「檜林に消える」2
院長のすずくんが外来で診察するのは週二回。彼は富永師長に、介助のナースは私と指定した。私が院長の専属だと示し、辛く当たる師長を牽制してくれている。院長の性的指向は周知で、彼と私がおかしな噂をたてられることはない。
「鈴木さん、目が腫れてない?」
院長の顔で診察室に入ってきたすずくんは、開口一番に尋ねる。目敏い人だと思う。
ネスプレッソをセットしながら、声を落として手短に報告する。
「昨夜、ようやくネロリのために泣けたんです。そのことだけじゃなくて、十年近く一人で生きてきた寂しさとか、仕事のストレスとか、澱のように積もった悲しみが溶けていくみたいで。自分でも引くほど泣きました……」
彼は、マウスでスクロールしていた電子カルテから私に視線を移す。
「何かきっかけがあった?」
湯気の立つエスプレッソを差し出し、小声で要約する。
「昨日、12年前に婚活アプリで知り合った方と、思いがけなく再会しました。互いに好きだったのに、その方が子供を望まなかったので、子供が欲しい私は別れを選びました。院長もご存じの通り、私は子供ができなくて、あの家でひどい目に遭ったじゃないですか。その頃から、どうしてあのとき彼を選ばなかったのかと猛烈に後悔してました。その人に抱きしめられたら、泣けたんです」
「その人も、鈴木さんを思ってくれてた?」
「私が看護師になったのを知って、一目でも見たくて、うちに出入りしていたそうです」
すずくんの眉が、何かを思い出したようにぴくりと上がる。
「昨日の夕方、エレベーターの前で眼鏡の男性と話してただろ。もしかして、その人?」
「見てたんですか?」
彼はポストイットにメモを書きながら、努めてさりげなく聞こえるように答える。
「何度か院内で見かけて、背が高い人だなと思ってた。後で誰だか聞こうと思ってたんだ」
「まさにその人ですけど」
「そっか。何か面白くねーな……」
吐き出された言葉は、かすかな棘を含んでいた。
「どういう意味ですか?」
「どうって、鈴木さんの一番の理解者は俺だと自負してるからだよ。俺の胸では泣かないのに、あの人には心を許したのか」
彼の言葉は半分本当で、半分は本音を隠すためだろう。長い付き合いなので、彼が好意を持った男性のことを口に出すときはわかる。圭介さんをいいなと思っていた彼は、出鼻をくじかれて面白くなかったに違いない。
「結局、あの人は消えちゃいました」
叩きつけるように吐き出すと、彼は椅子を回転させて私を振り返る。
「消えた?」
「もう離さないと言ったくせに、朝になったらいないんです。連絡先のメモも何も残さずに。だから、こっちから連絡できないし。本当に何だったのか」
「昨日の今日だろ。そのうち、連絡来るんじゃない?」
「それなら、いいですけど」
溜息をつく私に、彼はポストイットを貼ったファイルを何枚か渡す。
「これ、事前問診お願いします」
「かしこまりました」
ファイルを受け取り、問診に出ようとすると、彼が背中に声を掛ける。
「今夜、行ってもいい?」
「大丈夫です」
診察室を出ると、向こうから歩いてきた富永師長と目が合う。すれ違いざま、彼女は私の耳元で囁く。
「院長に気に入られてるからって、いい気になるんじゃないわよ。院長に変な噂が出たら、病院の評判に関わるのよ」
★
すずくんは、私の部屋のソファに体育座りし、テレビに映したYou Tube動画に見入っている。
レポーター:
小学2年生の凛久くんです。ADHD傾向が強い神経発達症で、集中力を維持するのが難しく、特別支援学級で学んでいます。
「ステージ5、クリア~。楽勝! あと2ステージでNintendo Switchのソフトもらえる~!」
アニメキャラクターがプリントされたトレーナーを着た凛久くんが、得意そうにタブレットを母親に見せる。凛久くんは、ふかふかのソファの上で、ぴょんぴょん飛び跳ねる。
凛久くんのお母さん:
以前は勉強机に座らせるだけで一苦労でした。やっと座らせても、すぐに中断して他のことをしてしまうんです。この子の機嫌を取りながら宿題を終わらせるだけで、へとへとになっていました。
レポーター:
コロナ禍でオンライン授業になったとき、いま凛久くんが使っているアプリに出会ったのですね?
