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「檜林に消える」4

 圭介さんの手術は無事に終わった。数日はさすがにダメージが大きく、発熱と傷の痛みで弱っていた。食事が許可されても戻してしまい、絶食に逆戻りして、虚ろな目で点滴を引いて歩いていた。職業柄、おおよその経過は予測できる。だが、大切な人のこととなると、小さな体調変化や検査数値の変動に、ジェットコースターのように感情を振り回される。
 
 圭介さんのいないマンションにいると、自分の耳鳴りしか聞こえないほどの静寂が怖くなる。彼の生活音が聞こえないと、耳を塞ぎたくなる消化音や排泄音でさえ恋しくなるのが不思議だ。こんなときに、ネロリがいてくれればと思う。そんなことを考えていると、足元にかすかな風の動きを感じ、湿った鼻先が触れた感触があったり、眠りに落ちる直前に鳴き声を聞いた気もした。さすがに、どうかしていると思った。

 そんな淋しさは、すずくんが来てくれても埋まらない。一度だけ、彼がテイクアウトの牛丼を持ってきてくれて、一緒に夕食をとった。すずくんと話していても、なぜここに圭介さんがいないのかと、余計に不在が際立った。すずくんも、それを察したようで、彼の足は自然と遠のいた。二人でつくった心地良い空気までも失われたことは、深い喪失感をもたらし、二重に打ちのめされてしまう。すずくんは、圭介さんの病室に、葛城先生よりも頻繁に顔を出しているらしい。私が朝晩に病室を訪れると、圭介さんは待ちかねたようにすずくんの話をする。

 一週間後、圭介さんは、スキンヘッドで目力が鋭い葛城先生に「早く抗がん剤を始めたいので、体力をつけて戻ってきてください」と念を押されて退院した。先生が抗がん剤を急ぐのは、腫瘍マーカー値が心配だからだ。他方で、抗がん剤に踏み切れるのは、圭介さんの肝臓や腎臓がそれに耐えられる機能を確保していることを意味する。

             
                ★
 退院してからの圭介さんは、目に力が宿り、動作に切れが出てきた。手術直後の弱った状態を思うと別人に映る。クラウドファンディングで集めた資金を元手にしたNPO設立に伴い、火星さんとのZOOM会議が増え、オンラインでのスタッフ採用面接も精力的にこなしている。仕事をする圭介さんを間近で見るのは初めてで、目と耳を総動員して記憶してしまう。

 帰宅すると、彼の部屋から忙しなくキーを叩く音や、リモートで誰かと話す声が聞こえてくる。立ちっぱなしで脚がぱんぱんになっているのに、それを聞きながら夕食の準備ができることに心が浮き立つ。

「圭介さん、夕飯できたよ!」

 暖房で上気した頬の圭介さんは、食卓に並んだ野菜たっぷりのポトフを見て眉をひそめる。
「旨そうだけど、やけに淡白だね」

「そう? 温まるし、お腹に優しいと思ったんだけど」
 野菜は全部オーガニックにして、味がしみるように時間をかけて煮込んだのにと心がささくれ立つ。
 
「葛城先生は、何でも食べていいと言ったよ。澪の作ってくれるものに文句を言うわけじゃないけど、もっとこってりしたものが食べたい」

「へえ、何が食べたいの?」

「そうだな、たこ焼き」

「たこなんか食べたら、おなか壊すのが目に見えてるじゃない。トイレ掃除と汚れた下着の洗濯をする私の身にもなってよ」
 そうぼやきながらも、彼に食欲があるのは嬉しい。

「このあいだ食べた時は、大丈夫だったが」

「いつ食べたの?」

「一昨日、鈴木先生が持ってきてくれた。何か食べたいものはないかと聞かれたから、お願いしたんだ」

「私が遅出だった日か……」
 退院後、すずくんと圭介さんは二人で会うことが増えた。もやもやした思いが渦巻くが、嫉妬とは別の感情だ。私も圭介さんも、彼を遠ざけたいとは思っていない。 

