で祖父が経営していた金属加工会社を継ぐため、僕たち家族を連れて東京から富山に引っ越した。
僕が小学生になると、母も父の会社で働き出し、仕事に家事に大忙しだったと思う。
母は、父がぽろぽろと溢して歩くものを、後ろで休むことなく拾い集め、たまにそれを見せて

「やっといてあげたで。」

と、いたずらに言い放つ。そんな感じの人だ。

2021年の夏。富山に帰省中、東京に発つ直前になって、父から告白を受けた。定期検診で母に肺癌が見つかった。しかも、既に脳や骨にも転移していたのだと。
父と母は、1年以上も、兄と僕にそれを隠し通していた。新薬が良く効いていて、母をほとんど健康体に見せていたらしい。
還暦祝いで行った温泉旅館でも酒を飲まない母に対し、どうした?と聞いたことはあったが、

「健康のために、少し控えてんねん。」

と言われたことを思い出す。
それも不自然ではない、と思わせる人だった。

心が追いつかないまま、茫然としてリビングに戻ると、キッチンに立って待っていた母が

「ごめんね。」

と言って笑った。

隠されていたことに対して、怒りも失望もない。病状を考えれば、仮にそれが自分だとしても、我が子に簡単に打ち明けられる類の話ではないと思った。
あるのはただ、爽やかな草原に確実に訪れる嵐の予兆のようなもの。
母がいなくなる実感などなかった。父と母のことを想うと、辛い。それだけだった。

その日を境に、僕のインスタグラムの投稿は「母のために書く読みもの」に変わった。母に読んでもらうのが本望だったから、わずかに残っていた恥も外聞もなくなった。
母が楽しんでくれればそれでいい。

同時に、それとなく母から「母の人生」の聞き取りを始めた。
病気に対して何もできないことへの、息子の地団駄のようなものだった。
母の病気のことを知った1年後には、元々考えていたUターンを早めて、東京を離れることにした。妻の仕事の関係もあり金沢への移住だが、母のいる実家までは車で40分とかなり近い。

母の人生を聞くと言っても、まずは母の親世代まで遡らなければならない。
母は、祖母から聞いた話を嬉々として話してくれた。壮絶な祖母の半生をひと通り聞いて、僕は、母たちの物語を本にすることを決めた。

「あんたはほんと、物好きやなぁ。」

母は苦笑したが、断ることはしなかった。

 
これには伏線がある。
数年前、富山に住む父方の祖父が亡くなったとき、祖父の部屋からは大量の日記やメモ書きが出てきた。そこには、僕はもちろん、息子である父ですら知らない、祖父の逡巡や決断、悩みのようなものが詰まっていたのだ。

もうひとつ驚いたのは、実家に残された大量のアルバム写真の中に、これはと思う美しい写真が数多く見つかったことだ。写真の中にいる、幼い父を抱く若かりし祖父の姿は、瑞々しく輝いて見えた。
ほとんど話したこともない親戚が入れ替わり立ち替わり御弔いにやってくる。そのうちの幾人かは、僕が家の奥から出してきた大量の古いアルバムをめくり眺めながら、祖父の思い出話を面白おかしく語っていった。
僕は居ても立ってもいられなくて、Amazonでスキャナーを即買いし、家にあるアルバムの写真を片っ端からデータ化して、クラウド上にまとめた。

だから、母の人生を聞き取り始めたときには、写真は全てデータとしてまとまっていた。写真を見返しながら、母から口から漏れてくる昔話を、書き留めていく。

「あぁ、この写真。懐かしい…」

「そうそう、この時は確かね…」

一枚の写真から、埋もれかけていたはずの記憶がほどけていく。
母は時折、大阪に住む弟や妹に連絡をし、事実を確かめては、また新しい話を思い出した。次第に、休日に会っている時間だけでなく、平日でも随時、LINEで思い出したことを送ってくれるようになっていた。

