清水喜子さんの「聴く」とは

今日は、お寺のお坊さんから「西の菩薩」とまで呼ばれたこともある清水喜子さんを「歓観楽学」にゲストとしてお呼びして対談させていただいた。「聴く」ということの奥深さを痛感したのだけれど、これを言葉にするとなんだか陳腐な気がしてしまい、気が引ける。でも、言葉にしないと記憶に刻めない、良くも悪くも「言葉」の人間である私は、なんとか清水さんから感じ取ったことを言葉にして近似することを試みてみたいと思う。

清水さんの手にかかると、大声を張り上げ、怒鳴りつけ、人格を否定するような言葉ばかりぶつけてくるような人でも、いつのまにか穏やかになり、笑顔になり、人が変わったように明るく積極的になり、協力してくれる人になったりするのだという。大阪で公務員をなさっておられたのだけれど、クレームの非常に多い区だったのが、清水さんが窓口担当になったことでクレームが激減したという。いったいどんな魔法を使ったのだろうか。

清水さんは、どれだけ乱暴で暴力的な言葉を発していようと、それは「どんなにつらい目にあってそうなってしまったのだろう」と、その裏にある悲しみ、苦しさのほうが気になってしまうのだという。だから、言葉の表面上の意味に囚われることなく、「この人の本心はどこにあるのだろう?それを聞きたい、知りたい」と思って、全身で話を聞くのだという。

この動画で清水さんもお話しされているけれど、否定もしなければ励ましもしないのだという。
https://youtu.be/tS5CtLhtWfM?si=hd_nYC9t8vCa5x64
励ましは、相手の現状を否定する言葉。だって、「今のあり方を変えてこうするとよい」といっているわけだから。それでは、相手は「わかってくれない」と感じてしまう。この人はどんなつらいこと、悲しいことがあったのか、全身でそれを探り取ろうとするらしい。すると。

相手は、全身を耳にして、自分の心の奥にある叫びを聞こうとしていることに感づいて、「わかってもらえた」とは言わないまでも、この人は「わかろうとしてくれている」と感じるらしい。そう思えた時、その人はそれまでのわだかまりとかつらさとかが一気に溶けていくような気持になるらしい。

清水さんは、どんな人であっても赤ちゃんの頃から持っているものを失わずにいる、と考えているという。人間は赤ちゃんの頃から、人に喜んでもらいたい、役に立ちたい、という気持ちを持っている。どんな乱暴な人も、怠け者だと言われた人でも、そうした行動の問題は何かしら傷つく経験があったためであって、その人の本来ではない、と考え、赤ちゃんの頃からずっと保持している「素」と向き合おうとするらしい。

すると相手は、外面的な怖さとか醜悪さとかを見るのではなく、素の自分を見ようとするまなざし、しかも全身でそれを感じ取ろうとする清水さんのその姿勢を感じ、「ああ、この人は外面的なもので左右されるような人ではない、自分のありのままの素を見ようとしてくれている」と感じ、スッと穏やかになるらしい。

普通、こういうアプローチをとると、相手から依存されてしまことが多い。先日、面白いブログがあったのだけれど、その人は誰に対しても否定的な気持ちを持つことがなく、とある若手を指導するように上司から言われたのだけれど、その若手は高学歴なのを鼻にかけ、自分は有能だと信じ切り、周囲が悪いと文句ばかり垂れる人物だったそうで。でもその人は否定することなく話を聞いていると、「この人だけは私のことをわかってくれる」と一方的にぞっこんになってしまい(同性なのだけど)、すべての時間を自分のために使ってほしいみたいな依存になって、その人はさすがにギブアップしてしまった、という話。

ところが清水さんの場合、相手はそうならなかったという。それはどうも、清水さんが「この人にはちゃんと力がある」と信じ、それが何なのかを探り当てようとする姿勢を持つからのような気がする。清水さんが自分には何らかの力がある、と信じ、探り当てようとするその真摯な姿勢を見て、相手は「もし自分に力がまだあるとしたら、それはいったい何だろう?何が自分にできるだろう?」と考えるようになるらしい。