凛久くんのお母さん:
はい。息子はオンライン授業にすぐに飽きてしまい、ゲームばかりしていました。どうやって勉強させればいいかと絶望的な気分のとき、このアプリを使わせてみると、ゲームと同じくらい勉強に夢中になってくれたんです。学校のテストでも良い点が取れるようになりました。
柘植アナウンサー:
こんばんは。いま注目の起業家にお話を伺う『チャレンジ21』、今夜はフレキシブル代表取締役社長の葉山圭介さんをお迎えしました。葉山さん、宜しくお願いします。
葉山社長:
宜しくお願いします。
柘植:
先程の映像に出てきたアプリケーション《スタークエスト》は、フレキシブルの製品です。2018年に発表されてから着々とダウンロード数を伸ばし、先月末時点で500万人以上が利用しています。葉山さん、この製品をご紹介いただけますか。
葉山:
弊社が開発した神経発達症のお子さんの学習を支援するアプリです。神経発達症には、ASD(自閉スペクトラム症)、ADHD(注意欠如・多動症)、LD(限局性学習症)などの症状がありますが、症状に合わせて設定を変えられます。ご希望のコースを選び、課金していただくと、お使いいただけます。
先ほどの凛久くんは、多動衝動優位型ADHDコースで学習しているお子さんです。凛久くんの進度に合わせ、タイミングよく解法や解説、次の問題が提示されます。学習ステージをクリアすると星がもらえて、星を集めると景品に交換でき、ゲーム感覚で学習が進みます。
学校の授業に集中できなくても、このアプリなら予習、復習が楽しいと言ってくださるお子さんや保護者の方が、たくさんいらっしゃいます。
柘植:
ここで、神経発達症についてまとめておきましょう。こちらのパネルをご覧ください。最新版の精神疾患の診断・統計マニュアルによると、神経発達症には、知的障害(知的能力障害)、コミュニケーション障害、自閉スペクトラム症(ASD)、注意欠如・多動症(ADHD)、学習障害(限局性学習症、LD)、発達性協調運動障害、チック症の7つが含まれます。
代表的なものに、自閉スペクトラム症、注意欠如・多動症、学習障害が挙げられます。自閉スペクトラム症は、対人コミュニケーションが苦手、反復的な身体の運動や会話、固執やこだわり、感覚刺激に対する過敏さや鈍感さなどが現れます。注意欠如・多動症は、不注意(集中できない、気が散りやすい、よく物をなくす、忘れ物が多いなど)と多動-衝動性(じっとしていられないなど)が主な症状です。学習障害を持つ方は、全般的な知的発達に遅れはなくても、読字の障害、書字表出の障害、算数の障害が見られます。
実際はこれらの症状が重なり合っていることもあります。
葉山さん、こうした症状のあるお子さんが、このアプリで学べる年齢層はどこまででしょうか?
葉山:
小学生から高校生までの五教科に対応しています。五教科以外にはプログラミング、外国語、天文学、数学など特殊能力を伸ばすコースもあります。
お子さんの能力や興味に合わせてコースを選べるので、得意な分野は実際の学年よりも上級、苦手な分野は無理のない進度で学習できます。
柘植:
昨年2月には、新型コロナウイルス蔓延防止のために小中高等学校の全国一斉休校が要請されました。これを契機に、ダウンロード数が伸びたようですね。
葉山:
たくさんの方にインストールしていただきました。家庭でのオンライン授業に集中できないお子さん、逆に学校では他の生徒さんの声が気になって集中できなくても家庭では集中できるお子さんなど、様々な方からご好評いただいております。最近では、神経発達症以外のお子さんのダウンロード数も伸びています。
柘植:
さて、視聴者の方から葉山さんへの質問をたくさんいただいております。最初の質問は、北海道の発達ママさん(30代)からです。「葉山社長は、どうしてスタークエストを開発しようと思ったのですか」。葉山さん、いかがでしょうか。
葉山:
実は私も神経発達症です。私が子供の頃は、治療を受ける機会どころか情報さえありませんでした。学生時代も就職してからも苦労し、ようやく診断を受けたのは5つ目の会社をクビにされた後でした。
柘植:
ご苦労をなさったのですね。
