一言哲学 - 『嫌いと無知』
こんにちは、真美研究所です。
毎週金曜日は、一言哲学をお届けしています。
今日のテーマは、「嫌いと無知」で考えてみたいと思います。
何気ない会話の中で、ふと、こんな言葉がこぼれることがあります。
「それ、なんか嫌いなんだよね」
私たちは日常的に、そうやって世界を切り分けています。
食べ物、人、仕事のやり方、言葉の使い方。
むしろ、「好き・嫌い」をはっきり持っていることが、”自分らしさ”だとすら感じているかもしれません。
けれど、こんな経験はないでしょうか?
たとえば、
最初は苦手だと思っていた人が、ふとした会話をきっかけに、急に心の距離が縮まった瞬間。
あるいは、「よく分からない」と思っていた作品が、時間をおいて触れたときに、なぜか心に入ってきた瞬間。
そのとき、わずかに揺らぐのです。
あの「嫌い」は、本当に対象そのものに向けられていたのか、と。
私たちが「嫌い」と感じるとき、そこにはしばしば、「知らない」「まだ捉えきれていない」という状態が含まれています。
理解が届かないとき、人はわずかな不安を覚えます。そして、その不安に、名前を与える。嫌い、と。
哲学的に言えば、私たちは対象そのものを見ているのではなく、「自分が理解できる範囲の世界」だけを見ています。
つまり、「好き・嫌い」とは、世界の性質ではなく、自分の認識の輪郭であり、そのまま、世界の限界でもある。
だから、こうも言えるかもしれません。
嫌いとは、無知に貼られた名前かもしれないと。
年齢を重ねるにつれて、経験は増え、判断は速くなります。
けれど同時に、その判断のパターンは固定化していく。
「これは好き」「これは嫌い」
その積み重ねは、世界を分かったように見せながら、実は、見える範囲を少しずつ閉じていきます。
だからこそ、一度だけ立ち止まってみたいものです。
その「嫌い」は、何に反応しているのか。
対象そのものなのか、それとも、まだ言葉になっていない“分からなさ”なのか。
そう問い直したとき、「好き・嫌い」という評価の外側に、もうひとつの視点が立ち上がります。
それは、評価ではなく、観察の視点。
この視点に立てたとき、世界は「好きなもの」と「嫌いなもの」に分断されたものではなく、ただ、まだ言葉になっていないものの集まりとして、開かれていきます。
好き嫌いを手放す必要はありません。
ただ、それを“絶対の判断”として扱わないことが、大事なのではないでしょうか。
そのわずかな余白が、世界の見え方を、静かに変えていきます。
最後に一篇の詩を。
触れたことのないものほど 懐かしく
知りすぎたものほど 異物になる
好きも嫌いも 見えていないことの証明
言葉にならない違和感にとどまること。
その曖昧さの中にこそ、まだ見ぬ世界の入口がある。そして、それをすくい上げるのが、詩なのです。
いいなと思ったら応援しよう!
よろしければ応援お願いします! いただいたチップはクリエイターとしての活動費に使わせていただきます!