函館公園研究の必然性
――函館公園ライン化の現状ーー

私は50年前、日本造園学会で一つの仮説を提案した。
日本の公園には、二つの起源があるのではないか、と。
一つは、明治6年の太政官布達によって景勝地が公園に「指定」された公園である。
上野公園や浅草公園は、この系譜に属する。
もう一つは、人々が新たに「作った公園」である。
地域の課題に応じ、構想され、協力者を得て、行政の支援を受けながら成立した公園——。
その第一号が、函館公園ではないか。私はそう考えた。
しかし50年後の今、私はもう一つの問題に気づいた。
問題は、函館公園の成立経緯が十分に研究されていないことだけではなかった。
函館公園そのものが、歴史の中で「ライン化」されていたのである。
その結果、函館公園の「本来の姿」が徐々に見えにくくなっている(不可視化)のである。
注:本来、複数の経路があった歴史が、後世、単線的な発展史へ再編成されることを、私は「ライン化」と呼んでいる。
1.はじめに――なぜ今、函館公園なのか
近代日本の公園史は、一般に明治6年(1873)の「正院達第16号(いわゆる太政官布達第16号)」を起点として叙述されてきた。
しかしこの叙述には重要な空白が存在する。北海道、とりわけ函館公園である。
函館公園はしばしば「明治初期の代表的公園」として紹介されながら、
その成立過程は府県を対象とした第16号布達公園の延長として理解される傾向が強い。
しかし制度史的に見れば、北海道は当時、府県ではなく太政官直轄の開拓使管轄下にあった。
すなわち、函館公園は制度上、布達公園の外部に位置する。
さらに函館公園は、社寺除地を転用した布達公園ではなく、民有地買収、造成を伴う新規公園として成立している。
にもかかわらず、その成立の特異性は十分に論じられてこなかった。
本研究の出発点は、この違和感にある。
2.函館公園は「布達系公園」か「開拓使系公園」か
正院達第16号は府県が、大蔵省(後に内務省)に社寺境内などの除地(免税地)で、すでに景勝地として人々の利用のある場所を公園として申請する制度であった。
しかし北海道は対象外である。行政主体は太政官直轄の開拓使であり、函館公園は新規造成公園として成立した。
すなわち函館公園は、
府県を対象とした布達系公園ではなく、
開拓使系公園として再定位される必要がある。
もう一つ、ここで重要な視点は、
函館公園を
・「制度から外れた例外」と見るか、
・「異なる制度系統に属する正当な形成事例」と見るか、
である。
本研究は後者の立場を取る。
函館公園は「例外」ではない。
むしろ、近代日本の公共空間形成が単一経路ではなく複数経路によって成立していたことを示す重要事例である。
現在の政府資料では函館公園は「太政官布達公園」として扱われているが、制度史の一次資料はこれと整合しない結論を示している。
本稿では、この矛盾がどのように生じているのかを、
**「歴史のライン化」**という概念を用いて明らかにする。
3.概念の導入:歴史のライン化とは何か
ライン化とは、本来複数存在した形成経路(paths)を、後代の叙述が単一の歴史線(line)へ再編成する過程である。
ライン化は、複数の possible paths を不可視化し、
一つの経路(path)を“唯一の歴史”として固定化する。
4.函館公園における二つのライン
現在、函館公園の歴史には次の二つのラインが存在する。
A. 太政官布達ライン(太政官布達史観)
B. 制度外開設ライン(制度外開設史観)
どちらを採用するかによって、函館公園の歴史的位置づけは根本的に変わる。
(筆者注:記述者によって、「布達」は「布告」と記述されることがある。)
5.A:太政官布達ライン(現在の政府資料が採用)
政府(国土交通省都市局)パンフレット『公園施設の150年』(令和6年)では、
函館公園は「太政官布達公園一覧」のNo.1として掲載されている。
そこから導かれる結論は次の二点である。
1)北海道は「太政官布達第十六号の対象地域」である
2)函館公園は「太政官布達に基づく公園」である
しかし、この一覧表は制度史の主要な一次資料と整合しない。
6.B:制度外開設ライン(制度史の一次資料が支持)
佐藤昌『日本公園緑地発達史(上巻)』は明確に述べる。
