新発見はn=1で現れる

医療の世界では症例報告というのがあるらしい。これまでに知られている病気とはどうも違う症状の場合、ともかく観察して得られる情報を書きだして、報告するというもの。いわばn=1についての細かい観察報告。しかし、これは極めて重要。

何万人に1人という希少疾患は、きっとこうした症例報告のおかげで発見できたのではないだろうか。何万人に1人だと、一人の医者が出会える患者は一人だけかもしれない。何なら、「そんな患者、診たことない。偶然とか気のせいじゃないか?」と他の医者から思われても仕方ないと思う。

しかし、n=1のそうした報告を丁寧にやっておくから、「あれ?自分が見ている患者と似た症例が報告されているぞ?」と気がつき、まれな病気であってもそれがn=2,あるいは3へと増え、「何万人に1人だけど、確かに存在する病気」の発見につながるのだろう。

ツイッターでは、よく「エビデンスを示せ」という指摘が来る。エビデンスを示しても「それはお前の個人的体験でしかないやんか。n=1の話をしても証明にはならない」とツッコミを入れる人が少なくない。なるほど、証明にならないのは確か。証明するには、複数の事例が必要なのは確か。でも。

最初の発見は必ずn=1から始まる。2例目の報告が得られていない状態から始まる。n=1の報告がなされていなければ、永遠に「n=1だから気のせい、偶然でしかない、無視してかまわない」で処理され、無視され続けることになってしまう。n=1を決して軽んじてはいけない。

私は、ツイッターは「n=1を気軽につぶやく場所」ととられている。人生は短く、生涯のうちに2度目を経験できるかどうか分からないけれど、確かに起きた現象、というのに出会うことがある。そうしたn=1の現象をつぶやいておくと、他の人から「私もそれ感じていた!」という意見が結構出てくる。

中には、やはり私の気のせい、勘違いのこともあるかもしれない。しかしそれを恐れず、n=1をつぶやくことで、nが2にも3にも増えていく。どうやらこれは偶然ではなく、社会の中である頻度で起きる現象であるらしい、という「発見」が可能になる。

画期的な成果を出す研究者って、n=1をとても大切にしているように思う。たまたまおかしな現象が起きただけ、偶然と片付けてしまうのではなく、「何か理由があったから起きたのだろう」と考え、さらに丁寧に観察する。それが新たな発見につながっているのだと思う。

私は、普段の生活では見られない変わった現象を、注意して観察することにしている。それは新しい現象の発見につながるかもしれないから。私はn=1をしゃぶり尽くす。それによって、何かしら普遍的な法則を発見できるかもしれないから。n=1にも、この世の様々な法則が絡んでいるものだから。

私の同僚で天才だな、と思う研究者がいる。この人はn=1を極めて大切にする。それを偶然で済ませない。何かが起きている、と考えて、よく観察する。もちろん、気のせいだったりもする。でも、n=1をよく観察することで、他の研究者が見逃している新現象を次々と発見していく。

発見した後で、n=1ではなく、n=3以上で実験すればよいこと。発見は、たいがい外れ値としてのn=1でしか現れない。あとは、偶然で済まされないように、その現象が再現性よく現れる条件を探せばよいこと。すると、新しい法則の発見にもつながる。

確かに、反復数は重要だ。科学の証明は、基本、再現性(同じ条件をそろえれば、必ずその現象が起きる)が重要なのだから。でも、それは「証明」に必要なことであって、「発見」には必要なことではない。むしろ、発見をしようという段階で再現性を求めることは、発見の邪魔になることさえある。

発見は、誰もが「偶然だ、無視してかまわない」と考えるような現れ方をする。再現性がイマイチだったりする。その偶然を偶然と処理せず、「偶然にしても確かに起きたのだとしたら、何か理由があるはずだ」と考えることが、新発見のセンスではないか、と思う。

反復数を増やす、データをしっかりとるというのは、もちろん研究者として重要な資質。しかし、それは発見した法則を「証明」する段階の話。発見の段階では、まだ再現性があるかどうかもわからない状態が普通。その段階では、n=1を緻密に観察する以外、方法がない。

だから、本来、研究者はn=1をバカにしてはいけないと思う。n=1をバカにする研究者は、既存の知識で処理することしかできず、物知りで常識人かもしれないが、新発見はできない。研究者は原則、新発見するのが本分なら、発見の段階で反復数を求めすぎてはいけないことは、弁えておく必要があるだろう。

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