葉山:
ええ。40歳を過ぎ、5つ目の会社を追い出されて途方に暮れているとき、大学の研究室の先輩が起業した会社に誘われました。そこで、何か開発したいアプリはないかと聞かれ、スタークエストの原案を出しました。私は子供の頃、得意な科目は集中力が続いてどんどん伸びるのに、苦手科目はすぐに飽きてしまいました。その経験を生かし、神経発達症のお子さんが楽しく学べるアプリを作りたいと思いました。
柘植:
ご自身の経験があるので、利用者の視点で考えられるのですね。
では、もう一つお伺いしましょう。東京都のルカさん(20代)からです。「勢いのある会社なので、都内に本社があると思いましたが、つくば市にあるのですね。つくば市は開発やテストに便利なのでしょうか」
葉山:
ご指摘の通りです。母校の研究室と共同研究していること、開発に協力してくださるお子さんや保護者の方が多いことが大きいですね。
柘植:
葉山さん、ありがとうございました。そろそろお別れの時間が近づいてきました。最後に、葉山さんの次のチャレンジをお伺いしたいと思います。
葉山:
いま、少年院、女子少年院にスタークエストを無償で提供させていただき、私が訪問して使い方を説明する活動を行っています。コロナ禍でなかなか進みませんが、全国の少年院、女子少年院を訪問するのが目標です。こうした施設には、神経発達症を持っているのに治療を受けられなかったり、周囲の理解を得られずに苦しんできた方がたくさんいらっしゃいます。
柘植:
こちらの写真をご覧ください。葉山さんが少年に囲まれています。皆さん、いい表情をしていますね。
葉山:
数学の問題を解く競争をしているところです。辛うじて私が勝ちましたが、素晴らしい能力を持つ方と良い勝負ができました。
柘植:
こんな無邪気な一面もある葉山さんでした。
葉山さん、ありがとうございました。
葉山:
ありがとうございました。
柘植:
今夜のゲストはフレキシブル代表取締役社長の葉山圭介さんでした。
「すげーな。こんな魅力的な人だったんだ……」
すずくんの頬は、ほんのり紅潮し、瞳には好奇心を浮かべた少年のような光が宿っている。
隣に腰を下ろした私は、本音を吐露してしまう。
「でしょう。これは10年以上前の動画だから、今より若いけどね。こんな素敵な人を選ばなかった私、本当バカ」
すずくんは、ひゃっひゃと癇に障る笑い声を立てる。
「選んだのは、あの強烈な家と、家族べったりのご主人だもんな~」
「言わないでよ、虚しくなるから」
私が結婚していたとき、すずくんは義祖父の主治医として、訪問診療に来ていた。癖の強い一家で、かなりひどい目にあったが、陰になり日向になり助けてくれたのが彼だ。恥ずかしいことまで知られているので、唯一本音を話せる。彼がいなくなったら、私はどこまで孤独になるのかと想像すると怖くなる。
「すずくん、最近パートナーは?」
「ここのところ、さっぱり」
すずくんに恋人ができても、私とは変わらず付き合ってくれるだろう。だが、私に恋人ができたら、すずくんとの関係が軋み始めるかもしれない。
「ふうん。ノンアルコールビール、飲む?」
手術前日は飲まない彼のために、冷蔵庫にはノンアルコールビールをストックしておく。
「飲む!」
冷えた缶を渡し、酢の物と、ねぎとしらす干し入りのだし巻き玉子を添える。
「旨そう、ありがとう。ところで、まだ葉山さんから連絡ないの?」
私が頷くと、彼は缶をテーブルに置いて腕組みをする。
「会社を直撃してみたら? つくばだっけ?」
「連絡してこないのが答えだよ。わかってるのに、押しかけるようなことはできないよ」
20代なら勢いで押しかけられたかもしれないが、情熱を失った代わりに分別がついた40代には無理だ。
「彼だって、こっそりすーちゃんを見に来てたんだろ? そこまでした人が消えるのは、相応の理由があるはずだろ。それだけでも、聞いてきたら」
ためらう私に、彼はダメ押しのように言い添える。
「病院の名前使って構わないよ。うちで葉山社長に講演してほしいから、交渉に来たとか言って」
「いいアイディアだね。でも、アポ取らないとね。院長名で電話入れてくれる?」
