子ども時代の環境や出会いで人生は大きく変わる
私の父は自治会の仕事に熱心だった。どのくらい熱心だったかというと。
授業参観。「お父さんの仕事は?」と、生徒の一人一人が答えていき、私の順番になって「自治会です!」と自信満々で答えると、後ろの保護者達からドッと笑いが。先生困って「そうじゃなくて、お給料もらうお仕事は?」
「自治会の仕事しかしていないと思うけど・・・」と首を傾げると、さらに笑い声が。父は当時、仕事そっちのけ(というか、仕事していなかった)で自治会に熱心に取り組んでいた。
そんなある日、自治会で変な発言を続ける人がいて、父は「ちょっとあなた黙って」と、発言を抑えたという。
すると、なぜかとある宗教団体の人たちが大挙して訪れ、「我々に敵対して無事で済むと思うのか」。どうやら、発言を差し止められた人があることないこと言って、その宗教団体を巻き込んだらしい。
父は父で「ワシを敵に回してやれるもんならやってみろ」売り言葉に買い言葉。
すると、「一人で歩く時は気をつけや」と電話が入ったり。街の人はその宗教団体に目をつけられるのを恐れ、近づかなくなり。そしてまずいことに、私のクラスのガキ大将がその宗教団体の子どもだったらしく、私はみんなの遊びの輪に入れてもらえない「シカト」(無視)状態に。
何ヶ月その状態が続いただろう。遊ぼうとしても入れてくれない。休憩時間を持て余し、1人で図書館に閉じこもり、学校から帰っても家に引きこもるように。すると、外で遊ばない私を心配し、家の本を全部段ボールに詰めて読めないようにし、「外で遊べ」。でも誰も遊んでくれない。街をさまよった。
私が交通事故に遭って、状況は激変。その宗教団体には運の悪いことに、運転手はその宗教団体の人だった(ただしこの人はとてもいい人)。このため「おどしでなしに本当にやりやがった」と地域の人たちが猛反発、父に味方する人が一気に激増。このままでは選挙に負けると心配した議員が。
中心人物に謝罪を申し入れるように伝えたらしく、父に謝罪(ちなみに、あることないこと吹き込んだ元凶の人は謝らずじまい)。私もそれから間もなく、クラスの遊びに誘ってもらえるようになった。
が、私はもはや完全な人間不信に。小学校で変わり者二大巨頭の一人として知られるようになった。
5年生の時、担任の先生に目をつけられた。集団行動を全く取ろうとしない私に業を煮やし、ついには私をクラスのみんなの前で罵るように。私は孤立感をさらに強め、学校に行き渋るようになった。まあ、学校より父のほうが怖かったから行ったけど。
私の異変に気がついた父は、初めて小学校の保護者面談に向かった。担任の先生は私の問題行動を列挙し、いかに私が問題児かを立証してみせた。父は先生の話を一通り聞いてから次のように発言したという。「先生、それは息子の長所です。どうか息子の長所を潰さないでください」。先生はキョトン。
え?問題だらけの行動を並べ立てたのに、長所?どういうこと?と不思議な顔をした先生に、父は説明したという。「社会には、大事だけれども孤独な仕事が一割くらいあります。ダムや灯台、ビルの夜の見回りなどは、一人。でもこうした人が一定数いるから社会は回ります」
「みんなが協調性あったら、誰がこうした孤独な仕事をやってくれるでしょう。息子は孤独に強い。これは息子の長所です。どうか息子の長所を潰さずにいてやってください」と頭を下げた。
短所とばかり思っていた、協調性のない単独行動が、長所とは!先生は目からウロコの思いだったらしい。
先生は、他の扱いかねている生徒について父に相談してみた。すると父はどの子の短所も長所に読み替えてしまう。先生はそれに驚き、また別の子について相談。そんなこんなで父との面談は長引き、廊下で並んでる保護者たちのことが気になって仕方なかったという。
そこから担任の先生の接し方がガラリと変わった。それまでは問答無用に言い渡し、従わなければ罵るという感じだったのに、私をよく観察し、「こう声かけしてみたらどうだろう?」と、私の気持ちに寄り添う形の声かけをしてくれるように。すると、集団に馴染もうとしなかった私がみんなと遊ぶように。