「彼は澪と中学の同級生なんだな。私の知らない澪をいろいろ教えてくれた」

「何を教えたんだか」

 圭介さんは聞こえないふりをし、ポトフの湯気で曇った眼鏡のまま、スプーンを動かす。
「旨い! スープの味がしみて、野菜の味が引き立っている。玉ねぎ一個がそのまま煮込まれているが、ぺろっといけそうだ」

「お口に合って何より。付け合わせはご飯とパン、どっちにする?」

「スープに野菜の旨味が溶け出しているから、パンにつけて食べるのが良さそうだ。野菜って、こんなに美味しかったんだな」

「いい野菜を使っているから当然。フランスパン、軽く温めるね」

 大腸をかなり切除したのに、圭介さんは毎日驚くほどの食欲を発揮する。明らかに食事量が増えているのに、体重が増えないのが心配だ。

 食後の黒豆茶を飲んだ圭介さんは、思いついたように提案する。
「たこ焼きを買いにいこう。駅ビルはまだ開いているだろう?」

「ぎりぎり間に合うけど、寒いよ。大丈夫?」

「澪と夜の散歩をしたいんだ」

 空気は透明感を増し、冴え冴えとした夜空に金色の繊月せんげつが浮かんでいる。コートを着ていても肌を刺す風が、頭をしゃきりとさせる。乾いた空気に放たれた電車の発車メロディが、夜空に抜けていく。駅からはきだされた老若男女が、白い息を吐きながら、それぞれの帰路に散っていく。そんな他愛もないことを二人で感じられることが嬉しい。

 冷えた手をつないだ私たちは、駅ビルのたこ焼き屋で最後の一個を買い求めた。圭介さんは、ソースと鰹節の匂いがもれる白いビニール袋を大事そうに手に下げる。

 駅前のコンビニで温かい飲み物を買い、飲みながら家路につく。穏やかに流れていく時間がかけがえのないものに思え、ホットカルピスを飲む彼の腕に、自分の腕をぎゅっと絡める。慌ててカルピスに蓋をし、私を見下ろす瞳が優しく、身体の芯がじんと熱くなる。

 彼は組んだ私の腕が落ちないよう、腕を90度に曲げながら尋ねる。
「澪は日光杉並木道を見たことがあるか? 35キロ以上続く杉並木で、世界一長い並木道としてギネス認定されているそうだな」

「子供の頃、父の車で行った記憶があるけど」

「私も講演で近くの小学校に行ったとき、車で案内してもらった。杉が目を瞠るほど立派で、いつかあの辺りをウォーキングしたいと思っていた。抗がん剤の前に、行かないか?」

「そうだね。寒くなる前に行こうか。私、運転するよ」

「悪いな。ずっと澪の運転では大変だろう。鈴木先生も一緒に行ってくれないかな」

「聞いてみる。ドクターとナースの同伴なんてVIP待遇だね」

 二人きりで行きたいと思ったが、すずくんとの関係を取り戻したい思いが先に立つ。


               ★
 すずくんのハイエースは、両側を立派な杉並木に囲まれた街道を走る。後部座席には、私と圭介さんがゆったりと座わる。

 ハンドルを握るすずくんは、周囲を見回して解放的な声で言う。
「江戸時代初期に20年ほどかけて植樹されたということは、樹齢400年ほどですね。日光東照宮への参道として、江戸、明治、大正、昭和、平成、令和を見守ってきた杉並木か。さすがの貫禄ですね」

 圭介さんが窓を下げ、木々が放出するマイナスイオンを吸い込むように深呼吸する。
「何百年も生きている木を見るたびに思い知らされます。人間の寿命なんて、せいぜい百年ほどなのに、早死にだ、長生きだと騒いでいることが、ちっぽけなことだと……」

「そうかもしれないね……」

「そうだな」

 圭介さんは、その境地に行きついている。医療従事者のすずくんと私は、理不尽に消えてしまう命の灯をいくつも見て、無力感や怒りを感じてきた。もちろん、圭介さんの命にも、それを強く感じている。それぞれの思いは、車内を吹き抜ける冬の匂いの風に流されていく。