「アポで断られたら終わりじゃん。直撃すれば、会わざるをえないだろ」
「それこそ、無視されると思うけど……。でも、一度だけ行ってみようかな。このままでは釈然としないし」
「上手くいったら、俺にも紹介してね」
すずくんは、酢の物を口に運びながら、ぼそりと言った。
もし、私が圭介さんと交際を始めたら、すずくんと私の関係はどうなるのだろうか。私は、すずくんが圭介さんに好意を持っているのが嬉しい。その先に何があるかを描こうとしても、霧に覆われたように像を結ばない。
「今日、泊まってくの?」
答えはわかっているが敢えて確認する。
「いい?」
彼も形だけ尋ねる。
「どうぞ」
「サンキュー。ところでネロリの遺骨、ずっとこの部屋に置いとくの?」
すずくんは、棚の上に置かれた小さな骨壺と写真に目を遣る。
「うん。ここにいてくれたら、今までのように、いってきますとただいまが言えるから」
「そうか。それなら、俺も会いに来られるな。ありがとうな、こんなに大切に思ってくれて」
涙腺を刺激されそうになり、ソファから立ち上がる。
「明日、手術でしょう? 先にシャワー浴びていいよ。布団敷いとく」
彼はリビングで、私は扉を隔てた部屋で眠る。月に何度かは、こんな日がある。ゲイの彼と私には、当然何も起こらない。傍目から見れば奇妙な関係だが、いつの間にかそれが自然になっていた。女友達が泊まっていくのは普通だが、ゲイであっても恋人ではない男性がそうすると好奇の目を向けられる。両親が、顔をしかめて批判する姿がありありと浮かぶ。こちらをちらちら見ながら、ひそひそ噂話をする師長や同僚ナースが容易に想像できる。そんなことが浮かぶ時点で、私も世間一般の常識に囚われているのだろう。それが、すずくんのような人たちを圧迫し、じわじわと苦しめている。そのことに気付くと、心のなかに、今まではなかった余地がふっと生成する。
★
フレキシブルがオフィスを構える商業ビルは、つくばセンターからほど近く、難なく見つけられた。オフィスの入っているフロアでエレベーターが停止すると、心臓が口から飛び出しそうなほど速く打ち始める。フロアを間違えたふりをして、戻ってしまいたい衝動に辛うじて抗うことができた。
受付には、小さな顔に、計算されたようにパーツが配置された女性が座っている。正面を見据える美しい顔は表情に乏しく、ときおり長い睫毛を瞬かせなければ、AIだと言われても納得する。私がデスクの前に立つと、かすかに眼球が動き、人間らしさが宿る。
「S第二病院の鈴木と申します。葉山社長にお目にかかりたいのですが」
AI嬢は、表情のない目で口元だけ動かす。
「葉山は先週退職しました」
「え……?」
思考がついていかず、AI嬢の不自然に整った顔を呆けた表情で見つめてしまう。
「退職って……、彼は社長ですよね」
AI嬢は表情筋を動かさずに応答する。
「現在の社長は望月です」
「それでは、葉山さんの連絡先を教えていただけますか。仕事の話があるので、連絡がとれないと非常に困ります」
「個人情報はお伝えできません」
「仕事の話があるので、何とか教えていただけませんか?」
「申し訳ございませんが、できかねます。少々、お待ちください」
AI嬢は受話器を取って誰かを呼び出す。クレーマーと判断し、ガードマンを呼んだのだろうか。それなら、今のうちに去ったほうが無難だ。
恰幅の良い中年男性がオフィスから出てくると、AI嬢は機械音声のような口調で告げる。
「この方が、元社長の連絡先を知りたいそうです」
男性は私の全身にさっと目を走らせる。
「いいでしょう。これから、葉山のところに行くので、ご案内します。月ちゃん、ありがとね」
男性はオフィスに戻ってカバンを取ってくると、私を見てにっと口角を上げる。
「いきましょうか!」
満月のような輪郭で、鼻も口も丸味を帯びているが、目は狐のようにつり上がっている。そのアンバランスが特徴的で、一度見たら忘れられない顔だ。
「あの……」
怪訝そうな顔をする私に、彼はカバンをごそごそ探り、ぼろぼろの名刺入れから一枚取り出して渡してくれる。
「申し遅れました……。私、こういう者です。フレキシブルの顧問弁護士で、葉山の法務も担当しています」