地域のマラソン大会で私の母を見つけた先生は、「篠原君のお父さんは、心を2つも3つも持った人ですね!」と言ったという。
やがて私たち家族が引っ越すことに決まった。担任の先生は「ようやく篠原君のことが分かりかけてきたのに」と、別れを惜しんでくれた。
しかし、このシカト時代は私にはかなり深刻な影響を及ぼした。誰も遊んでくれないからしばらくは本ばかり読んでいたのだけど、外で遊ばない私を心配して両親が本を封印し、それも許されなくなり、街をさまよう日々が続いたものだから、私は読書の習慣を完全に失い、漫画ばかり読むようになった。
中学2年の秋、両親の経営した商売が人手に渡り、一億円を超える借金を背負うことに。母が知人から分けてもらうセーターを売り歩いては何とかその日の食費を稼ぐ日々。父は生活再建のために証券マンの学校通い。母の収入だけが頼りの貧乏生活に陥った。そんな時、私はえらいことやらかした。
母の仕事をしぶしぶ手伝っている時に、マンションの大ガラスを割った。弁償に八万円はかかるという。家に千円のお金もない状況で。家賃はもう数カ月ためていたのに。母は泣き崩れ、「どうしたらいいの?」
私はズーンと沈み込み、部屋の隅で小さくなっていた。
すると、父がなけなしのお金で私を喫茶店に連れ出してくれた。「八万円は大金だ。中学生のお前にはとても弁償できるものではない。お父さんも勉強中で働けない。お母さんに頑張ってもらうしかない。お前は弁償する代わりに、これからお母さんを助けてやりなさい。そのため、これから5つの話をする」
「まず1つ目。お前は家の仕事をちっとも手伝おうとしない。やってもイヤイヤ。でも、お前はもうお母さんより強いんだよ。足もお前のほうが速い。体力もお前のほうが上。弱いお母さんに守られてるの、おかしいだろ。これからは、買い物、料理、洗濯、掃除、全ての家事をお前がやりなさい」
「2つ目。それを言い訳にして部活をやめないように。お前の年ごろは体を鍛えることも大切。部活は最後までやり通しなさい。
3つ目。お前はちっとも友達と遊ばない。でも友達はいいものだよ。生涯の宝になる。これからは友達に誘われたら断らず、一緒に遊びなさい」
「4つ目。人間、頑張ってばかりでは続かない。ちゃんと休憩をとるように。でも、これまでのようにテレビを見ながら、漫画を読みながらのダラダラでは、本当の意味では休憩にならない。休むなら何も他にしない!休むことに専念!そうしてしっかり身体と心を休めなさい」
「そして、最後に5つ目。お前はちっとも勉強しようとしない。でも、もし少しでも成績上がったら、お母さん、何より喜ぶよ。これからはお父さんと机を並べて毎日勉強しなさい」
全く勉強しようとしなかった私が勉強するようになったのは、それから。
毎日買い物に行くと、親の言うことを聞かない年齢の中学生が毎日買い物に来るものだからほめられる。「あんた、毎日えらいねえ」と、オマケまでしてくれる。これが私の自信にもなった。料理、洗濯、掃除をして、家族のために役に立っているという実感が、誇りにもなった。
しかし勉強は苦戦。何せ勉強なんかしたことがない。時間がきたら父と机を並べて勉強し始めるのだけど、私は教科書に漫画を挟んだり、頭の中でチェッカーズや中森明菜の歌を流してボーッとしたり。すると、そんな私に脇目も振らず、父は難しそうな本に全集中。私は恥ずかしくなり、少し勉強するように。
そしたら、2月期の期末試験で、まだしも苦手ではない理科で70点台をとれた。これに気をよくして理科に力を入れるようになり、暗記だけで済む社会に力を入れるようになり、と、少しずつ手を出す教科を増やし、成績が少しずつ伸び始めた。
そんな私に、どうしたわけか親しく話しかけてくれる友人ができた。その友人は私なんかとは比べものにならない、学年トップクラスの成績。将来東大に進みたいという。大学にどんなものがあるのか知らない私でも知ってる大学。友人なら行けるだろうと思っていた。ところがある日。
友人が顔を真っ青にして、「オレ、進学校に行けないことになった」と話した。友人は父親が早くに亡くなり、家計が苦しく、とても大学にやれない。高校を出たら早く働いて家計を助けてほしい、そのために就職に有利な工業高校に進むように、と家族から言い渡されたという。