僕が作ろうとしているのは、いわゆる「自分史」に近いけれど、世の中で言われているものとは少し違う気がしていた。
息子が、母の人生を書く。
身内ではあるが他人の人生を、誇るでもなく、飾るでもなく、淡々と聞き書きする。とても静かな営みだった。

聞き書きを進めるうちに、知らなかった母の物語をいくつも知ることになった。

 

富山に移住したばかりの頃、母はホームシックにかかっていたようだ。
曇り空、大雪、少ない店、分かりにくい方言、馴染めない距離感、朝日放送すら映らないテレビ。遮るもののない空の向こうに、立山連峰だけが、悲しいほど美しく見えたという。

初めて顔を出した祭りの飲み会で、男たちに御酌して回っていると

「こういう女はな、一見、上品そうに見えて、腹黒いんじゃ」

などと初対面のおっさんに言われて、気が狂いそうになったとか。

ストレスが最高潮に達したある日。母は、読売新聞の投稿欄へ投書した。
東京から富山の片田舎へ引っ越してきたが、放送局が少なすぎてニュースステーションも見られない。あの久米宏の顔すらテレビで拝めない。どうにかならないものか――そんな内容だ。
本名での、怒りの投稿。それが採用され、全国紙に掲載されたという。

後日、父は、東京出張で会った後輩からこんな話を聞かされる。

「取引先の人が言ってましたよ。読売新聞に、富山に行ってテレビが映らんって怒ってる人がいて、あれは君の奥さんじゃないか、って」

当然、すぐに噂は広まり、狼狽した祖父が母を呼びつけて

「…何か、書いたのか?」

と白々しく尋ねた。母は、極めて平坦な声でこう答えたという。

「書きましたけど。何か。」

 

草案の段階で母に読んでもらったときには、大笑いしながら

「これはすごいものができるね…!」

と期待を膨らませてくれたようだった。

本の題名は『Mothers』。
母と、その母の二世代記だ。

僕にとっての最大の後悔は、その完成品を母に読ませることができなかったことだ。母は緊急入院し、病院に到着してすぐ意識を失ってしまった。想像していたよりもかなり病状の進行は早かった。

悩んだ末、僕らは、母を家で看取るための手続きを進めることにした。慌ただしくしている中、父が、意を決して打ち明けるようにこう頼んできた。

「母さんと温泉旅行に行ったときに、新潟県の津南町に寄ってな。そこに『雪美人』っていうカサブランカが咲いていて。母さん、それが本当にキレイだって気に入って…」

『雪美人』を取り寄せてほしい、というのだ。

時は12月。調べてみると、雪美人の出荷シーズンは9月までで、もうどこにも売っていない。
販売元のJAに電話しても、もう市場にも出してないから、どこにもないだろうと言う。すがるような思いで事情を説明すると、もしかしたら…ということで、とある生産者さんに連絡をとってくれた。
結局、球根用に少しだけ保管して残っているものがあると連絡があり、特別に直送してくれたのだ。

家に届いた直後のカサブランカは、花が開き切る前の状態だった。
それでも、花に明るくない僕から見ても、素晴らしい花だと思った。あぁ、これはまさに母の花だ。不思議とそう感じた。
父はどデカい花瓶をいくつも持ってきて座敷に飾り、母の帰りを待った。

病室にお見舞いに行くたびに、もしかしたらこれが最後かもしれないと思い、寝ている母に言葉をかけまくった。
兄は押し黙りながらソワソワと病室内を歩いては、母の肩や足に触れ、また歩き回っていた。
「反応こそないが、耳は聞こえていると思う」と、看護師さんが言う。僕は、それこそ死に物狂いで本を完成させ、病室に持ち込み、母の耳元で読み始めた。

しかし、当時はコロナ禍で一日の面会時間が限られていたのもあり、全てを読み切る前に、母は旅立った。享年62歳だった。
家に帰ってきた母のそばには、雪美人が見事に咲いていた。

