黒い鞄 第七章 湖底
湖というものは、隠すために在るのではないかと、あの頃の僕はぼんやりと考えていた。
川は流れる。海は開けている。だが湖は、どこにも繋がっていないくせに底が知れず、水面だけが空を映して静かに光っている。
その静けさは、何かを内側に抱え込んでいる者特有の沈黙に似ている。
語らないのではなく、語れないのだ。
語れば水底に沈めたものが浮かんでくるから、湖は黙っている。
琵琶湖は日本最大の湖であり、その面積は約六百七十平方キロメートル、最大水深は百四メートルに達する。
四百万年の歴史を持つ古代湖であり、バイカル湖、タンガニーカ湖に次いで世界で三番目に古い。
それだけの歳月、それだけの深さ、それだけの広さを持つ水が、近畿の中心にじっと座り続けている。
人間が歴史と呼ぶものの遥か以前から、この湖はここに在った。
そして人間が歴史を刻み始めてからのち、この湖に沈められたものの総量を、おそらく誰も正確には知らない。
*
二〇〇八年の五月のことだった。
琵琶湖の湖岸で、釣り人が異様なものを目にした。
最初は近江八幡市牧町の湖岸で、両脚が発見された。
その後、東近江市から頭部、大津市で左足首、草津市で両手首と、湖岸の広い範囲から複数の身体の部位が相次いで発見された。
一部はビニール袋に包まれていた。
事件から十年後の二〇一八年、被害者は野洲市の男性、当時三十九歳と判明したが、犯人の特定にはなおも至らなかった。
それから十七年が経った。
二〇二五年の二月、この琵琶湖バラバラ殺人事件の容疑者がようやく逮捕された。
十七年間、犯人は社会のなかに紛れて生きていた。
湖が隠していたのは遺体だけではなく、犯人の日常そのものでもあったのだと、僕は記事を読みながら思った。
この事件について調べていた時期に、もう一つの事件が記憶に引っかかった。
こちらは二〇〇七年に遡る。
大阪で歯科医の男性が殺害され、スーツケースに詰められて琵琶湖の沖合に沈められた事件だ。
犯人は翌二〇〇八年に別件で既に逮捕されていたが、スーツケースごと湖底に沈められた遺体だけが見つからなかった。
発見されたのは事件から十四年後の二〇二一年、彦根市の湖岸に漂着してのことだった。
十四年間、スーツケースは湖底に在った。
琵琶湖の水深は場所によって大きく異なる。
南湖は浅く、平均四メートル程度だが、北湖は深い。
竹生島の周辺では水深が八十メートルを超え、最深部は百メートル以上に達する。
湖底の地形は複雑で、急峻な崖や深い窪みが点在しており、一度沈んだものが再び浮上する保証はどこにもない。
地元の漁師から聞いた話がある。
近江八幡市の沖島——琵琶湖最大の島であり、日本で唯一の淡水湖の有人島——の周辺には、「底なし」と呼ばれるポイントが幾つかあるのだという。
実際に底がないわけではないが、湖底の泥が異常に柔らかく、沈んだものが泥の中に吸い込まれるようにして消えていく場所があるのだと。
漁師はそれを「飲まれる」と表現した。
「湖に飲まれたもんは、出てこん」
六十代の漁師は、たばこの煙を湖面に向けて吐きながらそう言った。
「船のエンジンを落として漂っとるとな、たまに下から音が聞こえるんですわ。ごう、ごう、いうような。水が動く音とは違う。もっと深いところで、何かが唸っとるような音や」
それは何の音かと尋ねると、漁師は煙草をもみ消して、薄く笑った。
「さあな。知らん方がええこともある」
沖島周辺の「発見されないポイント」については、以前から都市伝説めいた噂があった。
琵琶湖で行方不明になった人間が、特定の水域では遺体すら見つからないという話だ。
水難事故であれ自死であれ、湖に落ちた人間の遺体は通常、数日から数週間のうちに浮上する。
体内にガスが溜まるからだ。
だが沖島周辺の特定の水域では、沈んだ者がいつまで経っても浮かんでこないことがある。
低い水温が腐敗を遅らせるためだとも、湖底の泥が遺体を呑み込むためだとも、湖流が遺体をさらに深い場所へ運ぶためだとも言われているが、正確な理由は分かっていない。
スーツケースに遺体を詰めて湖底に沈めた犯人が、この「発見されないポイント」の存在を知っていたのかどうか。