 車を降りると、初冬の陽に杉の凛とした立ち姿が映えている。幹を覆う苔と力強く張った根が、時代を超えて人々の営みを見守ってきたことを教えてくれる。遥か昔に杉並木道を通って東照宮に参った人々を思うと、旅姿が浮かび、活気のある話し声が脳内に響く。そんなことを思いながら、杉並木が発するエネルギーと木漏れ日を浴びて歩いていると、忙しない日々の営みで縮こまっていた心が解放されていく。圭介さんが、私たちをここに連れてきてくれた意味がわかった。

 圭介さんが腕を上に伸ばし、大きく伸びをする。
「毎日でも、散歩に来たいな」

「わかります。俺なんか、毎日パソコンのブルーライトを浴びまくって、けたたましい電子音を鳴らす医療機器に囲まれてるので、デトックスしているなと思います」

「先生や澪ほどではないかもしれませんが、私もパソコンとスマホから離れている時間を見つけるのが難しい。そんな生活が、心身に良いはずはありませんね」

 すずくんが木漏れ日に目を細めながら口を開く。
「圭介さんとすーちゃんと、こうしてゆったりとした時間を過ごせるのが幸せです。実は俺、友達を作るのが怖い時期が長かったんですよ」

「どういうこと?」

「医学部バスケ部に入ってるとき、自分がゲイだとチームメイトにオープンにしたんです。気心知れた仲間なので、大丈夫と判断してのことでした。そのときは、ああそうなんだと、大して驚かれずに受け入れてもらえました。でも、試合で東京に行くときのホテルの部屋割りが配られた日、更衣室に入ろうとしたら、チームメイトの話声が聞こえてきたんです。俺と同じ部屋になった奴が、俺に襲われないか怖いと言っていたんです。言われたこともショックでしたが、そんな思いをさせていたと思うと申し訳なくて、カミングアウトしたことを後悔しました。
 それをきっかけに、自分の中であれこれ考えてしまい、俺は同室になった男性に好意を持たないと断言できるか、手を出したい誘惑に駆られないかと不安が湧いてきました。もしかしたら、今までにそういう視線で友人を見ていたから、あんなことを言われたのかと思って、自分の過去の言動を検証してみたり。強迫症気味でしたね……。
 それからは、男性よりも女性といるほうが楽になりました。けれど、女友達に思いを寄せられたり、彼女に好意を持つ男性に悪意を向けられたこともありました。そんなことを繰り返すうち、深い関係を築くのは、パートナーだけで十分と思うようになりました」

「そうだったんだ。地元に戻ってきた頃、パートナーさんに裏切られたときは辛かったでしょう……」

 すずくんは頷き、話が見えない圭介さんのために要約する。
「12年ほど前、大学病院から実家の病院に戻った頃、ある建築士と出会って交際を始めたんです。付き合っていくうち、彼がとんでもない粘着質だと気づいて、これ以上は無理だと思って別れ話をしました。誠意を尽くして話しても、受け入れてもらえず、堂々巡りが続きました。俺はこれ以上話しても無駄だと、無視を決め込むことにしました。電話もLINEも無視、家に来られても居留守。そしたら、そいつは無言電話をかけてきたり、復縁を求める手紙をマンションのポストに毎日入れるようになったんです。
 最後には、俺と彼が写っている恥ずかしい写真と、俺が彼を傷つけたという趣旨の手紙が、本院の院長である父、副院長、事務長、看護部長、医者全員に送りつけられたんです。ネットに俺がゲイだと一目瞭然の写真を載せられて、病院の口コミに俺の悪口を書かれました。ちょうどその時期に、ある女医と俺の見合い話が持ち上がっていたので、かんかんになった親父に勘当されたってわけです。それからしばらく、市内のクリニックや千葉の病院に勤めていて、こっちに戻ったのは去年です」

