『鬼滅の刃 無限城編』をどう読むか
本編は『劇場版「鬼滅の刃」無限城編』ではなく、吾峠呼世晴の漫画『鬼滅の刃』の考察となります。
劇場版の公式サイトはこちら。
今回は「第一章」とされていますが、物語のラストまで数回に分けて映画化されるようですね。
すっかり国民的コンテンツとなった『鬼滅の刃』のエントリを一度描いてみたかったわけですが、作品全編に触れるとなると、言いたいことが多すぎて、それこそエントリが何本になるかわかりません。
ということで、ちょうど映画も始まるこのタイミングで、『無限城編』を中心に、少しコンパクトにこの作品を語ってみたいと思います。
最終決戦への導入
『鬼滅の刃』は、だいたい大ヤマの決戦の前に息抜きのようなエピソードが入ります。これが物語のメリハリになっていますよね。『無限列車編』の前の蝶屋敷での療養や、『無限城編』の前の柱稽古などはまさにその系統。生殺与奪の緊張感がない稽古のエピソードはのんびり読むことができます。みんなでご飯を食べるシーンとか、非常に和みます。
そして一転。この物語の「大ボス対決」とも言える、産屋敷耀哉と鬼舞辻無惨の邂逅のシーンが差し込まれます。これはまさに決戦の火蓋といった場面。物語の核心に一気に迫るシーンです。

「お館様」こと産屋敷耀哉はすでに病に倒れ、目も見えません。訪ねてきた無惨の姿も自分では見ることができない。妻に「どのような姿をしている?」と聞いて、かろうじて無惨の姿をイメージできる…というほど弱っており、これは産屋敷家に代々かけられた短命の呪いのせいだと言われています。
産屋敷はこの対決において強力な宣戦布告を無惨に見舞います。「君が死ねば全ての鬼が滅ぶんだろう?」という一言で、無惨は動揺するのです(ちなみにこの物語の圧倒的ラスボスである無惨は、動揺したり激昂したり、かなり人間くさいです)。
この物語の中で一人好きな人物を挙げろと言われたら、私は胡蝶しのぶと、この産屋敷耀哉を挙げます。私はもともと「腹の座った覚悟からくる穏やかさ」を持ったキャラクターが好きなのです。

さらに産屋敷は、強烈な爆薬で屋敷ごと妻子ごと、無惨を消し飛ばすという策を敢行します。ですが、これだけでは無惨に致命傷を与えることはできません。産屋敷もそれは承知の上で、二の手三の手を用意しています。まず、無惨をもっとも長く見続けてきた女・珠世が自らの身を挺して無惨に立ちはだかります。浅草で鬼にされた男性の血鬼術で無惨の動きを固定し、駆けつけた悲鳴嶼が一撃を見舞います。そして、柱たちが次々と集結して無惨へ一斉攻撃を行うのですが、無惨は自らのテリトリーである亜空間・無限城へと全員を引き込みます。ここから長い長い最終決戦が始まるのでした。
ufotableのアニメーション表現について
ちなみに『鬼滅の刃』のアニメ制作を担当しているのはufotable(ユーフォーテーブル)という新宿の制作会社です。社長の近藤氏が1999年に「自分が25歳だったらいたいと思う会社を作りたい」ということで北池袋の古いマンションの4畳半部屋からスタートしたこの会社は、今や256名を抱える立派な企業となっています。
ufotableは2019年より『鬼滅の刃』のアニメーションを担当し、一般にも知られるアニメ制作会社となりました。テレビシリーズの当初から、そのアニメーション表現は目を見張るものがありましたよね。
失礼ながら、作画という意味ではそこまでではない(最大の強みが別にあるというニュアンスです)『鬼滅の刃』を社会的にブーストさせた要因の一つには、このufotableが作り上げたアニメのクオリティがあると言って差し支えありません。今回の無限城編の予告を見ても、十分に期待できそうです。どんな素晴らしいアニメーションを見せてくれるのか、今から楽しみですね。
そして宿命の対決へ
無限城内へ叩き落とされた柱たちと炭治郎たちですが、広大な無限城の中でそれぞれが散り散りになり、1〜2名ずつのグループに分かれます。
炭治郎は物語の序盤から親しんだ冨岡義勇と、甘露寺蜜璃は蛇男こと伊黒小芭内と、実力派の悲鳴嶼行冥は天才・時透無一郎とコンビを組みます。胡蝶しのぶは姉のかたきである上弦の弍・童磨と対峙することになります。非常に順当な「宿命の対決」がセッティングされました。