知っていたとすれば、その知識はどこから来たのか。
地元の漁師から聞いたのか。
それとも、湖がそういう場所であることを、犯人は最初から知っていたのか。
隠すために鞄に入れて、沈める。
僕はそのとき、自分がなぜこの事件に執着しているのかを、まだうまく言語化できずにいた。
鬼伝承の取材で滋賀に来ていたはずなのに、いつの間にか湖底の事件ばかりを追いかけている自分がいた。
編集部から求められている記事の方向性とは、明らかにずれ始めていた。
*
湖底に沈んだものの話をしたのには、理由がある。
琵琶湖にまつわる最も有名な伝説のひとつに、俵藤太秀郷の百足退治がある。
平安時代の武将・藤原秀郷が、近江の瀬田の唐橋で巨大な蛇——竜神の化身——に出会い、三上山に棲む大百足の退治を頼まれたという伝説だ。
この話を、僕は子供の頃に絵本で読んだ記憶がある。
だが改めて原典に近い資料を当たってみると、絵本で読んだ印象とはずいぶん違っていた。
『俵藤太物語』によれば、秀郷が瀬田の唐橋にさしかかったとき、橋の上に巨大な蛇が横たわっていた。
長さは橋の幅いっぱいに及び、通行を阻んでいた。
人々は恐れて渡ることができなかったが、秀郷は臆することなく蛇を跨いで橋を渡った。
その夜、秀郷のもとに一人の美しい女が訪ねてきた。
女は自らを琵琶湖の竜神の使いと名乗り、三上山に棲む大百足に苦しめられている竜神を救ってほしいと懇願した。
秀郷が承諾すると、女は消えた。
三上山の大百足は、「七巻半」と表現される。
山を七回半巻くほどの巨体を持つ百足で、その無数の足が松明のように赤く光り、夜の山を炎のように照らしたという。
秀郷は弓を取り、三本の矢を射た。
最初の二本は百足の堅い殻に弾かれたが、三本目の矢に秀郷は唾をつけた。
唾をつけた矢は百足の眉間を貫き、大百足は絶命した。
唾。
この細部が、僕にはずっと引っかかっていた。
神話や伝説において、怪物を倒す手段はさまざまだ。
神剣、神矢、呪文、霊薬、火、雷。
いずれも超自然的な力、あるいは神から授けられた特別な武器が決め手になることが多い。
だが俵藤太の場合、決め手は唾だった。
人間の身体から出る、最も卑近な、最も日常的な液体。
それが百足の堅い殻を貫いた。
民俗学者の柳田國男は、唾には邪気を祓う力があると述べている。
実際、日本各地の民間信仰において、唾を吐く行為には魔除けの意味が付与されている。
葬列に出くわしたときに唾を吐く、不吉なことを口にしたあとに唾を吐く、夜道で怪しいものを見たときに唾を吐く。
人体から排出されるものに呪力を認める思考は、世界中の文化に普遍的に見られるものだが、日本においては特に唾に強い力が帰せられてきた。
だが僕が引っかかっていたのは、唾の呪力についてではない。
退治される側の、百足のことだった。
三上山の大百足は、なぜ退治されなければならなかったのか。
竜神が苦しめられていたから、というのが物語上の理由だが、では百足は竜神に何をしたのか。
多くの文献は「百足が竜神を苦しめていた」とだけ記し、具体的な加害の内容については曖昧にしている。
ただそこに居た。
ただそこに棲んでいた。
それだけで、退治の理由になった。
この構造に、僕は前の章で辿った「鬼」の系譜を重ねずにはいられなかった。
*
鬼は退治される。
酒呑童子は源頼光に首を斬られ、茨木童子は腕を切り落とされ、八瀬童子は比叡山の山中に押し込められた。
退治する側にはつねに正当性があり、退治される側にはつねに非がある。
少なくとも、物語はそのように語られる。
だが物語の外に出てみれば、「鬼」とは何だったのか。
前の章でも触れたように、鬼とは多くの場合、共同体から排除された者たちの別名だった。
山に追いやられた先住民、都から放逐された流浪の民、疫病や飢饉によって社会の外へ弾き出された人々。
彼らが「鬼」と呼ばれ、討伐の対象とされた。
百足もまた、そうした「退治される者」の系譜に連なるのではないかと、僕は考えた。
百足——ムカデという生き物は、日本の民間信仰において両義的な存在だ。
一方では毘沙門天の使いとされ、武神の眷属として崇められる。