 すずくんは、さらに言い継ぐ。
「院長になると、俺より年齢や能力が上のスタッフ、俺を良く思わないスタッフの上に立たなければなりません。そんな状況で、周囲に心を開けず、心に鎧を着て仕事をこなす日々です。
 そんなときでも、昔馴染みで気心の知れているすーちゃんは、本音で接してくれます。自然にできた心地よい信頼関係に、どれだけ助けられているわかりません」

「私も、すずくんといると心地いいし、信頼も、尊敬もしている。私こそ、すずくんの存在に救われてるよ」

「すーちゃんと圭介さんが同棲を始めて、俺は邪魔者にされると思いましたが、二人が友人でいてくれることが嬉しいです。あ、俺は圭介さんの主治医なので、友人になってはいけませんね」

 圭介さんは、私が話し出すより先に口を開く。
「私と澪には、先生の存在が不可欠です。これからも、私たちの最高の友人でいてください」

 冬の陽が木の間から鋭く射し、眩しくて目をすがめる。私は二人のあいだに勢いよく割って入り、二人と腕を絡める。

 私たちが世を去っても、杉の木たちは遥か先の時代まで根を張っている。そんな木々に、この瞬間を記憶していてほしいと願わずにいられない。



 圭介さんが抗がん剤のために入院する前日、私は昼から勤務の遅出だった。夜8時を回ってから帰宅すると、玄関に男物の靴が二足あるのに驚いた。一足は見慣れたすずくんの革靴で、もう一つはやけに大きく幅広の革靴だ。廊下を進み、閉まった扉のガラス窓からリビングをのぞく。

 リビングのソファに圭介さん、火星さん、すずくんが座っている。三人はテーブルに広げた書類に目を落とし、固い面持ちで話し込んでいる。車椅子、空港、ラウンジなど、明日の入院に不似合いな言葉が断片的に耳に入る。

「ただいま」

 ドアを開けると、床暖房で頬を赤くした三人が、驚いたようにこちらを見る。ダイニングテーブルには、空になった仕出し弁当の容器とお茶のペットボトルが散乱している。

「おかえり、澪。疲れただろう?」
 圭介さんが立ちあがり、私を見て眼鏡の奥の目を細める。他の二人はテーブルの上の書類をさっと片付ける。ちらりと見えた書類は横文字だ。

「私はこれで失礼します。澪さん、遅くまでお邪魔してすみません」
「圭介さん、明日病院で。すーちゃん、お疲れ」

 書類をかばんに収めた二人は、そそくさと帰っていく。

「まーちゃんがNPOの打ち合わせで来てたときに、鈴木先生が弁当を買って寄ってくれたんだ。澪の分は冷蔵庫に入れてある」

「そう……。明日の準備できてる?」

「ああ、ばっちりだ」

 圭介さんは、逃げるようにトイレに入っていき、激しい排泄音が聞こえてくる。

 空き容器は、すずくん御用達の料亭のもので三人分ある。私の分もあるということは、すずくんは火星さんがいると知っていて注文したのだろう。そもそも、すずくんと火星さんは手術のときに一度顔を合わせただけだ。どんな要件で、こんな時間まで話し込んでいたのか。すっきりしないものが胸に燻る。

             
                ★
 圭介さんは手術時と同じ筑波山の見える個室に入った。昨夜は小山駅近くのビジネスホテルに宿泊した火星さんが、入院手続きを済ませてくれた。

 翌日、事前に制吐剤を投与され、最初の抗がん剤が圭介さんの身体に入った。副作用を心配した葛城先生とすずくんは、何度も様子を見に来てくれた。心配とは裏腹に、本人も驚くほど自覚症状が出ないまま、規定量の投与を終えて退院できた。二度目の投与は三週間後に決まり、私たちはクリスマスと年末年始を自宅で過ごせることを喜んだ。

 クリスマスは、すずくんが市内の料亭に席を設けてくれた。掘りごたつ席の個室に通されると、待ちかねたように店長と女将が挨拶に来る。圭介さんは、すずくんの手慣れた対応を興味深そうに見ている。

