覗き込まないと見えなかったーミラノ、最初のエスプレッソ
1994年、ミラノ。
通貨はまだリラで、レシートにはゼロが並び、桁を数えるだけで疲れた。スペイン語ならかじっていたが、イタリア語の文法はまるで手に負えず、僕はガイドブックを杖のように握りしめて街を歩く、ただの心細い駐在員だった。
ある朝、出社前にバールに入った。
カウンターに立つ人たちが、立ったまま、小さなカップを一瞬で空にして去っていく。見よう見まねで「ウン・カフェ」と、覚えたての言葉をそっと置いた。
出てきたのは、白い小さなカップ。
覗き込まないと、底にコーヒーがあるのかどうかも分からないほどの量だった。
(……これだけ?)
たっぷり注がれた日本の一杯を思い浮かべて、僕は一瞬戸惑った。
ひと口。正確には、ふた口で終わった。
濃い。苦い。けれどその奥に、焦げた砂糖のような甘い香りがふっと立って、舌の上に余韻だけが長く残った。
少ないのではなかった。この一杯に必要なだけ、きっちり入っていたのだ。
隣の老紳士が、砂糖をひと匙だけ落とし、二度かき混ぜ、ぐっと飲み干して、新聞を小脇に出ていった。慌ただしいのに、不思議と優雅だった。
コーヒーは「飲む」ものではなく、一日に句読点を打つものなのだと、言葉も分からないまま、なんとなく腑に落ちた。
あの小さなカップが、僕のイタリアの始まりだった。
これから、32年前のミラノで出会った食と人の話を、毎日少しずつ綴っていきます。
明日は、初めて口にした「本物のマルゲリータ」の話を。