戦国時代の武田信玄が百足の旗印を用いたのは有名な話だし、甲冑の前立てに百足の意匠を施した武将は少なくない。
百足は「後退しない」生き物とされ、武人にとっては吉兆であった。
だが他方で、百足は忌まれた。
毒を持ち、暗がりに潜み、無数の足で這い回る姿は、人間の原始的な嫌悪を喚起する。
「百足が出る家は不浄」という俗信は各地にあり、百足を見たら殺すべし、という教えもまた広く行き渡っていた。
崇められながら忌まれる。
力を認められながら排除される。
この両義性は、そのまま「鬼」の両義性と重なる。
酒呑童子もまた、ただの怪物ではなかった。
『大江山絵詞』に描かれる酒呑童子は、異形でありながら人語を解し、酒を愛し、客人をもてなす。
源頼光一行が山伏に変装して鬼の館を訪れたとき、酒呑童子は彼らを疑いながらも酒宴に招いた。
そして頼光たちは、酒呑童子が酔い潰れたところを襲い、首を斬った。
騙し討ちである。
退治する側の頼光には、朝廷からの勅命という大義名分があった。
だが実際に行われたのは、偽装と欺瞞によって相手の警戒を解き、無防備なところを殺すという行為だった。
鬼退治とは、つまるところそういうものだったのかもしれない。
退治する者は、つねに正しい。
退治される者は、つねに邪悪である。
その前提を疑うことは、物語の文法に反する。
だが物語の外側から見れば、退治とは排除であり、正義とは勝者の論理であり、「鬼」とはその論理によって名づけられた敗者の総称に過ぎない。
百足もまた、そうだったのではないか。
三上山に棲んでいただけの百足が、竜神の訴えによって排除された。
竜神——すなわち、その土地の既存の権力構造に属する者——が、百足——すなわち、権力構造の外にいる異質な者——の排除を外部の武力(秀郷)に依頼した。
鬼が退治され、百足が退治され、社会の周縁に追いやられた者たちが次々と「退治」された。
その残滓が、伝説として土地に染みついている。
*
沖島の漁師に、もう一つ聞いた話がある。
近江八幡市の長命寺山の麓に、かつて「百足塚」と呼ばれる塚があったという。
俵藤太に退治された百足の屍を埋めた場所だと伝えられていた。
今はもう塚の痕跡は残っていないが、地元の古老の間では「百足塚の上に建てた家は三代もたん」という言い伝えがあったと漁師は語った。
「退治した後がな、一番怖いんですわ」
漁師は二本目の煙草に火をつけながら言った。
「殺した鬼はどこに行くか。消えるんやない。土に還るんですわ。土に還って、そこに染みて、ずっと残る。百足塚がそうや。退治したはずの百足が、塚になって、何百年も祟り続ける。退治いうんは、終わりやない。始まりなんですわ」
僕はその言葉を、ノートに書き留めた。
だがペンを走らせている最中に、自分の手が微かに震えていることに気がついた。
寒さのせいだろうと思った。
十一月の琵琶湖の湖岸は風が強く、指先は悴んでいた。
だが本当に寒さのせいだったのかどうか、今となっては自信がない。
*
俵藤太の百足退治には、後日譚がある。
百足を退治した褒美として、竜神は秀郷に三つの宝物を授けた。
米俵、巻絹、そして赤銅の鍋。
米俵は尽きることがなく、巻絹はいくら切っても減らず、赤銅の鍋は何を煮ても美味くなったという。
「俵藤太」の名はこの米俵に由来する。
この褒美の中身が、僕には奇妙に思えた。
百足退治という大功に対して、授けられたのは米と絹と鍋だった。
神剣でも神鎧でもなく、生活の道具だった。
武人に対する褒美としては、いささか実用的に過ぎやしないか。
だが逆に考えれば、竜神が秀郷に求めたのは武勇ではなく、「排除」という仕事だったのかもしれない。
邪魔な者を片付けてくれた報酬として、米と絹と鍋を渡す。
それは武勲に対する恩賞というより、労働に対する賃金に近い。
秀郷は、傭兵だったのだ。
権力者(竜神)が、異物(百足)を排除するために、外部の武力(秀郷)を雇い、報酬を支払った。
これを武勇譚として美化したのが「俵藤太の百足退治」であり、その原型にあるのは、社会が望ましくない者を排除する際の、古くからある仕組みそのものではなかったか。
退治される者は、まず名前を奪われる。