弁護士 葉山 火星
個性的な名前にふき出しそうになるのを堪えて尋ねる。
「葉山さんと同じ姓ですね。ご親戚ですか?」
「ええ、圭介とは従弟です。この通り、まったく似てませんがね」
火星さんは、がははと豪快に笑う。
よく見ると、つり上がった目だけは、圭介さんとの血のつながりを思わせる。エレベーターに向かって並んで歩きながら、話題に困って尋ねる。
「火星で、Mars。お洒落な名前ですね」
エレベーターが下降する間、火星さんはひっきりなしに話し続ける。
「親父が火星の研究者で、こんなドキュンネームを付けられてしまいました。まったく、虐待に等しいですよね。唯一ありがたいのは、一瞬で覚えてもらえることです。そうそう、さっきの受付嬢は月と書いて『るな』と読むんですよ。天体繋がりで仲間だねと言ったら、瞬間冷凍されそうな視線が飛んできましたよ。圭介は、彼女の冷たさを面白がって採用したんですよ。社長が変人だと、社員もエキセントリックなのが集まりますね。ああ、元社長でしたね。ハハハ」
火星さんが、気さくで饒舌な人なので、沈黙を心配しなくて済むのがありがたい。二人でビルの外に出ると、街路樹が紅葉し始めていることに気付く。12年前、圭介さんと一緒にこの街を歩いた記憶が唐突によみがえり、失った時間を取り戻そうと気持ちを引き締める。
「私、小山市のS第二病院から来た鈴木と申します。葉山さんに講演会の講師をお願いしようと思って伺ったのですが……」
「ああ、そうでしたか。ご足労をお掛けしましたね。あいつ、昔から気難しいやつなんですよ。今回も、実質的な社長である副社長の望月に、スタークエストの売り上げの一部を基金に回すのを止めると言われ、言い争いになったんです。かっとなった圭介が、それなら辞めると衝動的に辞表を突き付けましてね。ここ数日は、彼の代理で後始末に来てます」
彼は言葉を切り、交差点の向こうに見える高層マンションを指す。
「あれが圭介の住んでいるマンションです。ご案内しますよ」
どうしてこの人は、得体の知れない人間を自宅にまで案内してくれるのかと不思議になる。
「あの、私のような者が、ご自宅にお伺いして大丈夫でしょうか?」
火星さんは、晩秋の日をふくよかな頬に受け、にかっと笑う。
「構いませんよ。圭介が衝動的な辞め方をしたので、連絡を取れなくて困ってる方が、あなた以外にも尋ねてきているんです。そういう方が来たら、私に連絡してもらうことにしています。私が見て、よほど怪しい人以外は、ご案内しています。彼は『発達障害コンサルタント』として独立するので、仕事の話は直接してもらったほうがいいでしょう」
火星さんは、交差点で立ち止まると、額に浮き出た汗を大き目のタオルハンカチで拭う。カバンから水のペットボトルを取り出し、ぐびぐびと飲み干してから続ける。
「まあ、圭介が切れるのも無理ないんです。あいつ、かなり体調が悪いんです」
「どこがお悪いのでしょうか? 私、看護師なので、あの痩せ方と顔色に尋常ならざるものを感じました。先日、当院にいらした際も、貧血で倒れてしまいました」
火星さんは、中央でつながりそうな眉根を寄せ、私の問いをせかせかとした口調でかわす。
「そうですか。ご迷惑をお掛けしました。まあ、そんなわけで、これからは、仕事を選んでいくと思いますよ」
マンションのエントランスに入ると、火星さんはソーセージのような指で部屋番号をプッシュする。私がカメラに映ると、彼が開けないかもしれないと思い、映らない角度に移動する。
「圭介、俺」
開錠され、向かった彼の部屋は9階だった。チャイムを鳴らすと、髪がぼさぼさで、無精髭が目立ち、肌触りの良さそうなスウェット姿の彼が現れる。
「片がついた分の書類を持ってきた。目を通して、気になることがあったら、連絡してくれ」
「悪いな、まーちゃん……」
圭介さんの視線が、火星さんの後ろに立つ私に止まり、凍り付いたように動きを止める。
「こちら、S第二病院の鈴木さんだ。会社を訪ねてくれたから、ご案内した」
火星さんは私を振り返り、「では、私はこれで」と会釈し、巨体をたぷたぷ揺らしながらエレベーターに向かって歩いていってしまう。