これ、介護・看護の技術であるユマニチュードに通じる話のように思う。看護師が世話しようとすると唸り声をあげ、看護師をたたいたり、噛みついたりする乱暴な患者がいて、看護師たちは手を焼いていたのだけれど、ユマニチュードの創始者であるジネストさんが近づくと素直に手を触らせてくれるし、手の運動も自分から進んで行うし、最後には寝たきりだったはずなのに立ち上がろうとし、看護師の補助を受けながら、ジネストさんにさよならを言うために立ち上がってVサインを出した。なぜこの老人は、ほかの看護師からのアプローチには乱暴さで応じたのに、ジネストさんには笑顔で穏やかな対応になったのだろうか?

まず、近づき方が違う。それまでの看護師は、その患者に足早に近づき、「体温測りますねー」とか言って腕をつかみ、脇に体温計を挟もうとして、拒否されていた。でもジネストさんによると、認知症が始まっている高齢者の場合、視野が狭くなり、両目にトイレットペーパーの芯を当てたようになっているため、看護師が足早に近づくと、突然現れたように思ったり、何なら視野の外からいきなり腕をつかみに来たようで驚いてしまうのだという。

そこでジネスト氏は、その患者の視野が狭くても認識しやすいよう、正面の方向に立ち、遠くから少しずつ、気づいてもらいやすいように大きく腕を振りながら近づいていく。すると、患者も「あ、誰かが近づいてくる」と分かる。それも急速に近づくのではなく、驚かないように、ゆっくりと近づくから「自分が驚かないように気遣ってくれている」と感じる。

患者の腕に触れるにしても「触っていいですか?」と尋ねて相手の反応を待つ、という間を設ける。そのうえで拒否がないようだったら、腕を下から支えるように触れる。それも手のひらを広げて、広い面積で。こうした触れ方だと、患者は「いつでも手を振り払う自由を自分に委ねてくれている」と感じ、信頼する気持ちが生まれる。

また、腕を上げてリハビリをするにしても、ジネスト氏は「腕を上げてもらえますか?」と聞いてから、相手の反応を待つ。腕を上げようという意思が見えるまで、待つ。腕を上げようとしてくれた時、「おお」と嬉しそうに驚きの反応を見せながら、腕を上げるアシストをする。

ジネスト氏がアプローチする前の看護師は、この患者のことを「もう自分では何もできない人」とみなし、それを前提にしたケアをしていた。でも、ジネスト氏は「この人には力がある」と患者のことを信じ、それが何なのかを常に探り当てようとする。患者はおそらく、そのように自分にはまだ力があることを信じてくれている、それを見出そうとしてくれていることを感じ、協力しようとしたくなるのだろう。

おそらく、清水さんもこのユマニチュードに近いアプローチをしているように思う。どれだけ粗暴な行動、自棄になった言動をしていても、それは何かしらつらく苦しい思いをしたからであって、「この人には赤ちゃんの頃から備わる力がきっとある」と信じ、それが何なのかを一緒に探り当てよう、という姿勢で臨んでいるのではないか。それを感じるから、相手も「そうか、すっかり自暴自棄になっていたけれど、もしかしたら自分にはまだ力が残されているのかもしれない」と、自分の力を試してみようという気になるのかもしれない。

「家栽の人」という家庭裁判所が舞台となっている漫画で、主人公の桑田判事を評する言葉がある。「桑田判事は子どものためなら平気でうそをつく。ところがそのうそが本当になってしまうんだ」

あなたには力があるはずだ、という「信念」は、ただの思い込みかもしれない。ウソかもしれない。でもそう信じてくれる人が一人現れると、「もしかしたら自分にはまだ力があるのかもしれない」と思い返し、その力を試してみよう、という気になるのかもしれない。そうしてウソがマコトになるのかもしれない。