「2年間何をしていたんだ、と言われるかもしれないが…それでもまだ現実のものと受け入れられない。今、自分は誰の葬儀に来ているのか」

父が、喪主の挨拶で溢した本音である。その思いは僕も同じだ。何をしていたんだろう。一体何をした。

家に弔いに来る近所のおばちゃん、婆ちゃんたちは口を揃えて

「小さい頃からお母さんのことが大好きやったなぁ。」

と言ってきて、僕の涙腺を崩壊させた。

「あんた、辛いねえ、寂しいねえ。優しい人やった。ほんま惜しい人を亡くしたぁ。どうしてや、何でこんなことなったんや…」

こういうときの年寄りの方言と涙は反則だ。何であんなに優しくて、心を揺さぶるのだろう。

今ならまだ、母が読んでくれる。
そう願って、『Mothers』は、母の棺に入れて一緒に燃やした。

四十九日を終えた頃、父がおもむろに一冊のノートを出してきた。
母が書いていた「エンディングノート」だった。最後まで読み進めていた兄が、初めて、僕の前で大声を上げて泣いた。ノートの末尾には、僕ら兄弟に宛てた丁寧な言葉が、か細い文字で長々と書かれていた。それを読みながら、この先、兄と仲違いすることは絶対に避けなければならないと思った。

「お前たちは、まだ30代か。もう母親と別れさせてしまった。はやすぎる。本当に申し訳ない…」

父は目に涙を溜めながら、僕らに丁寧すぎる謝罪をした。母のことだから、父に対しても長い手紙を遺していたに違いない。

母もまた、書いていたのだ。

***

あれから3年半が経った。
時間が、母の喪失をいくらか忘れさせてくれたと思う。その一方で、時間に負けていく自分をつまらなく思ったりもする。

『Mothers』は、母がいつ死ぬかも分からないという混乱の中で、急いで作ったものだった。
母と一緒に灰になった初稿。
今度は完璧に仕上げて、きちんと次世代へと手渡せる形に残しておきたい。しかし、なぜかずっと触れることができなかった。
本にすることが目的なのではなく、母と一緒に本を作る時間そのものに、本当の価値があったのだと気づいたからだ。

最近、ふと思い立って、再編に取りかかることにした。気づけばまた、母のために書いている。文章はもちろん、中途半端になっていたデザイン面も一新し、布張り箔押しの上製本に仕上げた。

妻は僕の思い残しを知っていたし、製本作業をし始めたことにも気づいている様子だったが、特段触れて来なかった。
完成した『Mothers』は、最初に、妻に読んでもらった。その次の日の朝、

「昨日、お母さんに会ったよ」

と、夢に母が出てきたことを教えてくれた。

「どこかに向かって一緒に歩きながら話した。私たち結婚10周年なんです、それはスウィートテンだねぇーとか。他愛のない話だけ。」

「こっちに来れる方法がようやく分かったって言ってた。時間制限とか、大丈夫ですか?って聞いてみたら、初めてだからよく分からんけど、たぶん、まだ大丈夫って。また会えると思うな。」

本を読んだからかなぁ、と妻は言ったが、本当にそうだと思った。僕はスピリチュアルなことをあまり信じたことがないけれど、人間の心理作用として考えれば、十分あり得るように思えた。

本の奥付には、こう記してある。

当書籍は、とある人物を綴った個人的な人生史であり、次世代へつなぐ家族の歴史書です。
次の「あなた」が、いつかどこかでこの本とめぐり会い、その物語に思いを馳せることを願って。

『Mothers』は今、家のリビングの本棚の隅にそっと置かれている。
それは、母と祖母が生きた人生のほんの断片に過ぎないけれど、いつか子どもたちが、知らないうちに本を手に取り、その物語に触れることがあるかもしれない。

読めば、会える。

母ならきっと、そう信じるだろう。


 


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