胡蝶しのぶ×童磨
姉のかたきである童磨との一戦。ただ、しのぶにとっては相手が悪く、当初から自らの身体に藤の花の毒を仕込んでの玉砕覚悟の戦いです。物語の主要人物&人気キャラクターであったしのぶが、あまりにあっさりと童磨に取り込まれてしまったので驚きましたが、この後に駆けつけるカナヲと伊之助が童磨を打ち破るための強烈な「仕込み」の役目を果たします。時間を置いて毒が効き始める展開はお見事です。

我妻善逸×獪岳
兄弟弟子による「雷の呼吸」の継承戦争となりますが、勝負は短期間でつきます。コメディリリーフとして泣き喚くばかりのシーンが多かった善逸の、最高の見せ場がこの戦いです。
この獪岳は物語中でいわくつきの存在として描かれており、悲鳴嶼行冥が若い頃に彼を鬼殺に向かわせることになった事件のきっかけが獪岳でした。

竈門炭治郎・冨岡義勇×猗窩座
映画のタイトルやアートワークを見る限り、これが映画のメインの戦いになるようです。本編でもページが多めに割かれた、重要な戦いです。
上弦の鬼の中でも異質な存在の猗窩座ですが、炭治郎にとっては煉獄杏寿郎のかたきとなる存在です。猗窩座は「有望」な存在を見るとすぐに「鬼にならないか?」と勧誘するところがちょっと面白いです。

嘴平伊之助・栗花落カナヲ×童磨
胡蝶しのぶのリベンジマッチ。映画ではここまで描かれるでしょうか?(ここは次回の映画に回されそうな気もします)。伊之助と童磨との、母親を介した因縁も語られます。

(それにしても、こうして人物名をタイピングしていて、すべて普通に変換されるという事実がこの漫画の人気を物語っています。)
「柱」たちの異様(?)なルックス
この『鬼滅の刃』という物語がすっかり世間に浸透した今、単行本をさかのぼって「柱」たちの初登場のシーンを見ると、そのルックスのいびつさに驚きます。造形は今のままですが、まだ顔が安定していません。その作画も相まって、初登場時のルックスは今見ると少々異様に見えます。ですが、回が進むにつれてそれぞれの個性と人生が見えてくることで、「柱」たちの異様さは愛すべき個性となっていきます。
ちなみにですが、この「柱」というネーミングは実に上手かったと思います。組織を支えるという大黒柱的なイメージがありますし、そもそも神様の単位が「柱」だからです。