その時友人は、私の運命を変える一言を言った。
「俺の分まで勉強してくれ」
私は、それまで一切やったことのない勉強をし始めて、ほんの少し成績が上向いてきただけだった。友人の足元にも及ばない。その友人の分まで勉強する、とは。
東大か、それがダメでも京大に行かねばならぬではないか!でも、友人の無念を思うと、友人の言葉をむげにできなかった。私が本気で勉強するようになったのは、そこから。
しかし記憶力のなさ、理解力のなさはどうしようもない。友人なら楽々合格できたであろう地域の一番高にはとても手が届かず。
ならば2番手に、と思っても、担任の先生は「お前じゃ無理だ、うっかり合格しても勉強についていけるわけがない、3番手にしとけ」としきりに説得された。何とか先生に納得してもらい、2番手の高校を受験。何とか合格できた。
私は友人の言葉を念頭に、「京大を目指す」と宣言した。すると母親が大笑い。中学の先生に「落ちるに決まってる」と言われ続け、ギリギリ合格したに過ぎないのに、京大だなんて!と。父は「そんなに笑うものではない」とたしなめてくれたけど、まあ、笑うのも無理はない。成績はまだひどかったし。
高校では、これまでになく勉強した。しかし理解力と記憶力に乏しい私では、やはり京大の壁は厚く、現役では話にならず、一浪しても箸にも棒にもかからず、三度目の正直でようやく合格。友人なら現役で合格したろうに、と、自分の至らなさを罵った。
京大で博士号を取ったけど、先生の指導でかなりゲタをはかせてもらった感が強く、自分の才能のなさを痛感した。友人ならもっと素晴らしい業績を出したろうに。なんで私なんかが進学して、人格に優れ、能力も高かった友人が進学できないのだ?私はその矛盾にずっと苦しめられた。
私は今の職場に籍を移して以降も、「友人の代わりを果たさなくては」という思いで頑張ってきた。有機養液栽培や土壌創生技術を生み出してようやく、「もし東大に進んでいたとしたら」の友人と肩を並べることができたろうか、と思えるようになった。
しかし、優秀だった友人が進学できず、自分の希望する進路に進めなかったことの悔しさは今も私の胸に強く残っている。その思いがあるから、学歴で人を見下す人が大嫌い。成績が悪いからといって「生まれつき能力がないのだ」と決めつける考え方が大嫌い。だったら私は何なのだ?と憤りを覚える。
私は今も、シカトされ、人とうまく付き合えない自分に戻る。勉強ができず、運動オンチで、みんなからバカにされてきた自分にいつでも戻る。私がたまたま運命を切り開けたのは、いくつかの偶然が重なり、私の意欲を引き立ててくれた機会があったから。
バカにされている子どもを見ると、子どもの頃の自分を思い出す。勉強できないと見下されている子どもを見ると、自分のことのように胸がうずく。私はそうした子どもの一人だった。偶然が重ならなければ、私は大人になるまでその状態が続いていたろう。
また、友人のように明らかに才能に恵まれていても、環境が花を咲かせることを許さない場合もある。友人は家族から進学校への進学を諦めるように言い渡されたあと、急速に成績を落とした。自分の進むことになる工業高校に「ふさわしい自分」にわざとなろうとした。
忘れられない友人の口癖がある。友人は「絶縁体」の「縁(えん)」を「緑(みどり)」と間違えるようになった。「おれ、どうしても緑(みどり)って書いちゃうよ。こんなのじゃ、とても東大なんか行けるはずないよな」と自嘲した。でも、私は友人がその言葉を正確に覚えていた時のことを知っていた。
成績が見る間に落ちて行ったのは、わざとなのだと私に知っておいて欲しかったのかもしれない。だから、友人が正確に覚えていることを私が知っていた「絶縁体」を、わざと難度も間違えて見せては、自嘲していたのかもしれない。
人との出会いで子どもは大きく変わる。子ども時代に出会ったことで、私は今も規定されているようにも思う。
どうか、どの子にも学ぶことを楽しめる機会が訪れますように。大人達からバカにされ、決めつけられる不幸なことが起きずに済むように。私は願わずにはいられない。