「あの、本当にありがとうございました」
振り返った火星さんは、口角を押し上げて人の良さそうな笑みを見せる。
圭介さんがドアノブに手をかけたので、私は閉められる前に身体を滑り込ませる。彼は私を持て余すように見ているが、私も引かない覚悟だ。
「上がって下さい」
根負けした彼がスリッパを進め、踵を返して部屋に入っていく。
通されたリビングには、ソファとテーブルの応接セット、大きな液晶テレビが鎮座している。家具は木目が見えて温かみのあるデザインで、木が好きな彼のセンスが生きている。窓からは、研究学園都市の街並みが見え、遠くに筑波山がかすんで見える。
「きれいにしてるんですね」
「週3回、ハウスキーパーに来てもらってます。片付けが苦手なADHDなので、瞬時にゴミ屋敷になってしまいますから。座っていて下さい。身なりを整えてきます」
「そのままで構いません。私の前では気を遣わないでください」
反対側のソファにどさりと腰を下ろした彼は、大きなビーズクッションを抱える。ASDで体幹が弱い彼は、身体を支えるためにクッションが欠かせないと言っていたことを思い出す。彼はクッションで身体を安定させると、頭をかきむしり、迷惑そうに言い放つ。
「ご用件をお伺いしましょうか」
その態度に苛立ち、堰き止めていた怒りを放出させる勢いで尋ねる。
「どうして、黙って出ていってしまったんですか! もう離さないと言ったのは、嘘ですか?」
彼は感情を排した声で淡々と告げる。
「あのときは、理性を失ってしまい大変失礼しました。彼から聞いたと思いますが、私は会社を辞めました。こんな男では、あなたを幸せにできません」
「どうして、一人で勝手に決めてしまうんですか! 私の気持ちはどうなるんですかっ?」
彼は視線を落とし、貝になったように口を閉ざしてしまう。教師に指名されたが、答えがわからず、沈黙でやり過ごす生徒のようだ。子供っぽい態度に苛立ったが、閉じた貝を別の角度からこじ開けてやるつもりで問いかける。
「体調が良くないそうですね。どこか悪いのですか?」
彼は私を上目遣いでちらりと見てから、淡々と続ける。
「あなたは看護師なので、わかるでしょうから、お伝えします。私は大腸がんが腹膜転移しています。もともと、25歳のときに潰瘍性大腸炎を発症し、入退院を繰り返していました。寛解状態になったのは29歳のときで、それからは落ち着いていました。ですが、ここのところ、調子が良くないので検査したら、がん化していたというわけです。既にがんが大腸を突き破って、腹膜に飛んでいます。看護師なら、それがどういうことか、おわかりでしょう? そういうことです。わかったら、おひきとりください」
腹膜播種があるということは、大腸がんステージⅣ。5年相対生存率は20%に満たない。似た状態の患者さんの姿が瞼の裏に浮かぶ。予後は決して良くない。視界が揺らぎ、周囲の音が遠のくほどの衝撃に襲われるが、数秒で立て直す。
「お話はわかりました。ですが、どうして、私と一緒に乗り越えようと思って下さらないんですか? あなたは、小山まで私に逢いに来てくれた。その気がなければ、そんなことをしないでしょう?」
問い詰められた彼は、外しかけた仮面を付け直すように、瞳に冷たい光を宿す。
「あのときは、体調が悪いせいで、気弱になっていました。あなたの心を乱したことは、本当に申し訳なく思っています。どうか、なかったことにしてください。今、あなたが抱いているのは恋愛感情ではなく錯覚です。時が経てば、あんな男と関わらなくて良かったと思いますよ」
怒りで身体が震えたのは生まれて初めてだ。
「バカにしないでくださいっ! 私はあなたを離しません! 今度こそ、一緒に幸せになるんです!」
向かいのソファに駆け寄り、彼の首に腕を巻き付けて荒々しく口付ける。避けられても、拒まれても、振り払われても、追いかけて唇を重ねる。
彼は襲いかかってくる猛獣を振り払うように私を突き飛ばし、血走った目で叫ぶ。
「いい加減にしてください!! 私はあなたに、苦しんで、弱って、死んでいく姿を見られたくないんです。ただでさえ惨めな人生だったのに、最後まで惨めな姿をさらすのは耐えられない。もう放っておいてくださいっ!」