人間であった者が「鬼」と呼ばれ、「百足」と呼ばれ、人ではない何かとして再定義される。
人でなくなれば、殺しても殺人ではない。
退治だ。
そして退治された者は、湖底に沈められる。
あるいは塚に埋められる。
あるいは山に追いやられる。
いずれにせよ、見えない場所へ送られる。
隠すために、沈める。
*
二〇〇八年の琵琶湖バラバラ殺人事件の話に戻る。
事件の詳細を追ううちに、僕はある怪談に行き当たった。
事件発生の数年前から、矢橋帰帆島の近くの湖岸で、夜になると水面に人の顔が浮かぶのを見たという証言が複数あったのだ。
これは事件の報道後に語られ始めた話なので、いわゆる「後づけ」の怪談である可能性は高い。
凄惨な事件が起きると、その土地にまつわる怪異が事後的に語られ始めることは珍しくない。
人間には、悲劇に超自然的な意味を付与することで、理不尽な現実を物語として消化しようとする傾向がある。
だが、僕が取材のなかで聞いた話は、事件の報道よりも前の時期のものだった。
語ってくれたのは、草津市在住の六十代の女性で、矢橋帰帆島の近くに住んでいた。
彼女は毎朝、湖岸沿いの遊歩道を散歩する習慣があった。
「二〇〇六年の秋やったと思います。あの年は台風が多くてね、湖の水位がえらい上がっとった時期でした」
早朝、まだ夜が明けきらない時刻に湖岸を歩いていると、水面に何かが浮かんでいるのが見えた。
最初はゴミだと思った。
台風のあとは流木やビニール袋が湖岸に大量に打ち寄せられるから、珍しいことではない。
「でもね、近づいたら違うかった。顔なんですわ。水の中に顔がある」
顔は水面の少し下にあり、目を閉じていた。
男か女かは分からなかった。
髪が水中で広がっていて、顔の輪郭だけがぼんやりと見えていた。
「怖いいうより、悲しい顔やったんです。泣いとるような。怒っとるような。なんとも言えん顔で、じっと浮かんどった」
女性は一度目を逸らし、もう一度見た。
顔はまだそこにあった。
「それで私、思わず手を合わせたんです。なんでか分からんけど、拝まなあかんと思て」
手を合わせて目を閉じ、再び目を開けたとき、顔は消えていた。
水面には何もなく、朝靄だけが湖の上に薄く漂っていた。
女性はその出来事を誰にも話さなかった。
話せなかったのだという。
「話したらあかんような気がしたんです。あの顔は私だけに見せたもんやと思た。私が拝んだから、あの人は消えられたんやと思た。それを人に話したら、あの人はまた戻ってきてしまうんやないかと」
だが二〇〇八年に事件が報道されたとき、女性は初めて人に話した。
「あの顔が、殺された人やったんかもしれん思て。それなら黙っとったらあかん。拝んだだけでは足りんかったんや、と思たんです」
二〇〇六年に顔を見たとすれば、遺体が沈められてから相当の年月が経過していた時期にあたる。
スーツケース事件とは別件だが、この湖にはあの事件以外にも、発見されていない遺体が沈んでいる可能性は否定できない。
僕はこの証言を聞きながら、奇妙な感覚に囚われていた。
それはこの女性の体験が怖いということではなかった。
怖いというよりも、妙に腑に落ちるという感覚だった。
湖底に沈められた者が、水面に顔を出す。
沈められても、隠されても、消えない。
見えない場所に送られても、見える形で戻ってくる。
退治された百足が塚になって祟り続けるように。
追いやられた鬼が伝説になって語り継がれるように。
沈められた者は、消えない。
*
瀬田の唐橋を訪れたのは、取材の最終日に近い頃だった。
瀬田川にかかるこの橋は、琵琶湖から流れ出る唯一の自然河川の起点にあたる。
「唐橋を制する者は天下を制す」と言われたほどの要衝で、壬申の乱をはじめ幾多の合戦の舞台となった場所だ。
現在の橋は近代的なコンクリート橋だが、歩道からは琵琶湖の南端と瀬田川の流れが一望できる。
俵藤太が大蛇に出会ったのが、この橋だという。
橋の袂に立ち、欄干に手をかけて水面を見下ろした。
十一月の瀬田川は水量が多く、濁った緑色の水が重たく流れていた。
水面に映る空は灰色で、ときおり鳶が輪を描いて横切った。
秀郷はここで蛇を跨いだ。