「3年B組金八先生」で、印象的なフレーズがある。「裏切られても裏切られても信じること、信じ切ってやること」、それが教師ではないか、という言葉。当時、深く感動しつつ、論理としては矛盾して聞こえるこの言葉を、どう理解したものか戸惑った。信じていたのに裏切られたら、ふつうは「信じられない」状態になるはず。ところが金八先生は、裏切られても裏切られても信じること、信じ切ってやること、といった。どれだけ裏切られても信じること、信じ切ってやること、って、いったいどういうことなのだろう?と。

これ、清水さんの姿勢に相通ずるように思う。赤ちゃんの頃から変わらず持っているその人の本当のところ、人を喜ばせたい、役に立ちたいという気持ち、それはどれだけ乱暴を働き、周囲に迷惑をかける人間になっていたとしても、決して失わずに持ち続けている本性であり、力。それがどの人にもあるはず、と、清水さんは信じる。その信じ切っている姿勢が、相手の心を動かし、実際にその人を変えてしまうのかもしれない。

清水さんは「相手を変えようとしてはいけない」という。相手を変えようというのは、どこか上から目線。それを相手は感じ取るから、反発されるだけに終わってしまう。相手の心の中に分け入って探り当てようとすれば、相手は自然と、自ら変わっていくのだという。

これには、私にも身の覚えがあるというか、反省が。私はこのところ、YouMeさんから相談があるといわれた時、偉そうにアドバイスしたり説教したりしていた。するとYouMeさんはどんどん不機嫌になっていく。どうやら私のアプローチは間違っているようだ、と感づいた私は、アドバイスとか説教とか一切になしにして、ひたすらYouMeさんの話を聞くようにしてみた。本心はどのあたりにあるのか探り当てようとした。すると。

不思議なことに、YouMeさんは自分で変化していった。私のアドバイスなど、説教など、聞かなくても最初から答えはYouMeさんには実はわかっていた。でも、その答えがわかっていても心が、気持ちがついていかない。つらい気持ち、悲しい気持ちが邪魔をして、その答えへの道を歩めなくて困っていた。私がアドバイスしたり説教している間は「そんなことわかっている!わかっているけれど、それを実践するために必要な私の気持ちが追い付かないの!」となっていたらしい。

でも私がひたすら「聴く」をしたことで、「そうか、私はこういうことをつらいと思っていたのか」「だとしたらこう考えてみてはどうだろう?」と、自ら道を見つけ、工夫し、わかっていた答えへのアプローチを可能にしてしまっていた。

何のことはない、私のアドバイスも説教も全く不要だった、私がYouMeさんを変えようとする試みはすべて無駄だった。YouMeさんは自ら変わる力を備えていた。ただ、それを発揮するためには、YouMeさんのことをわかってくれる人、本音をぶつけても否定せずに耳を傾けてくれる人、否定的な感情や言葉をも否定せずに受け止めてもらうことで、『自分の本音がそこにあることは、たとえ醜い感情でもそれが本音だったのだと認めよう、それはそれとして認めたうえで、ではどうしたらこの状況を一歩でも変えることができるだろう?」という気持ちに進めることが可能になるらしい。

人間はどうやら、たった一人だけでもいいからわかってくれる、わかろうとしてくれる人が欲しい生き物であるらしい。それが得られないさみしさ、つらさから、行動が崩れてしまう人が多いらしい。でも、そのかけがえのない人間が一人現れることで、人は思った以上に変わるものなのかもしれない。

昔、公共広告機構のCMで「「命は大切だ」「命を大切に」そんなこと、何千何万回言われるより、「あなたが大切だ」誰かがそう言ってくれたら、生きていける。」というセリフに、大きな反響があった。アドバイスとか説教とか、どうでもいい。そんなのは心に響かない。でも、私の「ほんとう」に分け入り、アプローチしようという人が一人いたら、赤ちゃんの頃から変わらず持っているものを信じてくれる人がいたら、「私はまだまだやれるかもしれない」という気持ちになれるのかもしれない。

清水さんの「聴く」という姿勢をどこまで言語化できたのか、私も心もとない。清水さんから学んだことを、何らかの形で生かせたらなあ、と思う。忘れないうちにと思って、このメモを書いた。

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