かまぼこ隊ほか5人組について
この物語は、主人公である竈門炭治郎が最強の存在にならないまま終わります。無惨打倒にもっとも大きな貢献はするものの、強さという点では依然として炭治郎の上に柱たちが存在します(物語の終盤で炭治郎は実力を上げ、冨岡義勇に「柱に匹敵する」とまで評価されてはいますが)。
鬼殺隊の中では、最強の「柱」たちがいて、その下に炭治郎、善逸、伊之助の「かまぼこ隊」(これは伊之助が炭治郎を「かまぼこ権八郎」と呼んだことに由来します)の3人、並んでカナヲと不死川玄弥たちがいるイメージです。カナヲはもう少し上かもしれませんが。
この5人は藤の花の山の最終選別の生き残りであり、いわゆる同期です。面白いのは、この5人はそれぞれ「五感」に特殊能力を持つ描写があることです。炭治郎はものすごく鼻が効きますし、善逸は聴く力が鋭敏です。伊之助は肌感覚が非常に優れており、カナヲは童磨に「この子は目が特殊なんだねえ」と言われています。玄弥は特殊体質で、鬼の一部を食べることにより体質を鬼に近づけることができます。
つまり、この5人はそれぞれ「嗅覚」「聴覚」「触覚」「視覚」「味覚」のいわゆる五感に対応した特性を持っているということです(玄弥については厳密には「味」覚ではないのですが)。
ラスボス・鬼舞辻無惨とは何だったのか
漫画における悪役のボスというのは、主人公を凌駕するほどの美学を持つものが多いものです。例えば、荒木飛呂彦先生の『ジョジョの奇妙な冒険』。この作品のボスはそれぞれ、美学があるものが多かったように思います。第1部と第3部のボスであるディオ・ブランドー、第4部の吉良吉影、第5部のディアボロ、第6部のプッチ神父など、どのボスもそれぞれに独特の美学がありました。ひるがえって、無惨には独自の思想はあるものの、美学と呼べるようなものがありません。とことん効率を重視した、自分が生きることだけに執着する生命体です(そういう意味では『ジョジョ』第2部のカーズに近いかもしれません)。生き延びるためであれば眼前の敵から逃亡することもお構いなしです。そのくせ、部下である鬼たちには任務への誇りを求めるシーンがあったりします。この辺りが無惨の魅力のなさ、人気のなさの理由でしょう。人で言えば徳が低い。自己中心的で尊敬できる部分がないのです。
そんな無惨を象徴するように、最終決戦における無惨の戦う姿はクリーチャーそのもので、さながらエイリアンのようでした。対決というよりも「退治」という言葉が似合うほどです。
そして、無惨には「わざ」がありません。スタイリッシュな必殺技がないのです。漫画における必殺技とは、ある意味で美学の表出されたものだと言って差し支えないでしょう。鬼殺隊、特に「柱」にはそれぞれ「呼吸」などの技があるのに、無惨は対照的です。無惨の戦い方ときたら、変形して、高速で攻撃して、切られてもすぐに再生する、いわばそれだけのフィジカルモンスターです。また、心臓が7つ、脳が5つあるということでしたが、それだけの数の臓器がどのように機能するのかも謎です。
無惨は、こうした悪のボスとしては例外的なほどに魅力のない存在です。

呼吸について
『鬼滅の刃』では、強くなるために「呼吸」という概念が採用されています。「呼吸」は1巻から出てきており、炭治郎が初めて「水の呼吸」の技を使うのは最終選別においてです。この後、「呼吸」は物語の中で非常に重要なものとなっていきます。
さて、この「呼吸」ですが、オールド漫画読みとして最初に浮かんだのは「ジョジョの「波紋」と同種のアイデアだな」ということでした。第一部のツェペリさんに教わる「波紋の呼吸」がありますが、これによく似ています。ヒントにした、あるいはオマージュしたのは間違いないとは思います。

呼吸の種類は多岐にわたっており、始まりとなる「日」、そして「水」「炎」「風」「岩」「雷」「花」「蟲」「恋」「音」「霞」「蛇」「獣」「月」などが登場します。実際、呼吸法が多岐にわたるというのはどういうことなのか今ひとつイメージしきれないのですが、とにかくこの物語の中ではそういうものであるということです。
なお当初、作者の吾峠呼世晴氏は「水の呼吸」を「鱗滝(うろこだき)式呼吸術」という名称で考えていたそうで、それを担当編集が却下して変えさせたとのエピソードがありました。変えて良かったですね。

「へちょ絵」が増えるとともに上がる人気
『鬼滅の刃』は、途中から「へちょ絵」が増えてきました。「へちょ絵」とは、シリアスな物語の中で頭身が突然小さくなって、描線もやけに子どもっぽくラフになる、イレギュラーなコミカルタッチの表現をそう呼んでいます(私が勝手に名付けて呼んでいるだけですが)。単行本の1〜2巻ではほとんど登場しませんが、3巻になって善逸が出てきたあたりで「へちょ絵」がじわじわと増えていきます。
個人的には「へちょ絵」の登場比率が上がるほど、その漫画は人気が出ていると思わせてくれます。「へちょ絵」の元祖は不明ですが、わかりやすいところで言うと『スラムダンク』でも多用されていましたし、最近のもので言うと『メダリスト』などもそうです。
私は、作者が「へちょ絵」を描けるようになる背景として、読者との信頼関係があるのではないかと思っています。このように絵を意図的に崩しても、読者はついてきてくれるし読んでくれる。何なら愛してくれる。作者がそう思った時に、漫画の中の「へちょ絵」の割合は増え、漫画にリズムや余白が生まれる。読みやすくなる。それを読む読者もメリハリを楽しむことができる、という好循環があるのだと思っています。