 その視線に気づいたすずくんがさらりと言う。
「店長のお父さんが手術をするとき、俺が専門医を紹介しました。その縁で、よくしていただいています」

「ほう。先生はこの辺りの名士ですね」

 先付に甘鯛の昆布じめが運ばれてくる。上に散らされた白髪ねぎと京葱、赤い鯛との色彩に、クリスマスが意識されていて心が上向く。

「このお店、懐かしい。すずくんに、何度か連れてきてもらったね」

「うん。もう、随分前だな」

「私が結婚していたとき、化学流産をして落ち込んでいるときとか、義理の父に嫌な目に遭わされて家を飛び出したとき、すずくんがここに連れてきてくれたの」

 甘鯛に舌つづみを打っていた圭介さんが頷く。
「そうだったのか。気が強い澪が飛び出すなんて、余程のことだったのだろうな。しかし、先生は本当にいつでもスマートで格好いいですね。プライベートは別にして、仕事の苦労なんかないんじゃないですか?」

 すずくんは運ばれてきた椀物の蓋を取りながら言う。
「とんでもないです。あの頃は、ネットに書かれた悪口に悩まされて、すーちゃんたちに愚痴を聞いてもらっていました。
 今でも、病院の口コミサイトとか、職場の評価サイトで低評価を付けられるとへこみます。建設的な批判は改善策につながりますが、身に覚えのない批判は本当にしんどいです。圭介さんは、あれだけメディアに出ていて、ネットに不愉快な書き込みをされたりしませんか?」

 圭介さんは白味噌仕立ての椀物をすすってから答える。
「私には数えきれないほどアンチがいますよ。好意的な意見に励まされる一方で、人格を否定されるようなコメントも、たくさん書かれました」

「そういうのって、傷つきませんか?」

「もちろん、打ちのめされます。ただでさえ、私はストレスに弱いのですから。しばらく落ち着いていた潰瘍性大腸炎が暴れ出したのも、そのせいでしょう。もう見ないと決めても、気になってエゴサーチをかけてしまうんです。打ちのめされて、もうメディアに出たくないと思ったことも何度もありました」

「そこまでになっても、発言を続けてこられたのはどうして?」

 そのタイミングでお造りが運ばれてきて、一時会話が中断される。すずくんが、圭介さんがお腹を壊さないように配慮してくれたのか、炙りものを中心に盛り付けられている。

 圭介さんは、わさびを醤油で溶きながら答える。
「落ち込みまくった末に、発想の転換をする境地にたどり着きました。大学院で研究していたときに思いましたが、影響力のある研究書は世界中で賛否両論の議論を巻き起こし、研究を前進させる力のある作品でした。
 それと同じに考えるのはおこがましいですが、私が神経発達症を持つ方の教育や仕事について発信した内容に批判が出るのは、議論の契機を提供できたということです。それを機会に、様々な立場の方々が、神経発達症を持つ方々の教育や就労について考え始め、今の状態が改善されることにつながれば私も報われます。
 まあ、偉そうなことを言っても、今でも否定的なコメントを読めば頭にくるし、心をかき乱されます。ただ、私も自分の経験や関係者からの聞き取り調査に基づいて練り上げた自説を発信しています。いただいたコメントや交わした議論を検証し、自分が間違っているとわかれば謙虚に受け止めて修正しています。そうしていると、案外強くいられるんです」

「なるほど。そう考えると、俺もしっかりと立っていられる気がします。実は、俺が院長になってから、患者さんとスタッフにとって良い病院になるために、いくつか変えたことがあるんです。ですが、良かれと思って変えたことがスタッフの反発を引き起こして、優秀なスタッフが何人か退職してしまいました。かなりショックで、余計なことをしたかと悩みました。追い打ちをかけるように、職場評価のサイトでうちの病院がかなり低くつけられていると事務長に指摘されたんです。多分、つけたのは最近退職した彼らでしょうと嫌味を言われました。
 以来、改善したいところにメスを入れるのは控えていました。でも、俺がどんな考えで取り組むのかがしっかりしていれば、踏み切れそうです」