恐れなかったのではなく、恐れていても跨いだのだ。
そこに秀郷の武人としての矜持があった、と物語は語る。
だが僕が橋の上で考えていたのは、秀郷のことではなかった。
蛇のことを考えていた。
蛇——竜神の化身——は、なぜ橋の上に横たわったのか。
通行を阻むためだったと物語は説明する。
臆さずに跨ぐ勇者を探すための試練だったと。
だが別の読み方もできる。
蛇は、助けを求めていたのではないか。
百足に苦しめられ、自分では手に負えない状況に追い込まれた竜神が、橋の上に身を横たえることで、誰かに気づいてもらおうとしたのではないか。
助けを求める声を出せない者は、身体で示すしかない。
言葉を持たない者は、存在そのもので訴えるしかない。
橋の上に横たわる蛇は、声なき叫びだったのかもしれない。
僕はそのことを考えながら、ノートにペンを走らせた。
この頃にはもう、自分の取材が当初の方向性から大きくずれていることを自覚していた。
編集部からの依頼は、滋賀の鬼伝承を紹介する郷土史的な記事だったはずだ。
鬼ゆかりの土地を巡り、伝説を紹介し、写真を添えて、読み物として仕上げる。
それが仕事だった。
だが僕はいつの間にか、記事のための取材をしていなかった。
鬼を追い、百足を追い、湖底の遺体を追い、水面の顔を追い——僕が追いかけているのは、記事の素材ではなかった。
何を追いかけているのか、自分でもうまく説明できなかった。
ただ、追わなければならないという感覚だけがあった。
追わなければならない。
書かなければならない。
その感覚が、取材を始めた頃の「仕事だから」という動機とはまったく異質のものであることに、僕は気づいていた。
気づいていて、止められなかった。
止めるべきだという判断と、止められないという実感が、同時に存在していた。
漁師が言った言葉が、耳の奥で繰り返し響いていた。
「退治いうんは、終わりやない。始まりなんですわ」
何かが始まっている。
この取材を通じて、僕の中で何かが始まっている。
それが何なのかはまだ分からない。
分からないが、後戻りはできないところまで来ている。
瀬田の唐橋の上で、僕は長い間水面を見つめていた。
濁った緑色の水は、何も映さず、何も語らず、ただ重たく流れ続けていた。
*
宿に戻ったのは夕暮れ時だった。
湖西の小さな旅館で、窓からは琵琶湖が見えた。
対岸の山並みが夕日に染まり、湖面は橙色に光っていた。
その光景は美しかったが、僕の目にはどこか不穏に映った。
水面が光っているのは表面だけであって、その下には百メートルの暗闇が広がっている。
光は底に届かない。
底にあるものは、光を知らない。
ノートを広げて、その日の取材内容を整理した。
琵琶湖バラバラ殺人事件。
スーツケースの遺体。
沖島周辺の「発見されないポイント」。
矢橋帰帆島の水面の顔。
俵藤太の百足退治。
百足塚の言い伝え。
瀬田の唐橋。
これらを一本の線で繋ぐことはできない。
事件と伝説と怪談と歴史が、脈絡なく並んでいる。
記事にするなら、どれか一つに絞るべきだ。
鬼伝承なら鬼伝承、湖の怪異なら湖の怪異、俵藤太なら俵藤太。
一つのテーマに沿って、論理的に構成する。
それが仕事のやり方だ。
だが僕は絞ることができなかった。
すべてが繋がっている気がしていた。
論理的な繋がりではない。
もっと深いところで、地下水脈のように繋がっている。
湖底に沈められた遺体と、退治された百足と、塚に封じられた怨念と、水面に浮かんだ顔と。
すべてが同じ一つのことを語っている気がしていた。
沈められたものは、消えない。
隠されたものは、いつか浮かぶ。
退治されたものは、名前を変えて戻ってくる。
僕はノートを閉じ、窓の外の湖を見た。
日はすっかり沈み、湖面は闇に呑まれていた。
対岸の灯りが水面にぽつぽつと反射しているだけで、湖そのものの輪郭はもう見えなかった。
見えないだけで、湖はそこにある。
四百万年前からそこにある。
人間が鬼を退治し、百足を退治し、遺体を沈め、記憶を沈め、知られたくないものをすべて底に押し込んできた、あの湖が。
僕は窓を閉めた。
眠れない夜になることは、分かっていた。
(第七章 了)