すべてを目撃してきた唯一の存在・珠世
この物語には珠世という女性が登場します。人間ではなく、無惨によって鬼にされた存在のひとりです。鬼であるがために非常に長い年月を生きており、しかも無惨のそばにいたので、「はじまりの呼吸の剣士」であり、おそらく作中最強の存在である継国縁壱ともめぐり合っています(主人公やその仲間が最強というわけではないのがこの物語の面白いところです)。
縁壱が無惨を切り刻んだ瞬間にも、珠世がその場にいました。まさに歴史の目撃者とでもいうべき存在です。『鬼滅の刃』は珠世視点で見ると、珠世という女性による長い長い復讐譚だとも言えます。
また、珠世は愈史郎という鬼を作り出しますが、これは作中において無惨によって生み出された以外の唯一の鬼です。さらに、無惨と鬼殺隊との決戦において無惨を追い詰める薬を作り出したのも珠世です。物語の中心線にはいないかもしれませんが、このことからも珠世という存在が非常にポイントになっているのがわかります。
ちなみに、愈史郎は無限城で鳴女と対決して無限城を崩壊させ、無惨を地上へ追い出し、また、剣士たちの「目」となるお札を開発したりなど、無惨打倒に非常に貢献した存在です。後ほど、しのぶが珠世を指して言った「『あの人』はすごい方です、尊敬します」という傍点付きのセリフがありますが、鬼ではなくあえて「人」と呼ばれていることに注目です。

青い彼岸花について
物語の最後、未来を描いた最終話で、伊之助とあおいの子孫である植物学区者の嘴平青葉が、研究時のミスで青い彼岸花を絶滅させてしまいます。
この物語の中で無惨がひたすらに追い続けたのが、途中からは太陽を克服した竈門禰󠄀豆子でしたが、もう一つは青い彼岸花でした。
ただし、青い彼岸花によって日光が克服できるというのは無惨がそう思っているだけで、エビデンスは示されていません。無惨が人間だった頃に医師に投与されたのが、青い彼岸花を原料とした薬であるというだけです。
なお、単行本5巻の39話、累との戦闘で命の危険に晒され走馬灯を見る炭治郎のシーンですが、そこでの過去の記憶の中に青い彼岸花があります(モノクロページなので青いかどうかは不明)。
さらに、ファンブックによると、縁壱の奥さんであった「うた」が埋葬されている場所=竈門家の近くには、青い彼岸花が咲いていたとのことでした。
物語のキーアイテムとして提示されてはいましたが、実在としては現れない、ある意味マクガフィン的な存在として青い彼岸花は描かれています。