 私はきんきの塩麴焼に箸をつけながら言い添える。
「すべての人を満足させることはできないよね。それに、悲しいけど、誰も傷つけずに生きていける人なんていない」

「澪の言う通りだ。鈴木先生は、頭脳も技術も、容姿も人柄も秀でていて、その存在だけで周囲の嫉妬を煽ってしまうと思います。それ故に、理不尽な誹謗中傷に遭うことも多いのではないですか?」

 圭介さんの鋭い洞察に、すずくんが込み上げてくるものを堪えるように目をぎゅっと閉じる。
「さすがは圭介さんですね……。見抜かれてしまいました」
 この瞬間、すずくんの圭介さんへの思いは、止められないものになったに違いない。

「既得権益のあるスタッフは、それを奪われると思うと当然反発する。でも、すずくんが先を見据えた視点で取り組んでいることは、聞く耳のあるスタッフにはきちんと伝わってるよ」

 店長からのサービスだという水炊き鍋が運ばれてくる。圭介さんとすずくんは、共通の趣味であるサイクリングの話で盛り上がりながら、水炊きを平らげる。この日の圭介さんが、ズワイガニの炊き込みご飯と汁物、クリスマスを意識して華やかに盛りつけられた水物まで完食できたことに、私もすずくんも安堵した。 


              ★
 抗がん剤は、2クール目に厳しい副作用が出ることがあるので、穏やかに過ごせる時間を大切にしたい。年末年始、私は思い切って五連休を取り、圭介さんに寄り添うと決めた。

 床暖房の効いたリビングのソファで、彼の腕に抱かれてテレビを見る。テレビでは、お笑い芸人が看板猫のいる飲食店を訪問する番組が流れている。昭和情緒の漂う喫茶店のカウンターに、黒猫が鎮座している。つやつやした毛並みと長いしっぽの動きがネロリを思い出させる。

「澪も黒猫を飼っていたね。写真では素朴な和猫に見えたけど、保護猫?」

「ネロリは、すずくんがこっちのクリニックに勤めているとき、駐車場で餌をやっていた野良猫だったの。彼が千葉の病院に移るとき、飼い主を探していたから譲り受けた。あの頃は、離婚して一人でやっていかなくてはならない厳しい時期だった。ずっと相談に乗ってくれていたすずくんも女友達も、小山を離れてしまったから、ネロリがいなければあの時期は乗り越えられなかったな。その後の9年間も、ネロリに癒されて頑張ってこられた。私を信じて、ネロリを任せてくれたすずくんには本当に感謝してる」

「そうか。彼がネロリを残していってくれたから、澪は頑張れたのだね」

 私は彼の首に両腕を絡ませる。
「ネロリはいなくなってしまったけど、圭介さんがいる!」

 彼は私のセミロングの髪を撫でながら尋ねる。
「ネロリは、あの檜林で死んだと言ったな?」

「紐をつけて夜の散歩をしていて、あそこに近づいたとき、急にすごい力で引っ張られて、ひもを落としてしまったの。急いで追いかけたけど、林に吸い込まれるように消えてしまって……。探し出したときは、木の根元で倒れていた……。何で急に檜林に入っていったかはわからないけど、檜の芳香に惹かれたのかな」

「そうかもしれないな。だから澪は、線香ではなく、檜の精油を焚くんだな」
 圭介さんのスウェットから、かすかな檜の香りが立ち上がる。

 圭介さんは、何かを決意したように、私を抱きしめる腕に力を込める。


               ★
 年が明けてから、二度目の抗がん剤投与が始まる。一度目に副作用が出なかったので、本人はリラックスして臨んだ。だが、本人の予想に反し、激しい腹痛と下痢、倦怠感が出てしまう。下痢に伴う肛門の炎症も体力を奪っていく。痛み止めでしのぎながら投与を続けたが、ストレスが増したことも手伝い、がんが暴れ出してしまう。腹水が溜まり、下肢のむくみが出始め、坂道を転がるように容体が悪化していく。葛城先生とすずくんは、抗がん剤の投与を打ち切り、緩和ケアに移行すると決断せざるをえなかった。