第16号布達は「府県」宛であり、北海道は対象外である
函館公園(明治11年)・福山公園(明治12年)は開拓使時代の公園であり、布達によらない
したがって、
函館公園を太政官布達公園として理解する通説には、制度史上の再検討を要する論点が存在する。
7.二つのラインと“ライン化”の核心
このように函館公園には、
布達ライン(政府資料)
制度外(開拓使)ライン(制度史一次資料)
という整合しない二つのラインが存在する。
この矛盾こそが、
函館公園史における“ライン化”の核心つまりライン化が150年経った今でも駆動中であることを示している。
8.もう一つの不可視化――起点の消失
リチャード・ユースデン英国領事の離任演説および地域史料には、
函館公園開設の構想が英国領事夫人(以下「フィリッパ」)の提言に由来することが明示されている。
しかし後代の研究では、官民一体の地域協働が強調される一方、
個人起点としてのフィリッパの役割は不可視化されてきた。
ここで起きているのは、
公共形成における起点の不可視化
である。
注:本稿において「フィリッパ」という名称は、私の研究過程において確認された人物名(Philippa Eusden)に基づく暫定的呼称である。現時点では人物同定に関する追加検証を継続中であり、確定的表記ではない。したがって本稿では、議論上の便宜のため仮称として使用する。
9.フィリッパの提言はなぜ起こりえたのか
ユースデン夫妻は幕末以来の開港場外交の当事者であり、
英国的公共文化と外交経験を背景に、
公園の必要性を認識しうる立場にあった。
したがってフィリッパの提言は、
偶然ではなく、
英国的公共文化と開港場経験の交差点から生まれた提案
として再評価されるべきである。
10.公共は誰から始まるのか
函館公園の形成過程は次の構造を示す。
フィリッパの提言
↓
地域住民・有力者の協働
↓
開拓使による制度化
↓
函館公園
公共は制度から突然生まれるのではない。
制度外縁の願いが地域協働を通じて共有され、制度へ接続されたとき、公共となる。
11.Public Actorsという視点
函館公園の形成には、
英国領事夫人
地域住民
地域有力者
開拓使官吏
という多様な主体が関与している。
公共形成は、官か民かではなく、異なる主体が接続される過程で生まれる。そこで本研究では、
公共形成に参与する主体を Public Actors と呼ぶ。
12.函館公園というタイムカプセル
函館公園には、
制度外縁起点
国籍を超える公共形成
地域協働
官吏の創造性
国家空間設計との接続
という公共形成の原型が封じ込められている。
しかし後代の制度史の中で、それらはライン化(官民協働美談に吸収)され、不可視化されてきた。
だから今、私は、函館公園というタイムカプセルの蓋を開けようと思う。
そこには、
単線的な歴史叙述の外側に置かれてきた公共、
国境を越えて接続された公共、
そして、一人の問いから始まった公共が眠っている。
公共は誰から始まるのか。
公共はどのように更新されるのか。
そして今、私たちは、どこから公共を開き直すことができるのか。
この問いが、50年後の今、私が、あらためて函館公園を研究する必然性である。
そして、もしそうであるなら、
私には、もう一つ問わなければならないことがある。
函館公園という公共は、いったい誰の問いから始まったのか、である。
後代の歴史叙述の中で、
制度の外側にあった起点は、しばしば「みんなで作った」という物語(ライン)へ吸収される。
だが一次史料をたどるとき、
そこには、ひとりの人物の姿が静かに現れてくる。
当時の新聞は、その人物をこう記している。
「ミストレッス・ユースデン」
彼女は、これまでの研究の積み重ねの中で次第に見えにくくなっている「不可視化の対象」である。
だが函館公園の形成過程を丁寧に追うなら、そこには、一人の女性の問いが地域を動かし、協働を生み、行政と接続していく過程をはっきりと見ることができる。
それが、英国領事リチャード・ユースデンの妻、フィリッパである。
次稿では、これらの問いを、さらに深めていきたい。
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