『鬼滅の刃』は何を描いた物語だったか?
『鬼滅の刃』という物語に描かれていたものは何だったのでしょうか。それはいろいろを挙げることができます。
ひとつには「絆」の尊さであり、仲間との連帯であり、諦めない心や、「想いの継承」でしょう。主人公である炭治郎は特に慈愛の人であり、相手が人間のみならず鬼であっても、その尊厳を尊重しようとします(無惨や半天狗のような外道は外道として扱うところも良きです)。
ここで私が思うのは、「鬼とは何か、人間とは何か」という問いです。この物語における鬼は、元は人間でした。始祖である鬼舞辻無惨にしてからが元は人間だったわけで、そこのルールに例外はありません。
そして、『鬼滅の刃』で執拗なほどに描かれているのが「生の過酷さ」です。「柱」をはじめとする人間にも、そして上弦の鬼たちにも、それぞれに過酷な過去がありました。鬼については、kous37さんのnoteエントリから一部引用させていただきます。
鬼にはいろいろいるし、どれも印象的な敵であるわけだが、それぞれが「家族への執着」「悪への心酔」「虐げられてきた恨み」「肥大した自我の怪物」「弱さへの開き直り」「強さへの囚われ」「要領の良さの怪物」「才能への焼けつくような憧憬」「生への執着」と言ったテーマを背負っていて、つまりは人間の持っている様々な要素が鬼として具現化した存在であり、その辺のところはある意味仏教的なものも感じる。
「家族への執着」は下弦の伍である累、
「悪への心酔」は下弦の壱である魘夢、
「虐げられてきた恨み」は上弦の陸である妓夫太郎と堕姫、
「肥大した自我の怪物」は上弦の伍である玉壺、
「弱さへの開き直り」は上弦の肆である半天狗、
「強さへの囚われ」は上弦の参である猗窩座、
「要領の良さの怪物」は上弦の弐である童磨、
「才能への焼けつくような憧憬」は上弦の壱である黒死牟、
「生への執着」は鬼舞辻無惨、のことでしょう。
鬼たちのエピソードはどれも壮絶ですが、「柱」たちの過去も、個人差はあるもののそれぞれに壮絶なものがあります。多くは鬼に絡めたものなので、「柱」たちが鬼を憎むのも当然です。
なのですが、鬼と人間(「柱」たち)を分けるものがあるとすれば、それは人間である今の自分を捨てて「無敵の存在」である鬼になることを選んだ、その弱さにあると言えるのではないでしょうか。
不死であり、怪我もすぐに治り、無類の強さを誇る。日光に弱いだけで、鬼というのは脆弱な人間よりもはるかに生命として強い存在です。人間から鬼になるというのは、心理学者の加藤諦三いうところの「魔法の杖」を得るのに近い。フィクション上での設定ではありますが、「反則」なわけです。
無惨というメフィストフェレスの誘いに乗って、今の自分と違う者になることを選ぶのか。あるいは、終わりある人間という存在である自分を受け容れて生きていくのか。鬼と人間の、ここが最も大きな違いであると言えます。運命に対する態度と言ってもいい。
この設定は、人間という存在そのものを肯定する作者の価値観、死生観が垣間見える設定です。人間は儚いけれど、儚さの中でやれることをやる、他人を頼り頼られる関係を結ぶ、そういった部分に価値があるということです。

吾峠呼世晴の構築する世界
単行本のインターミッション(中休み)ページでは、作者の手書きによる裏話を読むことができます。これを読むと、この作者が登場人物(鬼も含む)一人一人の人生をどこまで具体的にイメージしていたかがわかります。作品には登場しない、以前と以後の物語。こんなの、言われて書けるわけがありません。これは、吾峠呼世晴の頭の中にある「物語の現実」ということです。フィクションはフィクションですが、物語を支えるストーリーとして、作者の頭の中にそういう世界があるのです。
この、作者である吾峠呼世晴氏がこの作品世界を愛し、登場人物たちの人生のバックボーンを深く考え、それぞれのキャラクターたちを本当に深く愛している、そういうことが伝わる作品だからこそ、これだけ多くの人の心に届いた。それが、この『鬼滅の刃』という作品であるということなのでしょう。
『鬼滅の刃』という作品の中で何度となく表現されているように、人の思いというのは伝わるものなのです。

と、この辺でエントリを終えたいと思います。
作品全体を語ろうとすると膨大になるだろうということで、ほんの一部についての言及となった感じです。物語自体が分厚いのです。
また今回、考察というよりは比較的に表層について語った内容になりました。もう少し踏み込んで書きたい気持ちもありましたが、何しろこの作品はすでに語られすぎているということもあり、書きにくさもあったのは確かです。何を書いても、おそらく誰かがすでに書いているだろうという感覚…。メジャーすぎる作品の恐ろしさです。
なので、また機会があれば、もう少し違った視点と深度で『鬼滅の刃』について書ければいいなと思っています。
それでは。
映画もどこかのタイミングで観なきゃですね。
※記事内の画像は、解説のために引用しています。出典・著作権はそれぞれの権利者に帰属します。
いいなと思ったら応援しよう!
やぶさかではありません!