 私は何とか退院できる状態に回復してほしくて、勤務前、昼休み、勤務後に病室を訪れ、圭介さんの愚痴を受け止めている。葛城先生とすずくんは、モルヒネの投与を検討し始めている。

 月の綺麗な夜、病室を訪れると、いつもは不機嫌な彼が穏やかな顔をして待っていてくれる。髭を剃ってもらったばかりのようで、少しあどけなく見える。

「お疲れ様、澪」

「圭介さんも、無事に一日が終わるね。今日は少し気分がいい?」

「うん。痛み止めが効いているようだ」

 彼は眼鏡の奥から、優しい眼差しで私を見る。
「私たちは檜林でたくさんキスをして抱き合ったな……」

「うん。いい年して、昼間から人目も気にせずにね。まあ、あの道は、ほとんど誰も通らないけど」

 彼はふっと頬を緩める。
「あのとき、私は今までの人生で一番幸せだった」

「私も身体の芯からとろけてしまいそうだった」

「あのときの私をずっと覚えていてほしい」

「もちろん。また、行こうね」

 彼は窓の外に目を移し、口角を上げて頷く。

「早く家に帰れるように、しっかり休んで回復させてね」

 彼は小さく頷き、思いついたように言い添える。
「澪にプレゼントを用意している。近いうちに渡そう」

「え?」

 彼は身体を起こし、やせ細った腕で私をぎゅっと抱きしめる。
「澪、最高の時間をありがとう。愛している……」
 彼の火照った身体が、命の灯が燃えていることを教えてくれる。そのぬくもりを逃がさないように、私も強く抱きしめ返す。


 翌朝、いつものように圭介さんの病室を訪れると、彼のベッドは空になっている。病室前のネームプレートも外されている。病棟では、急に病室を移動しなければならないこともあるので、昨夜のうちに移動があったのかもしれない。

 ナースステーションで尋ねると、私と同じくらいの年齢のナースに「葉山さんは、昨夜退院しました」と言われる。

「そんなはずはありません! 主治医が許可したんですか?」

「私は日勤で出てきたばかりなので……」

 ここで問答を続けても埒が明かないので、院長室に急ぐが、施錠されている。今日は外来なので、もう診察室に入っているのかと思い、一階におりてみる。だが、診察室のネームプレートは後輩の泌尿器科医の名前になっている。

「おはようございます。院長は?」

「出張届が出ていると聞きましたが。今日は私が代行します」

 何かがおかしいと思い、葛城先生の診察室をノックし、返事の前に入室する。
「先生、葉山さんが退院したというのは……?」

 葛城先生は、私が来るのを予測していたかのように、穏やかな口調で告げる。
「ご本人の希望だ」

「あの状態で、どこへ? 緩和ケア病棟のある病院ですかっ? なぜ、私に何も言わずに……」

 彼は激高する私を鎮めるように言い渡す。
「私はそれ以上は知らないよ。ご本人か院長に尋ねなさい」

「お騒がせしてすみません。失礼します」

 更衣室で圭介さんに電話を掛けたが、この番号は現在使われていないとアナウンスが流れる。すずくんも、火星さんも、電源を切っている。更衣室のソファにへたり込み、思い当たったのは、三人がマンションのリビングで何かを話し合っていたことだ。あのことが関係していると思えてならない。

 勤務を終えて帰宅すると、圭介さんの荷物はすべて消えている。 
 その日の夜、夢を見た。ネロリを抱いた圭介さんが、すずくんと談笑しながら霧に包まれた檜林に消えていく。目覚めると、ほんのりと檜の香りがする。いつも枕元に置いていたアロマディフューザーがなくなっていることに初めて気付く。

              ★
 圭介さんが姿を消して3日目の夜、すずくんが憔悴した面持ちでマンションにやってくる。

 彼は私が何か言う前にソファに座らせ、自分も隣に座る。カバンから私のアロマディフューザーと檜の精油を取り出し、静かにテーブルに置く。
「圭介さんは、檜の香りに包まれて旅立った」