彼は膝の上の拳をぐっと握り締め、荒い息を吐きながら肩を上下させる。
「あなたが逃げても、私は地獄の底まででも追いかけていきます! 私には、あなたが必要なんです! もう、一人で生きていくことに疲れました。何もしてくれなくていいから、私の部屋で寝ているだけでいいから、私のために傍にいてくださいっ!」
私は床にへたり込み、バッテリーが切れたように、彼の膝にもたれる。ここまで感情が振り切れたことはなかった。どんなに求めても、受け入れてもらえないのが惨めで、涙が溢れてくる。
彼はしばらく微動だにしなかった。二人とも状況を持て余し始めた頃、彼が私の手を取って助け起こし、自分の隣に座らせる。
「困った人ですね。私と同じくらい、愛情に飢えているようです」
「あなたが傍にいてくれなければ、干からびて死んでしまいます」
「それは私も同じです。干からびないように、一緒にいましょうか……」
彼は私を抱き寄せ、すがりつくように抱きしめる。私は糸が切れたあやつり人形のように、彼の胸に崩れ落ちる。彼の鼓動を感じながら、語り掛ける。
「圭介さん、独立するなら、ここにいなくてもいいんですよね? 小山に来てください。一緒に暮らせる部屋を探しておきます」
「正気で言ってるんですか?」
「正気です。しっかり捕まえておかないと、あなたはまた消えてしまうでしょう? S第二病院の院長は私の親友なので、彼のVIP患者として診てもらいます。副院長はT大出身の消化器外科専門医です。悪くない体制が組めると思います。それに、看護師の私が一緒に暮らしていれば、安心でしょう?」
「こんなに強引な方だとは、思わなかったな……」
そう言いながらも、彼の瞳には安堵が浮かんでいる。窓から注ぐ晩秋の陽が私たちを包み、ほんのりと部屋を温めてくれる。
「マンションを売って、身の回りを整理したら小山にいきます。主治医からの紹介状ももらってきます。宜しくお願いします」
その日の午後、私の運転で筑波山神社に行った。12年前、彼は神社の境内にある樹齢800年と言われる御神木を私に見せたいと言ってくれた。その後、別れてしまったので、12年越しの約束が果たされた。
私たちは、年甲斐もなく手をつないでいる。ご神木の大杉は、たこ足のような逞しい根に支えられ、悠然と立っている。隆起した根の暴力的なまでの生命力を前に、それを圭介さんに分けて欲しいと思わずにはいられない。圭介さんは巨木を仰ぎ見て、発せられるエネルギーを吸収するかのように目を閉じる。雲の切れ目から注ぐ光の粒が、彼の細い身体に降り注ぐ。
目を開いた彼は、頭一つ上から優しい眼差しで私を見つめる。
「悠久の時を見守ってきた木の傍に立つと、心が満たされます。自分の抱えている悩みなど、ちっぽけなことに思えてくるのが不思議です。木が生きてきた歴史の前には、人間が生きた年月など取るに足らない時間ですね」
「あなたの隣で、一緒にそれを感じることができて、この上なく幸せです」
彼は私の肩をぐっと抱き寄せる。
「神社や寺のような、時代を超えて守られてきた場所では、この御神木のように樹齢の長い木に出会えます。あなたに見せたい木は、まだたくさんあります」
「一緒に見に行きましょう」
彼は頷き、私の肩を抱く手に力を込める。
「主治医から、手術で腫瘍を切除し、抗がん剤を試すことを勧められました。抗がん剤が効けば、がんと共存しながら生きられるかもしれないと……。手術も抗がん剤も受ける気はなかったのですが、受けようと思います」
主治医が手術対象になると判断したなら望みはある。
「一緒に頑張りましょう。私がついています」
ふと思いついて尋ねる。
「圭介さん、ご家族は? 小山に来てしまって大丈夫ですか?」
「父と母は既に亡くなっています。兄と姉とは、とっくに縁が切れています。付き合いのある血縁者は、まーちゃんだけです。私に何かあったときは、彼がすべて処理してくれます」
「わかりました。木を見に行くときには院長も付き添ってくれると思います。彼は圭介さんの出たテレビ番組を見て、すっかりファンですから」
「それは頼もしいですね」
扉絵は、さくらゆきさんが描いて下さいました。心より御礼申し上げます。