「どういうこと!?」

 私に両肩をつかまれて揺さぶられた彼は、唇を震わせながら言葉を絞り出す。
「彼はスイスの安楽死団体の会員だった。最後は周囲に苦しむところを見せずに、穏やかに逝きたいと強く望んでいた」

 喉の筋肉が麻痺したように声が出せず、ひゅっと空気が漏れるような音が出る。荒い息を吐きながら、真っ白になった頭を回転させようと試みる。誰にどんな言葉をぶつけていいかわからず、感情の塊を吐き出すように口を開く。

「何でっ! どうして、私に最後の瞬間に立ち会わせてくれなかったのっ!」

 すずくんは私と目を合わせ、喉の奥から言葉を絞り出すように続ける。 
「彼はすーちゃんに最後の瞬間を見せたくなかったんだ。すーちゃんに伝えるよう言われている。檜の香りに誘われて、檜林に消えるようにいなくなったと思ってほしいと……」

「どうして……。どうして、私は蚊帳の外なのっ!」

 嗚咽する私に、すずくんは畳みかける。
「圭介さんは火星さんと二人でスイスに行くと決めていた。だけど、俺はどうしても、最後の瞬間に彼の傍にいたかった……。だから、医者の立場を利用して、彼に懇願して同行させてもらった」

 すずくんを部屋から追い出し、圭介さんが遺してくれたディフューザーと精油とともに彼を偲びたい。だが、そうしたら、私は本当に一人ぼっちになってしまう。私はすずくんの圭介さんへの気持ちに気付いていながら、口に出せなかった。すずくんが離れていってしまうのが怖かった。そんな思いが、すずくんをじわじわと追い詰めていたのだろう。

 すずくんが伏し目がちに尋ねる。
「俺が圭介さんを好きなこと、気づいてた?」

 私が頷くと、彼は続ける。
「ごめん。俺、すーちゃんのことをとても大切に思ってるけど、圭介さんに愛されているすーちゃんに嫉妬していた……。二人の邪魔はしたくなかったし、三人でいるのが幸せだった。けど……」

「わかってる……! もう、何も言わなくていいから」

「圭介さんは、俺の気持ちに気付いていた。だから、俺を同行させてくれて、最後に手を握らせてくれた」

「圭介さんは、私よりずっとすずくんを信頼していたよ。あの状態の圭介さんをスイスまで連れていくのは大変だったと思う。看取ってくれて、ありがとう」

「スイスで、圭介さんが俺に言い遺した。『鈴木先生が異性愛者なら良かったと思いましたが、いまは同性愛者で良かったと思います。澪の親友として、ずっと傍で力になって下さいとお願いできます。愛情は冷めたら終わってしまうけれど、友情は末長く続くでしょう? どうか、澪を一人にしないでください』
 圭介さんが愛していたのはすーちゃんだけだ。悔しいけど……、嬉しい。俺とすーちゃんは、ずっと親友でいられるな」

 すずくんの気持ちを慮ると、私が泣くのは失礼だが、圭介さんのプレゼントがあまりにも優しくて涙が溢れる。

「圭介さん、苦しまないで逝った……?」

 彼は潤んだ目で頷く。
「檜の精油が香る中で、穏やかな表情で致死薬を飲みほした。上半身を起こし、背に当てた枕に頭を預け、目を閉じてそのまま眠るように逝ったよ。最後は、俺と火星さんが片方づつ手を握っていた。俺の手を強く握り返してくれた感触が忘れられない。圭介さんの遺灰は、火星さんがスイスの森に撒いてきてくれる。学生時代に火星さんと訪れた湖水の近くにある森だそうだ」

 すずくんの背中をさすりながら伝える。
「圭介さんがいなくなった日に夢を見たの。ネロリを抱いた圭介さんが、すずくんと談笑しながら霧に包まれた檜林に消えていった……。圭介さんもネロリも穏やかな表情だった。私は、その姿を記憶しておく」

 私たちは、どちらからともなく抱きしめあった。圭介さんのプレゼントが、私たちを前に進ませてくれる。

(完)

扉絵は、さくらゆきさんが描いて下さいました。心より御礼申し上げます。